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6 侯爵様と二人旅
しおりを挟む先程から車窓越しに雪がちらついているのが見える。ロンドンではまだ少し早い時期だが、北に向かっているのでこういうこともあるのだろう。
「リュネット」
流れていく景色にジッと意識を集中していると、マシューが声をかけてきた。新聞を読んでいると思っていたのだが、とっくに読み終わっていたらしい。折り畳んで座席の空いているところに置かれている。
「僕はさっきから結構な空腹なんだ。バーネットから預かった包みをくれないか?」
列車が駅を出発してから既に一時間ほど経っている。目を覚ましてからは二時間以上が経っているので、言われてみれば、リュネットもお腹が空いているようだった。
ほんのりした温かさが心地よくて抱いたままになっていた包みを慌てて渡し、少し申し訳ない気持ちになった。
包みの中は更に二つの包みに分けられていて、その小さい方の包みをリュネットに戻して来た。ついでにさっき駅で買ったマフィンも一緒に渡される。
マシューが食事を始めたので、リュネットも包みを開いた。中身はローストビーフとチーズが挟まったものと、ベーコンとスクランブルエッグの挟まった二種類のサンドウィッチだった。もう少し野菜が欲しい、と思いつつも味はとてもよかったので、料理人に感謝しながら有難く咀嚼する。
元々少食であまり食べないリュネットだが、美味しくて二つともぺろりと食べてしまう。
まだ胃袋的に余裕を感じられたので、もらったマフィンも千切って口に運ぶ。焼き立てだったマフィンはすっかり冷めてしまっていたが、まだ固くはなっておらず、素朴な味でとても美味しかった。
半分ほど食べたところで、やっぱりお腹がいっぱいだ、と残念に思いながら、残りをハンカチに包んでそっと手に持つ。下車するまでにまた小腹が減るだろうし、そのときに食べるのがいいだろう。
視線を向けるとマシューも既に食べ終わっていたらしく、今度は文庫本を取り出して読んでいる。小説本なんて彼には似つかわしくないが、駅にある貸本屋ででも借りて来たのだろうか。
(私も借りてくればよかったわ)
本を読むのは好きだが、自分の本はあまり持っていない。教科書の類は仕事上必要なのでたくさん持っていたが、今回の仕事先は家庭教師ではなく、領地の管理人のようなものなので必要ない為、それらは厚意に甘えてタウンハウスに置いて来てしまった。
手持無沙汰だわ、とつまらなく感じていると、視線を向けられていることに気づく。
なんだろう、と思って振り返ると、マシューがジッとこちらを見つめていた。
「……なにか?」
怪訝に思いながら僅かに身を引くと、彼は大きく溜め息を零す。
「もっとこちらに来なよ。そんなに窓に張りついていると、寒いだろう?」
ドアの近くに座るマシューと、窓に張りつくリュネットの間には不自然な空間が出来ている。そこまで親密でもない男女には適切な距離だと思うのだが、とリュネットは首を振った。
マシューは再び溜め息と共に傍らに畳んでおいた襟巻を取り上げ、リュネットの方へ放って寄越す。
「見ているこちらが寒い。僕のものを使うのは気に入らないかも知れないけど、それを膝掛けにでもしておいてくれ」
「はあ……」
確かに雪が降っている土地に行くのなら、この服は少し生地が薄いかも知れないが、だからといってそんな言い方をしなくてもいいじゃないか、と少し腹が立つ。しかし、こんなことで不機嫌になられても面倒なので、言われた通りに渡された襟巻を膝の上に乗せる。あまり変わった気はしない。
(本当に息が詰まるわ……)
途中で乗り換えを挟みながらグラスゴーまで行くと言っていた。それまであと何時間かかるのだろう。
リュネットは昔からマシューのことが苦手だ。大好きなメグに対して酷い兄だという認識があったし、いつ訪ねても不在で、帰って来るのはほとんど朝だという生活態度が理解出来なかったし、ゴシップ紙に女性関係のことで名前を見かけるようになるとますます苦手意識が強くなった。だから、いろいろ援助してくれて感謝しているのだが、頑固な性格からそのことを素直に伝えることが出来なくなっているので、失礼をしている自覚はあり、こういう場は余計に気詰まりだ。
恐らくマシューもリュネットを苦手に感じていると思う。妹の親友だから親切にしてくれているだけで、本心ではあまり好きではないのだと思われる。
気詰まりな空間から意識を外に向けようと、窓の外へ再び視線を戻す。雪はさっきより量が増えて来ているように見えたが、地面はまだ白くなっていないので、これから積もって行くのだろう。
雪の時季は嫌いだ。両親が亡くなったことを思い出す。
あの日、幼かったリュネットは、大陸の親戚に会いに出かけた両親が帰って来る日を指折り数えていた。出発の日に体調を崩したリュネットは一人残ることになったのだ。
子守り達と庭で雪遊びに興じていると、電報の配達人がやって来て、帰国の為に両親が乗った船が転覆したことを報せて来た。
あの日の雪の冷たさを、今でも思い出す。
そんなことを考えていると、いつの間にか転寝をしていたらしい。額に当たる車窓の冷たさに目を開き、自分が今何処にいるのか一瞬わからなかった。
ふと見ると肩にはマシューのコートが掛けられている。その持ち主の方はというと、相変わらずの位置で本へ目を落としていた。頁の残り具合から一時間近くは眠っていたのだと気づく。
「あの」
姿勢を正してコートの皺を伸ばしながら声をかけると、彼は本から顔を上げる。
「すみません。ありがとうございました」
「使ってていいよ」
「いいえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
借りなくても自分のケープがある。丁寧に畳んで返すと、彼は自分の横に置いてまた本に目を戻した。
「あとどれくらいですか?」
本を読んでいるところを邪魔するのは悪いと思いつつも声をかけると、マシューはすぐに顔を上げ、窓の外へ目を向けた。
「どうだろうね。予定ではあと二時間もあれば着くかと思っていたんだけど、雪が随分と積もって来ているから」
線路に雪が積もって少し速度が落ちているらしい。リュネットが眠っている間に停車した駅で車掌に訊くと、申し訳なさそうに頭を下げたという。
そうですか、と頷き、溜め息を零す。グラスゴーまでは距離があるから時間がかかるのは覚悟していたが、遅れることまでは考えていなかった。
もうそろそろ昼時になるのではないだろうか。マフィンが残っていてよかった。
残っていたマフィンで小腹を満たし、駅で買ったままだったオレンジを取り出す。形も悪くないしいい匂いだ。おまけでもらったものも合わせると三つもあるので、それを全部一人で食べるつもりはない。
「あの……オレンジ、食べませんか?」
駅でオレンジを買っていた所為ではぐれそうになっていたので、なにか嫌味でも言われるだろうか、と思いつつ声をかけると、マシューは「もらおうか」と頷いて読みかけの本を閉じた。
リュネットは手提げから小さな果物ナイフを取り出し、ヘタのところをざっくりと切り落とすと十字に切れ込みを入れ、そこから皮を剥ぎ、花弁のように開いた状態で手渡した。その様子にマシューは驚いたようで、受け取りながら僅かに目を見開いた。
「変わった食べ方をするね」
「そうですか?」
「普通は、こう、櫛型に切るものじゃないか?」
「こうやって食べると指が汚れないんです」
リュネットは自分で剥いて食べるようになってからこうして食べている。この剥き方だと食べるときに果汁で手が汚れないのだ。
渡したものと同じように剥いたオレンジを一房捥ぎり、口に運ぶ。甘さと酸味の程よい果肉を包む薄皮は硬くなかった。硬いと飲み込むのに苦労するので出さなければならないのだが、これくらいなら大丈夫そうだ。
マシューも同じように一房取って口に入れ、なるほど、と頷いた。
「確かに指が汚れないな」
「外で食べるときは、この方が食べやすいんです」
汚れた手を洗いたくても水場がないときなどはこの方がいい。果物を食べるときはなるべくこうして、手が汚れないような切り方を模索している。その為に小さな果物ナイフを持ち歩いているのだ。
「しばらく見ないうちに、きみは随分と逞しくなったんだな」
オレンジを食べながらマシューは微笑む。その口調に嫌味なものがないので、褒め言葉だと思って素直に受け取った。
そうこうしているうちに、停車駅であるヨークに到着した。
雪の様子もあるので、この駅でしばらく停車することになるらしい。リュネットはケープを羽織り、ゴミを捨てる為に下車した。
グラスゴーまでようやく半分ぐらいの距離だ。この様子だと、目的地まで辿り着くのにあと二時間では済まなさそうだと思うと、気分が落ち込んでいく。
雪はだいぶ積もっている。線路が完全に隠れるほどではなかったが、しっかりとは見えなくなっている。駅員達が構内の雪を掻いたり、線路の雪を掻いたりしているが、まだ降っているのですぐに積もってしまうだろう。
息を吐き出して指先にかけ、手を擦り合わせる。少し外に出ただけなのに冷えてきた。車内は随分と暖かかったのだ。
車内を横目に確認しながらマシューの姿を見つけ、座席へと無事に帰り着く。
お帰り、と言われたので適当に返事をしながら元の位置に腰を下ろし、冷えてしまった指先を頬に当てて温めた。
「今年は寒波が酷そうだという話は聞いていたが、この時期にこんなに降るのは初めてじゃないかな」
確かにまだ十一月に入ったばかりで、こんなに雪が降ることはない。積雪量は一インチほどなのでたいしたことはないが、時季を考えると大雪と言っても過言ではない。
そうですね、と頷きながら、窓の外を眺める。雪は小止みになり、さっきよりは少しマシなようだ。
少しすると発車を報せる駅員の声が聞こえて来た。どうやら無事に出発することが出来るらしい。
これから更に北に向かうことになるが、雪はこのまま止んでくれるのだろうか。不安を抱きながら、ゆっくりと流れ始める車窓の雪景色を見送った。
結局、あれ以降雪は酷くならず、少し予定が遅れはしたが、なんとか無事にグラスゴーに辿り着いた。やはりこちらも雪が少し積もっているが、歩けないほどではない。
駅にはカントリーハウスから迎えの馬車が来ていて、御者として来ていた男がすぐに荷物を積み込んでくれたので、そのまま屋敷まで向かうことになった。
「いつもなら一時間くらいなんですけど、今日は雪が積もっているので……」
御者の青年は申し訳なさそうに領主に謝った。
「わかっている。気にするな。それより、随分と待ったんじゃないか?」
乗る予定の汽車の時間は前日に電報を打っていたが、今日の雪による遅れは連絡していない。予定通りの時間に迎えに来ていたのなら、一時間以上は待った筈だ。
てきぱきと荷物を括りつけながら、いやあ、と青年は笑う。
「朝から雪が降っていましたんで、少し遅れるかなぁと、出て来る時間を遅くしていたんで。そこまで待ってもいないんです。逆に旦那様達をお待たせすることにならなくてよかったですよ」
「そうか」
「昼食の支度も一応してあるので、着いたらすぐに温かいスープをお出し出来るそうです。少しだけ辛抱してください」
じきにお茶の時間になってしまいますがね、と青年は馬車に乗るリュネットに手を貸しながら告げ、御者台へと上った。身体が冷えてきているのは事実なので、温かいスープにありつけるのは有難かった。
ごとごとと響く振動を感じながら外を見ると、街中はだいぶ雪が掻いてあるが、どうやら二インチは積もっているように見える。ヨークで見たときよりも積雪量が多い。
暑いよりは寒い方が得意なので気にはしないが、雪があまり好きではないので気鬱だ。
取り敢えず無事に辿り着けそうなことには安心する。もしもこれで足止めを食って、何処かそのあたりの宿に泊まらなければならないとかになると、困ってしまう。こういう天気での足止めなら同じような客がいて混むだろうし、そうなると別々の部屋になれるかも怪しいのに、マシューと二人きりでの宿泊など冗談ではない。
ちらりと見ると彼は相変わらずだ。変な緊張をしている自分が馬鹿みたいだと思えるくらいにリュネットを空気扱いして、窓の外を眺めている。
「どうかした?」
見つめていたことに気づかれたらしく、マシューが微かに笑みを浮かべながら振り向いた。
「いいえ。あの、前に来たときとは、随分景色が違うな、と思って……」
不躾な視線を投げかけていたことが急に恥ずかしくなって頬を染め、慌てて言い訳のような言葉を口にすると、ああ、とマシューは頷いた。
「前にきみとメグが遊びに行ったところは、ヨークシャーにある別宅だよ。母方の親戚の持ち物だったんだ」
「あ、そうだったんですか」
領地と言われてそこのことだと思っていたのだが、違ったらしい。言われてみれば、前は馬車で行ったが、そんなに時間はかからなかったと思う。
子供のいなかった親戚の領地などもマシューが継承しているところがあるらしい。領地運営のことはよくわからないので、そういうものなのか、と頷くだけだ。
そうこうしているうちに屋敷――というより、城に着いた。
ヒース館という呼び名のその城は、確かに以前遊びに来た場所とはまったく違う外観だった。
使用人達は揃って玄関ホールで出迎えてくれ、久方振りの領主の来訪を歓迎していた。
「長旅でお疲れでございましょう。どうぞ、居間の方へ」
主人が不在の折の領地での采配を担う家令を任されているハワードという男は、思ったよりも若く、見た目だけで判断するなら三十代の半ばほどだろうか。柔らかい表情をしている割にきびきびとした動きをしていて、使用人達に対する指示も素早く端的で、とても有能そうな印象を受けた。
「時間が中途半端ですが、お食事になさいますか? それとも、お茶で?」
「僕は少し空腹かな。リュネットは?」
「いいえ、そこまでは……スープがあれば頂けると嬉しいですが」
「ご用意してございます。では、すぐに軽食をお持ち致します」
大きな暖炉のある居間は簡易的な図書室も兼ねているのか、壁一面にぎっしりと本の詰まった本棚が並んでいる。
「図書室はまた別にあるよ。ここは飾りみたいなものだ」
美しい背表紙の並ぶ本棚に目が釘づけになっていると、適当に腰を下ろしたマシューが教えてくれる。高価な紙の本を多数所有するのは裕福な証で、ここに陳列されているのはそれを顕示する為のものなのだという。
「きみは読書が好きだったかな? 図書室は東側にあるから、落ち着いたら覗きに行くといい。ブロンテの小説とかもあった筈だから」
「ありがとうございます」
頷いて適当な椅子に腰を下ろすと、ハワードがメイドを連れて戻って来た。
マシューの傍にサンドウィッチやミートパイが乗った皿を置き、リュネットには頼んだ通り温かいスープが差し出される。飲みやすいようにカップに盛ってくれたらしく、両手で持つと少し熱かったが、指先が冷えていたので有難い。
「ゴードンは四日ほど前からダラムの息子のところにいるらしく、電報を打ちましたところ、今日中には戻る予定とのことですので、こちらに来るのは明日になるかと思います」
「なんだ。それを知っていたら、寄ってから来てもよかったな」
パイを口に運びながらマシューは笑った。ダラムは通り過ぎて来たのだから。
「――と、いうことだそうだよ。顔合わせは明日だ」
「はい、わかりました」
こくりと頷き、ポタージュを飲み干す。美味しかった。
肝心のゴードンがいないとなると、今日の予定は特にないだろう。夕食までは荷解きをさせてもらえると嬉しいのだが。
その旨を伝えると、ハワードはすぐに人を呼んでくれた。
「荷物はお部屋の方へ運び込んであります。手伝いが必要であれば遠慮なくお声掛けください」
礼を言い、案内をしてくれるメイドについて居間を後にした。
「あの、お名前を伺ってもいい?」
「リタです、レディ」
「レディじゃないわ。エレノアと呼んでください。よろしくね、リタ」
「はい」
赤毛のメイドはたぶん同じくらいの年齢だろう。なんとなく親近感が湧く。
滞在用の部屋として用意されていたのは客間だった。リュネットは僅かに眉を寄せる。
「こんな立派なお部屋、使えないわ」
今度はメグの友人として屋敷に滞在するわけではないので、どうか使用人部屋にしてくれ、と事前に言っておいたというのに、これだ。
本来なら、村で住む家を借りるべきなのだ。部屋を用意してくれるだけで十分なのに、こんな立派な客間では気が引けてしまう。
「ごめんなさい。ちょっと侯爵とお話しして来るわ」
「はい、わかりました」
荷解きはちょっと待っていて、と頼んで居間へと引き返すが、マシューの姿はなかった。困って部屋を出ると、階下に降りようとしているハワードの姿があったので呼び止める。
「旦那様なら、ご自分のお部屋におられます。そこを三階に上がって頂きまして、左手の突き当たりです」
礼を言って階段を上がり、言われた通りの部屋のドアをノックした。返事があったのでドアを開けると、マシューはタイを解いているところだった。
「きみか」
どうやらハワードだと思われたらしい。着替え中だと思わなかったリュネットは驚いたが、半裸だったわけでもないので、気にせずに「ちょっとよろしいですか?」と伺いを立てた。肯定があったので遠慮なく中へ入らせてもらう。
「どうかした?」
「はい。お部屋のことでお話が」
「カーテンが気に入らなかった? それとも壁紙?」
「いいえ、どちらも素敵です。でも、お部屋自体に問題があります。あちらは客間ではないですか?」
「客人が泊まる部屋だからね」
「私はお客様ではありません。雇われ人です。そのようにしてください、と申し上げたと思うのですが」
リュネットは眉を寄せる。これから仕事を任せてもらい、お給金をもらうことになる。雇用関係にあるのだから、使用人達と同じように扱ってもらわなければ困るのだ。
マシューは襟許を緩めて楽な格好になってから椅子に腰かけると、肘掛けに頬杖をついてリュネットを見つめる。
「僕はきみを使用人として扱うつもりはないよ」
「でも、お仕事を頂くのですから……」
「客分でもいいと思うけど?」
「私はそれがいいと思えませんので」
「……強情だね」
「矜持です」
本来なら彼の世話になどなりたくないのだ。けれど、いろいろな事情が重なり、これが最善と思えたので甘えさせてもらった。だからといって、立場を濁したままにするつもりは欠片もない。
正式に雇用契約書にサインした際に約束したのだ。食事や寝室などの生活の場はメイド達と同じようにして欲しい、と告げ、彼も確かにそれを了承してくれた筈だったのに――現地に来てみればこれだ。
「リュネット」
「エレノアです」
それも取り決めたのだ。なにかのきっかけでリュネットがカートランド家に世話になっていることが実家にバレないように、今まで使っていたエレノア・ホワイトの名前で過ごすことにしたというのに、この人はそんなものお構いなしだ。
「あまり変わらないと思うけどね。だってそれ、お母上の名前だろう?」
「そうですけど……」
言われてみればそうなのだろうか。自分でもうっかりと間違えにくいからいいと思っていたのだが。
リュネットが困惑して言葉を止めると、マシューはにっこりと微笑む。
「僕が本名を呼ぶくらい構わないだろう」
「でも」
「それに、ここでの噂が立ったとしても、それがロンドンに届くまでにどれくらいかかると思う? その頃にはきみの実家の問題も片付いているだろうし、後任も決まってきみも余所に移っているだろうから、心配はいらないんじゃないかな」
違うかい、と念を押され、確かにその通りだな、と納得する。こちらで社交界に出入りするわけでもなく、ただの領地の帳簿管理人が周囲に知れ渡るほどの噂になることなどあり得ないし、静かにしていればどんな名前で呼ばれようとも問題にはならないだろう。
なんだか上手く丸めこまれたような気がしないでもないが、それを真っ向から否定して跳ね返す必要もないのも事実。ここは黙って従った方がいいのだろうか。
(でも、やっぱり納得いかないわ)
どうにか待遇だけでも、初めに取り決めた通りにしてもらえないだろうか、と言い負かす材料を考えていると、珍しくマシューが折れた。
「いいよ、わかった。でも、部屋だけはあそこを使ってくれ。きみは可愛いメグの親友だし、そんなきみを粗雑に扱ったと知れたら、僕が面倒なことになる」
メグは気が強いし、口も強い。実の兄に対してなら遠慮はないのだろう。
部屋のことは仕方なく了承した。
「食事は、僕がこちらにいる間は一緒にしてもらおうか。さすがに一人の食事は味気ないからね。あとはお望み通り使用人達と一緒に食べればいい」
ということは、今日の夕食と、明日の朝食ぐらいを一緒にすればいいだけだ。
それならば仕方がない、と同意した。マシューが礼を言う。
やっぱりなんだか上手く丸めこまれただけのような気もするが、お互いに妥協することは必要なのだ。下の立場であるリュネットが従う方が角が立たない。
マシューの部屋をあとにしてから、リュネットはドレスがないことを思い出す。夕食の席では盛装するのが決まりだ。ロンドンのカートランド邸にいるときはメグのドレスを借りていたのだが、ここではそんなものが必要になるとは思わず、なんの用意もしていなかった。
どうしよう、と内心焦る。
いくら不本意な席に座らされることになるとはいえ、礼を欠く態度はよくない。知らなかったなどと馬鹿な言い訳が通る筈もないのだから、どうにかしなければ。
(取り敢えず、紺の余所行きを持って来ていた筈。あれでなんとか……)
荷解きと同時にやらなければいけないことが出来てしまった。紺色のドレスを探し出して皺を伸ばし、アイロンを借りなければならない。
夕食まで悠長にしている時間はない。リュネットは誰も人がいないのを確認し、スカートを抓み上げて走り出した。
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