侯爵様と家庭教師

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27 混乱と後悔の朝

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 目を覚ますと、部屋の中はまだ薄暗かった。
 重たい瞼を持ち上げて目許を擦りながら、そこが自分の部屋とは景色が異なっていることに気づく。
 何処だろう、と不思議に思って辺りを見回すように頭を持ち上げると、不意に後ろから誰かに引き寄せられた。

「まだ早いよ」

 引き寄せられたことに驚くと共に囁き声が掛けられる。その声が誰のものか気づいたリュネットは、身体を強張らせた。
 リュネットはまだ裸のままで、自分を抱き締めるマシューも一糸纏わぬ姿だと気づき、全身に鳥肌が立つ。

(――…わ、わたし……ッ!)

 昨夜自分の身になにが起こったのか、自分がなにをしてしまったのか、それらをはっきりと思い出し、涙が溢れてきた。
 とんでもないことをしてしまった。すべて夢であったらよかったのに、なにも身に着けていない自分の姿がそれを現実のことだと突きつけ、リュネットを絶望的な気分にさせた。
 静かに泣き出したリュネットの様子に、マシューは起き上がった。

「リュヌ……」

 横顔を覆うようにかかっていた髪を払い除け、涙の溢れる目許に口づける。

「なにを泣いているの? 何処か痛む?」

 労わるように優しい声だった。その声が更にリュネットを悲しい気持ちにさせる。
 痛むのなんてあちこちだ。抑えつけられていた手首は薄っすらと痣になっているし、叫び過ぎた喉もひりひりするように痛むし、背中や腰も痛い。人には言えないような場所にも痛みがある。脚の付け根やお腹も痛い。

「昨夜は無理をさせた。すまない」

 震える細い肩に口づけ、謝罪の言葉を口にするマシューに、リュネットは背中を向けたまま拒絶の姿勢を取っている。
 その肉づきの薄い背中に、昨夜刻みつけた花弁のような痣や歯形が散らばり、それを目にしたマシューは、自分の心が安らぐのを感じた。自分の所有物だとでも主張するようなその痕に、不安と不満の為に荒んでいた心が満たされる。

「こっちを向いて、リュヌ。きみの顔が見えなくて寂しい」

「……離してください」

 涙に濡れた拒絶に、マシューは表情を曇らせる。
 起き上がり、嗚咽を堪えながら泣き続けるリュネットを見つめた。

「無理矢理だったことは謝るよ。でも、きみを抱いたことは謝らない」

 背中を向けたままのリュネットの肩を掴み、仰向けさせて上から見下ろす。泣き濡れて真っ赤な瞳が悲しげに見つめてきた。

「昨夜、僕が言ったことを覚えている? 僕の子供を産んで欲しいって」

 そう言われたのを聞いた覚えはある。けれどリュネットは首を振った。

「出来るわけありません。私とあなたでは、身分が……」

「そんな言い訳は聞かないって前に言っただろう?」

 涙に濡れるリュネットの頬を両手で包み込むように押さえ、深く口づける。リュネットは押し退けようとマシューの二の腕に爪を立てるが、身動いで力を込めた拍子に、下腹部に走った鈍痛に表情を歪める。
 その直後、脚の間をなにかが伝い落ちる感触に双眸を瞠り、慌ててマシューを引き離す。
 怪訝そうにするマシューを押し退けて上掛けを捲り、シーツが真っ赤に汚れていることに青褪めた。どうりでお腹が痛いと感じていた筈だ。
 どうしよう、と恥ずかしさと戸惑いに混乱していると、その様子を見ていたマシューが宥めるように肩を抱いて来た。

「大丈夫だよ。初めてのときはこうなるものだから、心配するようなことはない」

 身体が冷えるよ、と毛布を引き寄せて肩にかけられるが、リュネットは青褪めた顔のまま首を振った。

「ち、違……っ、これは……」

 それ以上は恥ずかしさで言葉に出来ない。どう説明すればいいのだろうか。
 その様子に、ああ、とマシューはなにか納得したように頷き、リュネットのことを改めて毛布で包み直すと、呼び鈴を鳴らした。
 マシューが椅子の上に放ってあったガウンを素肌にかけているうちに、ノックと共にバーネットが現れた。

「お呼びでしょうか、旦那様」

「ああ。早くに悪いな」

 時刻は朝の六時少し前。普段のマシューなら決して起きていない時間だし、社交シーズンの頃なら帰宅するような時間だ。しかし、バーネットはきっちり身支度を整えていた。

「身体を拭きたいんだ。湯を持って来てくれないか」

 マシューはバーネットの視界からリュネットを隠すように立っていたが、彼にはきっと見えていた筈だ。一瞬目が合ったような気がして、居た堪れなくて毛布に顔を埋める。

「畏まりました」

 バーネットは一礼すると立ち去り、主人が所望したものを用意に向かった。

「リュヌ、こっちにおいで」

 優秀な従者が立ち去ると、マシューは毛布に包んだリュネットを抱え上げる。そのまま支度部屋に連れて行き、椅子に座らせた。

「ここで待ってて。着替えと、他に必要なものをきみの部屋から取って来てあげる」

 男性にそんなことをさせられない。リュネットは真っ赤になって首を振った。

「恥ずかしがってても仕方ないだろう? いいから。何処にしまってある?」

 こんな格好で歩けないのは事実だ。リュネットは仕方なく、クローゼットの抽斗に入っている刺繍入りの布袋を持って来てくれるように頼んだ。
 マシューはすぐに部屋を出て行き、バーネットが戻って来る前に用事を済ませて戻って来た。言われた通りの布袋と着替えをリュネットは受け取った。

「合っている? 服はベッドの傍に用意されていたのを持って来たけれど」

 昨夜のうちに用意していた今日の分の服だ。キャミソールにペチコート、ドロワーズにコルセット、靴下、靴下留めなど、下着もみんな揃っている。すべて見られてしまったことに羞恥心を感じながらも頷き、礼を言った。
 よかった、とマシューは微笑み、自分の分の着替えを持って寝室へと戻る。そこへたらいとバケツを持ったバーネットが戻って来た。
 すべてを心得ているらしい従者は、主人に盥と湯が入ったバケツを差し出す。受け取ったマシューは改めて支度部屋をノックした。

「僕がやってあげようか?」

 新しいタオルを差し出しながらそんなことを尋ねられるので、リュネットはきつく睨みつけ、激しく首を振った。なんて無神経なことを言うのだろう。

「冗談だよ。着替えたら出ておいで」

 真っ赤になって睨んでくるリュネットの頬に口づけ、マシューは支度部屋を出た。
 寝室に戻ると、バーネットが乱れたベッドを整えているところだった。普通はメイドがやることだが、マシューはなにも言わず、従者に任せておく。

「旦那様……差し出口ですが、ひとつよろしいでしょうか?」

 簡単に着替えを済ませてソファに腰を下ろし、煙草に火でも点けようかと考えていると、汚れたシーツを抱えたバーネットが険しい表情でこちらに向き直っている。

「なんだ? まさかいにしえの風習よろしく、シーツを窓から掲げようって言うのか?」

 ほんの二百年ほど前までは、花嫁が純潔であったことと契りを交わした証明として、初夜のシーツを窓から掲げる愚かしい風習があった。それをするつもりか、とマシューが顔を顰めると、バーネットは首を振った。

「避妊具をお使いになった形跡が見られませんが……」

 まさかリュネットにそういう知識があったとは思わない。中産階級以下の育ちならまだしも、貴族の娘は結婚が決まるまで房事に関する知識は一切耳に入らないように育てられている筈だ。今は職業婦人として人に雇われて暮らしている身だが、貴族の娘が多く通う寄宿学校に在籍していたリュネットも、そういった知識はほとんどないと思われる。
 目敏い奴だ、とマシューは思う。
 責めるような目つきで見てくる従者に少し腹が立ちつつも、笑みを向けた。

「僕の子を孕めばいいと思ったからな。使うわけないだろう」

 残念ながらその計画は頓挫したことが発覚したのだが。
 バーネットは主人のあまりにも酷い言葉に眉を寄せ、咎めるような視線を向けた。そんな視線にマシューは小さく舌打ちを漏らす。

「いいからそのシーツをさっさと片付けて来い。それと、ホットミルクと湯たんぽを用意して来てくれ」

 それがリュネットの為に用意させようとしているのだと気づき、バーネットはそれ以上はなにも言わず、一礼して部屋を出て行った。
 それから少しして、リュネットが支度部屋から出て来た。

「あの……ごめんなさい。タオルと毛布を汚してしまいました」

「気にしなくていいよ。洗えば済むことだ」

「…………」

「リュヌ?」

 黙ったまま俯いてしまったリュネットに、マシューは心配げな目を向ける。彼女がそのまま立ち去ろうとドアへ向かい始めたので、慌てて立ち上がり、横から抱きかかえるようにして引き留める。

「どうしたの?」

 リュネットはまた泣いている。昨日からずっと泣きっ放しだ。
 掌で涙を拭ってやると顔を顰める。泣き腫らして荒れ始めた目許が痛むのかも知れない。

「腹が痛むんじゃないか? こっちに座って。バーネットがホットミルクを持って来てくれるから」

 泣きながら首を振るリュネットを宥め、なんとかソファに座らせると、丁度バーネットが戻って来た。

「ほら。これ飲んで」

 受け取ったカップをリュネットの両手に握らせ、落とさないようにその外側からマシューも手を添える。リュネットはしゃくり上げながら湯気の立つカップを見つめ、そっと口をつけた。
 ホットミルクはいつもと同じ味だった。ミルクの優しい甘さと、ほんのり蜂蜜の甘さ。
 その味を確かめる自分だけが、今までと変わってしまった。
 白い水面に波紋が起こる。リュネットの両目から零れ落ちた涙が、ミルクの液面にポトポトと波紋を刻んでいく。
 厚手の布袋に入った湯たんぽを更にタオルで包んでからリュネットの膝に乗せ、抱きかかえられるようにしてやってから、マシューはその隣に腰を下ろした。

「バーネット、しばらくそこにいてくれ」

 恐らく今のリュネットは、マシューと二人きりになることを無意識に嫌がるだろう。そのことを感じたマシューは、従者に室内で控えているように告げる。バーネットは少し困ったような表情をしたが、命令なので黙ってその場に待機した。
 しばらくリュネットの嗚咽だけが静かに響いていたが、マシューは黙ってその細い背中を撫でてやり、落ち着くのを待つ。バーネットも黙ってその様子を見守っていた。
 少し泣き止んできたところを見計らい、ミルクを飲むことを勧めると、リュネットは小さく頷いて従った。自分でも落ち着きを取り戻そうとしているのだろう。

「さっききみの部屋から、髪留めとか櫛も取って来たんだ。やってもいいかい?」

 場を取り繕うかのように、マシューは平静の声音で関係のないことを尋ねた。リュネットは怪訝そうに振り向き、泣き濡れた瞳で机の上に置かれた自分の髪結い道具を見つめる。

「……出来るんですか?」

 泣きすぎた為にいろいろと麻痺しているのか、ぼんやりとした口調で尋ねる。出来るよ、とマシューは頷いた。
 櫛とピンを持って来て座り直し、リュネットには背中を向けるように指示する。リュネットは言われるままに身体をずらし、残っているホットミルクを啜った。
 寝乱れて少し絡まっている髪に櫛を通すと、すぐにいつも通りの癖のないまっすぐな髪に戻る。何度かしっかりと梳いて整えてから、いくつかの束に分け、そのひとつずつを編み込んでいく。リュネットは黙って任せていた。
 頭の両側から後ろに向かって編み込みをふたつ作り、それを後頭部でひとつにして更に編んで纏め、シニョンにして毛先をピンで留め、幅の広いリボンで仕上げる。
 バーネットは終わる頃を見計らって鏡を持って来て、リュネットから空になったカップを受け取り、代わりにその手に持たせた。

「どう?」

 相変わらずぼんやりとした表情のまま鏡を覗き込むリュネットに、マシューは笑みを向ける。そんなに手の込んだ髪型は出来ないが、リュネットのいつもの引っつめ髪に比べればもう少し娘らしい出来栄えだと思う。
 しばらく鏡を見ていたリュネットは、静かに目許を細め、ふっと口許を緩ませた。

「器用なんですね」

 リュネットの笑顔が見れたことにホッとし、マシューも微笑んだ。

「昔にもやってあげたことがあっただろう?」

「……ああ、そうでしたね」

 リュネットが十三歳で、メグは十五歳になる夏のことだ。
 カートランド家を訪れるのは四度目となるその長期休暇は、湖水地方にある別荘に滞在していたと思う。メグとふたりでピクニックに出かけたり、写生をしてみたり、ボート遊びをしてみたり、いろいろと楽しんでいた。
 あのときは近くに滞在していた同じ年頃の姉妹と仲良くなり、その子達とも遊んでいた記憶がある。
 そして、議会や社交界に出入りする忙しい合間を縫って、マシューも何日か滞在していた。
 当時のリュネットは気づきもしなかったが、あの頃のマシューは、なるべくメグと接する時間を取ろうとしているようだった。きっと初対面のときに、生意気にもリュネットが責めたことを真摯に受け止め、そういった対応をしていたのだろう。
 そんなマシューも含めて、例の姉妹と共に湖にピクニックに行った折、リュネットは髪を枝に引っかけたことがあった。
 猫っ毛のように柔らかく細いリュネットの髪は、癖がないのにそういう場所には絡まりやすく、三つ編みにしてあった束を解いても絡まるばかりで、切るしかないのか、と溜め息を零していたところ、マシューが解いてくれたのだ。
 当時は今よりもっとマシューを苦手としていたので、しどろもどろに礼を言って立ち去ろうと思ったのだが、彼は解けた髪を編み直してくれた。女の子をそんな頭で歩かせられない、と苦笑しながら。
 懐かしい、と編み目を見つめながら微笑んだ。

「リュネット」

 呼びかけられて目を向けると、マシューはリュネットの前に膝をついた。

「僕はこれからもこうしてきみの髪を結いたい」

 リュネットは静かに眉を寄せた。真剣な表情でなにを言い出すのかと思ったら、わけのわからないことを――というのが感想だ。溜め息交じりに苦笑した。

「侯爵様が、侍女の真似事ですか?」

「そういうわけじゃない。けれど、きみの身支度を手伝えるなら嬉しいことだと思う」

 リュネットの手から鏡を取り上げ、その手を握り締める。

「変に回りくどい言い方はよくないね。情緒もなにもないけれど、はっきりと言うよ――レディ・リュネット・スターウェル。僕と結婚して欲しい」

 跪いているマシューを、僅かに眉を寄せたまま見つめた。
 この人はいったい何度同じことを言わせれば気が済むのだろうか。リュネットは悲しげに表情を歪め、俯いて目を逸らした。

「レディと呼ばれるリュネットは、もういません」

 ドナルドの払った学費で女学校に在籍している間は、ノースフィールド伯爵家の娘として扱われていたかも知れないが、そこを卒業した時点でリュネットは伯爵令嬢ではなくなり、ただの一家庭教師ガヴァネスとなった。お嬢さんレディと呼びかけられることはあっても、令嬢レディと呼ばれることはない。
 階級に厳しい貴族社会に於いて、例え爵位を持っていても、下位の男爵や子爵が侯爵家と縁組むのでさえ陰口を叩かれるのに、家庭教師の身分などその比ではない。

 ドナルド一家に家督を奪われてから――いや、両親が死んだあのときから、リュネットとマシューは住む世界が違うのだ。

 本来なら出会う筈のなかった立場なのに、リュネットとメグが同じ女学校に入学したことで出会ってしまった。すべてはちょっとした歯車のズレだ。
 リュネットとメグが知り合っていなければ、マシューがこんなことを言い出すことはなかったのだ。時が来れば彼は家格の釣り合った素敵な令嬢と婚約し、結婚し、子供に囲まれた幸せな家庭を築いたことだろう。
 そうしてリュネットは、そんな上流階級の人々とは必要以上に触れ合わず、子供達に勉強を教え、適当な頃合いでそれなりの男性と知り合い、夫婦になっていたことだろう。
 すべては、ほんのちょっとした、ボタンの掛け違えのようなものなのだ。

「――…昨夜のことは、忘れてください」

 そう告げるのでリュネットは精一杯だった。
 リュネットは純潔を失った。心の広い人がいなければ、もうお嫁には行けないかも知れない。
 けれど、マシューに責任を取って欲しいわけではない。昨夜の出来事は自分の隙が招いたことだとリュネットは思っている。

 以前マシューが言っていた通り、リュネットは結局なにも変われなかったのだ。
 今まで何度も襲われかけ、その度に警戒することを学んで来たというのに、なにも活かせなかった。だから昨夜、リュネットは純潔を失った。
 昨夜のことは過ちで済ませてしまえればいい。なにもかも忘れて、今まで通り、ちょっと親しい関係にある青年侯爵と家庭教師の少女として、程よく接していければいいのだ。

「嫌だ」

 そんなリュネットの心の内を鼻で笑うかのように、マシューが呟いた。

「きみはちっとも僕の気持ちをわかってくれない」

 握られていた手に力が籠もる。痛い。

「責任を取る必要はないとか、そんなこと考えているかも知れないけど、責任は取るに決まっているだろう。責任が取りたくてきみを抱いたんだからな」

 強い語調でそんなことを言われる。
 マシューはいつも柔らかい口調で喋るので、こういう風に強く喋られると、恐いわけではないのに身が竦む。

「手荒く抱いたことは申し訳なかったと思っている。きみは初めてだったのだから、もっと優しくするべきだったのはわかっているんだ」

 その言葉に頬が熱くなるが、同時に自分が処女ではなくなったことを改めて思い知らされ、悲しみと羞恥から僅かに顔色を失う。

「順番が滅茶苦茶なのは謝るよ。求婚の言葉がスマートでないのも、気に入らないなら謝る。でも、僕は必死なんだよ。きみが欲しくて」

 感情の昂ぶったマシューの緑の瞳は僅かに金の虹彩を帯びる。それはまるで炎が灯ったような様で、昨夜リュネットを責めたときの瞳を思い起こさせた。

「こんな気持ちになったのはきみが初めてで、どうしたらいいのかわからないんだ……」

 マシューは縋るようにリュネットの手を握り締め、膝に額を乗せた。

 この様子にはリュネットのみならず、長年マシューに仕えてきたバーネットも驚きを隠せない。
 彼が仕え始めていくらもしないうちに、年若い主人はちょっとした火遊びを始めたが、いつも冷めていて、のめり込むようなことはしたことがなかった。誰に対しても終始その調子だったので、マシューは本当は女性が嫌いなのではないかと思っていたくらいだ。
 そんなマシューが、十も年下の少女に懇願している。頼むから自分の気持ちを受け入れてくれ、と。
 真剣な様子の主人には悪いが、滑稽だった。彼がそのようなことをするとは、バーネットは思ってもいなかった。
 そして、マシューに多少ならずも好意を寄せているのがわかるのに、拒もうとするリュネットのことが不可解でしょうがなかった。

 リュネットは困惑してマシューを見つめている。
 どうすればいいのかわからない。結ばれるのは障害がありすぎるのに、そんなものは関係ないと言う。

(無理に決まっているのに……)

 だからリュネットは答えられないし、応じられない。
 どうすることも出来ずに黙っていると、マシューがゆっくりと起き上がった。

「本当に、きみは頑なだね」

 低い声でそう呟くと立ち上がり、リュネットの腕を掴んで乱暴に立たせた。膝の上から転がり落ちた湯たんぽが絨緞の上にドスンと音を立てて転がる。

「バーネット、マスターキーを取って来い」

 言われたバーネットは双眸を瞠る。鍵などどうするつもりなのか。
 動こうとしない従者の様子に舌打ちし、マシューはリュネットの手を引いて部屋を出た。

「旦那様!」

 バーネットの慌てた声が追い駆けて来るが、マシューの足は止まらない。その速さに引きずられるようにして、リュネットは階段を駆け下りる。
 マシューが怒っているのはわかるが、何故突然こうなってしまったのか、なにがなんだかわからなかった。離して、とも言えずにあとをついて行くしかない。

「ハワード、鍵を寄越せ!」

 階下に降りるなり怒鳴りつけるマシューの声に、朝の支度が始まっていた使用人達が集まって来る。この屋敷の当主が声を荒げることなど滅多に聞いたことがない。

「どうなさるおつもりですか、旦那様?」

 言われた通り鍵の束を持って来たハワードは、主人が青褪めた少女の腕を捕まえていることを見咎め、怪訝そうにする。

「いいから寄越せ。主人ぼくに逆らうな」

 主人不在の折の領地の管理も任されている家令ではあるが、ハワードは使用人だ。主人からそういう言われ方をされたら従うしかない。

 マスターキーを奪うように受け取ったマシューは一度上に戻り、一階の奥にある浴室のドアを開け、中へリュネットを突き飛ばすようにして押し込んだ。よろけてタイル張りの床に尻餅をついたリュネットは、困惑しながらマシューを振り仰ぐ。

「少し冷静になろうよ、リュネット」

 怒りを孕んだ表情のままそんなことを言う。
 冷静になるのはそちらの方ではないか、とリュネットは思うのだが、あまりのことに竦んでしまい、言葉が出て来ない。

「あとでちゃんと部屋を用意するから、少しここで頭を冷やしてて」

 ここは使用人用とは別の主人達が使う浴室なので、今はマシュー以外に使う人はいない。監禁場所には持って来いだ。
 リュネットは更に青褪める。

「侯爵……どうして……」

「僕の言ったことをよく考えて欲しいから」

 震える問いかけに答えるマシューの声音は硬い。

「か、考えてます……」

「本当に? なにをどう言っても、身分が、身分が、としか言わないのに?」

 それが大きな理由だと考えるリュネットと、そんなものはなんの障害でもないと考えているマシューとで、意見が食い違っているのだ。

「本音ではね、きみがなにも考えられなくなるくらいに抱き潰して、僕のことしか考えられなくして、なにがなんでもイエスと言わせたいくらいなんだ。でも、さすがに僕も、月の障りの最中に抱くほど鬼畜じゃない」

 軽く肩を竦め、溜め息交じりに恐ろしい胸の内を告げる。リュネットは無意識に身を守るように両腕を抱いた。

「ねえ、リュネット」

 青くなって震えているリュネットを見下ろし、マシューは微かに口許を歪める。

「きみ、僕のことをどう思っているの?」

「え……?」

 小さく声を漏らし、リュネットは固まった。

 その問いかけにはずっと悩まされている。未だに答えは出ていない。
 マシューのことは苦手だ。けれど、親友の兄だし、親切なところもあるのは知っているので、嫌いではない。
 それとは別の感情があるのも、最近気づいた。その感情がなんなのか、それがわからないでずっと悩んでいる。
 答えを求めてマシューの許へ赴いた結果が、昨夜の恥ずべき事態だ。
 それ故に、リュネットはこの感情には答えを出すべきではない、と心の何処かで思うようになっていた。それなのに、その答えを出せ、とマシューは迫っている。

 困惑しているリュネットへ笑みを向けながら、マシューはドアを閉め、鍵をかけた。

「侯爵! やめてください! 出して!」

 慌てて立ち上がってドアノブを回し、何度もドアを叩くが、

「しばらくしたら迎えに来るから、考えておくんだよ」

 と、優しい声音が無情の言葉を告げ、足音が遠ざかって行くのが聞こえた。

「そんなっ、出して! 侯爵!」

 マシューのことがわからない。彼を拒んだからいけないのだろうか。
 どうしてこんなことになってしまうんだろう、と涙が出て来た。
 けれど、こんな酷いことをされているのに、彼を憎く思わない自分がいるのも確かだ。




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