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侯爵様の甘やかし
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別のサイトに投げておいたものになります。
時系列的には、番外編7の2ヵ月後ぐらいの時期になるかと思います。
リュネットがちょっとだけお口でしてたりするので、ご奉仕系が苦手な方はブラバ推奨です。
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「ミーガン」
掃除用具を片付けようと廊下を歩いていると、何処かから声をかけられた。くるりとあたりを見回しても誰も見当たらず、気の所為だったか、と首を捻って歩き出そうとすると、陰から手招きする腕が見えた。
「――…ひぇっ!?」
上司であるハワードだろうか、と怪訝に思いながら近づいて行くと、そこにいたのは思いもよらなかった人物で、ミーガンは思わず悲鳴を上げて仰け反る。
マシューは慌てて口を塞ぎ、真剣な表情で「シーッ」と指先を立てた。
ミーガンは何度もこくこくと頷き返しながら、改めてあたりを見回してみる。
「……なにをなさっていらっしゃるんですか、旦那様?」
隠れているらしいので声を落としながら尋ねると、マシューもあたりを見回し、ちょっと、ともう少し奥の方へ手招きする。なにか話でもあるのだろうか。仕方がないのであとをついて行く。
「きみさ、リュネットと仲がいいだろう?」
人気がないのを確認しながら、声を落としたマシューがそんなことを言う。その言葉に、ミーガンは口許がニヤニヤっと緩みかけるのを無理矢理戻しながら、平静を装った表情で「まあ、そうですね」と満更でもなく答えた。口許のニヤニヤは治まらない。
そんなミーガンの表情になんとも言えない目を向けながら、咳払いをひとつ、マシューは少し真面目な表情になった。
「リュネットがなにか悩んでいるみたいなんだ」
「奥様がですか?」
思わず尋ね返すと、うん、とマシューは消沈した表情で頷く。
「妊娠中で気が立っているのはわかっているんだ。情緒不安定なのも、そういう時期だから理解しているんだけど……なんだか気にかかってね」
マシューの妻であるリュネットが別居先から戻って二ヶ月が経とうとしている。そんな彼女は今、懐妊してから六ヵ月目に入ろうかというところで、悪阻もようやく落ち着いて安定してきたところだ。
はて、とミーガンは首を傾げる。ミーガンが見る限り、リュネットが深刻な悩み事を抱えているような様子は見受けられない。
確かに、最近は体調が思わしくない日が続いた所為か、ぼんやりしている様子でいることは多いようだが、新しくやって来た侍女のエリザベス・ホーンがよく気をつけてくれているようで、まだ若い女主人が憂いを抱えるような不都合は見かけられないのだが。
(あの人、苦手なんだよなぁ……)
ホーンのことを思い浮かべ、ミーガンは内心で顔を顰めた。
常にきびきびとしていて、とても仕事の出来る印象の女性だ。リュネットのことを主人として大事にしてくれているのはわかるし、物慣れない彼女にとって、あれくらい経験を積んでいてしっかりした人が侍女としては望ましいだろうし、その点で採用されたのだろうとは思う。けれど、言動が結構きつい。過去の経験から当たりが強い人に対しては畏縮する傾向にあるリュネットにとって、あまり相性のよくない人物ではないか、とミーガンは感じていた。
けれど、リュネットは特になにも言っていない。ホーンがあれこれと進言してくれるのは自分の為を思ってのことだし、きちんと言ってくれるのは有難いと思っている、と言っていたくらいだ。
使用人達の態度以外のことで不満を抱くとすれば、夫であるマシューに関することくらいだと思うのだが――とミーガンは主人の顔を見上げた。その視線に気づいたマシューは、心外だ、と言わんばかりの表情で肩を竦める。
「きみの言いたいことはわかるよ。リュネットは僕に対して昔から不満だらけだし、それは十年前に出会ったときからのことだ。けれど、今回のことは、ちょっと違うと思うんだよね」
なにかやらかした心当たりはない、と言い切るマシューの様子に、その通りだろうと思って頷く。リュネットとの結婚が決まって以降の彼は、嘗てのように火遊びをするわけでもなく、本当に一途にリュネットのことを想っていると思う。時折その想いが行き過ぎて、リュネット本人を困らせているのはご愛嬌と言ったところだろうか。
では、なにを思い悩んでいるのだろうか。
それを探ってくれ、とマシューは言った。
「リュネットの性格上、僕がなにを言っても答えないだろうし、この屋敷の中で一番仲のいいきみになら、素直に相談するんじゃないかなぁと期待しているんだけど……どうかな?」
そういう期待を抱かれるのは悪い気がしない。ミーガンはニヤニヤ笑いながら「いいですよぉ」と少し勿体ぶった口調で主人からの申し出に了承した。
成功報酬で特別手当てを支給してくれると言われたが、それはやんわりと辞退し、代わりにオズボーンの焼き菓子を一週間分買ってくれるように要求した。安上がりな子だなぁ、とマシューは笑っていたが、友人の為に一肌脱ぐだけなのだから見返りなど本来なら不要なのだ。
丁度いいことに、もうすぐ昼食の時間だった。それが終われば、リュネットは大抵自分の部屋で刺繍などをしたり、転寝をすることが多い。そこを訪ねて話を聞いてみる、と答えると、マシューはホッとしたように頷いた。
食事中に午後の課業についてこっそりとアニーに相談すると、彼女は快く頷いてくれた。
「言われてみればだけど、確かに元気がない様子よね、奥様」
「まあね。妊娠中で体調がよくないからだと思ってたけど、旦那様が気にするくらいだから、ちょっと違うんだろうね」
煮豆をつつきながらアニーの言葉に同意する。彼女もリュネットの変調には気づいていたらしい。
こういう場合、本来なら一番の親友であるメグに会う方がいいような気がするのだが、メグはまだ産後三ヶ月に満たないところで本調子でないかも知れないし、かと言って、ようやく安定期に入ったところのリュネットに長旅をさせるのも心配だ。そうなると、やはり屋敷内で一番仲のいいミーガンが相談役には適任だと思われる。
「レベッカもエルザもいるし、あんた一人いないくらいどうってことないわよ。奥様の体調の方が心配だしね」
「ありがとう、アニー」
「オズボーンの焼き菓子三日分でいいわよぉ」
ほほほっ、と笑い声を響かせながら見返りを要求してくる。なんて奴だ、と思いつつ、感謝の気持ちはしっかりとあるので、マシューからの報酬を半分渡すことで手を打った。
食事を終えて上に行くと、丁度リュネットが自分の部屋に戻るところだった。
「エレノアさーん」
昔からの呼び方で声をかけると、リュネットはすぐに振り返り、柔らかな笑みを向ける。
「ミーガン。どうしたの?」
そのふんわりと優しい声音がミーガンは好きだ。思わず笑顔になる。
「たまにはちょっとお喋りしないかなーと思って」
取り敢えず適当な理由を告げると、リュネットはちょっとだけ小首を傾げる。
「忙しくないの?」
「あ、うん。ちょっと暇があるというか。ほんの少しだけ手が空いたの」
「そう。じゃあ、私の部屋に行きましょう?」
久しぶりにお喋り出来るの嬉しいわ、と微笑むリュネットの横顔を見て、やっぱり元気がなさそうだ、と改めて思った。体調が悪くて顔色が悪いというわけではなく、なんとなく陰を感じるというか、そういう類のものだ。
部屋に行くと、中ではホーンがクローゼットの整理をしているところだった。彼女はリュネットに一礼しつつも、一緒にいたミーガンに怪訝そうでいて邪険にしているような目を向ける。
「あの、ホーンさん。ちょっと外してもらえる?」
リュネットは控えめに侍女へ退室を促した。
「はい、奥様」
ホーンは頷き、手直しする為に避けておいたドレスの何着かを抱えて出て行った。その後ろ姿を見送りながら、リュネットが小さく嘆息する。
やっぱり、とミーガンは思った。リュネットは侍女のことが少し苦手なのだ。仕事ぶりに感謝していると言っても、性格的な相性はあるのだから仕方がない。
「あのね、遠回しにしてもよくないし、黙っているのも嫌だからはっきり言うけど。エレノアさん、なにか悩んでない?」
勧められた椅子に腰かけ、ミーガンは単刀直入に話を切り出した。
その言葉にリュネットは双眸を瞠り、困惑気に瞬く。その様子が答えだった。
「なにか困っているなら遠慮なく相談してよ。私じゃ力になれない?」
「ミーガン……」
「それだったら、モンゴメリさんでも、ハワードさんでも、サラさんでも、誰にでも相談してよ。私達はみんなエレノアさんの味方なんだよ?」
レベッカ以外は、という言葉はそっと飲み込みながら、ミーガンは口早に捲し立てた。
ミーガンとアニーでもほんのりと違和感を抱いていたリュネットの変調は、きっと他の人達も薄々感づいているに違いない。ただ、ミーガンと同じように、妊娠に因る体調の変化の所為だろう、と思って口を出さないでいる可能性が高い。マシューに言われるまで、疑いもせずにそうだと思っていた。
ひと息に言われたリュネットは少し困惑するような表情を浮かべたが、静かに息をつき、ことりと首を俯けた。
「なにもないのよ。本当に……ただ、私が少し我儘なだけ」
その言い方は意外だった。リュネットが我儘を口にしたことは見たことがない。強いて言えば、マシューと意見が食い違って喧嘩になったときなどに我を通し、謝罪されるまで怒り続けている様子を我儘と称するならば、そうなのだろうが。
どういうことだろう、と首を傾げると、リュネットは俯いたまま話を始めた。
「私ね……卵は好きなの。ふわふわに焼いたのとか、お菓子に使っているのとか」
リュネットの朝食にはいつも卵を焼いたものが供されている。日によってスクランブルエッグだったり、目玉焼きだったり、オムレットだったりするようだが。
どういう理由でこれを話し始めたのかわからないが、うん、とミーガンは頷いた。
「でもね、生卵は好きじゃないの」
溜め息交じりに物凄く悲しげに零される。ミーガンはますます首を傾げた。
「――…ごめん、エレノアさん。生卵がどうしたの?」
話の経緯を推理してみようとも考えたが、時間の無駄なのでやめ、素直に事情を詳しく訊くことにした。
リュネットは恥ずかしそうに俯きながらも、悲しげな声で事情を口にする。
曰く、生卵は健康の為なのだという。
今からひと月と少し前に侍女としてやって来たホーンは、起床したリュネットに生卵が入ったグラスを差し出した。それを毎朝必ず飲め、ということだった。
初日はあろうことか、グラスに半分ほどのスコッチも入っていたらしい。リュネットが酒に極端に弱く、マシューからも止められているし、お腹に赤ちゃんもいる、と必死に訴えて下げてもらったのだが、それでも卵は飲め、と押しつけられたのだ。
侍女は淡々と、これは奥様の健康の為であり、ひいてはお腹の子の為にもなる、とグラスを押しつけられ、こういったことに関する知識のないリュネットは言われるがままに卵を飲まされた。
それから毎朝、健康の為だと生卵を飲まされ続けている。それが苦痛で堪らなかった。
「ホーンさんが私の身体の為にやってくれていることはわかっているし、有難いと思っているの。でも、やっぱり私……ちょっとつらくて」
申し訳なさそうに零すリュネットの様子に、ミーガンはあんぐりと口を開ける。
「それは拒否してもいいと思うよ。つらいのに無理する必要ないよ」
「でも……」
「でもじゃないよ。いくら健康の為でも、つらいのを我慢している方が健康に悪いよ。逆に身体を壊しちゃいそう」
やはりリュネットとホーンは相性がよくなかったのだ。自分の方が立場が上なのだから、気にせず毅然と抗えばいいものを、押しが強い相手には相変わらず畏縮している。
はあ、とミーガンは溜め息をついた。弱々しいリュネットに呆れたわけではなく、そういったことをわかっていながら見落としていた自分達の鈍感さに呆れたのだ。
「他にはないの? ホーンさんにされて嫌なこと」
こういう言い方はちょっと失礼かな、と思いつつも、今はリュネットの憂いを払う方が先決だ。その原因がホーンであるのなら、彼女を悪感情で捉えてしまっても仕方がない。
リュネットは生卵の告白から少し勇気を得たのか、もじもじとしながらも「お酢……」と呟いた。
「お酢も飲まされているの?」
ミーガンは今度こそ呆れて声を上げた。
毎晩、入浴後にワインビネガーを飲まされているのだという。これは肌の色を白く美しくする為のものだとか。
リュネットの肌をこれ以上白くしてどうするつもりだ、とミーガンは呆れすぎて眩暈を感じた。羨ましいくらいに白く透き通るような肌をしているというのに。
ホーンは何故こんなことをしなければならないのか、きちんと理由を説明してくれてはいるので、リュネットも一応は理解して言葉に従っているのだが、生卵もお酢も飲み干すのはやはりつらい。貴婦人には当然の習慣だ、と言われ、そういったことに疎いリュネットは反論することも出来なかったのだ。
大きく溜め息を零しながら、リュネットはそっとお腹を撫でた。
その様子にミーガンは表情を曇らせる。
「無理も我慢も、赤ちゃんによくないよ」
その言葉に、そうね、とリュネットは悲しげに頷いた。
この少し弱いところのある若い女主人は、年上の人に強く言われると逆らえない性分であるのは、彼女の夫であるマシューとのやり取りからもわかっている。よく意見を対立させて喧嘩をしている二人だが、彼が本気で強く言うと、逆らえずに黙ってしまうことが多々あった。そんなときはすぐにマシューが謝罪し、改めて話し合うようにしているのだが、最近来たばかりのホーンは知らないのだろう。
自分から言って聞いてくれるだろうか、とミーガンは考える。無理だろう、と即座に結論は出た。
ホーンは悪い人ではないのだが、侍女という立場にプライドを持っていて、年若い一介のハウスメイドであるミーガンのことを下に見ているのは明らかだ。リュネットと親しくしているのも気に入らないらしく、一度「奥様を変な名前で馴れ馴れしく呼ぶのはおよしなさい」ときつく言われたことがある。
これはやはり、モンゴメリに訴えておいた方がいいだろう。侍女という役職が女主人直属の使用人で、他の使用人達と同じ命令系統に属さないとはいっても、女性使用人のトップである家政婦の言うことなら聞いてくれる筈だ。
「他にはなにも困ったことはない? もう大丈夫?」
俯いている顔を覗き込みながら尋ねる。リュネットからなにか聞き出すのなら、畳みかけるように一気にした方がいいということを、ミーガンは一緒に過ごしたこの二年ばかりの間で学んでいる。
リュネットは少し考えたあと、ちょっとだけ頬を赤くして眉を寄せた。
「他にはなにもないわ。大丈夫」
(……ああ、旦那様絡みでなにかあるんだ)
リュネットがこういう表情をするとき、大抵がマシューに絡んだなにかだ。それくらいはなんとなくわかる。
これはこれ以上突っ込むのはよくない話題だ、とすぐに判断を下し、それ以上の追及は控えることにした。
「――…まあ!」
話が落ち着いたところで、ドアの方からホーンの声がした。戻って来たらしい。
あっ、とミーガンは声を漏らし、慌てて立ち上がる。いくらリュネットから勧められたとはいえ、主人と同じように腰掛ける使用人などあり得ない。
「ホーンさん、いいのよ。お喋りするのに座っている方がいいじゃない」
リュネットも自分の失敗に気づき、すぐにミーガンの態度を擁護した。それでも、ホーンの苛立ち顔は変わらない。
「奥様。それでもけじめというものがございます。ミーガンと親しいというお話はお伺いしましたが、分別はきちんと持つことが正しい行いです」
「ごめんなさい。でも、ミーガンを叱らないでやって。私が言ったことだから」
謝るリュネットの様子に、何故彼女はこんなにもホーンに対して下手なのだろう、と不思議に思う。主人らしく振る舞うことに不慣れなのは知っているが、ここまで下になることもなかろうに、と気になって仕方がなかった。
これ以上リュネットを責めさせることも、彼女に謝罪させることも不本意だったので、ミーガンはすぐに退室の挨拶をしてお暇する。
「ありがとうね、ミーガン。話聞いてもらえて、ちょっとすっきりしたわ」
ドアを閉めようとしたところにそんな言葉を投げかけられ、ミーガンは嬉しくて笑顔で頷いた。しかし、その視界に顰めっ面のホーンの姿が入り込み、嫌な気分にもなった。
静かにドアを閉め、ミーガンはその足で隣のマシューの部屋に向かう。そのあとはモンゴメリのところへ向かおうと予定を立てながらノックした。
「失礼致します、旦那様。ミーガンです」
報告と対応は迅速に、だ。
寝仕度をしていると、珍しくマシューが仕度部屋のドアから入って来た。
「ちょっといいかな?」
改まった言い方をするので首を傾げるが、マシューの表情は真剣だ。
なにかよくない話だろうか、と不安に思いつつ、髪を梳いてくれていたホーンに下がるように告げ、立ち上がった。
なんの気なしに近寄って行くと、夫は急に腰を抱き、乱暴にキスしてくる。
子供が出来たことがわかってから、こういうことをされたことはない。驚いて僅かに身動ぐが、深く舌を絡められ、リュネットは思わず喘いだ。
しばらくして解放され、いきなりなにをするのだろう、と怪訝に思って微かに睨むと、マシューはそんな妻の表情をジッと見下ろした。
「今夜はまだ飲んでいなかったみたいだね」
安心したような口調で零される言葉に「はい?」と首を傾げると、マシューは溜め息を零した。
「お酢」
その指摘に、あっ、と小さく声を漏らす。ミーガンが喋ったのだろう。
リュネットは僅かに表情を曇らせ、黙って俯いた。
「なんで言わなかった?」
責めるようなきつい口調で尋ねられるが、背中や肩を撫でてくれる手は優しい。怒っているわけではないのだろうとすぐに気づくが、リュネットは答えにくくて黙り込んでしまう。
妻がそういう態度を取ると予想していたマシューは小さく溜め息を零し、額や髪に優しく口づける。
しばらく宥めるように背中を撫で、優しくキスをしていたが、おいで、と告げて自分の部屋へと促す。リュネットの寝室にいてはまたホーンが戻って来るかも知れないと思ったのだろう。リュネットは黙って従った。
マシューの寝室に入るのは久しぶりだった。最近はいつもリュネットのベッドで一緒に寝ている。
「きみは結構気が強い方だと思っていたのだけれど、どうしたの? ホーンさんには言い返せないなにかがあるのかな?」
小さな子供に事情を尋ねるように、優しく促す口調で尋ねてくる。夫のその優しい気遣いが嬉しかったのと同時に、昼間ミーガンが訪ねて来た理由になんとなく察しがついた。
「ごめんなさい。なんでもないの」
「なんでもなくないだろう? 僕にまで嘘をつかなくていいし、隠し事をしなくていい」
どうしたの、ともう一度促される。
リュネットは困惑気に眉を下げるが、小さく溜め息を零し、言いにくそうに口を開いた。
「ホーンさんが……」
「うん」
「アンジェラのフォード先生に似ているの」
その答えにマシューは僅かに双眸を瞠った。
アンジェラ・マクレーン女学院――それはリュネットとメグが思春期を過ごした寄宿学校であり、楽しかった思い出と同時に、つらい思い出もたくさんあった場所の名前だった。
礼儀作法を担当していたフォードという女性教師は特に厳しく、仕種ひとつでも事細かに指導され、ときに鞭打たれることもあった。それが正当な理由での体罰なら甘んじて受け入れられるが、彼女の機嫌が悪いときに気に入らない生徒を気分で打つようなこともあったので、リュネットが特に苦手に思っていた人物だった。
その教師にあの侍女は似ている。顔立ちや、声も。
違う人だ、と自分に言い聞かせて対応しようと思っているのだが、声を聞くと思い出が蘇ってしまい、なにも出来なくなってしまう。言われたことを大人しく受け入れ、反論をすることも出来ない有様だ。
「ホーンさんはなにも悪くないの。ただ、私が勝手に怯えてしまっているだけ……」
彼女は十分すぎる程きちんと仕事をしてくれている。その口調の端々が強い為か、リュネットが勝手に嘗ての教師のことを重ねて見てしまい、無意識に畏縮してしまっているだけなのだ。侍女には一切問題はない。
「リュヌ……」
仕舞い込んでいた本音を吐露して息をつく妻を、マシューはそっと抱き寄せる。
リュネットが言う通り、ホーンに悪いところは一切ない。生卵のこともお酢のことも、主人として毅然と拒絶すればよかっただけのことなのに、それが出来なかったリュネットがよくなかったと言えばその通りだ。けれど、主人の様子に気づくことの出来なかった侍女にも、一応の問題はある。妊娠中という不安定な時期でもあるのだから、もっと気遣うべきではないか。
「僕から言うよ」
その言葉にリュネットは驚いて顔を上げる。慌てて「駄目よ」と首を振った。
「過保護だろうと、僕には愛する妻を守る義務があるし、侍女なんていらないと言っていたきみに侍女をつけたのは僕の意向だ。彼女の採用を決めたのも僕だしね。その所為できみが苦しんでいるのだから、原因を作った僕が動かなければならないのは当然じゃないか」
「でも……」
「いいんだよ、リュヌ。きみがこういうことが苦手なのはわかっている。女主人らしい振る舞いは、これからゆっくりと時間をかけて覚えていけばいいんだ。でも今回のことは急を要する。今は大事な時期なんだから、僕に任せてくれないか?」
夫の言葉にリュネットは戸惑いを向けるが、これを自分で解決出来ないのも事実。
そのことが情けなく感じながらも、今回は頷くしかなかった。
「でも、あの……悪いのは、はっきり口に出来なかった私なのです。どうか、ホーンさんを解雇とか、そういうことはしないでください」
自分の弱さが招いた事態だというのに、そんなことになったら申し訳なくて仕方がない。
マシューは妻の気持ちを汲み、わかっているよ、と微笑んで頷いた。その様子にリュネットはホッとする。
「他にはなにもない?」
安堵して微かな笑みを見せる妻に、マシューは窺うように尋ねた。
昼間ミーガンが尋ねたのと同じ口調だ。そのことが少しおかしくて、同時にそのときのことを思い出し、僅かに頬を染めた。
妻の変化に、マシューは首を傾げる。
「なにかあるの?」
重ねて尋ねられるが、この悩みはとても言いにくい。
どう説明しようか、と悩んで表情を曇らせると、マシューも表情を曇らせた。心配してくれているのがわかり、申し訳なくなる。
「あの……、なんというか……」
リュネットは一生懸命に言葉を選ぶ。その様子にマシューは真剣な眼差しを向け、続きを待つ。
「子供が出来てから、その……そういうことを、していないので……」
「そういうこと?」
濁した物言いに眉を寄せ、妻のたどたどしい言葉の真意を探ろうとする。
追及されることにリュネットは更に頬を染めた。
「だから、その……触ったり、とか……そういう……」
恥ずかしくて上手く言えない。わかってくれ、と祈りながら更に頬を赤くして俯くと、マシューは思い至ったらしく、ああ、と小さく頷いた。
「だってきみは本調子じゃないし、元々そんなに好きじゃないだろう? 無理強いするつもりはないよ」
マシューが求めれば応じてくれるが、リュネットはそういうことが好きではないことはわかっている。何度肌を重ねても慣れないし、いつも幼い子供のように拙く一生懸命だ。そんな様子を可愛いとは思って何度も求めてしまうが、体調のよくないときに求めるほどには、愚かで自分本位ではない。それくらいの理性は持っている。
夫の直截的な言葉にリュネットは耳の方まで赤くなる。
「でも……あなたは、その……し、したいのでは、ないかと、思って……」
「抱きたいよ」
即答だった。リュネットは言葉を失って夫を見上げる。
「当たり前のことを言わないでくれよ、リュヌ。毎晩だって、一日中だって、きみのことは抱いていたい」
リュネットと夜通し睦み合って目覚める朝、このままベッドの中で一日過ごせないだろうか、と何度思ったことか数えきれない。もちろんそんなことは叶わないとわかっているので、バーネットが起こしに来るノックの音を聞いては心から残念に思い、また夜まで我慢しよう、と自分に言い聞かせた朝はいったい何度迎えたことだろうか。
はあ、とマシューは溜め息をつく。
「僕はね、リュヌ。きみを初めて無理矢理抱いて以降、ベッドの上できみの嫌がることはしないようにしているんだ。……いや、一度してしまっているけれど」
以前、深夜に使用人達も巻き込んで大喧嘩したときのことを思い出したのか、バツが悪そうに付け足し、語尾を濁す。
「とにかく、きみのことは大切にしたいから、きみの気持ちと体調を優先したいと思っている。だから、子供が生まれるまでは禁欲しているんだ。あんまり煽らないでくれ」
不貞腐れた少年のような表情になり、我慢出来なくなる、と小さく零す。
リュネットはそんな夫の気遣いが嬉しくて堪らなくなるが、同時に、ある話を思い出し、不安になって瞳を潤ませた。
「どうしたの、リュヌ? なにもしないから泣かないでよ」
急に泣き出した妻の様子に慌て、マシューはおろおろとその涙を袖口で拭った。最近のリュネットは情緒不安定気味だが、今日も感情の起伏はなかなかに激しいようだ。
「……聞いたのです」
「うん?」
「男の人は、我慢し過ぎると、お腹が破裂して……死んでしまうって」
「――…は?」
思わず間抜けな声が零れたが、眉根がぎゅっと寄る。
「我慢し過ぎないように、娼館があるんだって、聞きました」
夫の様子に気づかず、リュネットは涙ながらに腹に溜め込んでいた思いを語った。
自分の体調の所為でマシューに我慢を強いているのはわかっていた。けれど、その所為でマシューが死んでしまうことになるくらいなら、娼館でも何処でも行ってくれていい。それくらい耐えられる。
なにを馬鹿なことを、とマシューはリュネットの告白に頭痛を覚えるが、彼女が酷く真剣なので、本気でその話を信じているのだと気づく。
いったい誰に聞かされたのだ、と尋ねれば、涙ながらに「バーネットさんです」と答えた。
「あいつ……」
剣呑な声が零れる。
マシューの従者であるシンクレア・バーネットは、とても気が利いて頭の回転もよく、忠実で、最良の従者だった。しかし如何せん。付き合いが長く、お互いまだ十代半ばの頃から一緒にいて、友人のような距離感でもあるものだから、時折妙な揶揄いをする。
困った奴だ、と思いつつ、そんなことは嘘だとすぐわかりそうなものなのに、信じ込んでいる妻が可哀想で可愛らしかった。
「僕はきみ以外抱くつもりはないよ」
「でも」
「バーネットの冗談を真に受けなくていい。自分でも処理出来るから、まったく問題はないんだよ」
優しく言い聞かせるが、リュネットは不安そうだった。
「じゃあ、きみがしてくれる?」
マシューの言葉にリュネットは瞬き、長い睫毛の下から涙が零れ落ちた。
そんな妻の頬に口づけながら、ガウンの腰紐を解き、戸惑っている小さな手をそこへ導いた。
「触って」
耳許で囁くと、リュネットは戸惑いの表情を浮かべながら、そっと指先を触れさせる。
「両手で」
わけもわからないまま、リュネットは夫の指示の通りに両手を伸ばし、握るように手を添わせる。熱くて柔らかいその肉塊はとても不思議な感触だった。
「出来ればもう少し強く握って、撫でて。……うん、そう」
言われるがままに恐々と夫の陰茎へ手を滑らせる。
これはいったいどういうことなのだろう、と不思議に思いながらも尋ねられず、指示されたように撫で摩る。しばらくすると感触が変わってきて、驚いて思わず手を離すが、それをマシューに押さえられて戻される。
「あの……?」
「まだ駄目。続けて」
促す口調は優しいのに、有無を言わせない強制力を感じる。
リュネットは指示されるままに撫でるのを続けるが、手の中でそれがどんどんと変化していくのを感じ取り、恐ろしくなってくる。
人間の身体がこんな変化をするなんて、いったいどうなっているのだろう――怯えながら撫で続けていると、耳許でマシューが吐息を漏らした。
「いいよ、リュヌ……気持ちいい」
その囁き声にリュネットはますます困惑した。こんなことが気持がいいだなんて、いったいどういうことだろうか。
けれど、マシューに抱かれるとき、彼の手や唇が身体の上を辿ると、リュネットはドロドロに溶かされるような感覚に陥る。それと同じようなものだろうか、と考え至ると、マシューの吐息にも納得出来るような気がしてきた。
気がつくと、手の中にべたつくような感触を感じるようになり、にちゃにちゃと粘った水音が聞こえるようになってくる。その音にリュネットは知らずうちに息を飲んでいた。
(これが、いつも、私の中に……)
マシューに抱かれた回数など何度になるかわからないくらいだというのに、リュネットは初めてしっかりとそれを見た。これがリュネットをときに苦しめ、痛みを与え、恐ろしいくらいの快楽に引きずり込み、気を失うまで昂らせるものなのだと理解する。
そのことに気づくと、身体の奥がじわりと熱くなる。
心臓の鼓動が早く鳴り始め、リュネットは喘ぐように吐息を漏らした。
「どうしたの、リュヌ?」
その様子に気づいたマシューが揶揄うような口調で尋ねる。耳許で零されたその声に、リュネットは身震いし、小さく声を漏らした。
(どうしよう……)
リュネットは知らずうちに浅く喘ぎながら、自分の中がとろりと潤んでくるのを感じていた。
(欲しい……)
こんな気持ちになったのは初めてで、そう感じた自分に戸惑った。けれど、一度そう思ってしまうと止まらなかった。
はしたないのはわかっている。けれど、感じてしまったその淫らな気持ちを偽ることも隠すことも出来なくて、リュネットはゴクリと唾を飲み下す。
そんな妻の様子に気づいたマシューは少し意外に思いながらも、未だに性的に潔癖に近い彼女の変化に、思わず淡く微笑んだ。
「リュヌ……僕はいつも、きみにどうしている?」
戸惑っている妻の耳許で囁く。
「きみは、どうしたい?」
マシューのその声は、禁断の果実を勧める蛇の囁き声のようだった。
リュネットは身体の奥で揺らめき立つ熱に煽られるように、ゆっくりと手の中に視線を落とし、それを凝視した。
愛し合っている最中、彼はリュネットになにをしているだろうか――そう考えたとき、リュネットは迷わずにそこへ口づけていた。
初めは躊躇いがちに唇を触れさせるだけだったが、一度触れてしまえば弾みがついたのか、ちろりと舌を覗かせ、その先端をそっと舐めた。マシューは堪らずに吐息を漏らす。
「リュヌ……その下の、括れているところを舐めて。そのまま手も動かして。……うん、そう。いいよ」
リュネットが戸惑うとすぐにマシューが指示をくれる。その言葉に従っていれば、彼は少し嬉しそうな声で微笑んだ。その様子がリュネットも嬉しかった。
言われるままにつるりとした先端を舐め、小さな窪みを舌先で擽り、硬い幹の方へも唇を辿らせた。その度にマシューは「いいよ」と褒めてくれ、嬉しそうに笑ってくれる。
いったいなにをしているのだろう――自分の行為の意味はまったくわかっていなかったが、マシューが嬉しそうなのでそれで満足だった。彼になにもしてあげられないことに対して不安と申し訳なさが同居していた心が、優しく満足そうな声音に慰められていく。
「口を開けて、銜えて。……出来る?」
猫の子にするように喉許を優しく擽りながら、マシューはうっとりとした口調で尋ねる。リュネットは小さく頷き、素直にその言葉に従った。
「――…んぅ……っ」
ちょっと顎が痛い。想像していなかった事態に思わず顔を顰めて声を漏らすと、マシューが優しく頭を撫でてくれる。
「無理はしなくていいよ。入るところまででいい」
それでも一生懸命飲み込もうとするが、半分まで行かないところでもう限界だった。
「そのまま舌を這わせながら、唇を上下させて。ゆっくりでいいよ」
指示の通りに太い幹に舌を這わせながら上下させる。
「リュヌ、歯は立てないで。さすがにちょっと痛いよ」
苦しさから無意識に顎へ力を入れてしまっていたらしく、マシューが苦笑した。噛みつくまでには至らなかったが、歯が当たっていたらしい。
歯を当てないように気をつけながら再開し、マシューに指示されるままに先端を吸ったりなどを繰り返すが、顎は痛いし息も苦しくて堪らず、思わず「ぷはっ」と息を吐いて顔を上げてしまう。
「よく頑張ったね、ありがとう」
苦しさに咳込みながら涙を滲ませていると、頬にマシューが優しいキスをくれた。絶対上手く出来ていなかった筈なのに、褒めてくれる言葉とそのキスが嬉しくて、リュネットは微笑んで頷いた。
満たされた心地になり、そっと胸許に頬を擦り寄せていると、不意に足許にひんやりしたものを感じる。なんだろう、と目を遣ると、マシューが寝間着の裾を捲り上げるところだった。
「リュヌも気持ちよかった?」
囁き尋ねながら、脚の間へと指先を滑らせる。そこは既に溢れ返るほどに潤んでいて、少し触れただけで恥ずかしい水音が零れ落ちた。
同時に不安になる。困惑して、ゆるゆると脚の間を擦る手を掴み、首を振る。
妻の訴えたいことをすぐに汲み取り、マシューは微笑んだ。
「大丈夫だよ。無茶なことはしないし……」
震える細い腰を抱き寄せ、ぬめる蜜口を指先で圧し拡げる。
「ゆっくり、愛してあげるから」
甘く囁きながら、マシューはリュネットを自身の上へとゆっくりと落とした。桜桃のような唇からか細い悲鳴が零れ、少し肉づきのよくなった細い肢体は恥ずかしげに撓った。
結局明け方まで抱いてしまった。
途中でリュネットが、細く「もう許して……」と哀願してきたが、聞けなかった。膨らんできた腹の負担にならないように、上に乗らせていたのがよくなかった。いつもと違う体位に戸惑って恥じらう姿が可愛らしすぎて、こういうことが久し振りだったこともあり、どうにも自制が利かなかったのだ。
「嫌がることは、極力しないようにしてきたんだけどなぁ」
気を失うように眠りに落ちてしまった妻の前髪を払い除けながら、自分の行為にバツの悪さを感じ、苦笑して零す。
リュネットをしっかりと抱くのは、もう半年近くご無沙汰だったような気がする。別居先から戻って来た頃にそういう機会を得てはいたが、思わぬ懐妊を告げられ、結局最後までは出来なかった。
柔らかい喉許に指先を滑らせ、そのまま鎖骨へと辿り、丸い乳房へと至る。ただでさえ大きく重たげだった乳房は、妊娠した為に更に大きくなったようだ。この大きな胸を嫌っているリュネットはそのことに気づいているのだろうか。
淡く色づく先端を軽く弄んだあと、下乳を撫で、その下にある腹部へと掌を触れさせた。
肋骨が薄っすらと浮くほどに痩せ細っていた腹部は、もうだいぶ膨らんでいる。肉づきの薄く細いリュネットの身体の中で、そこだけが異様にも思えた。
随分大きくなっているようにも見えるのだが、これが更に倍ほどにも膨れ上がるかと思うとゾッとする。この細身で小柄な、稚い少女のような妻は、その重さに堪えられるのだろうか。
丸い膨らみをゆっくりと撫でていると、ぽこん、と弾かれるような感触を受けた。
同じところをもう一度撫でると、ぽこん、とまた弾かれる。マシューは思わず笑った。
「なんだ? ママに酷いことをしたって、抗議でもしているのか?」
生意気な奴だ、と肩を揺らす。
そんなことをするとは、もしかするとこの子は男かも知れないな、とマシューが笑っていると、隣の部屋からリュネットを呼ばう声がした。ホーンが朝の仕度の為に来たらしい。
もうそんな時間か、と思いつつ、開けっ放しになっている続き扉に向かって「リュネットはこっちだ」と声をかけた。
ホーンは怪訝に思いながらも、仕度部屋を通って当主の寝室へと顔を出す。そこに在った光景に、ひっ、と思わず息を飲んで赤面した。
ベッドの上の寝具は散々に乱れ、その上に横たわるのは当主夫妻で、昨夜この部屋でいったいなにがあったのかは、彼等が衣服を身に着けていないことが如実に物語っている。上掛けの隙間から覗く脚が絡み合っているのも生々しい。
長く侍女をやっているのだから、こういった場面にも免疫はあるだろうに、ホーンははっきりわかるぐらいにかなり狼狽えている。そんな様子をおかしく思いながら、マシューは未だにぐっすり眠る妻に口づけた。
「あなたに言っておくことがあったんだ」
「は、はい。なんでございましょうか、旦那様」
必死に冷静さを取り戻そうとしながらも、真っ赤な顔で尋ねるホーンに、マシューはにっこりと自分の容姿を最大限に生かす笑みを向けた。
「僕の趣味は妻の身仕度を整えてやることでね。こちらの部屋で眠っているときは、僕が着替えも髪結いもするから、あなたはなにもしなくていいよ」
えっ、とホーンは小さく不満そうな声を漏らし、困惑気にマシューを見つめた。
「別にあなたの仕事を奪うつもりでもないし、仕事ぶりに不満を持っているつもりもない。よくやってくれていると思っているし、妻もとても感謝もしている」
「それはよろしゅうございました。私も嬉しゅうございますわ」
「でもね、リュネットに飲ませている生卵と酢だけど、やめてもらってもいいかな?」
これはまったく予想だにしていなかった要求だったらしく、彼女は苛立たしげな表情を隠しもせずに浮かべてしまい、そのことにハッとして慌てて表情を取り繕った。その一瞬の態度だけで、彼女の気の強さが見て取れる。
「健康の為に生卵を飲ませているのだろうけれど、人体に害を及ぼす危険性のある菌が潜んでいることがあるのを知っているかい? もし万が一、その菌が妻の口にしたものに入っていて、妻の身に害があるようなら――僕はあなたに対して、どのような処罰を与えればいいだろうか?」
その言葉に「そんなっ」と抗議の声を上げかけるが、マシューの声音に背筋の冷えるような恐ろしいものが含まれていることに気づき、彼女は静かに押し黙る。その様子にマシューは満足気に微笑んだ。
「酢は美白の為だったかな? そういう迷信があるのは知っているけれど、この肌を見て、それが必要だと思う?」
そう言って上掛けを捲くり上げ、眠るリュネットの身体をホーンの眼前へと晒す。早朝の淡い光の中でもはっきりわかるほどに色は白く、滑らかで美しかった。
その背に散る薄紅い痕跡に、ホーンは頬を染めて言葉を失った。
「臨機応変という言葉があるよね?」
マシューは乱れた寝具に巻き込まれていたガウンを引っ張り出し、羽織りながらベッドを降りる。
「世の中の常識や、決められた事柄がある。けれど、それを形通りに熟す必要はないと思うし、するべきではない場合もあると思うんだ」
「はい」
言われていることには頷ける。慣習や決められたことを従順に守ることは美徳だが、ときにはそれが枷になったり、妨害になる場合もある。そういうときは上手く見方を変えなければならないものだ。
「僕はあなたにそれを求める」
マシューの言葉にホーンは僅かに項垂れる。
「その上で僕の妻の力になってやってくれ。優秀なあなたなら、きっと的確な判断と行動をしてくれるだろう」
「はい……」
力なく頷く様子に、マシューは微笑んだ。
「よかった。わかってくれて嬉しいよ」
悪い人ではない、とミーガンは言っていた。モンゴメリとハワードの厳しい目で見て採用したのだから、人柄も悪くない筈なのだ。ただ少し、自分の才覚を過信しているところがあるな、とマシューはホーンへの評価をつけた。
これでもう少しリュネットが畏縮しない態度を心掛けてくれるようになれば完璧なのだが、彼女がそのことに気づくのが先か、リュネットが女主人らしく振る舞えるようになるのが先か、予想はつかない。上手く転がってくれればいいのだが、と考えていると、リュネットが小さく呻いて身動いだ。
「起きたのかい? 僕の可愛いお月様」
マシューはさっとベッドに戻り、ホーンには出て行くように手振りで示す。仕事が出来る侍女は素早く一礼し、物音を立てないように出て行った。
「――…マシュー?」
眠たげな声で名前を呼ばれる。情事の最中以外で妻が名前を呼んでくれるのは稀だ。
「まだ眠いだろう。今日はこのままベッドの中で過ごそうか?」
囁いて口づけると、くふっ、とリュネットは笑った。
「またそんなことを……」
「僕は本気だよ。このまま一日中ずっと愛し合おうよ」
「ふふふ」
「なんだい? 意味深な笑い方だな……肯定と受け取るよ?」
「お好きにどうぞ」
「寝惚けているのかな、お月様?」
「さあ……?」
目を閉じたまま笑っている唇にキスをすると、珍しくリュネットから舌先を差し出し、マシューのそれへと絡めてきた。積極的な様子に、おや、と思いながらも、マシューは着たばかりのガウンを脱ぎ去った。
「まあ、あまり無理は出来ないと思うけど。叱られたし」
キスをして甘くくねる身体の線を確かめながら、マシューはぽつりと零す。
「叱られた? 誰にですか?」
意外な言葉に瞼を持ち上げ、不思議そうに夫の顔を見上げる。マシューは苦笑し、丸みを帯びた腹部に口づける。
「天使――かな」
時系列的には、番外編7の2ヵ月後ぐらいの時期になるかと思います。
リュネットがちょっとだけお口でしてたりするので、ご奉仕系が苦手な方はブラバ推奨です。
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「ミーガン」
掃除用具を片付けようと廊下を歩いていると、何処かから声をかけられた。くるりとあたりを見回しても誰も見当たらず、気の所為だったか、と首を捻って歩き出そうとすると、陰から手招きする腕が見えた。
「――…ひぇっ!?」
上司であるハワードだろうか、と怪訝に思いながら近づいて行くと、そこにいたのは思いもよらなかった人物で、ミーガンは思わず悲鳴を上げて仰け反る。
マシューは慌てて口を塞ぎ、真剣な表情で「シーッ」と指先を立てた。
ミーガンは何度もこくこくと頷き返しながら、改めてあたりを見回してみる。
「……なにをなさっていらっしゃるんですか、旦那様?」
隠れているらしいので声を落としながら尋ねると、マシューもあたりを見回し、ちょっと、ともう少し奥の方へ手招きする。なにか話でもあるのだろうか。仕方がないのであとをついて行く。
「きみさ、リュネットと仲がいいだろう?」
人気がないのを確認しながら、声を落としたマシューがそんなことを言う。その言葉に、ミーガンは口許がニヤニヤっと緩みかけるのを無理矢理戻しながら、平静を装った表情で「まあ、そうですね」と満更でもなく答えた。口許のニヤニヤは治まらない。
そんなミーガンの表情になんとも言えない目を向けながら、咳払いをひとつ、マシューは少し真面目な表情になった。
「リュネットがなにか悩んでいるみたいなんだ」
「奥様がですか?」
思わず尋ね返すと、うん、とマシューは消沈した表情で頷く。
「妊娠中で気が立っているのはわかっているんだ。情緒不安定なのも、そういう時期だから理解しているんだけど……なんだか気にかかってね」
マシューの妻であるリュネットが別居先から戻って二ヶ月が経とうとしている。そんな彼女は今、懐妊してから六ヵ月目に入ろうかというところで、悪阻もようやく落ち着いて安定してきたところだ。
はて、とミーガンは首を傾げる。ミーガンが見る限り、リュネットが深刻な悩み事を抱えているような様子は見受けられない。
確かに、最近は体調が思わしくない日が続いた所為か、ぼんやりしている様子でいることは多いようだが、新しくやって来た侍女のエリザベス・ホーンがよく気をつけてくれているようで、まだ若い女主人が憂いを抱えるような不都合は見かけられないのだが。
(あの人、苦手なんだよなぁ……)
ホーンのことを思い浮かべ、ミーガンは内心で顔を顰めた。
常にきびきびとしていて、とても仕事の出来る印象の女性だ。リュネットのことを主人として大事にしてくれているのはわかるし、物慣れない彼女にとって、あれくらい経験を積んでいてしっかりした人が侍女としては望ましいだろうし、その点で採用されたのだろうとは思う。けれど、言動が結構きつい。過去の経験から当たりが強い人に対しては畏縮する傾向にあるリュネットにとって、あまり相性のよくない人物ではないか、とミーガンは感じていた。
けれど、リュネットは特になにも言っていない。ホーンがあれこれと進言してくれるのは自分の為を思ってのことだし、きちんと言ってくれるのは有難いと思っている、と言っていたくらいだ。
使用人達の態度以外のことで不満を抱くとすれば、夫であるマシューに関することくらいだと思うのだが――とミーガンは主人の顔を見上げた。その視線に気づいたマシューは、心外だ、と言わんばかりの表情で肩を竦める。
「きみの言いたいことはわかるよ。リュネットは僕に対して昔から不満だらけだし、それは十年前に出会ったときからのことだ。けれど、今回のことは、ちょっと違うと思うんだよね」
なにかやらかした心当たりはない、と言い切るマシューの様子に、その通りだろうと思って頷く。リュネットとの結婚が決まって以降の彼は、嘗てのように火遊びをするわけでもなく、本当に一途にリュネットのことを想っていると思う。時折その想いが行き過ぎて、リュネット本人を困らせているのはご愛嬌と言ったところだろうか。
では、なにを思い悩んでいるのだろうか。
それを探ってくれ、とマシューは言った。
「リュネットの性格上、僕がなにを言っても答えないだろうし、この屋敷の中で一番仲のいいきみになら、素直に相談するんじゃないかなぁと期待しているんだけど……どうかな?」
そういう期待を抱かれるのは悪い気がしない。ミーガンはニヤニヤ笑いながら「いいですよぉ」と少し勿体ぶった口調で主人からの申し出に了承した。
成功報酬で特別手当てを支給してくれると言われたが、それはやんわりと辞退し、代わりにオズボーンの焼き菓子を一週間分買ってくれるように要求した。安上がりな子だなぁ、とマシューは笑っていたが、友人の為に一肌脱ぐだけなのだから見返りなど本来なら不要なのだ。
丁度いいことに、もうすぐ昼食の時間だった。それが終われば、リュネットは大抵自分の部屋で刺繍などをしたり、転寝をすることが多い。そこを訪ねて話を聞いてみる、と答えると、マシューはホッとしたように頷いた。
食事中に午後の課業についてこっそりとアニーに相談すると、彼女は快く頷いてくれた。
「言われてみればだけど、確かに元気がない様子よね、奥様」
「まあね。妊娠中で体調がよくないからだと思ってたけど、旦那様が気にするくらいだから、ちょっと違うんだろうね」
煮豆をつつきながらアニーの言葉に同意する。彼女もリュネットの変調には気づいていたらしい。
こういう場合、本来なら一番の親友であるメグに会う方がいいような気がするのだが、メグはまだ産後三ヶ月に満たないところで本調子でないかも知れないし、かと言って、ようやく安定期に入ったところのリュネットに長旅をさせるのも心配だ。そうなると、やはり屋敷内で一番仲のいいミーガンが相談役には適任だと思われる。
「レベッカもエルザもいるし、あんた一人いないくらいどうってことないわよ。奥様の体調の方が心配だしね」
「ありがとう、アニー」
「オズボーンの焼き菓子三日分でいいわよぉ」
ほほほっ、と笑い声を響かせながら見返りを要求してくる。なんて奴だ、と思いつつ、感謝の気持ちはしっかりとあるので、マシューからの報酬を半分渡すことで手を打った。
食事を終えて上に行くと、丁度リュネットが自分の部屋に戻るところだった。
「エレノアさーん」
昔からの呼び方で声をかけると、リュネットはすぐに振り返り、柔らかな笑みを向ける。
「ミーガン。どうしたの?」
そのふんわりと優しい声音がミーガンは好きだ。思わず笑顔になる。
「たまにはちょっとお喋りしないかなーと思って」
取り敢えず適当な理由を告げると、リュネットはちょっとだけ小首を傾げる。
「忙しくないの?」
「あ、うん。ちょっと暇があるというか。ほんの少しだけ手が空いたの」
「そう。じゃあ、私の部屋に行きましょう?」
久しぶりにお喋り出来るの嬉しいわ、と微笑むリュネットの横顔を見て、やっぱり元気がなさそうだ、と改めて思った。体調が悪くて顔色が悪いというわけではなく、なんとなく陰を感じるというか、そういう類のものだ。
部屋に行くと、中ではホーンがクローゼットの整理をしているところだった。彼女はリュネットに一礼しつつも、一緒にいたミーガンに怪訝そうでいて邪険にしているような目を向ける。
「あの、ホーンさん。ちょっと外してもらえる?」
リュネットは控えめに侍女へ退室を促した。
「はい、奥様」
ホーンは頷き、手直しする為に避けておいたドレスの何着かを抱えて出て行った。その後ろ姿を見送りながら、リュネットが小さく嘆息する。
やっぱり、とミーガンは思った。リュネットは侍女のことが少し苦手なのだ。仕事ぶりに感謝していると言っても、性格的な相性はあるのだから仕方がない。
「あのね、遠回しにしてもよくないし、黙っているのも嫌だからはっきり言うけど。エレノアさん、なにか悩んでない?」
勧められた椅子に腰かけ、ミーガンは単刀直入に話を切り出した。
その言葉にリュネットは双眸を瞠り、困惑気に瞬く。その様子が答えだった。
「なにか困っているなら遠慮なく相談してよ。私じゃ力になれない?」
「ミーガン……」
「それだったら、モンゴメリさんでも、ハワードさんでも、サラさんでも、誰にでも相談してよ。私達はみんなエレノアさんの味方なんだよ?」
レベッカ以外は、という言葉はそっと飲み込みながら、ミーガンは口早に捲し立てた。
ミーガンとアニーでもほんのりと違和感を抱いていたリュネットの変調は、きっと他の人達も薄々感づいているに違いない。ただ、ミーガンと同じように、妊娠に因る体調の変化の所為だろう、と思って口を出さないでいる可能性が高い。マシューに言われるまで、疑いもせずにそうだと思っていた。
ひと息に言われたリュネットは少し困惑するような表情を浮かべたが、静かに息をつき、ことりと首を俯けた。
「なにもないのよ。本当に……ただ、私が少し我儘なだけ」
その言い方は意外だった。リュネットが我儘を口にしたことは見たことがない。強いて言えば、マシューと意見が食い違って喧嘩になったときなどに我を通し、謝罪されるまで怒り続けている様子を我儘と称するならば、そうなのだろうが。
どういうことだろう、と首を傾げると、リュネットは俯いたまま話を始めた。
「私ね……卵は好きなの。ふわふわに焼いたのとか、お菓子に使っているのとか」
リュネットの朝食にはいつも卵を焼いたものが供されている。日によってスクランブルエッグだったり、目玉焼きだったり、オムレットだったりするようだが。
どういう理由でこれを話し始めたのかわからないが、うん、とミーガンは頷いた。
「でもね、生卵は好きじゃないの」
溜め息交じりに物凄く悲しげに零される。ミーガンはますます首を傾げた。
「――…ごめん、エレノアさん。生卵がどうしたの?」
話の経緯を推理してみようとも考えたが、時間の無駄なのでやめ、素直に事情を詳しく訊くことにした。
リュネットは恥ずかしそうに俯きながらも、悲しげな声で事情を口にする。
曰く、生卵は健康の為なのだという。
今からひと月と少し前に侍女としてやって来たホーンは、起床したリュネットに生卵が入ったグラスを差し出した。それを毎朝必ず飲め、ということだった。
初日はあろうことか、グラスに半分ほどのスコッチも入っていたらしい。リュネットが酒に極端に弱く、マシューからも止められているし、お腹に赤ちゃんもいる、と必死に訴えて下げてもらったのだが、それでも卵は飲め、と押しつけられたのだ。
侍女は淡々と、これは奥様の健康の為であり、ひいてはお腹の子の為にもなる、とグラスを押しつけられ、こういったことに関する知識のないリュネットは言われるがままに卵を飲まされた。
それから毎朝、健康の為だと生卵を飲まされ続けている。それが苦痛で堪らなかった。
「ホーンさんが私の身体の為にやってくれていることはわかっているし、有難いと思っているの。でも、やっぱり私……ちょっとつらくて」
申し訳なさそうに零すリュネットの様子に、ミーガンはあんぐりと口を開ける。
「それは拒否してもいいと思うよ。つらいのに無理する必要ないよ」
「でも……」
「でもじゃないよ。いくら健康の為でも、つらいのを我慢している方が健康に悪いよ。逆に身体を壊しちゃいそう」
やはりリュネットとホーンは相性がよくなかったのだ。自分の方が立場が上なのだから、気にせず毅然と抗えばいいものを、押しが強い相手には相変わらず畏縮している。
はあ、とミーガンは溜め息をついた。弱々しいリュネットに呆れたわけではなく、そういったことをわかっていながら見落としていた自分達の鈍感さに呆れたのだ。
「他にはないの? ホーンさんにされて嫌なこと」
こういう言い方はちょっと失礼かな、と思いつつも、今はリュネットの憂いを払う方が先決だ。その原因がホーンであるのなら、彼女を悪感情で捉えてしまっても仕方がない。
リュネットは生卵の告白から少し勇気を得たのか、もじもじとしながらも「お酢……」と呟いた。
「お酢も飲まされているの?」
ミーガンは今度こそ呆れて声を上げた。
毎晩、入浴後にワインビネガーを飲まされているのだという。これは肌の色を白く美しくする為のものだとか。
リュネットの肌をこれ以上白くしてどうするつもりだ、とミーガンは呆れすぎて眩暈を感じた。羨ましいくらいに白く透き通るような肌をしているというのに。
ホーンは何故こんなことをしなければならないのか、きちんと理由を説明してくれてはいるので、リュネットも一応は理解して言葉に従っているのだが、生卵もお酢も飲み干すのはやはりつらい。貴婦人には当然の習慣だ、と言われ、そういったことに疎いリュネットは反論することも出来なかったのだ。
大きく溜め息を零しながら、リュネットはそっとお腹を撫でた。
その様子にミーガンは表情を曇らせる。
「無理も我慢も、赤ちゃんによくないよ」
その言葉に、そうね、とリュネットは悲しげに頷いた。
この少し弱いところのある若い女主人は、年上の人に強く言われると逆らえない性分であるのは、彼女の夫であるマシューとのやり取りからもわかっている。よく意見を対立させて喧嘩をしている二人だが、彼が本気で強く言うと、逆らえずに黙ってしまうことが多々あった。そんなときはすぐにマシューが謝罪し、改めて話し合うようにしているのだが、最近来たばかりのホーンは知らないのだろう。
自分から言って聞いてくれるだろうか、とミーガンは考える。無理だろう、と即座に結論は出た。
ホーンは悪い人ではないのだが、侍女という立場にプライドを持っていて、年若い一介のハウスメイドであるミーガンのことを下に見ているのは明らかだ。リュネットと親しくしているのも気に入らないらしく、一度「奥様を変な名前で馴れ馴れしく呼ぶのはおよしなさい」ときつく言われたことがある。
これはやはり、モンゴメリに訴えておいた方がいいだろう。侍女という役職が女主人直属の使用人で、他の使用人達と同じ命令系統に属さないとはいっても、女性使用人のトップである家政婦の言うことなら聞いてくれる筈だ。
「他にはなにも困ったことはない? もう大丈夫?」
俯いている顔を覗き込みながら尋ねる。リュネットからなにか聞き出すのなら、畳みかけるように一気にした方がいいということを、ミーガンは一緒に過ごしたこの二年ばかりの間で学んでいる。
リュネットは少し考えたあと、ちょっとだけ頬を赤くして眉を寄せた。
「他にはなにもないわ。大丈夫」
(……ああ、旦那様絡みでなにかあるんだ)
リュネットがこういう表情をするとき、大抵がマシューに絡んだなにかだ。それくらいはなんとなくわかる。
これはこれ以上突っ込むのはよくない話題だ、とすぐに判断を下し、それ以上の追及は控えることにした。
「――…まあ!」
話が落ち着いたところで、ドアの方からホーンの声がした。戻って来たらしい。
あっ、とミーガンは声を漏らし、慌てて立ち上がる。いくらリュネットから勧められたとはいえ、主人と同じように腰掛ける使用人などあり得ない。
「ホーンさん、いいのよ。お喋りするのに座っている方がいいじゃない」
リュネットも自分の失敗に気づき、すぐにミーガンの態度を擁護した。それでも、ホーンの苛立ち顔は変わらない。
「奥様。それでもけじめというものがございます。ミーガンと親しいというお話はお伺いしましたが、分別はきちんと持つことが正しい行いです」
「ごめんなさい。でも、ミーガンを叱らないでやって。私が言ったことだから」
謝るリュネットの様子に、何故彼女はこんなにもホーンに対して下手なのだろう、と不思議に思う。主人らしく振る舞うことに不慣れなのは知っているが、ここまで下になることもなかろうに、と気になって仕方がなかった。
これ以上リュネットを責めさせることも、彼女に謝罪させることも不本意だったので、ミーガンはすぐに退室の挨拶をしてお暇する。
「ありがとうね、ミーガン。話聞いてもらえて、ちょっとすっきりしたわ」
ドアを閉めようとしたところにそんな言葉を投げかけられ、ミーガンは嬉しくて笑顔で頷いた。しかし、その視界に顰めっ面のホーンの姿が入り込み、嫌な気分にもなった。
静かにドアを閉め、ミーガンはその足で隣のマシューの部屋に向かう。そのあとはモンゴメリのところへ向かおうと予定を立てながらノックした。
「失礼致します、旦那様。ミーガンです」
報告と対応は迅速に、だ。
寝仕度をしていると、珍しくマシューが仕度部屋のドアから入って来た。
「ちょっといいかな?」
改まった言い方をするので首を傾げるが、マシューの表情は真剣だ。
なにかよくない話だろうか、と不安に思いつつ、髪を梳いてくれていたホーンに下がるように告げ、立ち上がった。
なんの気なしに近寄って行くと、夫は急に腰を抱き、乱暴にキスしてくる。
子供が出来たことがわかってから、こういうことをされたことはない。驚いて僅かに身動ぐが、深く舌を絡められ、リュネットは思わず喘いだ。
しばらくして解放され、いきなりなにをするのだろう、と怪訝に思って微かに睨むと、マシューはそんな妻の表情をジッと見下ろした。
「今夜はまだ飲んでいなかったみたいだね」
安心したような口調で零される言葉に「はい?」と首を傾げると、マシューは溜め息を零した。
「お酢」
その指摘に、あっ、と小さく声を漏らす。ミーガンが喋ったのだろう。
リュネットは僅かに表情を曇らせ、黙って俯いた。
「なんで言わなかった?」
責めるようなきつい口調で尋ねられるが、背中や肩を撫でてくれる手は優しい。怒っているわけではないのだろうとすぐに気づくが、リュネットは答えにくくて黙り込んでしまう。
妻がそういう態度を取ると予想していたマシューは小さく溜め息を零し、額や髪に優しく口づける。
しばらく宥めるように背中を撫で、優しくキスをしていたが、おいで、と告げて自分の部屋へと促す。リュネットの寝室にいてはまたホーンが戻って来るかも知れないと思ったのだろう。リュネットは黙って従った。
マシューの寝室に入るのは久しぶりだった。最近はいつもリュネットのベッドで一緒に寝ている。
「きみは結構気が強い方だと思っていたのだけれど、どうしたの? ホーンさんには言い返せないなにかがあるのかな?」
小さな子供に事情を尋ねるように、優しく促す口調で尋ねてくる。夫のその優しい気遣いが嬉しかったのと同時に、昼間ミーガンが訪ねて来た理由になんとなく察しがついた。
「ごめんなさい。なんでもないの」
「なんでもなくないだろう? 僕にまで嘘をつかなくていいし、隠し事をしなくていい」
どうしたの、ともう一度促される。
リュネットは困惑気に眉を下げるが、小さく溜め息を零し、言いにくそうに口を開いた。
「ホーンさんが……」
「うん」
「アンジェラのフォード先生に似ているの」
その答えにマシューは僅かに双眸を瞠った。
アンジェラ・マクレーン女学院――それはリュネットとメグが思春期を過ごした寄宿学校であり、楽しかった思い出と同時に、つらい思い出もたくさんあった場所の名前だった。
礼儀作法を担当していたフォードという女性教師は特に厳しく、仕種ひとつでも事細かに指導され、ときに鞭打たれることもあった。それが正当な理由での体罰なら甘んじて受け入れられるが、彼女の機嫌が悪いときに気に入らない生徒を気分で打つようなこともあったので、リュネットが特に苦手に思っていた人物だった。
その教師にあの侍女は似ている。顔立ちや、声も。
違う人だ、と自分に言い聞かせて対応しようと思っているのだが、声を聞くと思い出が蘇ってしまい、なにも出来なくなってしまう。言われたことを大人しく受け入れ、反論をすることも出来ない有様だ。
「ホーンさんはなにも悪くないの。ただ、私が勝手に怯えてしまっているだけ……」
彼女は十分すぎる程きちんと仕事をしてくれている。その口調の端々が強い為か、リュネットが勝手に嘗ての教師のことを重ねて見てしまい、無意識に畏縮してしまっているだけなのだ。侍女には一切問題はない。
「リュヌ……」
仕舞い込んでいた本音を吐露して息をつく妻を、マシューはそっと抱き寄せる。
リュネットが言う通り、ホーンに悪いところは一切ない。生卵のこともお酢のことも、主人として毅然と拒絶すればよかっただけのことなのに、それが出来なかったリュネットがよくなかったと言えばその通りだ。けれど、主人の様子に気づくことの出来なかった侍女にも、一応の問題はある。妊娠中という不安定な時期でもあるのだから、もっと気遣うべきではないか。
「僕から言うよ」
その言葉にリュネットは驚いて顔を上げる。慌てて「駄目よ」と首を振った。
「過保護だろうと、僕には愛する妻を守る義務があるし、侍女なんていらないと言っていたきみに侍女をつけたのは僕の意向だ。彼女の採用を決めたのも僕だしね。その所為できみが苦しんでいるのだから、原因を作った僕が動かなければならないのは当然じゃないか」
「でも……」
「いいんだよ、リュヌ。きみがこういうことが苦手なのはわかっている。女主人らしい振る舞いは、これからゆっくりと時間をかけて覚えていけばいいんだ。でも今回のことは急を要する。今は大事な時期なんだから、僕に任せてくれないか?」
夫の言葉にリュネットは戸惑いを向けるが、これを自分で解決出来ないのも事実。
そのことが情けなく感じながらも、今回は頷くしかなかった。
「でも、あの……悪いのは、はっきり口に出来なかった私なのです。どうか、ホーンさんを解雇とか、そういうことはしないでください」
自分の弱さが招いた事態だというのに、そんなことになったら申し訳なくて仕方がない。
マシューは妻の気持ちを汲み、わかっているよ、と微笑んで頷いた。その様子にリュネットはホッとする。
「他にはなにもない?」
安堵して微かな笑みを見せる妻に、マシューは窺うように尋ねた。
昼間ミーガンが尋ねたのと同じ口調だ。そのことが少しおかしくて、同時にそのときのことを思い出し、僅かに頬を染めた。
妻の変化に、マシューは首を傾げる。
「なにかあるの?」
重ねて尋ねられるが、この悩みはとても言いにくい。
どう説明しようか、と悩んで表情を曇らせると、マシューも表情を曇らせた。心配してくれているのがわかり、申し訳なくなる。
「あの……、なんというか……」
リュネットは一生懸命に言葉を選ぶ。その様子にマシューは真剣な眼差しを向け、続きを待つ。
「子供が出来てから、その……そういうことを、していないので……」
「そういうこと?」
濁した物言いに眉を寄せ、妻のたどたどしい言葉の真意を探ろうとする。
追及されることにリュネットは更に頬を染めた。
「だから、その……触ったり、とか……そういう……」
恥ずかしくて上手く言えない。わかってくれ、と祈りながら更に頬を赤くして俯くと、マシューは思い至ったらしく、ああ、と小さく頷いた。
「だってきみは本調子じゃないし、元々そんなに好きじゃないだろう? 無理強いするつもりはないよ」
マシューが求めれば応じてくれるが、リュネットはそういうことが好きではないことはわかっている。何度肌を重ねても慣れないし、いつも幼い子供のように拙く一生懸命だ。そんな様子を可愛いとは思って何度も求めてしまうが、体調のよくないときに求めるほどには、愚かで自分本位ではない。それくらいの理性は持っている。
夫の直截的な言葉にリュネットは耳の方まで赤くなる。
「でも……あなたは、その……し、したいのでは、ないかと、思って……」
「抱きたいよ」
即答だった。リュネットは言葉を失って夫を見上げる。
「当たり前のことを言わないでくれよ、リュヌ。毎晩だって、一日中だって、きみのことは抱いていたい」
リュネットと夜通し睦み合って目覚める朝、このままベッドの中で一日過ごせないだろうか、と何度思ったことか数えきれない。もちろんそんなことは叶わないとわかっているので、バーネットが起こしに来るノックの音を聞いては心から残念に思い、また夜まで我慢しよう、と自分に言い聞かせた朝はいったい何度迎えたことだろうか。
はあ、とマシューは溜め息をつく。
「僕はね、リュヌ。きみを初めて無理矢理抱いて以降、ベッドの上できみの嫌がることはしないようにしているんだ。……いや、一度してしまっているけれど」
以前、深夜に使用人達も巻き込んで大喧嘩したときのことを思い出したのか、バツが悪そうに付け足し、語尾を濁す。
「とにかく、きみのことは大切にしたいから、きみの気持ちと体調を優先したいと思っている。だから、子供が生まれるまでは禁欲しているんだ。あんまり煽らないでくれ」
不貞腐れた少年のような表情になり、我慢出来なくなる、と小さく零す。
リュネットはそんな夫の気遣いが嬉しくて堪らなくなるが、同時に、ある話を思い出し、不安になって瞳を潤ませた。
「どうしたの、リュヌ? なにもしないから泣かないでよ」
急に泣き出した妻の様子に慌て、マシューはおろおろとその涙を袖口で拭った。最近のリュネットは情緒不安定気味だが、今日も感情の起伏はなかなかに激しいようだ。
「……聞いたのです」
「うん?」
「男の人は、我慢し過ぎると、お腹が破裂して……死んでしまうって」
「――…は?」
思わず間抜けな声が零れたが、眉根がぎゅっと寄る。
「我慢し過ぎないように、娼館があるんだって、聞きました」
夫の様子に気づかず、リュネットは涙ながらに腹に溜め込んでいた思いを語った。
自分の体調の所為でマシューに我慢を強いているのはわかっていた。けれど、その所為でマシューが死んでしまうことになるくらいなら、娼館でも何処でも行ってくれていい。それくらい耐えられる。
なにを馬鹿なことを、とマシューはリュネットの告白に頭痛を覚えるが、彼女が酷く真剣なので、本気でその話を信じているのだと気づく。
いったい誰に聞かされたのだ、と尋ねれば、涙ながらに「バーネットさんです」と答えた。
「あいつ……」
剣呑な声が零れる。
マシューの従者であるシンクレア・バーネットは、とても気が利いて頭の回転もよく、忠実で、最良の従者だった。しかし如何せん。付き合いが長く、お互いまだ十代半ばの頃から一緒にいて、友人のような距離感でもあるものだから、時折妙な揶揄いをする。
困った奴だ、と思いつつ、そんなことは嘘だとすぐわかりそうなものなのに、信じ込んでいる妻が可哀想で可愛らしかった。
「僕はきみ以外抱くつもりはないよ」
「でも」
「バーネットの冗談を真に受けなくていい。自分でも処理出来るから、まったく問題はないんだよ」
優しく言い聞かせるが、リュネットは不安そうだった。
「じゃあ、きみがしてくれる?」
マシューの言葉にリュネットは瞬き、長い睫毛の下から涙が零れ落ちた。
そんな妻の頬に口づけながら、ガウンの腰紐を解き、戸惑っている小さな手をそこへ導いた。
「触って」
耳許で囁くと、リュネットは戸惑いの表情を浮かべながら、そっと指先を触れさせる。
「両手で」
わけもわからないまま、リュネットは夫の指示の通りに両手を伸ばし、握るように手を添わせる。熱くて柔らかいその肉塊はとても不思議な感触だった。
「出来ればもう少し強く握って、撫でて。……うん、そう」
言われるがままに恐々と夫の陰茎へ手を滑らせる。
これはいったいどういうことなのだろう、と不思議に思いながらも尋ねられず、指示されたように撫で摩る。しばらくすると感触が変わってきて、驚いて思わず手を離すが、それをマシューに押さえられて戻される。
「あの……?」
「まだ駄目。続けて」
促す口調は優しいのに、有無を言わせない強制力を感じる。
リュネットは指示されるままに撫でるのを続けるが、手の中でそれがどんどんと変化していくのを感じ取り、恐ろしくなってくる。
人間の身体がこんな変化をするなんて、いったいどうなっているのだろう――怯えながら撫で続けていると、耳許でマシューが吐息を漏らした。
「いいよ、リュヌ……気持ちいい」
その囁き声にリュネットはますます困惑した。こんなことが気持がいいだなんて、いったいどういうことだろうか。
けれど、マシューに抱かれるとき、彼の手や唇が身体の上を辿ると、リュネットはドロドロに溶かされるような感覚に陥る。それと同じようなものだろうか、と考え至ると、マシューの吐息にも納得出来るような気がしてきた。
気がつくと、手の中にべたつくような感触を感じるようになり、にちゃにちゃと粘った水音が聞こえるようになってくる。その音にリュネットは知らずうちに息を飲んでいた。
(これが、いつも、私の中に……)
マシューに抱かれた回数など何度になるかわからないくらいだというのに、リュネットは初めてしっかりとそれを見た。これがリュネットをときに苦しめ、痛みを与え、恐ろしいくらいの快楽に引きずり込み、気を失うまで昂らせるものなのだと理解する。
そのことに気づくと、身体の奥がじわりと熱くなる。
心臓の鼓動が早く鳴り始め、リュネットは喘ぐように吐息を漏らした。
「どうしたの、リュヌ?」
その様子に気づいたマシューが揶揄うような口調で尋ねる。耳許で零されたその声に、リュネットは身震いし、小さく声を漏らした。
(どうしよう……)
リュネットは知らずうちに浅く喘ぎながら、自分の中がとろりと潤んでくるのを感じていた。
(欲しい……)
こんな気持ちになったのは初めてで、そう感じた自分に戸惑った。けれど、一度そう思ってしまうと止まらなかった。
はしたないのはわかっている。けれど、感じてしまったその淫らな気持ちを偽ることも隠すことも出来なくて、リュネットはゴクリと唾を飲み下す。
そんな妻の様子に気づいたマシューは少し意外に思いながらも、未だに性的に潔癖に近い彼女の変化に、思わず淡く微笑んだ。
「リュヌ……僕はいつも、きみにどうしている?」
戸惑っている妻の耳許で囁く。
「きみは、どうしたい?」
マシューのその声は、禁断の果実を勧める蛇の囁き声のようだった。
リュネットは身体の奥で揺らめき立つ熱に煽られるように、ゆっくりと手の中に視線を落とし、それを凝視した。
愛し合っている最中、彼はリュネットになにをしているだろうか――そう考えたとき、リュネットは迷わずにそこへ口づけていた。
初めは躊躇いがちに唇を触れさせるだけだったが、一度触れてしまえば弾みがついたのか、ちろりと舌を覗かせ、その先端をそっと舐めた。マシューは堪らずに吐息を漏らす。
「リュヌ……その下の、括れているところを舐めて。そのまま手も動かして。……うん、そう。いいよ」
リュネットが戸惑うとすぐにマシューが指示をくれる。その言葉に従っていれば、彼は少し嬉しそうな声で微笑んだ。その様子がリュネットも嬉しかった。
言われるままにつるりとした先端を舐め、小さな窪みを舌先で擽り、硬い幹の方へも唇を辿らせた。その度にマシューは「いいよ」と褒めてくれ、嬉しそうに笑ってくれる。
いったいなにをしているのだろう――自分の行為の意味はまったくわかっていなかったが、マシューが嬉しそうなのでそれで満足だった。彼になにもしてあげられないことに対して不安と申し訳なさが同居していた心が、優しく満足そうな声音に慰められていく。
「口を開けて、銜えて。……出来る?」
猫の子にするように喉許を優しく擽りながら、マシューはうっとりとした口調で尋ねる。リュネットは小さく頷き、素直にその言葉に従った。
「――…んぅ……っ」
ちょっと顎が痛い。想像していなかった事態に思わず顔を顰めて声を漏らすと、マシューが優しく頭を撫でてくれる。
「無理はしなくていいよ。入るところまででいい」
それでも一生懸命飲み込もうとするが、半分まで行かないところでもう限界だった。
「そのまま舌を這わせながら、唇を上下させて。ゆっくりでいいよ」
指示の通りに太い幹に舌を這わせながら上下させる。
「リュヌ、歯は立てないで。さすがにちょっと痛いよ」
苦しさから無意識に顎へ力を入れてしまっていたらしく、マシューが苦笑した。噛みつくまでには至らなかったが、歯が当たっていたらしい。
歯を当てないように気をつけながら再開し、マシューに指示されるままに先端を吸ったりなどを繰り返すが、顎は痛いし息も苦しくて堪らず、思わず「ぷはっ」と息を吐いて顔を上げてしまう。
「よく頑張ったね、ありがとう」
苦しさに咳込みながら涙を滲ませていると、頬にマシューが優しいキスをくれた。絶対上手く出来ていなかった筈なのに、褒めてくれる言葉とそのキスが嬉しくて、リュネットは微笑んで頷いた。
満たされた心地になり、そっと胸許に頬を擦り寄せていると、不意に足許にひんやりしたものを感じる。なんだろう、と目を遣ると、マシューが寝間着の裾を捲り上げるところだった。
「リュヌも気持ちよかった?」
囁き尋ねながら、脚の間へと指先を滑らせる。そこは既に溢れ返るほどに潤んでいて、少し触れただけで恥ずかしい水音が零れ落ちた。
同時に不安になる。困惑して、ゆるゆると脚の間を擦る手を掴み、首を振る。
妻の訴えたいことをすぐに汲み取り、マシューは微笑んだ。
「大丈夫だよ。無茶なことはしないし……」
震える細い腰を抱き寄せ、ぬめる蜜口を指先で圧し拡げる。
「ゆっくり、愛してあげるから」
甘く囁きながら、マシューはリュネットを自身の上へとゆっくりと落とした。桜桃のような唇からか細い悲鳴が零れ、少し肉づきのよくなった細い肢体は恥ずかしげに撓った。
結局明け方まで抱いてしまった。
途中でリュネットが、細く「もう許して……」と哀願してきたが、聞けなかった。膨らんできた腹の負担にならないように、上に乗らせていたのがよくなかった。いつもと違う体位に戸惑って恥じらう姿が可愛らしすぎて、こういうことが久し振りだったこともあり、どうにも自制が利かなかったのだ。
「嫌がることは、極力しないようにしてきたんだけどなぁ」
気を失うように眠りに落ちてしまった妻の前髪を払い除けながら、自分の行為にバツの悪さを感じ、苦笑して零す。
リュネットをしっかりと抱くのは、もう半年近くご無沙汰だったような気がする。別居先から戻って来た頃にそういう機会を得てはいたが、思わぬ懐妊を告げられ、結局最後までは出来なかった。
柔らかい喉許に指先を滑らせ、そのまま鎖骨へと辿り、丸い乳房へと至る。ただでさえ大きく重たげだった乳房は、妊娠した為に更に大きくなったようだ。この大きな胸を嫌っているリュネットはそのことに気づいているのだろうか。
淡く色づく先端を軽く弄んだあと、下乳を撫で、その下にある腹部へと掌を触れさせた。
肋骨が薄っすらと浮くほどに痩せ細っていた腹部は、もうだいぶ膨らんでいる。肉づきの薄く細いリュネットの身体の中で、そこだけが異様にも思えた。
随分大きくなっているようにも見えるのだが、これが更に倍ほどにも膨れ上がるかと思うとゾッとする。この細身で小柄な、稚い少女のような妻は、その重さに堪えられるのだろうか。
丸い膨らみをゆっくりと撫でていると、ぽこん、と弾かれるような感触を受けた。
同じところをもう一度撫でると、ぽこん、とまた弾かれる。マシューは思わず笑った。
「なんだ? ママに酷いことをしたって、抗議でもしているのか?」
生意気な奴だ、と肩を揺らす。
そんなことをするとは、もしかするとこの子は男かも知れないな、とマシューが笑っていると、隣の部屋からリュネットを呼ばう声がした。ホーンが朝の仕度の為に来たらしい。
もうそんな時間か、と思いつつ、開けっ放しになっている続き扉に向かって「リュネットはこっちだ」と声をかけた。
ホーンは怪訝に思いながらも、仕度部屋を通って当主の寝室へと顔を出す。そこに在った光景に、ひっ、と思わず息を飲んで赤面した。
ベッドの上の寝具は散々に乱れ、その上に横たわるのは当主夫妻で、昨夜この部屋でいったいなにがあったのかは、彼等が衣服を身に着けていないことが如実に物語っている。上掛けの隙間から覗く脚が絡み合っているのも生々しい。
長く侍女をやっているのだから、こういった場面にも免疫はあるだろうに、ホーンははっきりわかるぐらいにかなり狼狽えている。そんな様子をおかしく思いながら、マシューは未だにぐっすり眠る妻に口づけた。
「あなたに言っておくことがあったんだ」
「は、はい。なんでございましょうか、旦那様」
必死に冷静さを取り戻そうとしながらも、真っ赤な顔で尋ねるホーンに、マシューはにっこりと自分の容姿を最大限に生かす笑みを向けた。
「僕の趣味は妻の身仕度を整えてやることでね。こちらの部屋で眠っているときは、僕が着替えも髪結いもするから、あなたはなにもしなくていいよ」
えっ、とホーンは小さく不満そうな声を漏らし、困惑気にマシューを見つめた。
「別にあなたの仕事を奪うつもりでもないし、仕事ぶりに不満を持っているつもりもない。よくやってくれていると思っているし、妻もとても感謝もしている」
「それはよろしゅうございました。私も嬉しゅうございますわ」
「でもね、リュネットに飲ませている生卵と酢だけど、やめてもらってもいいかな?」
これはまったく予想だにしていなかった要求だったらしく、彼女は苛立たしげな表情を隠しもせずに浮かべてしまい、そのことにハッとして慌てて表情を取り繕った。その一瞬の態度だけで、彼女の気の強さが見て取れる。
「健康の為に生卵を飲ませているのだろうけれど、人体に害を及ぼす危険性のある菌が潜んでいることがあるのを知っているかい? もし万が一、その菌が妻の口にしたものに入っていて、妻の身に害があるようなら――僕はあなたに対して、どのような処罰を与えればいいだろうか?」
その言葉に「そんなっ」と抗議の声を上げかけるが、マシューの声音に背筋の冷えるような恐ろしいものが含まれていることに気づき、彼女は静かに押し黙る。その様子にマシューは満足気に微笑んだ。
「酢は美白の為だったかな? そういう迷信があるのは知っているけれど、この肌を見て、それが必要だと思う?」
そう言って上掛けを捲くり上げ、眠るリュネットの身体をホーンの眼前へと晒す。早朝の淡い光の中でもはっきりわかるほどに色は白く、滑らかで美しかった。
その背に散る薄紅い痕跡に、ホーンは頬を染めて言葉を失った。
「臨機応変という言葉があるよね?」
マシューは乱れた寝具に巻き込まれていたガウンを引っ張り出し、羽織りながらベッドを降りる。
「世の中の常識や、決められた事柄がある。けれど、それを形通りに熟す必要はないと思うし、するべきではない場合もあると思うんだ」
「はい」
言われていることには頷ける。慣習や決められたことを従順に守ることは美徳だが、ときにはそれが枷になったり、妨害になる場合もある。そういうときは上手く見方を変えなければならないものだ。
「僕はあなたにそれを求める」
マシューの言葉にホーンは僅かに項垂れる。
「その上で僕の妻の力になってやってくれ。優秀なあなたなら、きっと的確な判断と行動をしてくれるだろう」
「はい……」
力なく頷く様子に、マシューは微笑んだ。
「よかった。わかってくれて嬉しいよ」
悪い人ではない、とミーガンは言っていた。モンゴメリとハワードの厳しい目で見て採用したのだから、人柄も悪くない筈なのだ。ただ少し、自分の才覚を過信しているところがあるな、とマシューはホーンへの評価をつけた。
これでもう少しリュネットが畏縮しない態度を心掛けてくれるようになれば完璧なのだが、彼女がそのことに気づくのが先か、リュネットが女主人らしく振る舞えるようになるのが先か、予想はつかない。上手く転がってくれればいいのだが、と考えていると、リュネットが小さく呻いて身動いだ。
「起きたのかい? 僕の可愛いお月様」
マシューはさっとベッドに戻り、ホーンには出て行くように手振りで示す。仕事が出来る侍女は素早く一礼し、物音を立てないように出て行った。
「――…マシュー?」
眠たげな声で名前を呼ばれる。情事の最中以外で妻が名前を呼んでくれるのは稀だ。
「まだ眠いだろう。今日はこのままベッドの中で過ごそうか?」
囁いて口づけると、くふっ、とリュネットは笑った。
「またそんなことを……」
「僕は本気だよ。このまま一日中ずっと愛し合おうよ」
「ふふふ」
「なんだい? 意味深な笑い方だな……肯定と受け取るよ?」
「お好きにどうぞ」
「寝惚けているのかな、お月様?」
「さあ……?」
目を閉じたまま笑っている唇にキスをすると、珍しくリュネットから舌先を差し出し、マシューのそれへと絡めてきた。積極的な様子に、おや、と思いながらも、マシューは着たばかりのガウンを脱ぎ去った。
「まあ、あまり無理は出来ないと思うけど。叱られたし」
キスをして甘くくねる身体の線を確かめながら、マシューはぽつりと零す。
「叱られた? 誰にですか?」
意外な言葉に瞼を持ち上げ、不思議そうに夫の顔を見上げる。マシューは苦笑し、丸みを帯びた腹部に口づける。
「天使――かな」
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