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12年前の真実

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12年前の真実
 秋、熊にスガが殺されたことで、俺は頭に血が上っていた。そして冬になると、目の前であの時の熊が他の村人まで喰い殺そうとしていた。俺は弓と石斧を持ち、熊に矢を放った。
「こっちだ、お前を刺したのは!」
 熊は俺の事を覚えていたのか、殺気を含んだ目で俺を見つめ、俺に襲いかかってきた。
 俺は急いで山にかけ登り、逃げに逃げた。
『ああ、何てことをしてしまったんだ』
 俺の頭の中は、自分が生きたいという気持ちと、妻とアラ、カラの顔が順々に思い浮かんでいった。
「こんな事、するんじゃなかった」
 頭の中で思った言葉なのか、口から出たのかもわからない言葉が全身を駆け巡り、俺は恐怖で身体が震え、次第に足が動かなくなっていった。疲れていたからではない。喰い殺されてしまう恐怖で、足が絡まりそうになっていた。
「うわぁ?」
 俺は足をとられ、小さな崖から転げ落ちてしまった。幸い雪が積もってあったので、身体が痛むことは無かった。だが、何処も怪我をしていないのにも関わらず、身体は動かなかった。
 熊の鳴き声と足音が聞こえ、俺は死を覚悟して目を瞑った。しかし、耳に届いたのは一頭の熊の声だけではなかった。目を開けて前を見ると、子熊がいた。この熊には、子がいたのだ。
 俺が子熊を見ると、親熊は俺を威嚇した。子熊は痩せており、十分に栄養がいきわたっていないように見えた。
「子のために、村を襲ったのか?」
 俺は少しずつ身体を動かし、立ち上がった。俺の手にはまだ、弓矢と石斧が握られていた。よく手から落とさなかったのかと不思議に思うほどだった。
 俺は子熊に向けて、弓を構えた。この子熊の親ならば、必ず子共を守ろうとするだろう。そんな打算的な、残虐的な思考が頭に浮かび、俺は矢を子熊に向かって放った。
 親熊は予想通り、子熊を守るために背中を向けながら、矢を背に受けた。もちろん、俺の持っている矢では、毛皮を打ち抜く事さえできない。だが、それで十分だった。
「村に来たのは、お前も腹が減って、子供に与える食料を獲れるだけの力が出ないからじゃないか?」
 俺はそんな事を叫びながら、石斧を思いっきり、背を向けている親熊の頭に打ち付けた。
 親熊はうめき声をあげながらも、子を守る様に背を向けたままだった。
「よくも、スガを。よくも、村の皆を!」
 その時の俺は、熊よりも凶暴で、この世界の何よりも残酷で、残虐だっただろう。親が子を守るのは、人間も獣も共通だ。それを知っていて、俺は子熊を狙い、親熊が庇うだろうという事を見越していたのだ。
 ただ、親熊にもまだ力が残っているのではないかという不安があった。しかし、そんな事を考えている暇もなく、俺は何度も、何十回も、数えきれないほど、石斧の柄が折れるまで、親熊の頭に石斧を叩きつけた。
 石斧の柄が折れた衝撃で、俺は熊に向かう様に倒れ込んだ。熊の血が顔にべったりと付き、温かさを感じた。横を向くと、子熊が親熊にすり寄って鳴いていた。石斧の柄は折れていたが、石器自体は壊れていなかった。
「ああああああああああ!」
 俺はまたも唸り声をあげ、次は子熊に向かって石器を振り下ろした。何故だろうか。
 親の罪は、子の罪でもあるからなのだろうか。それとも、村の子供を殺された怨みだろうか。
 親が死ねば、子は悲しむ。だから、殺したのだろうか。悲しませないためになのだろうか。
 気がつくと、俺は血まみれだった。全てとは言わないが、おそらく親熊と子熊の返り血が大部分だろう。持っていた石器はすでに刃こぼれをし、熊の骨が固かったからなのか、ちょうど石器を研いだ時の様に鋭い部分が出来ていた。
『熊の胆は、病に効くらしいわ』
 少しずつ雪によって冷やされていく頭の中で、以前妻が言っていた言葉がよみがえった。ちょうど手元には、熊の毛皮を切り裂けるだろう尖った石器が手元にあった。
「どこだ?」
 俺は熊の身体を無理やり切り裂き、また返り血を浴びつつ、臓腑に手をやった。すると、何となく温かく、筋肉とも胃袋とも違う、何かがあった。
 俺はそれが熊の胆だと思い、石器で切り裂いた。そして、村に戻った。
「仕留めてきた。血が道しるべになっているからそこに行ってくれ。大きい熊と、小熊がいる」
 俺はそう言って、熊の胆を服の中に隠しながら家に帰った。
『生きて帰ってこれたんだ』
 妻の顔とアラとカラの顔を見た途端、俺は力が抜けていくのを感じた。服の中から肉片を取り出し、湯が沸いている土器の中に放り込んだ。
「疲れたから寝る。煮えたらお前が食べてくれ」
俺はそう言って、眠りについた。
 次の日から、妻は母乳が出る様になり元気になった。カラも、無事に育つだろうと思った。
 そして、ガンさんが俺を酋長に推薦した。村の人たちの顔を見ると、俺は断れなかった。それだけ、村の皆の心は飢饉と熊による恐怖に染まっており、俺が熊を一人で仕留めた事を英雄視していたのだ。

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