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7 深夜の秘め事
しおりを挟む長距離を移動したので疲れている筈なのだが、どうにも寝つけない。
部屋は暖かいし、有難いことにベッドもしっかり温めてくれているので、冷えて眠れないわけでもない。ただ目が冴えてしまっていて、一向に眠りに落ちる気配がないのだ。
夕食のあとに教えてもらった図書室に立ち寄り、小説を二冊ほど借りて来ていたことを思い出す。本でも読んでいれば眠気が来るだろうか、と考えるが、昔から物語に集中すると寝食を忘れることが多々あり、逆にもっと目が冴えそうなので却下する。
寝床が変わっても寝つきはよかったので、こんな状態になったことは初めてだ。困った困った、と考えながら入眠に適した位置を求めて何度も寝返りを打つが、それでもまったく眠れず、このまま眠ることは仕方なく諦め、掛布団の上に置いていた肩掛けを引っ張って起き上がる。
時刻は日付が変わってだいぶ経っている。六時には起きて朝食前に周囲を散策して来ようと思っていたので、今からだと五時間ほどしか眠る時間が取れない。移動の疲れがあるだろうから、八時間はしっかりと寝たいと思っていたのだが。
勝手に歩き回るのは失礼かと思いつつ、与えられた部屋をそっと抜け出し、階下の厨房へと向かう。小さい頃は眠れないときに温めたミルクを飲んで眠りに就いた記憶がるので、飲めば少しは眠気がやって来てくれるのではないかと、ほんの淡い期待を抱いてみる。
何処も彼処もシンと静まり返っている所為か、歩いていると室内履きがぺとぺとと音を立てるのがやけに大きく響くように感じた。寝ている人達に迷惑になるような気がして、なるべく音がしないように滑るようにそっと歩く。
深夜故にさすがに誰ともすれ違わない。それを有難く思いながら肩掛けをしっかりと身体に巻きつけ、少し足早に階段を降りた。
石造りの館の中は底冷えがするな、と考えながら半分ほど降りたところで、何処からか話し声が聞こえて来た。驚いたことにまだ起きている人がいたようだ。
くすくすと楽しげな調子で零れる笑い声は女性のものだ。メイドの誰かが廊下の隅ででも話しているのだろうか。
この屋敷には家令のハワードを筆頭に、五人の下僕と二人の見習いに四人のハウスメイド、三人のランドリーメイドに、女性の料理長と三人のキッチンメイドがいるのだという話を聞いた。あとは雑用係の少年が通いで一人と、二人の森番と庭師がいるらしいのだが、彼等は敷地の端にある小屋でそれぞれの家族と一緒に暮らしているという。
こちらよりも手狭なロンドンの屋敷の方が人数が多い。屋敷の広さに対して使用人の人数が少ないように感じるが、主人が常に住んでいるわけではないのでそれで事足りるらしいというのは、荷解きをしながらリタから聞いた話だ。
それでも仕事量は多いのだろうから、こんな夜更かしをしていて、身体は辛くならないのだろうか、と考えながら階段を降り切る手前でハッとした。
階段の陰に人がいたのだ。これが先程の笑い声の主だろう。
向こうもこちらに気づいたらしく、顔を上げた。
「リタ……?」
そこにいたのは荷解きを手伝ってくれた赤毛のメイドだった。
彼女は僅かに眉を寄せると、さっと顔を背けた。
その行動を怪訝に思った直後に、彼女の頬へ誰かの手が伸ばされるのが見えた。それが男性の手だとすぐに気づき、思わず声を上げそうになったのを手で抑える。
逢い引きしていたのだ。
結婚前に不道徳だとかそんなことも頭を過るが、日中はメイドとして働いている彼女にとって好きな人に会える時間は限られたものだろうし、それを邪魔して悪いことをしてしまった、と感じて申し訳ない気持ちになった。しかし、厨房に行く為にはたぶんここを通り抜けなければならない。困ってしまう。
引き返して他の階から使用人の通路を使って降りようか、と逡巡したとき、リタの相手の男が陰から顔を振り向かせた。
「あ……っ」
今度は声が抑えられなかった。驚愕に震える声が零れ落ちると、男は少し不愉快そうな顔をした。
「なにかと思えば、きみか」
リタといたのはマシューだった。
マシューは気怠げな仕種で前髪を掻き上げると、茫然と立ち尽くすリュネットを見つめてから溜め息を零し、リタの頬にキスをした。
「残念だな」
微かな囁き声に頷くと、リタは乱れた襟許を掻き合わせ、床に落ちていたエプロンを拾って立ち去った。そのときに一瞬リュネットへ視線を向けたが、なにも言わなかった。
リュネットは自分の足が震えていることに気づき、頬を強張らせる。
「――…で? きみはこんな時間にこんな場所で、いったいなにをやっているんだい?」
こちらも乱れていた襟を簡単に整えながら、立ち尽くしているリュネットに声をかける。その声音に全身が粟立ち、不快感が一気に押し寄せてきた。
「……寝つけないので、ミルクでも温めさせてもらおうかと」
「そう」
結び目の解けたタイを首から外して胸許にしまうと、マシューは階段の陰の暗がりからようやく出て来た。
「厨房はこっちだよ」
おいで、と言って歩き出す。
館内の構造がまだよくわかっていないので案内をしてくれるのは有難いが、リュネットはたった今見た光景が物凄く不快で、目の前を歩く男の姿がとても汚いもののように思え、胸の奥に蟠る吐き気のようなものを堪えるのに必死だった。
彼が社交界で女性と浮名を流しているのは噂には聞いていたが、男女のそういった関係の瞬間をこの目で直接確かめることになるとは思ってもみなかった。幾度となく男性に襲われかけた経験のあるリュネットは、想像していたよりもずっと不快な気分になるものなのだな、と眉をひそめる。
親友の兄という立場があるから気づかない振りをしていたが、彼もリュネットを襲ってきた男達と同じなのだ。思い返すと吐き気がする。
リュネットは少女特有の潔癖さで、マシューを酷く汚い存在として認識してしまった。
「そこに座って」
厨房で灯りを点けて竈に向かいながら、料理人達が使っている椅子を指し示す。
怪訝に思っていると鍋を取り出し、貯蔵棚からシナモンの欠片を出して鍋に放り込み、他にも何種類か香辛料を選んで入れ、最後に蜂蜜を垂らした。なんだか手慣れているのが不思議だ。
「あの」
「すぐ出来るから」
ミルクを温めたかっただけなのに、何故かマシューが作業を始めてしまった。
よくわからないまま腰を下ろし、気づかれないように小さく溜め息を零す。彼がなにか作っている間に、身体の奥の方で蜷局を巻く不快感を押し殺そうとする。さすがにこの感情を知られるわけにはいかない。
静かな深夜の厨房に、コトコトと鍋が煮詰まっていく音だけが静かに響く。
「寒くない?」
黙っていると、マシューが振り向いて尋ねる。足先が少し冷えてきているが、黙って首を振った。そう、と彼は頷き、鍋の中身をカップに注いで持って来る。
「飲んで。よく眠れるから」
差し出されたカップに満たされていたのは、赤黒い液体だった。香辛料の混ざり合った湯気にアルコールの匂いが混じっているのに気づき、困惑気に首を振った。
「お酒は……」
「火にかけたから、そこまで酔わないよ」
自分の分も作っていたらしく、もうひとつカップを持って戻って来ると、リュネットと同じように腰を下ろした。
お酒は以前に勤めていた家で一度だけ飲んだことがあるが、同席した人から、コップ一杯も飲まないうちに気を失っていた、と聞かされたことがある。きっとアルコールには弱いのであまり飲まない方がいい、とその人から忠告を受けている。幸いにも翌日に頭痛を患ったりする体質ではなかったが、その忠告通り、使用人達の宴会に同席しても飲まないように心掛けていた。
けれど、これはなにやらいろいろ入れて火にかけていた。火にかければアルコール分が飛ぶというような話を聞いたことがある。それならばこれは温めた葡萄ジュースと同じようなものなのではないだろうか。
カップを包み込むように握って手を温めながら、ひと口舐めるように飲んでみる。匂いはアルコールのものだが、味はそうでもない。蜂蜜のお陰で甘いくらいだ。少しなら飲めそうだと思った。
「なにか言いたげだね」
ちびちびと舐めるように少しずつ飲んでいると、マシューが微笑んだ。
別に言いたいことなどない――いや、あるにはある。けれど、それをリュネットが責めるのは立場違いだ。
「これ、ありがとうございます」
当たり障りなくホットワインの礼を告げると、マシューは軽く肩を竦め、自分の分に口をつけた。
再び沈黙が訪れると、しとしとと雨垂れが聞こえて来る。日中に降っていた気の早い雪は雨に変わったらしい。
甘みのあるホットワインは思ったよりも飲みやすかった。お酒は苦手としていたリュネットだったが、甘いお陰で思ったよりも飲むのが進む。
半分ほどを飲んだ頃、胸のあたりがぽかぽかとしてきていることに気づき、身体が温まったことを実感した。頬も火照っているような気がする。
「リュネット?」
頭がふわふわとしている。ぼーっとしているのとは違う、なにか浮遊感のようなものが意識を満たし、リュネットは目を閉じた。
「きみ、本当に酒に弱いんだな」
持ったまま引っ繰り返ると危ないと感じたマシューは、リュネットの手からカップを取り上げ、フラフラとしている頭を抱きかかえる。
「……んー……さわらない、で……」
マシューに触れられていると気づき、力ない抵抗を試みる。
「きみが僕を嫌っているのは知っているから、嫌なら自分で部屋に戻るんだ。こんなところで寝たらさすがに風邪をひくよ」
肩から落ちかかっている肩掛けを直してやり、マシューは呆れたように告げる。まさかホットワインをカップに半分程度でこのような状態になるとは思わなかった。
元々今日の移動疲れがあったのだろう。緊張で気が張っていて眠気を遠ざけていただけなのだろうが、微量のアルコールが引き鉄になり、一気にきたようだ。
何度か揺り起こすとようやく目を開け、何度か瞬きをする。
「部屋に送るから。立てる?」
マシューはリュネットに嫌われているが、こんな状態にしてしまったのはマシューの責任であるし、きちんとベッドに入るまで見届けなければならないだろう。
頷いて立ち上がると、リュネットの足許は案外しっかりとしていた。促して歩き出した足取りも迷いがなく、ふらつくこともない。厄介な酔い方をする娘だ、と呆れながら、カップを流し場に置いてからリュネットの肩を支え、厨房をあとにする。
肩と腕を支えられて歩きながら、なんでマシューに支えられながら歩いているのだろう、とリュネットは疑問を抱くが、頭の中がぼんやりしていて上手く考えが纏まらない。触れられているのが嫌だと感じつつも、振り払う理由もタイミングも適当なものが見当たらず、ぼうっとした思考のままマシューに手を引かれて行く。
上階に上がる為の階段に辿り着いたとき、先程の光景が脳裏に蘇ってきた。
今まで自分の身体に触れているマシューの手は決して性的なものではなく、介抱する為の親切なものだとわかっていたのに、汚いものだという認識が再び湧き上がり、嫌悪しか感じなくなる。
「どうしたんだ?」
リュネットが急に腕を振り払ったので驚いて尋ねるが、酔った所為で赤く潤んだ瞳で睨みつけてくる彼女の表情が、その行動の理由をありありと物語っていた。
距離を取るように一歩後ろに下がったリュネットが僅かによろけたので、振り払われた手を支える為にもう一度伸ばそうとするが、躊躇い、結局引っ込めた。
「その表情がさっきのことを責めているのなら、無用だと思うな。僕も彼女も割り切った関係だよ」
リタとの関係は、六年ほど前に彼女を雇ったときからになる。恐らくここの使用人はみんな二人のことを把握していることだろうが、恋人や愛人という関係ではなく、ただ単に身体を繋げているだけの仲だ。
主人と使用人である二人の間には、歴然とした身分の差というものがある。それを乗り越えてまで結婚しようなどという気持ちはお互いにないので、こちらに滞在中に時折身体を重ね、快楽を求めるだけの関係が丁度いい。そのことにはお互いに納得している。
「言っておくけど、僕が無理矢理関係を強いているわけでもないから」
気をつけてはいるが、もし万が一にも子供が出来た場合は、それなりの対応をするつもりではいる。自分の所為で妊娠した女性を放り出すような非道な真似をするつもりはない。
何故こんなことを説明しているのだろう、と考えながら、黙って睨んでくるリュネットを見つめ返す。
「紳士として、適切な関係でないことは確かですね」
腹の奥底が嫌悪感で満たされると、ふわふわとしていた意識が急にはっきりとしてきた。ぼんやりしていた視界は鮮明になり、目の前のマシューの表情もしっかりと認識出来る。
今まで触れられていたところが汚されたような気分になり、酷く気持ち悪い。無意識に手を伸ばし、ごしごしとこすっていた。
その仕種にマシューが目を止める。彼女の行動がなにを意図しているのかすぐに気づき、僅かに眉を寄せた。
「お説教かい? よしてくれ」
溜め息と共に吐き捨て、手摺りの支柱に背中を預ける。
「僕達はお互いにこの関係に満足している。きみにとやかく言われる筋合いはないんだよ、レディ・リュネット・アメリア」
確かにマシューの言う通りなのだが、嫌悪感に突き動かされるリュネットは止まらない。
「若い女性の純潔を穢して、その方と結婚なさるおつもりもなく、とても不誠実です。それに、婚姻外のそうした関係は不道徳ではないでしょうか」
「だから、お説教はやめてくれと言っているだろう? 家庭教師だからって、僕にまで教師面するのはやめてくれないか」
「そんなつもりで言っているのではありません。世間一般の考えというもので、常識的な範囲の話だと思います」
「きみの常識であって、僕の常識ではないね」
なんという言い様だろうか。僅かに嘲笑を含んだ口調のマシューの態度に、リュネットは眉根を寄せた。
(やっぱりこの人も、あの人達と同じ人種なんだわ)
いきなり襲いかかって来たダルトン家の主人も、ヒース男爵の息子も、ホルス男爵家にいた庭師の青年も、みんな同じだ。自分の欲望さえ満たされれば、相手の女性の気持ちなど考えもしないのだ。
リュネットは全身に鳥肌が立つのを感じ、無意識に両腕で自分自身を抱き締める。それは震えを抑える為であると同時に、目の前の男から身を守る行動によるものだった。
頑ななリュネットの様子を見て、マシューは静かに溜め息をついた。
「……もう遅い。こんなところでくだらない言い争いをするのには不適切な時間だ。早く部屋に戻るといい」
階段を昇るように促すが、いつものように手を差し出してはこない。触れるのは得策ではないと考えているのだろう。
「それともまだ言い足りない?」
いろいろ言いたい気持ちは確かにある。だが、いくら言ったとしても、彼とはきっと意見が平衡のままだ。
「聞いてもいいよ。但し、これ以上はベッドの中で続けてもらうことになるけどね」
言葉にするのを躊躇って睨んでいると、マシューが揶揄うように笑いながら告げた。時刻は深夜を大きく回り、どう考えても立ち話をするような時間帯ではないのだから、寝室に戻るのは当然のことだ。
「僕のベッドに来る?」
どんな非難も文句も、睦言としてならいくらでも聞いてやる、と明らかに下世話な挑発を受け、リュネットは怒りと羞恥に耳まで熱くなった。なんと酷い言い回しをするのだろうか。
唇を噛み締めると真っ赤になった顔を俯け、己の身体を抱いたまま、マシューの横をすり抜ける。
「おやすみ、レディ・リュネット。いい夢を」
そのまま一度も振り返らずに階段を駆け上がり、与えられた部屋まで駆け込んだ。部屋の中は冷えてきているが、身体が火照っているので問題はない。
肩掛けを放り出しながらベッドに駆け寄り、上掛けを頭の上までしっかりと引き上げて身体を小さく丸めた。
(汚い汚い汚い汚い! 男の人なんて、みんな一緒なんだわ!)
殻に閉じ籠もるように丸まりながらギュッと瞼を閉じ、今夜目にしたすべてを記憶から追い出してしまおうとする。それなのに、衣服の乱れたリタの胸許や、彼女にキスをしたマシューの仕種などが余計にはっきりと思い出され、その合間に自分が今まで受けて来た仕打ちが挟まり込み、動悸が激しくなる。
(いやらしい、汚い。あんな不道徳な関係、最低だわ!)
自分が穢されたかのようにリュネットは動揺し、溢れてくる涙を必死に堪えた。
マシューが酷い人でも、本当は優しい人だということは昔から知っている。だから、女性関係の醜聞もただの噂だし、ゴシップ紙が面白可笑しく書き立てているだけと思うようにもしていたが、火のないところに煙が立たないという言葉もある。ここしばらく同じ屋敷に暮らしていたわけだが、噂に対する認識はどうにも拭えず、そんな人にどう接すればいいのか困惑して苦手に感じ続けていた。
少し落ち着いて接することが出来るようになってきた矢先に、そういう現場を実際に目にしてしまい、リュネットはどうしようもなく混乱している。
(なにもあんな場所で、そういうことをしなくてもよかったじゃない……)
リュネットは泣きながら腹が立った。せめて自分の部屋で行為に及んでくれていれば、今夜あの場所で、リュネットがあの光景を目にすることはなかったのだ。
いくら少し物陰になっているとはいっても、完全に隠れた位置でもなく、誰が通るとも知れないホールの片隅で事に及ぶなど、盛りがついた動物のようではないか――そう考えたら、二人のことが更に汚いもののように思えてきて、また涙が溢れた。
リタはいい子だと思っていた。年齢も近そうだったし、仲良くなれるかと少し期待していたのだが、どう接すればいいのかわからなくなってしまった。
マシューは、お互いに望んで割り切った関係だと言っていた。不適切だろうと、不道徳だろうと、自分達はその関係を楽しんでいるのだ、と。
リュネットには理解出来なかった。そんなものは男性側の一方的な意識であろうと思うし、女性もそれを望んでいるなんて思えなかった。それではまるで娼婦のようではないか。
身体を許すのは愛した人にだけだし、結婚するまではそういう行為に至るつもりもない。女性は貞淑であるべきだ。それが世の常識なのだ。
もちろんこれは、上流階級の女性の持つ常識だ。中産階級以下になると、もう少し緩やかな性認識になるのだが、リュネットはそんなことを知りはしない。
マシューとリタの関係は歪んでいる。恋人でも愛人でもなく、ただ身体を重ねるだけの関係なら、金銭の遣り取りが絡まないだけで、娼婦と客の関係のようではないか。潔癖なリュネットにとってはますます汚い関係に思えてくる。
マシューは明日帰ってしまうのだから気にしなくてもいい。けれど、リタとはこれから毎日顔を合わせていくことになるというのに、あんな場所を見てしまい、いったいどういう顔をすればいいのかわからなくなる。
彼女は本当に割り切っているのだろか。本当は、マシューと恋人になりたいと思っていて、だから身体を許したのではないだろうか。
もしもそうだったなら、彼女は不幸だ。
マシューは貴族だ。しかも侯爵という高い地位に身を置き、皇太子殿下とも親交があるという。そんな人物がメイドと結婚するなどということは万に一つもないだろう。本人がそれを望んでも、周囲がそれを許すわけがない。
(可哀想なリタ……)
望みのない恋をしているのなら、本当に不幸だ。
けれどそれは、まだ恋を知らないリュネットの抱く感覚による話だ。恋をしている本人からすれば、身分違いの叶わぬ恋だとしても、それはまったく不幸なものではない。
幸せになれずとも、結ばれずとも、相手を思っているその心の在り方に、不幸で可哀想なものなどありはしない。
だから、リュネットが嫌悪する二人の歪んだ関係も、それもひとつの男女の形なのだ。ただ、リュネットの心が受け付けないだけの話だろう。
そんなことに気づけないほどに男女の関係に対して無知なリュネットは、走った為に再び回って来たアルコールに徐々に意識を呑み込まれていく。
(そういえば、明日の朝食も一緒に摂るように言われていたっけ……)
ゴードンが昼前に来るので、それに引き合わせてからロンドンに戻ると言っていた。つまり、明日も最低二度は顔を合わせなければならないのだ。仕事なので仕方がないことだが、とても気鬱だった。
(どんな顔をすればいいのかしら)
困惑しつつ涙を零しながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。
応援ありがとうございます!
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