侯爵様と家庭教師

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「――…ット……、リュネット……」

 誰かに呼ばれている、とリュネットは夢現に思った。けれど、重く閉ざされた瞼はなかなか持ち上がらない。

(ごめんなさい。もう少し待って。そうしたら、起きるから……)

 心の中で申し訳なく思いながらも願っていると、小さな溜め息のようなものが聞こえた。かと思ったら、身体がふんわりと浮くような感じがした。身体が浮くなんて不安定なことだというのに、なんだか心地いい。

「湯の用意をしてくれ」

 ふわふわしているリュネットの意識のあちこちで、様々な音が入り混じる。

(なにかしら? なにが起こっているのかしら?)

 不思議に思って、これはいよいよ起きなければならない、と気合を入れて瞼を開こうとする。しかし、我が瞼ながら強情であり、なかなか開いてくれない。

(もう駄目よ……授業もあるのだから、起きなくちゃ……)

 可愛い生徒達が待っているのだ、と自分に言い聞かせ、無理矢理目を開ける。
 目の前に、見慣れない青年の顔があった。

「なっ――!」

 驚いて目を見開き、動転しながらも確認すると、その青年が親友の兄の顔だと認識する。
 何故、と思いつつ身体を起こそうとして、衣服がかなり乱されていることに気づいた。ひっ、と悲鳴を上げ、一瞬にして全身の毛が逆立つような感覚に陥る。

「いやっ!」

 マシューを突き飛ばして身を翻すと、よろけた先で壁にぶつかる。乱された胸許を掻き合わせながら、状況を把握しようと視線を彷徨わせると、ここがタイル張りの明るい部屋であり、よく見ると浴槽が置いてあることに気づいた。見たことのある浴室バスルームだ。

「なに? なにをするつもりなのですか!?」

 リュネットは急に身の危険を感じた。衣服を掻き合わせながら、身を守るように自分の肩を抱く。
 まさか、という思いが過る。

 何年もマシューにはあまりいい噂を聞かない。整った容姿と潤沢な財産のお陰なのか、女性問題でゴシップ紙の常連なのだ。
 そういう低俗な読み物を好んで読むわけでもないし、自ら手に取ることがなくても、耳に入って来るくらいには有名だ。
 親友の兄なのであまり変な目で見たくはないが、頻繁に話題に上る女性問題が、リュネットが彼を苦手に思う理由のひとつでもある。
 警戒するリュネットに対するマシューは、静かに前髪を掻き上げ、怯えて警戒する少女を見遣った。

「起きたのならいい。自分で風呂に入ってくれ」

「……風呂?」

 嫌な単語を耳にした。風呂に入らせてなにをするつもりなのだ、と青褪めると、呆れたような目を向けられる。

「勘違いしないでもらいたいな。その下品な髪を洗い流して欲しいだけだよ」

 髪を洗うのに濡れるからドレスを脱がそうとしただけだ、とマシューは言う。
 それでも大問題だ。この男は今、眠っていたリュネットの服を勝手に脱がそうとしていたということなのだから。

「メイド達だと力が足りないだろうと思ったから、僕が脱がそうとしただけだよ。下着まで剥ぎ取るつもりはなかったし、未遂なんだから、そんなに怒ることでもないだろう?」

 怒りに頬を染めて睨みつけると、うんざりしたように告げ、立ち上がると踵を返した。その彼と入れ替わりに三人のメイドが入って来た。
 彼女達は染めた髪を洗い流す薬剤を用意していたが、ついでだからきちんと湯に浸かって身体を温めるといい、と提案してきた。確かに手足が冷えて固まっているような気がする。温められるのは嬉しい。
 ひとりで入れるのだが、と思いつつも、これも彼女達の仕事の内だと思い、大人しく身を任せることにする。

「ご無沙汰でございましたね、お嬢様」

 メイド達の一人は昔から奉公している女で、女学校時代に泊まりに来ていたリュネットも何度か会ったことがあった。確か、ポリーという名前だった。幼いメグにとっては子守りのような存在だったという。
 そうね、と頷きつつ、渡されたスポンジで身体を擦る。
 他の二人はリュネットのことを知らないようで、黒く染めてあった髪を洗い流して現れた髪の色に少し驚いたようだった。メグも羨ましいと言っていた美しく淡い金糸の髪だ。

「マーガレットお嬢様のご結婚までにお戻りになられて、ようございましたわ」

「え……?」

 驚いて振り返る。手の中からスポンジが滑り落ちた。

「メグ、結婚が決まったの?」

「はい。来月の末に挙式となっております」

 もうほとんど間際ではないか。リュネットは愕然とした。
 連絡を絶ってしまっていたこの一年のことが悔やまれる。婚約をしたときには一番にお祝いを言いたかったし、結婚式の準備も手伝ったりしたかった。もっと傍で喜びを分かち合いたかった。
 ある事情から、居場所を知られるのを避ける為にメグとの連絡を絶ち、偽名を使い、身を隠していたわけなのだが、それがこんなことになってしまうとは。
 泣きたい気持ちを堪えながら、浴槽から立ち上がる。

「勝手にお荷物の中から着替えを用意させて頂きました。事後報告になり申し訳ございません」

「いいえ、ありがとう」

 他人に着古した下着を見られたのは少し恥ずかしかったが、礼を言って着替え、いつもはひとりで締めていたコルセットを締めてもらい、ドレスへと袖を通した。

「サンルームで旦那様がお待ちです。こちらへどうぞ」

 髪はまだ濡れていたので、人前に出るには少しみっともないが下ろしたままで、待ち構える屋敷の主人の許へ向かう。
 やわらかな陽の入る温かいサンルームで、マシューは新聞を広げていた。

「――…ああ、来たね」

 リュネットが入って来たことに気づくと新聞を畳み、テーブルを挟んで自分の前の席を示した。あまり座りたくはなかったが、仕方なく勧められた席に腰を下ろす。
 メイドがやって来てお茶の支度をしている間、マシューはすっかり元の姿に戻ったリュネットの姿を見つめていた。その視線が堪らなく居心地が悪い。

「随分と疲れていたようだね」

「そんなことは……」

「殿方の前で寝るのははしたないのではなかったかな?」

 揶揄うような声音に、カッと頬が熱くなる。
 確かにそう言った。けれど、彼の前で正体もなく寝こけていたのも事実なのだ。
 羞恥に全身がカッカとしてくるのを感じながら俯いていると、そんな姿を眺めていたマシューが背凭れに身体を預けながら、小さく溜め息を零した。

「やはり無理だったんだよ。きみに職業婦人だなんて……。大嫌いな僕の前で寝入ってしまうほどに疲れてまでやることかい?」

 そんなことはない、と怒りにも似たような感情が浮き上がるが、解雇されたばかりの身として、言い返すことの出来る言葉がある筈もない。悔しさからスカートの布地を強く握り締めることしか出来ない。

「きみは賢いけれど、ひどく世間知らずだ。そんなお嬢さん育ちが他人の家に住み込みで働くなんて、そもそもが無理だったんだよ。いい加減に認めなさい」

 マシューの言葉はいちいち的を射ている。確かにリュネットは、閉ざされた寄宿学校で十六になるまでの五年間を過ごし、教養や一般常識、礼儀作法は身につけられてはいるが、それ以外の世界は知らない。都会の暮らしがどういうものなのか、若い女が一人で生きていくにはどういうことが必要なのか、そのほとんどを知らない。世間知らずと言われても仕方がないのはこの二年ほどで身に沁みてわかった。
 認めたくはないが言い返すことも出来ずに黙っていると、マシューは静かにカップを手に取り、ひと口啜った。

「お茶をどうぞ、レディ・リュネット。冷めてしまう前に」

「…………」

「きみは疲れているんだ」

 さあ、と促され、渋々カップを手に取る。さすがはカートランド侯爵家の扱う紅茶で、持ち上げただけなのにいい香りが漂ってくる。
 ひと口飲むと、急に鼻の奥がツンとした。
 いけない、と思って顔を背けようとするが、いつの間に立ち上がっていたのか、マシューに顎先を掴まれてそちらを向かされた。

「泣いていい」

 マシューの深い緑の瞳が見つめて来る。その瞳の中に、不細工に歪んだ自分の顔が映り込んでいるのが見えた。

「嫌です。離して……」

「離さない」

 リュネットの震える手からカップを取り上げてテーブルに降ろすと、両手でそっと頬を包み込むように触れてきた。

「我慢するな」

 泣き顔なんて見られたくない。
 寄宿学校を卒業する年の冬の休暇も例年のようにカートランド家に滞在していたリュネットに、マシューは卒業後の進路を尋ねてくれた。社交界に出るのなら後見人となっていい婚家を探すが、と言われたのを断ったのだ。自力で生きて行きたいから、あなたの世話になるつもりはない、と。
 偉そうにそんな啖呵を切っていたというのに、勤め先からは解雇されるのを繰り返し、結局はこの様だ。
 震える唇を噛み締める。溢れてくる涙を堪えたいのに、じっと見つめてくるマシューの瞳が大好きな親友の瞳を思い出させ、もう我慢なんて出来なかった。

「……っう、……っ」

 本当はつらかった。いろいろ努力していたのにどうして上手くいかないのか、誰かに相談したかった。メグなら聞いてくれた筈だといつも思っていたが、自分が望んで身を隠したので孤独に耐えるしかなかった。

 泣き出したリュネットをマシューが自分の胸へと抱き寄せ、慰めるように髪を撫でた。ギョッとして身を固くしたが、今はただ、誰かに甘えてしまいたくて、なにも考えずに彼の胸に縋りつく。
 一人で生きていけると思っていたのに、自分はまだ子供だったと思い知らされた。苦手に思って避けていた相手に慰められている現実が、ますますそれを認識させる。
 マシューはなにも言わなかった。ただ静かに、リュネットの髪を撫で、背中を撫で、あやすように傍にいてくれる。まるでメグの代わりのように。

 しばらくして涙も落ち着いた頃、リュネットは号泣した自分が恥ずかしくなって、そっとマシューから身を離した。

「あの……お見苦しいところをお見せしまして、大変失礼致しました」

「別に」

 マシューは素っ気ない。

「メグは何処にいるんでしょうか?」

 泣かせておいてその態度か、と少し腹が立ちながら、彼の妹の所在を尋ねる。確か彼は、メグが会いたがっているから来てくれ、と言ってリュネットを連れて来たと思うのだが。

「メグに会ったら、お暇します」

 目許を擦ろうとしたらハンカチを差し出されたので、受け取って使わせてもらう。香水が振りかけてあるのかいい匂いがする。伊達男の彼らしい。

「メグは夕方まで帰らないよ」

 礼を言ってハンカチを返すと、そんな答えがある。えっ、と顔を強張らせると、彼は元の席に戻って足を組んで座り直す。

「昨日から婚約者フィアンセのお祖母様に会いに行っているんだ。少し遠方なので、一泊させてもらっている」

「そう、ですか……」

 無理矢理連れて来たわりにはそのオチか、と落胆する。
 すぐにでも会えるような気分になっていたので、気持ちの沈み込み方が大きいような気がする。思わず溜め息が零れた。

「昼食は僕と二人になるけれど、構わないよね?」

「え?」

「メグが帰るまではいてくれるんだろう?」

「ええ、まあ……」

 折角ここまで来たというのに、会わずに帰るのはちょっと寂しい。夕方まで帰らないというのなら、その時間までいさせてもらうしかない。
 しかし、何度もカートランド家に滞在してきたが、マシューと二人きりになることなど初めてだ。そもそも彼が屋敷にいること自体が稀のような気がする。

「今日は僕の予定は特にないし、食事を終えたら書斎に来てくれ」

 なんだか落ち着かなくてそわそわし始めていると、マシューがそう言った。
 何故、と怪訝に思う。客人として接待してくれる必要はない。客室のひとつでも貸してもらえれば静かにメグの帰りを待てるので、放っておいて欲しい。
 マシューはにっこりと微笑んだ。

「きみの今後のことを話そうじゃないか」

 その笑顔は、世の女性達ならポッと頬を染めるような魅力的なものだったのだろうが、リュネットには魔王の微笑みのように感じた。




 気まずい昼食を終えると、有無を言わさずに書斎へと連れて行かれた。
 逃げ出したくて堪らなかったが、ぐいぐいと引きずられて書斎に連れ込まれ、中のソファに無理矢理座らされる。

「さて。レディ・リュネット・アメリア」

 正面に腰を下ろしたマシューは改まって呼びかける。
 家を取られたリュネットにはもう『レディ』の称号をつけてもらう謂われはないのだが、彼が嫌味のようにそう呼ぶので返事をするしかない。

「僕の提案としては、きみには妹が散々世話になっているし、きちんとした嫁ぎ先を探してあげたいと思っている。僕の人脈を使えばいい条件の相手が見つかると思うよ?」

 それなりに裕福なしっかりした家柄で、あまり歳は離れておらず、容姿もほどほどに整っていて、おかしな噂などないような好青年を紹介することはいくらでも可能だ。結婚して不幸になるような相手を選ぶつもりはない。
 世間では、結婚こそが女の幸せだと言われている。いい相手に巡り合い、家庭に入って子供を産み育て、夫を支えていくことこそが女の幸せであるというのだ。

 リュネットはまっすぐにマシューの目を見つめ、静かな声で「お断りします」と告げた。
 その答えは予想通りだったので、別段驚きもせず、黙ってその澄んだ濃紺の瞳を見つめ返す。

「二年ほど前――いえ、もう三年近くになりますか。あのとき、私ははっきり申し上げました。あなたのお申し出には心から感謝しておりますが、それを受けるわけにはいきません。受ける謂れがないからです」

「何故? 僕の援助を受ける資格は十分にあると思うけど?」

「いいえ、ありません。私はただ、メグの友人だったというだけです。それだけでお世話になる理由にはなりません」

 家同士の繋がりがあったほど深い関係ではない。たまたま同じ寄宿学校に入って仲が良くなった友人が、彼の妹だったというだけのことだ。

「年に二度の長期休暇の折り、滞在させて頂いたことだけでも大変心苦しく、けれど、とても有難かったのです。あれだけでも十分な援助だったと思います。それ以上のものを受け取ることは欲張りです」

 寄宿学校の長期休暇は、降誕祭クリスマス前から年始にかけての冬の休暇と、学年が替わるときの夏の休暇がある。その間、寄宿舎は閉鎖されたりはしないが、教師達もほとんどが帰省してしまうし、たった一人でひと月も過ごすことになる。それはとても惨めだった。

 メグが入学する前の夏の休暇は、リュネットはそうして学舎に取り残されていた。学校は街の賑わいからは少し離れた場所にあったので、一人では進んで出かけようという気持ちも起きず、厳しい寮監に見張られて過ごす気詰まりな夏は、両親を亡くして孤独だった少女の胸には更につらいものだった。
 厳格な寄宿舎生活の中で出会ったメグが連れて来てくれたカートランド家は、久しぶりに感じた人の温もりに満ちた場所だった。
 だからこそ、そんな素敵な場所からメグを引き離したマシューが、とても酷い男に思えていたのだ。
 メグの気持ちを考えたことがあるのか、と抗議した生意気な少女を彼は叱ることもなく、ただ呆気に取られて見つめ返していて、隣にいたメグに頭を下げたのが、彼との初めての出会いだった。
 そんな失礼を働いたリュネットを、彼は次の休暇も受け入れてくれた。卒業までの休暇のすべてを、メグと一緒に過ごすといい、と別荘や保養地にも招待してくれた。親戚に捨てられて帰る場所を失くしていたリュネットには、それだけで十分すぎる援助だった。

 すっと背筋を正し、僅かに不機嫌さを帯びてきているマシューを見つめる。

「あなたのご厚情には本当に感謝しておりますが、これ以上お世話になるつもりはありません。お気持ちだけ受け取らせて頂きます」

 そう言ってきっちりと頭を下げる。
 これでメグに挨拶をしたら、もうこの家と関わるのは止そう。今自分が巻き込まれかけている面倒に巻き込むわけにはいかない。
 マシューは静かに短く吐息を零し、立ち上がった。
 窓際の大きな机に歩いて行くと、懐中時計の鎖に下げていた鍵を取り出し、机の鍵つきの抽斗を開け、中から大きめの封筒を取り出した。

「ジョセフ・スターウェル」

 封筒から取り出した書類を見たマシューが告げた名前に、ドキリとする。
 何故、突然その名前を出すのか。反射的に顔が強張ってしまうのが止められない。

「現ノースフィールド伯爵の一人息子で、きみの又従兄弟にあたる男だ」

「……そう、ですね」

 確かにその通りだったので頷きながら、いったい彼はなにを調べたのだろう、と不安になる。
 マシューは更に書類を捲り、ふっと口許を歪めた。

「彼はどうしてもきみと結婚したいようだ。それが嫌で、きみは身を隠したんだろう?」

 尋ねる口調であっても、それは確信に満ちている言い方だった。リュネットは全身から力が抜けるのを感じる。
 彼が持つあの書類にはいったい何処まで調べられているのだろう。彼は今のリュネットの状況を、何処まで把握しているのだろうか。
 マシューの言う通り、リュネットはジョセフから――正確には、彼の父親であり、亡き父の従兄弟であった現ノースフィールド伯爵ドナルド・スターウェルから、息子と結婚するように迫られているらしい。又聞きなので詳しくはわからないのだが、そういった理由で、ドナルドはリュネットの行方を捜しているという噂だ。

 あの一家には両親の葬儀のときに会った。突然一人になったリュネットに向かい、今日からこの屋敷は自分達のものだ、と宣言し、リュネットが両親と共に暮らした大好きな家を取り上げてしまったのだ。それは法律で決まっていることだから仕方がない、と家の顧問弁護士に諭され、懇願して両親の形見を少しだけ分けてもらい、見知らぬ土地の森深くにある女学校へと放り込まれたのだった。
 そんな嫌な思い出しかない一家が、今更自分を探しているなどと冗談ではない。

 運がいいのか悪いのか、その話を知ったのが卒業後に勤めていた家を解雇されたところだったのをいいことに、髪の色を変え、亡き母の名前エレノア・ホワイトを偽名として使い、彼等が捜しているリュネット・スターウェルの存在を隠した。お陰で大切な親友との連絡手段も失ってしまったのだが。

「嫌な男との結婚から逃れる方法は、別の男と結婚してしまうことだと思うけど?」

 マシューは書類を捲りながら尋ねる。だからいい嫁ぎ先を紹介しようと提案しているのだ。別に女の幸せがどうこうという理由からだけではない。
 しかし、そんな結婚は嫌だ、とリュネットは思う。なんだか偽装結婚みたいで、相手になる人にも申し訳ない。

「じゃあ、どうする気?」

 マシューは呆れたように尋ねる。あれも嫌、これも嫌、と首を振るだけでは、ただの子供の駄々捏ねだ。話にならない。

「あの人達に見つからないように、もう少し地方に行って仕事を探してみます。無理なら……外国に行きます」

「はっ! それは現実的じゃないね。紹介状もない小娘を雇う家なんてあるわけがない」

「! あ、あなたが、破いてしまったのではないですか!」

 マシューはリュネットの決意を鼻で笑い、つかつかと大股で戻って来ると、隣に腰を下ろした。

「ねえ、レディ・リュネット。きみが解雇された理由を知っている?」

 吐息を感じるほど近くで尋ねられ、リュネットは後退る。どうしてこう距離が近いのか。

「ダルトン家のご主人と、ヒース男爵の長男に、ホルス男爵家は……ああ、これは庭師ガーデナーの男かな?」

 逃げようとするリュネットの肩に腕を回して引き留めながら、マシューは書類に記載されていたことを読み上げていく。さっと血の気が引いた。

「随分と派手に殴ったみたいだね」

 にっこり微笑みながら書類を振り、マシューは青褪めたリュネットに詰め寄る。

「なっ、なん……!」

「最近の探偵っていうのは結構優秀でね、これくらいなら調べ出して来てくれるんだよ」

 言葉を失うリュネットに見せつけながら書類を傍のテーブルに置いた。

「その様子だと事実だったみたいだね。彼等には報酬をもう少し弾んでやらなきゃいけないな」

 リュネットの解雇された理由は、ダルトン家でもヒース家でも、主人一家に色目を使ったから、というもので追い出されている。今朝解雇されたばかりのホルス家での理由はよくわからないが、夫人に泥棒猫と罵られたので、きっと同じような理由なのだとは思う。
 色目を使ったつもりなどない。どの男性達からも何度か声をかけられ、困惑しながら断っていたら、いきなり唇を奪われそうになったり、身体を触られたり、暗がりに連れ込まれそうになったりしたので、嫌だったから手が出ただけだ。
 人に暴力を振るったことを知られ、急に恥ずかしさが込み上げてきて俯いた。

「なんでそんなことになったのか、わかる?」

 リュネットの肩を抱いたままマシューが尋ねる。

「私に隙があったからでしょう。私は、あなたが言うところの、世間知らずだから」

 でも、もう同じ愚は犯さない。つけ入られる隙など与えず、もしもまた同じように言い寄って来る男がいたら、毅然として拒絶するつもりだ。職場の人間関係を円滑にする為にも感じが悪い女だと思われたくなくて、やんわり躱していたのだが、それがいけなかったのだろう。

「違うよ、リュネット。それがわからないうちは、やっぱりきみに職業婦人なんて無理だ」

 マシューは静かに否定する。
 さっきから否定してばかりだ。リュネットが言うことをすべて否定し、一蹴する。

「何故ですか! 私のなにがいけないって言うのですか、あなたは!」

 悔しくてまた泣きそうだった。
 本当はリュネット自身も少し気づいている。教師という職業は憧れもあったし好きだけれど、それで身を立てていくというのは、自分には少し向いていないのではないか、と。
 だがそれをマシューに指摘されたことがすごく嫌だった。
 彼はリュネットよりも十以上も年上で、人脈がモノを言う社交界に身を置いて長い。リュネットよりも見識は深く、多くのものを知っているのだろう。だから、迷っているときに彼が言うことは、そちらの方が正しく思えてしまう。
 大きな声を出したリュネットの頬に、マシューはそっと手を伸ばす。

「原因は、きみが綺麗だからだ」

 なにを馬鹿なことを、と思うが、あまりにもまっすぐに見つめられるので、言い返すべき言葉を見失う。

「きみはもう少し自分の魅力に気づいた方がいい。卒業してからこんなに綺麗になっているなんて、僕も思いもしていなかったけれど」

 幼い頃の面影がなくなってしまったわけではない。元々整った造形をしていた容貌に、加齢による深みが加わり、結婚適齢期という年齢が更にその美しさを際立たせているのだ。
 この顔で微笑みを投げかけられたりしたら、勘違いを起こす男がいてもおかしくはない。それくらいにリュネットは魅力的な女性へと変化を遂げていたのだ。

「このままだときみは、何処に行っても同じことを繰り返す。髪の色を染めて地味な格好をしていても変わらなかったことがいい証拠だ」

「じゃあ、どうすればいいと言うのですか……」

「そうだね……この綺麗な顔に大きな傷でもあれば、今までの家でのようなことはなくなるかも知れない。けれど、きみの魅力は顔だけじゃないみたいだから、無駄かも知れないね」

 言われ、ハッとして胸許を隠す。
 ここ一年程の間に急に大きく育った胸が、男性によく見られていることには薄々気づいていたが、体型のことはどうしようもない。なるべくコルセットで潰すようにしていたが、それにも限界がある。

 結局、リュネットに働く場所はないことになってしまう。
 家庭教師ガヴァネス以外に出来る仕事はあるだろうか。昔から刺繍は得意だが、裁縫自体はあまり得意ではないので、お針子は無理かも知れない。料理などしたこともないから、料理人も向いていないだろう。この年齢の未経験者でメイドとして雇ってくれるところはあるだろうか――女性が出来る様々な仕事を考えてみるが、どれも今とあまり変わらないような気がする。

 考え込むリュネットに、マシューが口を開いた。

「仕事なら僕が用意しよう。だからきみは、もう何処にも行く必要はない」

 なにを言い出すのかと怪訝に思って見つめると、彼はにっこりと微笑んだ。

「今日からここで働けばいい」



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