侯爵様と家庭教師

文字の大きさ
上 下
26 / 53

25 家庭教師の動揺

しおりを挟む

 リュネットは新しい年を迎えたばかりだというのに、悶々としている。
 新年早々あり得ない事態に遭遇してしまった。思い出すと顔で目玉焼きが作れるのではないかと思うくらいに赤面する。
 その悶々の原因であるマシューはというと、相変わらずの態度なのでまったく腹立たしい。もうちょっとなにか変ったリアクションでも取ってくれないと、ひとりで悶々としているリュネットが馬鹿みたいではないか。

「リュネット、今、手は空いているかい?」

「空いていません」

 本当は空いている。暇だったからミーガンとアニーの繕い物を手伝っているのだ。
 屋敷の主人に素っ気ない態度を取るリュネットの様子に、二人は揃ってはらはらとした視線を向けている。

「そう。じゃあいいよ」

 マシューは気を悪くした様子も見せずに立ち去る。
 あまり気軽に使用人達の作業場に出入りしないで欲しい。仕事ぶりを見張られているようで気が休まらないではないか。

「……エレノアさん、顔真っ赤よ」

 笑いを堪えきれなくなったように、アニーが声を震わせながら言う。それに同調したミーガンも盛大に吹き出した。

「だ、だって! どんな顔すればいいのか、わからないんだもの!」

 更に頬を染めながらリュネットは叫び、針山に縫い針を突き戻した。

 リュネットとマシューが同衾した話は屋敷中に知れ渡っている。というのも、早くに休んだ筈の主人の姿が何処にもなく、ベッドも使われた形跡がないことに気づいたバーネットが慌ててハワードに相談し、主人の身になにかあったのではないか、と使用人達で捜し始めたところにリュネットの悲鳴が響き渡ったのだから仕方がない。何事か、と駆け込んだリュネットの部屋で、ベッドの上にいた二人の姿はしっかりと目撃されている。
 真っ赤になってベッドの端に縮こまっていたリュネットも、悲鳴で起こされて眠そうに欠伸を零すマシューも、お互いにきちんと服は着ていたので、間違いがあったことはなさそうだと思うのだが、リュネットには恥辱の一言に尽きるらしい。

 マシューの前ではしたなくも寝こけることは何度かあったが、同じベッドで横になっていたことは一度もない。それだけで憤死しそうな気分だ。

 今日も朝から落ち着かない様子だし、時折真っ赤になっては俯いている様子は、きっとあの朝のことを思い出して悶絶しているのだろう。もう四日も前のことなのに、とミーガンは呆れた。
 男性を苦手としている雰囲気はわかっていたが、四日も経ってまだ恥ずかしがっているなんて、奥手も過ぎると思う。
 そんなリュネットの様子を、アニーは面白そうに笑っていた。




 それから更に幾日か過ぎ、リュネットがようやく落ち着きを取り戻したのは、一月も半ばを過ぎた頃だった。

 その日、リュネットの許へ小包が届いた。
 両掌を広げたくらいの平たい箱状の包みで、重さはほとんどない。振ってみるとガサガサと音がしたので、なにか細かいものが入っているのだろうと思われた。差出人名はなく、ただ『カートランド邸ミス・エレノア・ホワイト宛て』と書かれているだけだ。消印はエディンバラになっている。
 知り合いはいない。筆跡は女性的だったので、女学校時代の同級生達の誰かかとも思ったが、彼女達もほとんどがイングランドに住んでいて、スコットランドには誰もいないと記憶している。それに彼女達はリュネットの偽名のことを知らないので、エレノアの名前で届けられるのもおかしなものだ。

 宛て先間違いではないかとも思ったが、住所は合っているし、よくわからない。
 しかし、気味は悪い。差出人の名前がないので送り返すことも叶わないし、取り敢えず開けずにしまっておくことにした。

 このときにきちんと確認しておけばよかったのだ、とリュネットはあとでとても後悔することになるのだが、ハワードに呼ばれ、返事をしながら抽斗に慌てて入れてしまい、その後存在自体をすっかり忘れてしまっていた。

「なにかご用ですか?」

「ええ。ようやくゴードンさんの後任が決まりそうなんです」

 一年程捜し続けていたのだが、ようやくいい人材が見つかったらしい。

「それはよかったですね」

 リュネットもホッとする。
 今まで決まらなかったのは、ゴードンのお眼鏡に適う人材が来なかった所為らしいのだが、今度の人は、ゴードンが年末に息子のところに出向いたときに紹介された人物で、直接会って話し、経歴も確認したうえでとても気に入ったらしい。今はその報告を受けたハワードが預かって来た経歴を確認していて、来週にでもマシューと共に面談することになっているとか。
 領地の財産管理を任せるのだから、きちんとした人物であって欲しい。その為には慎重になることだろう。

「じゃあ、私の仕事ももうすぐ終わりなのですね」

 リュネットは老齢のゴードンの仕事の負担を減らしつつ、後任の為に帳簿の整理をすることを任されていた。後任者が決まりそうなら、その人物と引き継ぎを終え次第、この屋敷からはお暇することになるだろう。早ければ春の声を聞く頃だろうか。

「そのことで旦那様からご相談があるそうです。お時間が空いたときに書斎の方へお出でください」

「わかりました。今伺っても大丈夫でしょうか?」

「大丈夫だと思いますよ。行きましょう」

 ハワードと共に書斎へ行くと、生憎とマシューの姿はなかった。行き違ったらしい。
 仕方がない、と出直すことにすると、玄関ホールのところにマシューが立っているのが見えた。

「こちらでしたか、旦那様」

 ハワードが声をかけると、丁度いい、とマシューはメモを差し出した。

「ピアノの具合がよくないんだ。調律師を呼んでくれ。都合のつく日はそこに書いた」

「ああ、失念しておりました。もうそのような時期でしたね」

 今はもう弾く者もいなくなってしまい、居間の隅で大きなオブジェと化しているピアノだが、年に一度、調律師を呼んで調整してもらっているのだという。
 すぐに手配致します、とハワードはメモを受け取って一礼し、リュネットを置いて立ち去った。

「ゴードンさんのことでお話があると伺いました」

 リュネットが改めて切り出すと、ああ、とマシューは頷く。

「書斎に行こうか」

 たった今来た書斎への道をもう一度戻り、招かれるままに部屋に入って腰を下ろす。

「ゴードンの後任が決まりそうだという話は聞いた?」

「はい。よかったです」

「僕はよくないよ」

 笑顔を向けるリュネットにマシューは仏頂面だ。
 なんでそんなことを言うのだろう、と首を傾げる。なかなか後任が決まらなくて困っていたのだろうに、否定的な言葉を投げかけるとは。

「後任が決まったら、きみがいなくなるだろう?」

 溜め息交じりにそんなことを言うので、リュネットは呆れた。

「なにを子供のようなことを……。初めから、こちらには中継ぎ的な役割で、というお話でしたでしょう。後任の方が決まらなければ困ります」

 馬鹿なことを言わないでくれ、と睨むと、マシューも頷く。さすがに自分の言ったことは不適切だったとは思っているらしい。
 こう言っているリュネットだが、この屋敷での生活はとても過ごしやすかったので、実は少し離れ難く感じている部分はある。長居することはないと思っていたが、いざ離れるとなると寂しいものだ。

「もし、後任がこの……マイケル・グレアム氏に決まったら、きみはカティのところに行くのか?」

 経歴の書かれているらしい紙を見ながら尋ねられる。後任はグレアムという人らしい。
 そうですね、とリュネットは頷く。

「レディ・ギリンガムがまだ私を家庭教師ガヴァネスとして雇ってくださるおつもりなら、お話を受けたいと思います。紹介状をご用意頂けますか?」

「それは構わないけど……」

 言葉尻を濁してマシューは静かにリュネットを見つめ返す。その視線に気づいたリュネットは、そっと視線を逸らした。
 彼の視線の意味はわかっている。ここに残れとでも言いたいのだ。
 それは叶わないことだ。ゴードンの後任が決まれば、リュネットがここにいる意味はなくなる。仕事もせずに居候するなど出来るわけがない。

「――…いつ頃決まりますか?」

 胸の奥に淀む気持ちを押し込みながら、引き継ぎをする為の期間を確認する。マシューは少し考えたあと、

「早ければ来月には来てもらうよ。そこから一週間もあれば引き継ぎは終わるかな?」

 と尋ねてくる。今まではゴードンが首を縦に振らなかった為に採用を見送ってきたので、今回はゴードンが気に入っているということもあり、問題がなければそのグレアムが採用になるだろう。
 問題ない、と頷くと、マシューも頷いた。

「後任の採用が決まったら、カティの方には僕から連絡しておくよ」

「ありがとうございます。……お話は終わりですか?」

「ああ。もう行っていい」

 失礼します、と頭を下げて書斎をあとにした。
 今日はゴードンとの仕事ももう終えているので、なにもすることはない。このまま部屋に戻るか、下に降りてメイドの手伝いでもするか。
 なんだか胸のあたりがモヤモヤする。胸の奥から胃のあたりに向かって、ずっしりと重たいものを飲み込んでしまったような気分だ。どろりとした重たさがある。

 溜め息を零しながら廊下を歩いていると、アニーが窓を拭いている姿が見えた。

「アニー」

 声をかけると梯子の上から振り返り、笑顔を向けてくれる。

「今から窓拭き?」

「ええ。雪が止んだから」

「手が空いているの。手伝うことはない?」

「じゃあ、厨房に行ってみて。今日はキッチンメイドが二人も風邪で寝込んでて、手が足りないみたいだから」

 頷いて別れ、言われたように厨房に行くと、本当に人手が足りなかったらしく、料理長のジェシカから感謝された。

「皮剥きは出来る?」

「あまり早くはないけど」

「夕食に間に合えばいいから。そこの一山剥いとくれ」

 示された籠には立派なじゃが芋が二十ほど入っている。これをすべて剥くのか、と溜め息が漏れそうになる。少し骨が折れそうだ。
 作業用の椅子と野菜屑を入れるバケツを運んで来て腰を下ろし、エプロンを借りて袖を捲くり上げる。
 料理はあまりしたことはないが、まったく経験がないわけではない。慣れない故に遅いが、一応のやり方は知っているし、皮剥きくらいならなんとか人並みに出来る筈だ。このじゃが芋は形が整っているものが多かったので剥きやすくて有難い。
 時折手許を覗き込むジェシカに、上手いじゃない、とお世辞を言われながらなんとか籠を空にすると、今度はそれを刻むように指示された。茹でて潰すので形の指定はない。
 言われるままにマッシュポテト作りを終え、次は玉葱を炒めるように指示を受ける。焦げないように気をつけながら炒めるのがコツだと言われ、緊張しながら木べらを握った。

 そうこうしているうちにすっかり陽が暮れていて、夕食の時間になった。
 リュネットが手伝っていた分はさすがにマシューの食卓に上がるものではなく、使用人達の夕食用だったのでホッとした。味付けはジェシカがやってくれているとはいえ、慣れない自分が手伝ったものが、舌の肥えているマシューの口に合うわけがないと思う。
 いつも通りの夕食となったが、自分が作ったものがテーブルに並んでいるのは少し気恥ずかしい。きっとそれを食べているみんなは誰一人としてそれを知らないだろうが、苦情が出て来ないことに安心する。

 食器洗いはミーガンが手伝いを買って出ていた。少し話したかったので、リュネットもそれを手伝うことにする。

「え? 来月には出て行くかも知れないの?」

 驚いて皿を取り落としそうになったミーガンに、うん、とリュネットは元気なく頷いた。
 とても親しくしてくれているミーガンには一番にこのことを伝えたかったのだが、いざ言葉にしてみると、やはり寂しさが強まる。

「そっかぁ……ずっと一緒に働けるような気でいたけど、そういう話だったもんね」

 よく仕事を手伝ってもらっていたので忘れていたが、リュネットはメイドではなかったのだ。すっかり同僚の気分でいたミーガンは、それを思い出して溜め息を零した。

「あら。あんた辞めちゃうの? ホットミルクのお嬢さん」

 朝食用の仕込みを終わらせ、いつもは部下のキッチンメイド達にやらせている作業台の掃除をしていたジェシカが、二人の話を聞いて振り返る。
 変な渾名あだなをつけられているが、これはリュネットがホットミルクを好んで飲んでいるのを知って、厨房の面々がつけたものだという。

「まだ確定じゃないんですけど、そうなるかと……」

「寂しくなるわねぇ」

 作業台の上の水をたわしで床に払い落としながら、ジェシカは苦く笑う。仕事上、厨房とはそんなに関わりがある方ではなかったが、この二ヵ月半ほどの間にそれなりには交流を持っている。

「次の行き先は決まってるの?」

「はい。レディ・ギリンガムからお嬢様の家庭教師を、とお誘いを受けています」

「あら! それじゃあ、栄転だわね」

 お祝いしなきゃ、とジェシカの声が弾む。
 先日までいたヴァイオレットのことを思い出し、ミーガンも笑顔で同意した。あの子なら性格も悪くなかったし、家庭教師としてかなり教え甲斐もあるだろう。

「カトレア様のところなら安心だねぇ」

 当主の妹であるカトレアの幼い頃を知っているジェシカは、しみじみと頷いた。彼女が主人をしている家ならば使用人の質は悪くないだろうし、人間関係で苦労することは少ないだろうと思われる。待遇もきちんとしているだろう。
 そのことにはリュネットも同意した。
 家庭教師という身分は、実は結構複雑な立ち位置にある。淑女に許された職業とはいえ、雇われているということで使用人として見下す家もあれば、使用人達からは自分達とは違うのだとやっかみを受けたりもする。本来なら子供の教育に専念すればいい立場なのだが、雑用を言いつけられたり、本業とは違う部分で多忙を極めることもあるのだ。
 カトレアはリュネットのことを見下したりしないだろうし、それだけでも本当に有難い。上からもまわりからも見下された態度をされると、心が折れそうになるのがつらいということを、今まで散々身を持って学んで来た。

「あ、ミーガン、エレノアさん。終わった? お風呂冷える前に入っちゃいなよ」

 厨房全体の後片付けまで手伝っていると、アニーが呼びに来た。彼女はもう風呂を済ませたらしく、洗い髪姿だ。

「あ、うん。ありがとう」

「もうちょっとなの」

 あとは水溜まりになっている床を軽くモップ掛けするだけだ。慌ててモップを取りに行き、さっさと済ませてしまう。これで明日も気持ちよく使える。
 ジェシカから礼を言われ、彼女が隠していた焼き菓子を駄賃にともらい、二人は急いで使用人用の浴室へと向かった。

「あ、丁度よかった。あんた達とジェシカさんで最後だからね」

 今し方上がったらしい仲間達に声をかけられ、二人も慌てて服を脱ぐ。浴槽は三つあるが、十四人もの女達が順番に使ったあとなので、湯の量は減っているし、もう随分と温くなっている。
 水仕事で冷え切った手足を温めてから髪を洗い、ほんの少しだけゆっくりと肩まで沈み込む。ホッと一息ついたところで、最後の確認も終えたジェシカもやって来た。
 入れ違いで湯から上がり、身体が冷える前にと慌てて寝間着に着替える。

「そういえば、最近ホットミルクの注文がないみたいね」

 リュネットが髪の水気を拭き取っていると、浴槽に浸かったジェシカが尋ねる。
 その質問に、リュネットは少しだけ気不味い心地になった。
 実は例の同衾事件以来、リュネットはマシューの部屋に行かなくなった。初めは恥ずかしさのあまり顔が合わせられずに逃げたのだが、それがずるずると長引き、結局もう二週間以上も経ってしまっている。
 しかし、元々はリュネットの提示した約束事に対しての見返りだったので、ヴァイオレットの帰宅と共にその契約は向こうから破棄されているし、リュネットも応じる理由はなくなっている。だから、このことに関してはなんの問題もないのだが、それを訊かれるとなんだか気不味い。

 リュネットが答えないので、ジェシカはそれ以上追及はしなかった。風邪ひかないようにね、と声をかけられたのへ頷き返し、浴室をあとにした。

 使用人棟の入口でミーガンと別れ、相変わらず使っている家庭教師用の部屋に戻る。

「――…なにかしら?」

 ドアを開けて入ろうとすると、足許に紙が落ちていた。ドアの隙間から滑り込ませたのだろう。
 それを拾ってドアを閉め、机の上に置かれたランプに灯を入れる。
 簡単に封をしただけのそれに書かれた宛て名の筆跡は、マシューのものだった。
 なにかしら、と思いながら封を切り、中身に目を通す。

(フランス語? 女性語文だけど……)

 なにかの引用だろうか。リュネットは文面に目を走らせる。


 Je ne dis rien de toi, toi, la plus enfermee,
 Toi, la plus douloureuse, et non la moins aimee
 Toi, rentree en mon sein  je ne dis rien de toi
 Qui souffres, qui te plains, et qui meurs avec moi
 Le sais-tu maintenant, o jalouse adoree,
 Ce que je te vouais de tendresse ignoree
 Connais-tu maintenant, me l'ayant emporte,
 Mon coeur qui bat si triste et pleure a ton cote

(あなたのことは何も言わないわ。だって頑ななんだもの
 そう。あなたはいつもそうなの。でも好きよ。
 あなたを私の胸に迎えてもわたしは何も言わない。
 なのにあなたは不平だらけ。それじゃ生きてる価値なんてないわ。
 あなたにはわかって欲しいの。私ががあなたを愛してるって。
 わかっているの? 悲しげにあなたに寄り添う私の気持が。)

     (引用:マルスリーヌ・ヴァルモール『イネス』)


 読み終えたリュネットは、こんな詩を引用するマシューに腹が立って来た。
 それと同時に混乱した。混乱する自分にも混乱した。

(どうしてこういうことばかり言うの……!)

 要約すると、恋をしている女が『こんなにあなたを愛している私の気持ちに気づいてる?』と相手の男に対する恋心と不満を呟いている内容だ。
 マシューはこの女と自分を置き換えているのだろう。つまり、リュネットに対して『頑ななきみは僕のこの気持ちに気づいているのか。それでも僕を拒むきみは冷たい女性だ』とでも言っているのだ。
 リュネットは手紙を畳んで握り締め、部屋を飛び出した。
 こんな時間帯に寝間着姿で男性の部屋を訪ねるなんて、非常識極まりないのはわかっている。けれど、我慢出来なかった。
 ドアの隙間から灯りが漏れている。起きているのはわかったので、返事を待たずにノックと同時にドアを開けた。

「――…びっくりした」

 あまり驚いている風もなく零し、マシューは双眸を瞠った。
 ソファに寝そべっている彼が手にしていたのは、ヴァルモール夫人の詩集――それを見て、リュネットは眦を吊り上げた。

「これ!」

 手紙を掲げると、マシューは笑みを浮かべた。

「きみは僕の言葉を聞いてくれないから、他の人の言葉を借りてみたんだけど」

「では、この詩が、あなたのお気持ちということですか?」

「僕と同じような気持ちになっていた女性がいたんだね」

 切なげに零されるので、リュネットはますます腹が立った。

「そういうの、やめてください!」

 叫ぶように告げてから気づく。彼の気持ちに対してはっきりとした拒絶をしたのは、これが初めてのことだ。
 そのことに気づくと、何故だか胸が苦しくなった。
 どうしてか胸が苦しいと感じると、今度は涙が溢れてきた。
 この激しく上下する自分の感情に心が追いつかず、リュネットは混乱したまま、その場に膝をついた。

「リュネット……」

 突然床に座り込んだリュネットに驚き、マシューが立ち上がる。近づいて様子を見てみると、リュネットは僅かに肩を震わせながら泣いている。思わず溜め息が零れた。
 ストレートに愛していると言っても聞き入れないし、なにか他の手を、と考えて手紙を書いてみたのだが、リュネットはこういうことにも慣れていないらしい。余計に混乱を与えたようだ。

「――…髪が濡れてる。風邪をひくから、こっちに来て。ね?」

 だらりと力なく落ちている腕を掴んで立たせようとすると、リュネットは意外にも、その動きにすんなりと従う。まだ混乱しているのだろう。
 静かにしゃくり上げているリュネットを暖炉の前に座らせ、支度部屋からタオルを取って来て、まだ水気の多く含まれた長い髪を掴んだ。
 マシューが髪を拭いていても、リュネットは嫌がりもしない。黙ってしゃくり上げながら、俯いている。

「……ごめん」

 知らずうちに謝罪の言葉が零れた。
 今リュネットを泣かせているのは確実にマシューだし、そのことを悪いとは思っている。
 その言葉に反応したように、リュネットがゆっくりと振り向いた。色の白い彼女は泣きすぎると頬がすぐに赤くなる。

「悪戯だと思ったなら、謝る」

 ふざけている気持ちは一切なかったのだが、この様子を見ると、そう受け取られていてもおかしくはない。不本意だが。
 反省するように視線を伏せるマシューを見つめながら、リュネットは涙を拭った。そうして、改めて目の前の男の姿をよく見る。

「……わからないのです」

 タオルを握ったマシューの手にそっと触れながら、小さく呟いた。

「この詩を読んで、私に対するあなたの気持ちなんて知っている、って思ったんです。それを尋ねてくるこの詩に腹が立って……腹が立った自分がすごく嫌だった。そのことを嫌だと思った自分もすごく嫌だった」

 ヴァルモール夫人は詠う。あなたを愛しているこの気持ちをわかってくれているの、と。
 マシューがリュネットを愛していると言ってくれた言葉は、リュネット自身は否定しつつも、それが嘘ではないとわかっていた。彼は本心から、リュネットを愛していると言ってくれているのだ。
 けれど、リュネットの心のずっと奥深いところで、その言葉を受け入れることが出来ないでいる。
 どうして受け入れられないのかわからなくて、ずっとずっと悩んでいる。
 それなのに、マシューはこんなことを伝えて寄越した。それがとても悲しくて腹立たしくて、苦しくなった。その勢いでここへやって来た。

 リュネットは自分の感情が全然理解出来なかった。
 どうしてこんな風になってしまっているのかもわからず、それをどう整理すればいいのかもわからず、すべてをマシューの所為にして腹を立てていた。

「私……どうすればいいんでしょう……」

 こんな気持ちになったのは生まれて初めてだ。わけがわからなくて苦しい。
 また泣き出したリュネットを、マシューは抱き締める。
 リュネットはどうすればいいのかわからなかったが、おずおずと手を伸ばし、マシューの背中へと触れた。

「僕の言葉を信じてくれるんだね?」

 宥めるように頭を撫でてやりながら、静かに尋ねる。

「僕がきみを愛しているって気持ちを」

 リュネットはその問いかけに再び戸惑いを見せる。わかっているのと信じているのは違うと思う。リュネットはこういうことに関してマシューのことを信用してはいない。
 けれど、ここは頷くのが正しいのだと思った。
 胸許に顔を埋めたリュネットを強く抱き締め直しながら、深く息を吐き出す。頷いてくれたことにホッとした。

「もう、僕を拒まないでくれ。きみに拒まれるのは、つらい……」

 そうは言われても、リュネットは自分の気持ちがまだよくわかっていない。彼に対してどういう態度をすればいいのかもわからない。

 それでも、この腕の温もりは嫌だとは思わなかったし、自然と重なり合った唇も嫌だとは感じなかった。



しおりを挟む
1 / 4

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!


処理中です...