侯爵様と家庭教師

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32 意外な面会者

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「寝るな、エレノア・ホワイト」

 ハウスの声に、遠退きかけていた意識を呼び戻される。ハッとして首を振り、額を抑えながら対面の警部を睨みつけた。

「いい加減認めたらどうなんだ?」

 ハウスはにんまりと笑顔を浮かべていた。今まで散々不機嫌な顔で恫喝し続けていたというのに、昨日からいったいどうしたということだろうか。
 リュネットは首を振る。

「なんと言われましょうとも、私には身に覚えがありません」

「だが、盗品はお前の部屋から見つかった」

「二週間ほど前に送られて来たのです。中身は知りませんでした」

「盗品であることを誤魔化す為、自分で送ったのではないか?」

「消印はエディンバラでした。列車の乗り換えで降りたことがあるだけで、街の中には行ったことがありません」

「では誰がお前宛てに送ったというのだ?」

「知りません。差出人の名前はありませんでした」

「それこそが、お前が自身で送った証拠ではないか?」

「違います」

 何度同じ質問を繰り返されるのだろう。寝不足で意識が朦朧としている中、リュネットは辛うじて受け答えしていた。
 昨日の取り調べから、ハウスは何故かまったく怒鳴りつけてこない。その所為か、眠気はどんどん押し寄せてくる。手の甲を抓ったり爪を立てたりして必死に眠気を追い払う。
 留置所に入れられて、今日でいったい何日目だろうか。一週間は経っていると思われるが、碌に眠れていない所為か日付の感覚がなくなっていく。
 ぼんやりしていると、対面に座っていたハウスが立ち上がり、隣に立って肩を叩いた。

「どうした、エレノア? ん? 元気がないなぁ」

 威勢のよさは何処に置いて来たんだ、と笑みを向けられるが、それが不快でしょうがない。リュネットは顔を背けながら静かに唇を噛んだ。
 遠くから正午の鐘が鳴っている。

「……昼飯に行くか」

 ハウスはリュネットの肩から手を離し、同席していた部下を振り返った。
 お前も飯の時間だろう、と腕を掴んで立たされ、取調室を出される。休憩を取れることにほんの少しだけホッとした。

「あ、警部殿。ホワイトに面会です」

 牢へ向かおうとしたところで若い刑事に呼び止められた。リュネットのことを呼びに行くところだったらしい。
 ハウスは不愉快そうに振り返る。

「また弁護士か?」

「いいえ、若い女です。村での友達で、差し入れを持って来たと言ってましたけど」

「差し入れだと?」

「着替えと菓子だそうです。中身は検めておきましたので、問題ないです」

 持ち込むときに調べることになるが、本や軽食などの差し入れは許可されている。
 チッ、と小さく舌打ちしつつも、ハウスはリュネットを面会室に連れて行くように指示をした。
 昼時の所為か、面会室には人がほとんどいなかった。
 がらんとした仕切りだらけの部屋の中で、窓際の奥まった席に赤毛の女がぽつりと座っている。

「お嬢さん!」

 リュネットの姿を見つけると、リタは珍しい笑みを向けて立ち上がった。
 何故彼女が、と不思議に思いつつも、対面の席に腰を下ろす。

「お久しぶりね……」

「ええ。ひと月振りくらいになりますね」

 嘗てないほど親しげに話しかけてくるリタだが、リュネットのあまりの顔色の悪さに次第に表情を曇らせていく。その様子に、自分がよっぽど酷い顔をしているのだ、と改めて認識させられた。

「そうそう。モンゴメリさんに頼まれて、着替えを持って来たんですよ」

 もう一度笑顔を浮かべ直しながら、リタは抱えて来たバスケットを開いた。
 嬉しい、とリュネットは微笑む。ここに連れて来られてからもう一週間程になるかと思うが、一度も風呂に入っていない。身嗜みなど気にするような状況でないことはわかっているが、何日も汚れたままでさすがにちょっと気持ちが悪かった。下着だけでも取り替えられれば有難い。
 リタが差し出したのは、アイロンの線も真新しい紺色の服だった。

「ミーガンが縫ったらしいんですよ」

 リュネットが捕まったあと、すぐには戻って来れそうにないということを知ったミーガンは、自分になにか出来ないだろうか、と考え、たったの二日でこの服を縫い上げたのだという。

「傍にいるよ、元気出して、と念を込めたと言っていました」

「ミーガン……」

 大急ぎで縫ったわりには縫い目がとても綺麗だ。裁縫は得意なの、と笑っていたミーガンの姿を思い出す。

「あの、すみません」

 リュネットが瞳を潤ませている間に、リタは監視に立っている刑事に声をかける。

「ここって、しばらく他の人来ません?」

「ああ、そうだな。昼時だし、あと三十分は来ないんじゃないか?」

 俺も早く飯に行きたいよ、と笑う刑事に微笑み返し、リュネットに「ここで着替えてしまいましょう」と提案した。
 リュネットは驚くが、牢には見回りが頻繁に来ていて落ち着かないことを聞いていたので、監視役には少しの間後ろを向いていてもらって、ここで手早く着替えてしまった方がいい、ということだ。確かにそうかも知れない。

 着替えたものを今日このまま持ち帰りたいので、ここで着替えさせたいのだが、と監視役に説明すると、彼は室内を見回して少し思案したあとに「急げよ」と答えて背中を向けてくれた。
 二人で笑顔を浮かべて感謝しつつ、着たきりで汚れた衣服を手早く脱ぎ始める。壁の方を向いて、念の為にリタが後ろに立って隠してくれていたので、リュネットは気にしながらも遠慮なく下着も取り替え、ミーガンの縫ってくれた服に袖を通した。折角の新しい服を汚れた身体で着るのは申し訳なかったが仕方がない。
 袖の長さや丈もぴったりで、少し厚手の毛織地で仕立ててくれていた。牢屋の中は冷え冷えとしているのでとても有難い。

 さすがに何年もお屋敷勤めをしていただけあり、リタは着付けも手慣れていた。思ったよりも短時間で着替え終えられた。

「髪はどうします? 櫛、ありますよ」

 乱れてぼさぼさになっている頭に目を留め、リタは自分の手提げを示す。鏡はないが、結い直すのに不便はないだろう。
 リュネットは思わず首を振ってしまう。確かにみっともないが、どうせ会うのなんてハウスとその部下くらいなものだし、身嗜みに気を遣っても無駄な労力だ。
 それにこの髪は、出かける前にマシューが結ってくれたものだ。なんとなく解きたくなかった。

 監視役の男に礼を言ってから再び座り直す。男は照れ臭そうに微笑み、咳払いで誤魔化すと、室内へ向き直って監視役に戻った。

「ミーガンにお礼を言っておいて」

 本当は自分の口で直接言いたかったが、いつ会えることになるのかわからないので仕方がない。はい、とリタは頷き、バスケットの中からナプキンの包みを取り出す。

「これはジェシカさんからです。お嬢さん、檸檬のタルトがお好きなんですって?」

「大好きよ」

「でも残念ながら、今日は檸檬ジャム入りのパウンドケーキです。タルト生地は割れやすいから、帰って来たらたくさん作ってあげるわ、だそうですよ」

「それでも嬉しいわ。ジェシカさんのお菓子美味しいから」

 包みを開くと、バターと檸檬の香りがふんわりと立ち上る。甘いものなんてすごく久しぶりに見た気がした。
 今食べてもいいかしら、とあたりを気にしてみるが、監視役はそっと視線を逸らしてなにも言わないし、他に人もいないし、リュネットは少し千切って口に入れた。ケーキの甘さと檸檬のほんのり酸っぱさが口いっぱいに広がり、リュネットは堪らなく幸せな気分になれた。何日も碌な食べ物を口にしていなかったので、余計に美味しく感じる。

「それと、アビゲイルさんのハーブクッキーです。少し日持ちするそうですから」

 もうひとつ包みを取り出して広げて見せる。ゴードンの妻お手製の甘さ控えめハーブクッキーだ。お菓子というより食事に近いその味がリュネットは好きなのだ。
 しかし、その言葉でリュネットは気づいてしまう。自分が逮捕されたことは、村の方にも伝わっていることに。
 表情を曇らせたリュネットの様子に、リタも少し暗い面持ちになる。

「――…何故私が来たのか、疑問に思ってらっしゃいますよね?」

 急に違う話を振られ、リュネットは少し怪訝な表情を向ける。
 確かにそれは思っていた。リタとはそこまで親しくはなかったし、もう退職してしまっているので接点もほとんどない。

 リュネットの逮捕の話題が村にまで伝わった翌日、さすがに心配になったリタはヒースホールへと顔を出し、失礼かと思いつつも今の状況を伺った。そのとき、丁度いいとばかりにミーガンから村で服地を買って来てくれるように頼まれ、それが完成したら届けに行ってくれないか、と更に頼まれた。
 モンゴメリからも同様の頼まれごとをしてしまい、ほんの少しだけ困ったのだが、今は農閑期で農場も暇だし、ロンドンにはほとんど行ったことがないので好奇心もあり、そのお遣いを安請け合いした。
 日帰りは大変だろうからタウンハウスに一泊させてもらえばいい、とハワードに言われ、彼が連絡まで入れてくれたので有難く従い、遥々ロンドンまでやって来たのは昨日の夕方のことだ。

 マシューとはいろいろあったのでほんの少しだけ気不味かったが、彼との未練を引きずっているわけでもないので、普通の態度でタウンハウスに向かったのだが、そこで更に頼まれごとをすることになるとは思わなかった。

「お嬢さんには、カートランド家の関係者の方は面会出来ないように仕向けられているそうなのです。私は既にお屋敷を退職し、今はただの領民の主婦ですから、こうして面会に伺えたんです」

 それでも受け付けではいろいろとしつこく訊かれた。他に並んでいる人にはそんなことなかったのに、リタだけが長々と質問を受けることになった。
 リタの言葉にリュネットは双眸を瞠る。
 なかなか面会の許可が下りずに苦労している、とマクガイヤは言っていた。それはこういう事情だったのか、と気づかされた。

「今、旦那様達が方々に手を回しているそうです。もう少し我慢して欲しい、と仰っていました」

 申し訳なさでいっぱいになりながら、リュネットは頷く。

「保釈の手続きも申請しているそうなのですが、上手くいっていないらしくて……面会が拒絶されるのと同じ理由だろう、と弁護士の方が仰っていました。私にはよくわからないのですけど、お嬢さんはわかります?」

「なんとなくわかるわ。ありがとう」

 保釈手続きをしているということは、そろそろ送致されて拘置所に身柄を移されるのだろう。不毛な取り調べが落ち着いてきたのはその所為かも知れない。
 今の状況が多少は変わるのなら、もうどうなってもいい。いい加減疲労のピークは来ているし、睡眠不足も限界のところまで来ている。
 表情を険しくして溜め息を零すリュネットに、リタはポケットから便箋を差し出した。

「旦那様からです」

 リュネットはその便箋を黙って見つめ、それを差し出すリタの方を見上げた。彼女は微笑んで頷き、さあ、ともう一度差し出した。
 受け取った便箋は、高級そうなしっかりとした料紙だが、象牙色の無地の紙で、何処にでもあるようなものだった。普段マシューが使っている侯爵家の紋の入ったものではない。
 簡単に二つ折りにされただけのそれを開くと、中にはたった一文だけ記されていた。

『愛している』

 今までに何度も目にしてきたマシューの文字で記されたその言葉に、リュネットは涙が溢れてくるのを感じた。
 広げた便箋の上に雫が落ちたのを見止めたあとは、もう止められなかった。
 手錠をかけられてからずっと我慢していた涙が、堰を切ったように溢れ出す。
 泣き出したリュネットにハンカチを差し出しながら、リタは隣に移って来て肩を優しく抱き、背中を摩ってくれた。その手の温かさにまた涙が溢れてくる。

 マシューに会いたくて堪らなかった。こんな気持ちになったことなど今まで一度としてなかったのに、今すぐ会いたくて堪らない。
 離れてまだ一週間ほどだ。それ以上の期間を会わないことなど今までに何度もあったというのに、マシューに会えていないことが物凄く寂しく感じられた。

 彼の声が聞きたい。彼の声で直接この言葉を聞きたい。そして、抱き締めて欲しい――こんな気持ちになったことがなかったリュネットは、自分の感情に戸惑った。けれど以前のように、そう感じる自分に嫌悪し、嫌悪する自分を更に嫌悪するような矛盾した感情ではなく、今はその戸惑いをしっかり理解している。

 追い詰められたような状況になって、リュネットは初めて自分の気持ちをはっきりと理解し、受け入れられた。
 リュネットはマシューのことが好きだ。だから会いたい。
 今すぐ自分を強く抱き締めて欲しい。大好きな親友のメグでも、仲良しのミーガンでもなく、マシューに会いたい。

「マシュー……」

 泣きながらリュネットは彼の名を呼んだ。微かな声で零されたそれに気づいたリタは、なにも言わずに強く抱き締めてくれた。
 ただでさえ小さく細かった身体は、拘留中の緊張と疲労から更に痩せ細り、娘らしい柔らかさよりも骨の感触が強い。それが同じ女としてとても悲しく感じた。

「大丈夫。すぐに会えますよ」

 根拠はない慰めの言葉だが、リュネットにはそれが大きな希望に思えた。
 散々泣いて泣いて、乾涸びるのではないかと思えるくらいに涙を流し、瞼を腫らしながらもようやく落ち着いた頃、面会室の中には何組か人が入って来ていた。午後の面会時間になったらしい。

「まだここにいたのか」

 ぐっしょりと濡れたハンカチをリタに返していると、食事と昼の休憩を終えたハウスがやって来た。呆れたような顔をして、泣き腫らしたリュネットの顔を見る。

「おやおや。どうしたんだね? 随分とベソを掻いたようだな」

 泣きすぎて真っ赤になっているリュネットの顔を見下ろし、可哀想に、と心にもない言葉を口にする。その様子があまりにも不愉快で、リュネットは視線を逸らした。

「さあ、楽しい取り調べの時間だぞ。面会を切り上げろ」

 そう言って笑みを浮かべる。
 今日のハウスは朝からなんだかおかしい。ずっとにんまり顔で上機嫌のようにも見える。
 リタに別れを告げ、差し入れられた菓子とマシューの手紙を大切に抱き締め、取調室の方へ連れて行かれた。

「おい、待て」

 少し元気を取り戻したように見えるリュネットの後ろ姿を安堵の心地で見送ってから、リタは荷物をまとめ始めたのだが、そこをハウスが呼び止める。怪訝に思って顔を向けると、手にしていたバスケットを奪われ、その中身を床にぶちまけられた。

「なっ、なにをするんですか!」

 床に散らばったのは、先程着替えたリュネットの服と下着だ。
 面会室中の注目を集めてしまっていることもあり、慌てて拾い集めようとするが、ハウスがそれを制した。なにをする、と睨みつけるが、彼はその衣類を抓み上げて広げ、バサバサと音を立てて一枚一枚振り回した。下着も同様にするのでリタは怒りに頬を染める。
 一頻ひとしきりそうやって調べると、舌打ちを零して立ち上がる。

「用が済んだらお帰りはあちらだ」

 苛立たしげに出入り口のドアを示し、そのまま踵を返して立ち去った。
 自分が呼び止めて荷物をぶちまけ、下着まで調べたというのに、なんという言い草だ。腹立たしさに震える手を抑えながら荷物を纏め、素早く身を翻す。こんなところにもう用はない。

 そんなリタのあとを尾行つけるように、ハウスは部下に指示をした。

 しかし、リタはあっさりとその尾行に気づく。人目を気にした情事を愉しむ生活を何年もしていたので、普通の人より気配には敏感だ。
 土地勘がないところで上手くいくかは賭けだったが、路地を二つほど曲がったところで人混みに紛れ、さり気なく別の路地に入り込んで追っ手を上手くやり過ごす。

 尾行の気配が完全に途絶えるまで関係のない場所を徘徊し、念の為に辻馬車や乗り合い馬車を乗り継いでいろいろ回ったあと、カートランド邸へと帰り着いた頃には陽がだいぶ傾いていた。

「どうだった?」

 昼前に出て行ったというのに、夕暮れ近くになって戻って来たリタを、情報の共有の為に集まっていたマシューとチャールズが出迎える。
 尾行を撒いていた為に遅くなったことを詫びてから、今日見て来たリュネットの様子を簡単に報告し、帰りがけに出くわしたハウスの様子も報告した。
 荷物を調べられたという話に、マシューもチャールズも顔を見合わせる。

「首飾りを捜していると見て間違いなさそうですね。恐らく、着替えと一緒に預けようとしたと思われたのかと思うんですが」

「わたしもそう思う。これはやはりノースフィールド伯爵が絡んでいるのは確実だろう。あの家の顧問弁護士とは明日会えることになっているから、様子を探って来るよ」

「お願いします」

「あとはホルス男爵の方だが……そっちはどうなっている?」

「夫人の周囲にはなかなか近づけないようですが、家政婦ハウスキーパーのオブライエンという人と接触出来そうだという話は聞いています。彼女の休みが明日だそうなので、マクガイヤが行ってくれることになっています」

「それで有力な証言が得られればいいのだが……」

 リュネットが拘束されてから今日で七日になる。体力的な面もあるし、もうあまり時間がないのは確かだ。
 新しい情報が揃うだろう明日の夕方にもう一度会うことを決め、マクガイヤと進捗状況を摺り合わせして来る、とチャールズが席を外したので、リタも泊まらせてもらう部屋に下がることにした。

「今日はすまなかったね。きみが来てくれて助かったよ」

「私なんかでお役に立ててよかったです」

 当然のことをしただけだ、と答えると、マシューは微笑んだ。その顔には疲労の色が濃い。

「旦那様……ちゃんとお休みになられていますか?」

 こんな顔色になっているところは初めて目にしたので、さすがに心配になる。連日の夜会に出席して朝帰りが続こうとも、マシューが疲労の色を見せたことはないのだ。
 大丈夫だよ、とマシューは笑うが、その笑みにも力がない。

「私のような者が口を出すようなことではないと思いますが、どうか、きちんとお休みください。旦那様がお身体を壊されては元も子もありません」

「そうだね。ありがとう」

 心から案じている様子の進言に礼を言いながら、マシューは胸許に入れた巾着袋に触れる。元はリュネットが幼い頃に母親からお守りとして預かった首飾りは、今はマシューの心を支えるものとなっている。
 先程の報告の中で、一頻り泣いたリュネットは少し元気を取り戻したようだ、とリタは言っていた。彼女がもう少しでも踏み止まれるなら、こちらの情報収集も間に合うかも知れない。

「泣きながら、お嬢さんは言っていました」

 青い顔で溜め息をつくマシューに、リタは微笑みを向ける。普段は表情の乏しい彼女が笑みを浮かべるのは珍しい。

「マシューに会いたい、と」

 その言葉にマシューは双眸を見開く。暗く沈み込んでいた深緑の瞳に、僅かに光が灯った。

「……リュネットが?」

「はい。確かにそう仰っていました」

「…………」

「ですから、旦那様。どうかお休みになってください。お嬢さんが出て来られても、旦那様が倒れられていてはどうしようもないでしょう?」

「そうだね」

 リタの言う言葉は尤もだ。マシューは素直に頷き、取り敢えず腰を下ろした。

「お茶……いいえ、白湯の方がよろしいですか? 頂いて来ましょう」

「ああ、悪いね。きみはもうメイドではないのに」

「お気になさらないでください。二泊もお世話になるのですから、これくらいさせてくださらないと心苦しいです」

 そう言って部屋を出て行ったので、マシューはひとりきりになった。
 静かになった書斎の中で、マシューは思い起こす。この部屋で、行方不明になっていたところを見つけ出したリュネットと話をしたのは、僅かに三ヶ月ほど前のことだ。そのときに、いずれこんな事態になるなどと、いったい誰が想像していただろうか。

 深く溜め息を零しながら、脇腹から背中に向かって触れる。そこにはあの夜、リュネットにつけられた引っ掻き傷があったのだが、半月近くも経ってしまって、もうその痕跡はほとんど残っていない。
 この傷が消えてしまう前に会いたかったのに、とマシューは悔しげに呟く。
 リュネットもマシューに会いたいと言ってくれていたという。それがどんなに嬉しいことか、彼女はきっとわからないだろう。

「僕もきみに会いたいよ……」

 リュネットの声が聞きたい。この腕に抱き締めたい。キスをしたい――そう願ってやまない胸は今にも張り裂けそうだ。
 彼女を抱きたいというほんの些細な願いが叶わないことが、こんなにも苦しい。

「もう少しだ、リュネット……もう少しで、きっと幕を引ける」

 今回のことを冤罪だと断定出来る材料が欲しい。あと一歩のところまで来ているのは確実なのだから、希望は持てる。
 ドナルドとハウスの繋がりは、なんとなく判明した。
 リュネットの父親が生まれた為に養子の話がなくなったドナルドは、寄宿学校を卒業後、進学はせずに陸軍に入隊している。同時期にハウスも入隊している記録が残っていたし、そこで知り合ったのだろうと思われる。
 二人揃って二十年ほど前に除隊し、ドナルドは紡績事業の共同経営者となり、ハウスは警察に入庁した。
 その後の付き合いのことは判然としないが、二人に繋がりがあったことは確かだ。ここから更に追及出来る要素を探し出そうと、チャールズの事務所に所属する調査員が手を尽くしてくれている。

 それにしても、スターウェル親子のことは本当に腹立たしい。リュネットに二度と近づけないように、この手で確実に始末してやりたいくらいだ。
 彼女の不幸はすべてあの親子が――ドナルド・スターウェルが関わったことから始まっている。家督を奪われて家を追われ、家庭教師ガヴァネスとなる道を選べばつらい目に遭い、その上、今は冤罪で投獄されている。いったい彼女がなにをしたのか、と神を呪いたくなるほどではないか。

 マシューは持って行き場のない怒りを握り締めた拳に込め、深く息をついた。



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