侯爵様と家庭教師

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13 侯爵様の口づけ

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 驚愕は遅れてゆっくりとやって来た。
 目の前の青年がなにを口にしたのか、リュネットは瞬きをふたつほどしてようやく理解する。緊張から心臓が大きく鼓動を打った。

「あなたが、リュネット・スターウェル? エレノアじゃなくて?」

 ジョセフは目の前で固まる少女を凝視したまま、強い口調で確かめる。リュネットはそれに答えることが出来ない。

「答えてくれ」

 腕を掴んでいるジョセフの手に力が籠もる。ぐっと骨が軋むような感覚がして、痛みに思わず震えてしまう。

「おい、スターウェル……いったいなにを……」

「スタンフォード、きみは知っていたのか?」

 女性に対するには些か乱暴な態度を咎めようとしたヘンリーに、ジョセフは強く尋ねる。

「は? なにを?」

「彼女が、僕の又従姉妹のレディ・リュネット・アメリアだってことを」

「え?」

 ヘンリーは親友の言葉に双眸を見開き、次いで彼が捕まえたままでいるリュネットへと視線を向けた。
 気づかれてしまった。知られてしまった――リュネットが、ドナルドの捜している娘だということを。
 酒気で火照っていた全身がすうっと急激に冷えていく。血の気が引いているのだ。
 意識は今にも遠退きそうなほどなのに、心臓の音だけがどんどんと大きくなっていき、リュネットの思考を邪魔する。

(どうしよう……どうすれば……!)

 逃げ出したいのに震える足が動かない。見つめてくるジョセフの視線が、まるでリュネットをこの場に縫いつけてしまっているようだ。
 もしも見つかっても、簡単に逃げられると思っていた。それなのに、実際に対峙してみるとこの様だ。自分が思ったよりも無力で愚かだったのだと改めて思い知らされる。

「答えてくれ、ミス・ホワイト。きみがレディ・リュネット・スターウェルなのか? 先代ノースフィールド伯爵の一人娘の」

「…………ッ」

 どうすることが一番正しいのかわからなくて、声すら出ない。首を振りたいのに動転から振ることも叶わず、リュネットはただただ青褪めた表情で震えるばかりだ。

「沈黙は肯定と受け取る」

 ジョセフは静かに言った。そうして、リュネットの腕を引き寄せる。震えていた無力なリュネットの両脚は、その力に逆らえず、踏鞴を踏んで彼の目の前に引き立てられた。

「やっぱり他人の空似なんかじゃなかったんだ、娘だったんだから。この首飾りにも見覚えがあると思ったよ」

 彼が言っているのが、ノースフィールド伯爵邸に未だに残されている母の肖像画のことだと気づき、リュネットはますます青くなる。
 幼かったリュネットにその肖像画を見た記憶はないが、恐らく、愛する父から贈られたこの首飾りを身に着けて描かれているに違いない。今夜のリュネットは、ジョセフに対してヒントをぶら下げて歩いていたようなものなのだ。
 初めて身に着ける母の首飾りに浮かれていた自分に腹が立つ。やはり誰にも見せず、大切にしまっておくべきものだったのだ。

「なにをしていらっしゃるの!」

 人々の笑い声と軽快な舞踏曲ポルカに紛れて、メグの鋭い声が響く。その声の届く範囲にいたうちの何人かが声の主を見て、彼女の睨みつける先へと視線を向けた。

「私の大切な親友の手を離してちょうだい、サー」

 つかつかと大股で近づいて来ると、リュネットとジョセフの間に割って入り無遠慮な手を引き剥がし、震えているリュネットを背中に隠すように押し遣った。

(メグ……)

 さっと立ちはだかる背の高いその姿は、華やかなドレスをその身に纏っていても、凛として、まるで騎士のような雰囲気だった。
 親友の温かい背中に触れ、リュネットは喘ぐように細くなっていた呼吸を取り戻す。堂々と庇ってくれている背中に震えながら手を伸ばし、縋るようにドレスの布地を握り締めた。
 ジョセフは目の前に現れた学友の妻にムッとした目を向ける。

「レディ・マーガレット、邪魔をしないでください」

「邪魔ですって? 震える女性に乱暴をしている人が、よくもそんなことを!」

「乱暴なんて」

「してないと言うのなら、これからするつもりだったのでしょう!? そうでなければ、私の親友がこんなにも怯えることなどないわ!」

 新婦の美しい唇から不穏な単語が立て続けに飛び出し、宴会を楽しんでいたまわりの人々がちらちらと気にし始める。その視線にヘンリーが笑顔で「なんでもないんです」と弁解している横で、ジョセフは剣呑な目つきをメグに向けた。

「……メグ」

 背中に縋りつきながら、リュネットは静かに囁いた。

「彼が、ジョセフ・スターウェルよ」

 親友の震える声がか細く告げた名前に、メグは顔色を変えた。一瞬血の気が引いて白くなるが、すぐに赤味を取り戻し、若葉色の瞳が冷たく目の前の青年を睨み据える。

「そう。あなたがそうだったの」

 メグはその冷徹な目をそのまま夫にも向けた。

「ねえ、ヘンリー。この方、今日のお式で花婿介添人アッシャーをしてくださった方でしょう? 介添人はトーマス・キャンベルという方ではなかったの?」

 事前の話ではそういうことだった。予定の都合がつかなくて本人には会えないまま当日を迎えた形だが、メグはジョセフがそのトーマスだと思っていた。

「キャンベルは数日前から体調が悪くて、代わりを急遽スターウェルに頼んだんだ」

 妻の冷え切った目つきにたじろぎながら、ヘンリーは事情を説明する。本来花婿介添人役をするのは学生時代に一番仲が良かったトーマスの予定だったのだが、彼は運悪く性質の悪い風邪をひいたのが長引いていて、それが式までに快復しそうにもないので仕方なく代理を探すことになり、用意した衣装に合うように一番体格の近かったジョセフに打診してみたところ、丁度ロンドンに滞在中だった為に代理を快く引き受けてくれたのだ。

 メグは、ヘンリーとジョセフが知り合いであることはなんとなく知っていたのだが、頻繁に会うこともないし、特に行き来している様子もないので、ただの同級生程度だと思っていたのだが、そうでもなかったらしい。これは大きな誤算だった。

(こんなところから、リュヌの実家の人に繋がりが出来てしまうなんて……!)

 自分の失態だ。大丈夫だろうと高を括っていないで、念を入れてもっと詳しく聞いておけばよかった、と後悔の念が込み上げてくるが、時は既に遅い。

「メグ、ヘンリー、今日の主役がこんな隅でなにをやっているんだい?」

 対峙したまま硬直状態に入りかけていると、先程まで女性に囲まれていた筈のマシューがやって来た。
 その声にホッとしたのはメグだけではなかった。リュネットもマシューの声に安堵の心地を得て涙が溢れそうになる。
 四人の異様な雰囲気に、何事かとマシューは僅かに眉を寄せた。

「リュネット」

 そんなマシューを無視し、ジョセフはメグの後ろに隠れているリュネットに呼びかける。その言葉ひとつで、この状況がいったいなんなのか、マシューにはすべて想像がついた。
 ジョセフはメグを押し退け、リュネットの腕を再び掴んだ。少し混乱が落ち着いて来ていたリュネットは、その手に抵抗しようとするが、少女の非力さでは敵う筈もない。

「父がずっときみを捜していた。家に帰ろう」

「い、いや……離してくださぃ……」

 身体は少し動くようになったが、声はまだよく出ない。震えるか細い声で拒絶しながら、一生懸命に首を振る。

「おい、スターウェル。止せよ。嫌がってるじゃないか」

 近くにいたヘンリーが動き、リュネットを連れ出そうとするジョセフの肩を掴んで押し留める。しかし、それをジョセフはあっさりと振り払った。

「放っといてくれ、スタンフォード。これは僕等家族の問題だ」

 さあ、とリュネットの腕を引く。
 先程までの、気遣いが出来る親切で優しげな青年は何処に行ったのだろう。こちらの意志を確認しようともしない強引さ、乱暴さは、まるで彼の父であるドナルド・スターウェルのようだ。
 エレノアに対する態度は紳士的だったというのに、リュネットに対する態度は高圧的で、彼等親子がリュネットに対してどういう感情を持っているのか、それを垣間見たような気がする。
 引きずって行かれそうになるリュネットの視線が助けを求め、振り返る。その視線の先にいたマシューは、リュネットが振り返るよりも早く既に動いていて、目が合ったときには、ジョセフに掴まれた細い腕を解放させていた。

「お兄様」

 メグがホッとしたように兄を呼ぶが、彼の視線は乱暴を働いたジョセフを見つめている。
 マシューの腕の中に引き寄せられたリュネットは、倒れ込むように彼の胸へ縋りつき、はしたないと思いつつもそこへ頬を寄せた。何度も嗅いだことのあるマシューが身に纏う香水の香りに包まれ、なんとも言えない心地ながらも安堵した。

「家族の問題、ねぇ……」

 先程の発言を確かめるように呟くマシューの声音は酷く冷たかった。自分に向けられたものではないとわかっているのに、リュネットは思わず背筋が震える。

「そうです。だから、あなたにはなんの関わりもないことなのです。彼女を返してください、カートランド卿」

 ムッとしたような口調で告げ、ジョセフが手を差し出す。早くリュネットをこちらに引き渡せ、と。
 ふっ、とマシューは皮肉気な笑みを浮かべた。

「無関係かどうか」

 言いかけて言葉を途切れさせると、リュネットの頬へ手を伸ばす。俯いていた顔を上に向けさせると、彼女がなにかを感じるよりも早く――唇を重ねた。
 その一角の成り行きをちらちら見守っていた周囲からざわめきが起こり、メグも思わず口許を押さえた。

「……ッ、んんっ?」

 リュネットは双眸を大きく見開き、思わず呻き声を上げる。青褪めていた顔にはその一瞬で血の気が戻って来た。

「僕に合わせて」

 背中に腕を回して更に強く引き寄せながら、マシューが小さく囁く。どういうことだ、と抗議の声を上げようと開きかけた唇は再び塞がれ、開いていた僅かな隙間に彼の舌が入り込んでくる。
 リュネットはなにがなんだかわからなかった。
 出かける前の首飾りのときといい、こんな無礼を働いた男を引っ叩いてやりたいのに、驚きの為か上手く力が入らない。震える指先でマシューの二の腕を掴み、縋るように服地を掴むので精一杯だ。

「いい子だ」

 僅かに離した唇の合間から囁かれ、すぐにまた塞がれる。
 口の中を探るように舌先で擽られると、濡れた音が僅かに零れてくる。それが堪らなく恥ずかしくて、リュネットは思わずぎゅっと目を閉じた。
 唇を塞がれて呼吸を奪われている所為か、頭の芯がぼうっとする。くらくらとしながらも懸命にその口づけに応えていると、一瞬離れたマシューの唇が上唇を軽く啄み、同じように下唇も啄むと、名残惜しそうに身を引いた。

「僕と彼女はこういう関係でね。きみ達家族と強ち無関係とも言えないと思うけど?」

 軽い酸欠でくたりとしたリュネットを抱き寄せて支えながら、マシューは唇についたリュネットの口紅を指先で拭い、いけしゃあしゃあとはったりを口にする。
 そんなものを信じるわけがないだろう、とリュネットは恨めしく思うが、今の口づけを思い出して恥ずかしくなり、真っ赤になって俯きながら、マシューの上着の胸許を掴む。その姿はまさに照れて恥じらう乙女そのものだった。
 リュネットのその様子は、先程のキスシーンと相俟って、ジョセフに屈辱的な思いを抱かせることになる。

「――…キスぐらいで、なにを証明したと言うんですか」

 キスなんて家族でだって、友人同士でだって、親しい仲の者なら経験がある。唇にするのはその中でも特に親しい者とだけだが、それでも、恋人だけだと限ったわけではない、とジョセフは反論する。怒りの為に握り締めた拳と声が上擦って震えていた。
 マシューは余裕のある笑みを浮かべた。

「親しい友人との挨拶のキスと、恋人とのキスと、その違いもわからないのかな?」

 その挑発的な物言いに、ジョセフはカッと頬を染めた。

「リュネットは僕と結婚するんです! あなたとではない!」

 ジョセフの言葉に、せっかく血の気の戻ったリュネットの顔が再び青褪める。
 ドナルドがジョセフとリュネットを結婚させようとしているという噂は、やはり確かなものだったのだ。

「それ以上彼女に傷をつける前に、僕に返してもらいましょうか、カートランド卿」

 瞳に怒りを宿しながらジョセフが踏み出す。その靴音にリュネットの身は竦み、マシューへ縋りつく指先に力が籠もった。
 マシューは震えるリュネットの肩を抱き締め、俯く頭に優しく口づける。

「何故きみが彼女と結婚すると? 彼女はこんなにも嫌がっているし、そもそもきみ達親子は、両親を失って悲しみに暮れる幼い彼女を屋敷から追い出し、見捨てたのではなかったか?」

「そんなことしていない。僕等家族に馴染めなかったから、寄宿学校に預けただけです。そこを逃げ出して行方不明になったのは、彼女の勝手ですよ」

 ジョセフの答えにリュネットは愕然とする。幼いリュネットが体験した話と、彼の知っている話はだいぶ違うが、彼が適当な言い訳を並べている様子はない。つまり、ドナルドは自分達に都合のいい展開の話を息子に言い聞かせ、まだ若かった彼もそれを信じていたのだろう。

「リュネット」

 今までの高圧的な口調より少し優しさのある口調で呼びかける。

「帰ろう、リュネット。父も喜ぶし、きみの亡きお父上もきっと喜ばれる」

 急に父のことを出され、リュネットは肩越しにジョセフを振り返る。彼はエレノアに対するときのように人好きのする笑みで微笑んだ。

「僕達の結婚は、きみのお父上の遺言に従ってのことなんだから」

 ジョセフが放ったその言葉には、リュネットのみならず、事情を知っているマシューとメグも双眸を瞠った。
 その言葉を鵜呑みにするならば、ジョセフとリュネットは許婚同士ということになる。けれど、両親の生前にそんな話は一度も聞かされた覚えがない。いくら当時十歳にも満たない年齢だったとはいえ、物事がわからないほどには幼くはない。遺言書に記載されるくらいのことならば、本人にまったく知らされていないというのもおかしな話ではないか。
 リュネットには彼の話が俄かには信じられなかった。それはマシューもメグも同様だったらしく、兄妹は揃って険しい表情になる。
 事情を知らないヘンリーはジョセフに笑顔を向け、まわりで話を聞いていた人々も「それはめでたいことではないか」と祝福するようなことを口にし始める。

「……リュネット」

 腕の中の少女を引き寄せ、額に口づけする振りをしながらマシューが囁く。

「彼が近づいて来たタイミングで、僕に抱き着ける?」

 突然なにを言い出すのだろう。つい先程、公衆の面前で濃厚なキスシーンを見せつけさせられたというのに、この上更にそんなはしたない真似をさせて、まだ辱めようというのか。
 腹立たしさが湧き上がるが、マシューの声がふざけている様子もなく真剣だったので、小さな声で「はい」と頷いた。

「亡きお父上の願いを叶える為にも、僕と一緒に帰ろう?」

 ジョセフは先程の微笑みのまま優しげな声音で手を差し伸べ、こちらに向かって一歩踏み出す。
 今だ、と思ったリュネットは、ジョセフを拒絶するように首を振り、マシューの肩に手を伸ばして縋りついた。
 兄を苦手にしている筈の親友がそんな態度をするとは思っていなかったメグが驚いて表情を固まらせるのと同時に、マシューは縋りついて来たリュネットの腰をしっかりと抱き寄せて「上出来だ」と囁き、こちらがなにかを思うよりも先に深く口づけて来る。
 再び熱い舌を絡められ、リュネットは緊張から息の仕方すら忘れてしまう。頭の芯がクラクラとして思考を奪った。
 助けを求めるように震える指先が掴んだのはマシューの髪で、綺麗に整えられていたそれを乱すように指先を差し入れて縋りつくと、なんだか安心した。その姿がまるでキスの先をせがんでいるようにも見えるとも知らずに。
 その様子にジョセフは凍りつき、憤りからなのか頬を朱に染めた。

「――…メグ、ヘンリー、申し訳ない」

 一頻ひとしきりリュネットの唇を堪能したあと、くたりとしたリュネットの身体を抱き上げ、今日の主役である妹夫婦に対して謝意を口にした。

「すっかり騒がせてしまったし、少し時間が早いけれど、今夜はお暇するよ。帰って僕の可愛いお月様リュヌを慰めてあげないと」

 そう言って頬にキスを落としながら、耳許で「縋りついて」と囁く。ぼんやりしながらも、言われた通りにリュネットはマシューの首に腕を回し、ジョセフから顔を背けるようにしてその首筋に顔を埋めた。

「ご覧のとおり、余計な茶々が入ってすっかり拗ねている」

 ね、と優しい顔つきでリュネットに頬擦りすると、ぽかんと見ているメグに視線を向けた。
 兄がいったいなんの小芝居を始めたのかわからなかったが、彼にはきっとリュネットを守る考えがある筈だ。メグもにっこりと微笑み、

「そうね。いろいろあって疲れてしまっただろうし、早く連れ帰ってあげて」

 兄の小芝居に同調して従僕を呼び、お客様がお帰りであることと、カートランド家の馬車を車宿りまで呼ぶように告げた。

「おい、メグ……」

 まだ事情の呑み込めていないヘンリーは、学友の婚約者であるらしい少女を義兄に連れて行かれることに難色を示し、妻を咎めるように呼ぶ。だがしかし、その声は氷のような冷たいひと睨みで黙殺される。

「たっぷり甘やかせてあげるから、早く機嫌を直しておくれ。僕のお月様リュネット

 マシューは抱き上げたリュネットへ愛しげに囁きながら、多くの好奇の視線とざわめきに見送られて扉へ向かって歩き出す。当然ながらジョセフがそれを引き留めようとするが、そんな彼をメグの「お待ちなさい」という強い声音が引き留めた。

「見てわからない? リュネットは嫌がっているわ。とても」

 ジョセフは眉間に皺を刻む。

「嫌がっているからって、それがなんだって言うんですか、レディ・マーガレット? 僕の未来の妻が傷物にされるのを黙って見ていろと?」

 よくもそんなことが言えるものだ。リュネットを傷つけているのはどちらだ、とメグはジョセフを睨み、

「今夜は日が悪いわ。どうしてもお話があるというのなら、また後日改めるべきね。違う?」

 と毅然とした口調で諭すように告げる。それは正論だったので反論出来ず、ジョセフは黙って頷くしかなかった。

「リュネットはロンドンに出て来るときは、私の実家に滞在しているの。もちろん今回も泊まっているわ。お兄様に話を通して、面会を申し込めばいいのではないかしら? ――ああ、安心して。お兄様もオークじゃないもの。リュネットがあなたと会うと言うのなら、邪魔もしないでちゃんと会わせてくれるから」

 いつも、という部分にアクセントを置いてにっこりと告げると、ジョセフは怪訝そうな表情になる。

「いつも?」

「ええ、昔からね。休みの度に我が家に滞在しているの」

 だってあなたのお家はリュネットの帰省を許さなかったでしょう、という言葉はそっと飲み込んでおく。今更そんなことを言っても仕方のないことだろう。
 メグの意図したことが伝わったのか、ジョセフの唇が戦慄く。その様子にメグは内心でにんまりとほくそ笑んだ。
 以前から度々滞在していることを強調することで、兄達の関係がその場凌ぎの偽りではなく、随分と前からのことだと勘違いさせるのが目的だ。そのことに因って彼がなにを想像するかはメグの与り知らぬところである。勝手に妄想して憤慨していればいい。
 メグはひそひそと噂する声に因るざわめきが収まらない室内に向け、大きくパンパンと手を打ち鳴らす。

「すっかりお騒がせしてしまって、兄が相変わらずの調子でごめんなさい。時間はまだたっぷりあるし、楽しみましょう」

 そう言って女主人らしい笑みを浮かべると、楽団へ向けて合図を送る。指示を受けた指揮者は指揮棒を振って軽快な音楽を奏で始める。親世代がいると眉をひそめるような舞踏曲ジーグだが、まだ若い世代の参加者達は一様に笑顔を見せ、楽しげに広間の中央に集まって踊り始めた。
 広間から流れてくる音楽と楽しげな笑い声を聞きながら玄関に辿り着いたマシューは、横づけされた自分の馬車に乗り込み、従僕から二人分のコートを受け取るとすぐに御者に合図を送り、家路へと出発させた。
 リュネットは固まったままマシューの膝の上から身動きが取れないでいる。そんな彼女にマシューはなにも言わず、落ち着かせるように黙って背中を撫でてやっていた。
 スタンフォード邸の門を出てからいくらかした頃、ようやくリュネットが顔を上げる。

「――…あの、私……ごめんなさい……」

「なにが?」

 謝意を口にするリュネットの巻かれた髪の先を弄びながら、マシューはとぼけたような口調で素っ気なく応じる。だからリュネットはそれ以上なにも言えず、黙って視線を逸らした。
 走る馬車の振動を感じながら、まだマシューの膝の上にいることに気づく。失礼だし恥ずかしいし、早く降りなければ。
 困惑しながら身動ぐと、髪先を遊んでいたマシューの手が首筋に伸びて来て、耳の下のあたりを優しく撫でる。その感触が思ったよりも擽ったくて逃れようとするが、それはマシューの胸に寄りかかるだけの行為だった。

「思ったよりも腹が立って、僕自身驚いているんだ」

 首筋を撫でていたマシューの手が肩の曲線をなぞるように滑り落ち、耳許で溜め息交じりの声が零される。
 なんのことを言っているのだろう、と顔を上げると、こちらを見下ろしている彼と驚くほど間近で見つめ合う格好になった。思わず目を瞠る。

「侯爵……?」

 戸惑いながらもしばらく見つめ合っていると、視界が僅かに揺れた。
 後ろに引っ繰り返ろうとしているのだと気づいたリュネットは、思わず「あっ」と小さく声を上げかけ、しかしその先は、覆いかぶさって来たマシューに塞がれて音にはならなかった。
 背中には仕立てのいい侯爵家の馬車の座面が当たっていて痛みは感じず、そこから伝わる車輪の振動も不快ではない。
 リュネットを抑えつけるように感じるマシューの重みも、嫌だとは思わなかった。

「侯しゃ……っ、んぅ……」

 僅かに唇の離れた一瞬に微々たる抵抗を試みるが、声を出すことすら儘ならず、より一層抑えつけられた息苦しさに小さく喘ぎ、吐息を漏らす。

 この夜だけでいったい何度交わしたかわからないキスの熱さに触れながら、それを気持ちが悪いものだと感じていない自分の心に、リュネットは大いに戸惑っていた。



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