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5 早朝の駅は危険地帯
しおりを挟むカートランド領に向かうのは六日後だと伝えられた。
メグは「もうすぐじゃないの」と唇を尖らせて抗議してきたが、仕事なので仕方がないし、今度は居場所もはっきりとわかっているのだから、と納得してくれた。
領地に用があるからということで、マシューが送って行ってくれることになっている。男性と――しかもマシューとの二人旅など冗談ではない、というのが本音のところだが、これから雇われる身としてなにも言えない。嫌々ながらも従うことになる。
出発するまでの間はカートランド家に滞在して、メグとのんびりしているといい、と言われていたので、申し訳なく思いつつも言葉に甘えた。
メグは大喜びで、これまで音信不通だった時間を埋めるかのように、二人でたくさん話をした。一緒に買い物や食事にも出かけ、夜は寝る間を惜しみつつも一緒のベッドで眠り、五日があっという間に過ぎてしまった。
明日の朝は早い時間の汽車に乗るという。遅れない為にも、しっかり準備をしておかなければ、と荷物を纏めていると、メグがやって来た。
「私が前に着ていたものだけど、持って行かない?」
そう言ってドレスやコートを見せに来たのだ。あまり着替えを持っていなかったリュネットは有難く思い、丁度よさそうなものを見繕わせてもらう。
メグはリュネットよりかなり背が高いので、どれも丈が合わないのだが、詰めればなんとかなりそうだ。少し子供っぽいデザインになるが、十四、五の頃に着ていたものなら丁度よさそうだったが、今度は胸囲が合わない。
「リュヌったら……随分と成長していたのね」
呆れ気味に、しかし少しの羨望も滲ませながら呟かれ、リュネットは恥ずかしくなる。どうして胸ばかりが成長してしまったのだろうか。身長の方にももう少し養分が回ってくれればよかったのに、上手くいかないものだ。
裁縫は得意ではないが、まあそれなりには出来る。有難く何着かのドレスを受け取り、向こうに着いてから時間を見つけて手直しすることにした。
「ヘンリーに会ってもらいたかったのだけど、時間が合わなかったわね」
ドレスを畳むのを手伝いながら、メグが呟く。ヘンリーというのは彼女の婚約者だ。
そうね、と頷く。親友の夫となる人に会ってみたい気持ちはあったのだが、お互いに予定が合わなかったのだから仕方がない。
「お式には呼んでくれるのでしょう?」
「もちろんよ! リュヌは私の一番のお友達だし、どうしても出て欲しかったの。出てくれなくちゃ嫌よ」
その為に兄に頼んで行方を探してもらっていたのだから、と唇を尖らせる。その様子に苦笑した。
「もちろん出席させて頂くわ。そのときまでヘンリーさんのお顔は楽しみにしておく」
「ちょっと額のあたりが涼しげなのだけれど、驚かないでね」
「そうなの?」
「でも、いい人なのよ。優しいし」
少し慌てたように付け加えるメグは、ほんのりと頬を染めた。可愛らしい。
そんなメグの様子に、婚約者のことが好きなのだな、と感じる。彼女はきっと幸せになれるだろう。
暫しの別れとなるその夜も、二人は同じベッドで眠った。寄宿学校時代もよくこうして手を繋いで眠っていた。あの頃はこんなに広くてふかふかのベッドではなく、狭く冷えたベッドだったが、二人で身を寄せ合って眠ると不思議と暖かかった。
そんなことを思い出しながら眠った所為か、その夜は幼い頃のことを夢に見た。夢の中には幼い頃のメグも出て来て、彼女と手を繋いで歩いていると、今よりも若い姿のマシューが出て来た。初めて会ったときのことだ、と思った。
そこで目が覚めた。何故かわからないけれど、涙が溢れていた。
涙を拭いながら起き上がると、それに気づいたメグも目を覚ました。
「もう起きるの?」
「うん。朝一番の汽車らしいから」
「そう……」
一緒になって起き上がると、メグは「髪を結わせて」と微笑んだ。
「私の髪、結いにくいのよ?」
「知ってる。でも、昔はよく編みっこしたじゃない?」
時間がなくなるから早く着替えて、と急かされるので、ベッドを抜けて着替えを始める。
寝間着を脱いでキャミソールとドロワーズを身に着け、ペチコートを履き、コルセットを締める。ガウンを羽織ったメグが近づいて来て、後ろで紐を締めてくれる。
「もうちょっときつくして」
「こう? 苦しくない?」
言われた通りに強めに紐を引いてくれ、リュネットはふっと息を吐き出す。苦しいのは苦しいが、胸を押し潰したい意図があるので仕方がない。
着替えに選んだのはくすんだ臙脂色の着古したものだが、綺麗に洗ってもらってアイロンも当ててあるので、見た目は不味くないと思う。きちんとボタンを留め、胸許には奮発して買ったお気に入りのカメオのブローチを飾った。
用意が整ったので鏡台の前に腰を下ろすと、櫛を持って待ち構えていたメグが作業に取り掛かる。寝癖ひとつないリュネットの髪は絹糸よりもうんと細く、手触りはいいが纏まりにくいのが難点だ。その髪に触れながら、懐かしいわ、とメグは笑う。女学校時代はみんなでお互いの身支度を手伝い合ったものなのだ。
「簡単に編み込むだけでいいのよ? あまり複雑に結わなくていいからね」
「あら。それじゃあまたお兄様に変な顔をされるわ。いいから任せて」
鼻歌でも歌い出しそうな様子で細かい編み込みを作っていき、シニョンにした髪の束に巻きつけてピンで留め、毛先を隠すようにリボンを結んだ。
「ほら。これなら簡単だけど、あなたには似合うでしょう?」
横や縦に広がるわけでもなく、編んで纏めてあるからすっきりと落ち着いている。確かにリュネットの顔立ちには合っているし、好みから外れてもいない。控えめだが、家庭教師のときにしていた髪型よりは可愛らしいし、マシューにも文句は言われないだろう。
礼を言って立ち上がると、メグは両腕を広げて抱き着いてきた。リュネットもすぐに背中へ腕を回して抱き返す。
「ひと月後にはまた会えるわ」
「ええ、わかっているわ。でも、やっぱり寂しいの」
「……あなたがそんなに寂しがり屋だとは知らなかったわ、メグ」
「そう?」
身体を離したメグは瞳を僅かに潤ませている。その涙を指先で拭ってあげると、同時にノックの音が響いた。
「起きているかい?」
探るようにかけられたのはマシューの声だ。
ええ、とメグが返事をすると、彼はドアを開けて顔を覗かせる。
「レディの寝室に失礼かとは思ったけれど、時間が迫っているからね。支度は済んでいるようでよかった」
そう言うマシューも身支度はすっかり済んでいるようで、地味な色合いだが仕立てのよさがわかるフロックコートを身に纏っている。
「いつも寝坊助の癖に随分と早起きだこと」
メグが小さな声でひっそりと嫌味を囁く。基本的に九時や十時くらいまで寝ているらしい。
「荷物は? 客間の方かな?」
部屋の中に視線を走らせてトランクの類がないことを確認すると、リュネットの滞在場所として用意されていながらほとんど使われなかった部屋のことを尋ねた。頷くと、わかった、とひとこと告げて踵を返す。
「三十分ほどしたら出るから、その頃には下に降りていてくれ」
「あの、荷物は自分で持って行きますから……」
「いいよ。先に積み込んでおく。勝手に部屋に入るけど、構わないよね?」
「ええ……」
リュネットが頷いたのを見届けたのかどうか怪しい早さでドアを閉め、マシューは行ってしまった。呆気に取られて二人で閉じたドアを見つめる。
「珍しくせっかちだわ」
「そうなの?」
「ええ。お兄様ってどっちかというと鷹揚というか、どっしりと構えている方なの。なにがあってもあまり動じないし。あんなに急いでる様子は珍しいのよ」
肩を竦めて苦笑すると、私も着替える、と寝間着を脱ぎ始めたので、今度はリュネットが手伝うことにした。メグがやってくれたようにコルセットを締めるのを手伝い、ドレスの背中にあるボタンを留めるのを手伝った。
髪を結う時間はなかったのが残念だが、二人で揃って下に降りて行く。
玄関の前には既に馬車が用意されていて、先述の通り、荷物は積み込まれていた。
「時間通りだね」
バーネットにコートを着せ掛けられながら振り返ったマシューは、リュネット達に微笑みかける。彼もすっかり準備は整っているようだ。
トップハットとステッキを受け取りながらリュネットの姿を眺め、妹に向き直る。
「メグ、あれの予備は持っているか? なんというのか……こう、すっぽり被って、顎の下で結ぶ……」
「ボンネットのこと? 衣装部屋に行けばいくらでもあるけど」
もちろんリュネットも持っているが、彼女の持っていたものは使い込んで傷みが目立つようになっていたので、こちらに滞在し始めてからメグに言われて処分したのだ。新しいものを買おうと思っていたのだが、リュネットの予算内のものだと、あれも駄目これも駄目、とメグが選り好みした為に妥当なものが見つからず、まだ買っていなかった。代わりに今はスカーフを巻いているのだが、それがマシューはお気に召さなかったようだ。
スカーフを頭に巻いているのは庶民の間ではまあ普通のことだし、今のリュネットの服装にも見合っている。しかし、貴族階級の娘ともなると、当たり前のことだがそんなことをしている者はいない。それがマシューが顔を顰めている要因だろう。
「これより顔が隠れるだろう」
言われてハッとしたメグは、すぐに取って来る、と衣装部屋へ小走りに向かった。
なにがなにやらわからなかったリュネットだったが、顔を隠す理由に思い至り、被っていたスカーフを解いて脱いだ。
これから向かうのはキングス・クロス駅。大勢の人々の行き交う大型駅で、誰とすれ違うかわかったものではない。その中には、リュネットの行方を追っているドナルド親子がいる可能性も無きにしも非ずだ。
まさかそんな偶然あるわけがない、と思いたいが、その偶然に遭遇する可能性はゼロではないのだから、用心をしておくことに越したことはない。
しばらくして戻って来たメグは、リュネットのドレスの色に合わせたのか、赤いリボンのついた茶色のボンネットを持って来た。
被せてもらうと、なるほど、正面からは見えるが、横からなら顔はほとんど隠れてしまう。これなら真正面で見つめ合わない限り、すれ違った程度では誰だかわからないだろう。
いいね、とマシューも頷く。
これでようやく出発の準備は整った。
バーネットに手を借りて馬車に乗り込むと、マシューも続いて乗り込んで来る。先日と同じように場所を空けると隣に座って来たので、身を引くように反対側のドアに張りついた。
バーネットも乗り込んでドアを閉めると、窓越しにメグが覗き込んで来る。
「またね、リュヌ。身体に気をつけて」
「メグも風邪ひかないでね。もうすぐお式なんだから」
「わかっているわ。来月、待っているからね」
「ええ、楽しみにしているわ」
メグが微笑みながら身を引いたのを見計らい、御者が馬に鞭を当てた。
侯爵家の門を抜けて朝霧に包まれた通りに出るが、まだ人通りはほとんどなく、閑散としている。市の並ぶコヴェントガーデンの方なら既に賑わっているのだろうが、このあたりにはその喧騒は届かない。
石畳を車輪が走る音と蹄の響きを聞きながら外を見ていると、過ぎ去る家々の煙突から煙が立ち上っているのが見える。朝食の支度はもう始まっているのだろう。
そういえば朝食を食べていなかった、と気づくと、急にお腹が空いてきたような気がした。幸いにも腹の虫はまだ眠っているらしく、騒いで恥を掻かせることはなかったが、空腹であるという認識は変えられない。
「料理人からこちらを預かって参りました。ご乗車になられたら、お食べください」
駅に行けば果物売りやマフィン売りの子がいる筈だし、久しぶりにそれを食べるのもいいな、と考えていると、バーネットが紙の包みを差し出した。
「サンドウィッチだと思います」
「ああ、ありがとう」
マシューはそれを受け取ると、そのままリュネットに渡す。
「きみ、これを持っていてくれるかい?」
「あ、はい。お預かりします」
受け取るとまだ少し温かさがあった。焼き立てのパンを使ってくれたのだろうか。
そうこうしているうちに駅へと辿り着く。
数年前に完成したばかりの真新しく立派な駅舎は、とても近代的に感じられた。その駅の入口には早朝だというのにもう何十人、何百人という人が溢れ返り、誰もが皆忙しなく行き来している。
切符を手配して来る、と言い残してバーネットが窓口に行ってしまったので、リュネットはマシューと二人で残されることになった。少し戸惑っている間に、マシューは荷運び人を捕まえ、トランクなどを運んでもらうように指示を出している。旅慣れしていると以前に言っていたが、嘘ではなかったようだ。
「どうかした?」
早朝にも拘らずごった返す人混みに圧倒されながらぼんやりしていると、新聞売りから一部買っていたマシューが戻って来て不思議そうな顔をした。リュネットが所在なさ気にぼんやりしている姿は初めて見る。
いいえ、とリュネットが首を振るので、それ以上はなにも言わずにおく。
「旦那様」
戻って来たバーネットが主人に切符を差し出す。もちろん一等車のようだ。
「発車までにはまだ時間があるようですが、もうホームに行かれますか?」
「そうだな。ここは人の行き来が多いし、ホームの方が落ち着いているか……。リュネット、中に入るかい?」
「あ、はい。そうですね」
「じゃあ、行こう」
新聞を小脇に抱えてマシューが歩き出す。この人混みの中で見失うのは嫌だったので、リュネットも小走りにあとをついて行った。
汽車に乗るのは初めてではないが、メグと移動するときなどはほとんどが侯爵家の馬車を使っていたし、以前に領地へ遊びに行ったときも馬車だった。その所為なのか、知らずうちに少しだけ緊張しているようで、胸がドキドキと高鳴っていた。
プラットホームにも人は多くいたが、表ほどの混雑ではなかった。大きな荷物を既に貨物車などに預けて身軽になっている人がいる所為だろうか。
真新しい駅舎が珍しくて見回していると、汽車が蒸気を上げながらゆっくりと入って来る。これに乗るのだろう。
「オレンジー、オレンジはいかがー? ふたつで一ペニー」
振り向いたところに果物売りの女性が通りかかる。籠いっぱいに入ったオレンジはつやつやとして、とても美味しそうだった。
「頂ける?」
「毎度ぉ。ひとつおまけするよ」
「わあ、嬉しい」
手提げの中から財布を取り出して硬貨を渡し、新聞紙に包んでくれたオレンジを受け取る。おまけを合わせて三つになったので、リュネットとマシューとバーネットの三人分で丁度いい。
果物売りの女性はふくよかな頬に笑窪を浮かべ、よい旅を、と明るく言ってくれた。苦手なマシューが一緒の長時間の旅になるので、よい旅とは言えないのだが、と内心で思いながら振り返ると、そのマシューの姿が何処にも見当たらない。はぐれないように気をつけていたのに、オレンジに気を取られた少しの間でこれだ。
しまった、と思いながら周辺をさっと見回してみるが、マシューらしき姿は見当たらない。バーネットもだ。
こんなことなら、何号車なのか聞いておけばよかった。切符も持っていないし、時間までに合流出来なければ乗車出来なくなってしまう。
駅員達が車両の点検や切符の確認を始めているので、出発時刻が迫って来ているのだろう。取り敢えず、一等車の方へ行ってみればいいだろうか、とリュネットは前方の車両へ向かって歩き出す。予算の関係上、普段は二等車あたりに乗っているのであまりよくわからないが、確か一等車は前の方だった筈だ。
すれ違う人を確認しながら歩いていると、急に腕を掴まれた。ギョッとして振り返ると身形のいい男が立っていたが、残念ながら彼はマシューではない。
「……あの……?」
年の頃は二十代の前半か半ばくらいで、マシューよりは年下の印象だ。髪の色と瞳の色は焦げ茶で、少し太めの眉が男らしさを感じさせる。しかし、その容貌に見覚えはない。
「……なにか?」
腕を掴んだままじっと見つめてくる青年に、リュネットは困惑した。
いったいなんなのだろうか。いきなり腕を掴んで引き留め、なにも言わずに見つめてくるなんて、なんだか少し気持ち悪い。
彼はしばらくそうして見つめていたかと思うと、少し眉を寄せて眉間に皺を刻むと、僅かに首を傾げる。その口許が小さく「……誰だっけ?」と呟いた。
それを言いたいのはこちらだ。本当にどういうつもりなのだろう。
この腕を振りほどいてもいいだろうか。そんなことをしても、変に逆上させたりしないだろうか。ここしばらくの経験から、男性に対してどういう態度を取るのがいいのかわからなくなっている自分が情けなくなる。
どうするのが最適なのかと考えていると、青年との間にステッキを持った腕が割り込み、彼を引き離しつつリュネットは後ろに引っ張られる。今度は誰だかわかった。
「侯爵」
ホッとして振り返ると、硬い表情のマシューの横顔があった。
「やあ、お早う。早朝からお出かけですか、ジョセフ・スターウェル?」
その表情をすぐに引っ込め、彼はにこやかに青年に話しかけた。その名前にリュネットは思わず身を強張らせる。
最後に会ったのは七年も前のことで気づかなかった。この青年が現在のノースフィールド伯爵家の嫡男であり、リュネットの又従兄弟でもあるジョセフだったのだ。
ジョセフはマシューの登場に驚いていたようだが、自分が初対面の女性に対して失礼なことをしていた自覚もあったのか、すぐに手を引っ込め、マシューに会釈した。
「泊まりに来ていた友人の見送りに来たんです。そちらこそとてもお早いですね、カートランド卿」
「領地に用があってね。遠方だと移動だけで大変だよ」
「そうですか。お気をつけて」
すっと帽子を持ち上げて挨拶するジョセフだったが、視線はリュネットの方を向いている。その視線に気づいたマシューは、紳士らしくリュネットの手を取った。
「彼女になにか?」
「あぁ、いいえ。ちょっと知り合いに似ていたもので、腕を掴んでしまって……失礼しました、お嬢さん」
僅かに威圧するような目つきで尋ねると、ジョセフは慌てて首を振り、自分の無礼を思い出して謝罪してきた。いいえ、とリュネットは強張った表情のまま首を振る。
大貴族の当主と、どう見ても中産階級かもう少し下の庶民にしか見えない少女の取り合わせに、ジョセフは怪訝そうな顔をする。秘密の恋人という風でもなさそうなので、不思議なのだろう。
その視線に気づいたような顔をして、マシューはちょっとだけ肩を竦めた。
「そんなに似ているのかな? その、知り合いという方に」
「ああ、失礼。見つめてばかりで失礼でしたね……。似ているというか、最後に会ったのがもう十年近く前のことでよく覚えていないんですが、家にあるその娘の母親の肖像画に面差しが似ていたので」
ジョセフの説明に、そうなんだ、とマシューは世間話のような雰囲気で頷いているが、リュネットはドキリとした。亡くなった両親の肖像画が、まだノースフィールド伯爵邸にあるのか、と思うと、涙が出そうになってくる。
十一歳になる頃に両親を失くしてしまったリュネットの記憶には、優しかった父母の面影はもう記憶にほとんどない。思い出したくても、撫でてくれた手や抱き締めてくれた腕の優しさは思い出せるのに、顔のあたりがぼやけてしまっている。持っている唯一の家族写真を眺めても、印画紙が小さいので顔の造形はだいぶ潰れているのだ。色もかなり褪せてきている。
「今度、領地の方に学校を作ることになってね。彼女はそこへ教師として住んでもらうことにした人なんだよ」
「それをわざわざ送って行かれるのですか? 親切な方ですね、カートランド卿」
「用もあるからついでさ」
不審に思われない程度に適当な理由を並べると、ジョセフは納得したように頷いた。村の学校で教師をやるなんて、若い女性なのにすごいな、と思っているのがその表情から見て取れる。リュネットは曖昧に笑うことでなんとなく同意しておく。
「まもなく発車になりまーす」
顔見知りではあるがそう親しくもない程度の知り合いなので、ここらで切り上げるのが妥当だ。その場を離れようとしていると、駅員が鐘を振りながら声を張り上げているので、丁度いいとばかりにお互い会釈した。
「よい旅を、カートランド卿」
「ありがとう。さようなら、ジョセフ・スターウェル」
マシューは背を向けると同時にリュネットの腕を掴んで歩き始める。リュネットはその強引さに驚きつつも、転ばないように小走りについて行く。
「――…まったく。きみは本当に強運の持ち主だな」
こんな時間帯のこんな人混みの中で、よりによってジョセフと出くわすとは、強運というべきか、それとも凶運というべきか――呆れ気味に言われるが、リュネットにはなにも言い返せない。まさか自分でも、ちょっとはぐれただけの間に又従兄弟と遭遇する羽目になるとは思わなかった。
バーネットが待っているところまで行くと、リュネットは背後を気にしながら列車に乗り込む。軽く見回した程度だが、ジョセフの姿は見えなかったので、もう帰ったのかも知れない。
ホッとしつつ乗り込んで座席に座り、ケープを脱ぐ。長旅になるのだから楽な格好でいたい。
「今日は向こうに泊まることになると思うが、屋敷のことは頼んだぞ」
「はい、万事整えておきます。お気をつけて」
応じながら慇懃に頭を下げたバーネットは扉を閉めた。
えっ、とリュネットは目を丸くする。
「どうかした? ああ、マフィンでも買ってあげようか?」
襟巻を外して座席に置きながら、驚いた表情をしているリュネットにマシューは首を傾げる。焼きたてのマフィンを売っている少年が傍を歩いていていい匂いがしているので、それが欲しいのだろうか、と思ったのだ。
「いいえ、あの……バーネットさんは、ご一緒では……?」
「バーネットは屋敷のことを任せていくけど、彼になにか用でも?」
もう一度首を傾げながら閉められたばかりのドアを開けてもらい、マフィン売りの少年を呼び止める。ふたつくれ、と言うと、少年は笑顔で温かいマフィンを差し出して来た。
リュネットは愕然とする。
従者なので一緒に行くと思っていた。彼が来ないということは、完全にマシューとの二人旅になってしまうではないか。
それは嫌だ、と思うのとほぼ同時に、発車の合図となる汽笛が構内に鳴り響いた。
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