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閑話:溶けてしまいそうな夏の日

第二話

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 乱入されたらゆっくりシャワーを浴びている場合ではない。
 急いでバスルームに飛び込んだ天希だったが、髪を洗っている時点でふと気づいた。伊上のことだから、タイミングを見計らって入ってくるのではないか。

 少しばかり深呼吸して、落ち着きを取り戻すとさっさと汗を洗い流すことにした。
 ボディータオルにグリーンウッド系の香りがするソープを吐き出す。爽やかなこの香りは天希のお気に入りだ。ソープの匂いと伊上の香りが混じると好みすぎてたまらなくなる。

「俺って、匂いフェチだったりする?」

 振り返ると伊上がまとう香りに弱い。鼻先をかすめるとつい追いかけたくなる。
 甘くて柔らかいあの匂いが好きなのか。それとも彼が身にまとうから好ましいのか。

「おそらく後者だな。ほかのやつがおんなじ匂いさせてても、たぶんそこまで気にならねぇもん」

 強い匂いでもないのに恋人の残り香は惹かれる。時折香りが移ることもあるけれど、その時はずっと残していたい気分になった。
 会えない日が続くと、部屋から着用済のシャツでも強奪してこようかという気になる。実際問題、さすがにそれはしないが、人間は気の迷いもあるものだ。

「あれ? まだ済んでなかったの?」

「あっ、いや、ちょっと考えごと」

 ぼんやりと身体の泡から漂う香りの中で物思いに耽っていると、背後から声をかけられた。とっさのことに驚いて肩を跳ね上げた天希は、背中に感じる視線で収まった頬の熱がぶり返す。
 慌てふためきゴシゴシと身体を擦れば、後ろから伸びてきた手のひらがタオルを握った手に重なった。

「擦りすぎだよ。腕が赤くなってる」

 するりと指先が腕を伝い、反射的に天希はビクついた。傍までやって来た伊上の体温を背中に感じて、さらにはそわそわと落ち着きが迷子になり始める。
 二人で風呂に入った経験は何度かあった。とはいえどそう簡単に慣れるものではない。

 明らかに天希の動揺を察している伊上は、後ろから抱き込むように腕を回してくる。さらには耳元に唇を近づけてきて、心臓が爆音を立てそうな勢いになりつつあった。

「い、伊上。これじゃ、身体洗えねぇよ」

「洗ってあげようか」

「遠慮、する」

「そう? 残念だなぁ」

 笑いを含んだ声と一緒に、吐き出した伊上の小さな息が耳に触れる。くすぐるような感触にますます火照りが増して、天希は自分の肌が目に見えて紅く染まっているのに気づいた。
 羞恥で震える様子を見た意地悪い恋人はなおも追い詰めてくる。

「ちょ! 伊上! ちゅっちゅ、ちゅっちゅ、キスしまくるな馬鹿!」

 耳のフチやこめかみ、頬。しまいには首筋に唇を寄せられて、天希は引っ掴んだシャワーを彼に向けた。
 勢いよく放出された温水を浴びせかければ、背後では肩を震わせるほど笑いをこらえている。その姿はどこか幼くて可愛いのだが、ムカつく気持ちも同じくらい存在した。

「頭を冷やせ!」

「シャワー、適温だよ」

「うるせぇ! 文句言うな!」

「あまちゃんのそれ逆ギレじゃない?」

「あんたが悪い! もう、俺はあがるからなっ」

 頭からお湯を被った伊上は水も滴る、なんとやら。無駄な色気を醸し出す男にシャワーヘッドを押しつけると、目の前の身体を押し退けて天希はバスルームの扉に手をかけた。
 だが急いで脱衣所に逃げようとする考えはお見通しで、半開きだった扉が伊上の手で音を立てて閉じられる。

「なんで閉めんだよ!」

「んー、あまちゃんが可愛くて?」

 扉と長身の伊上に挟まれると圧迫感がすごい。思わぬ壁ドンに眉をひそめる天希などなんのその、無邪気さを装った笑みを浮かべる恋人が小首を傾げた。

「可愛くて腹立つ!」

 惚れた弱みか。にこにこと笑うその顔に、天希はギリギリと奥歯を噛みしめた。普段の飄々としたつかみ所のない彼もいいが、自分に甘える態度を見せられると胸がぎゅんとなる。
 最近、天希の一番の悩みだ。

「とりあえず、洗ってやる。すべてはそれからだ」

 バスルームでヤるのはできたら避けたい。声が響くし、場所柄あれこれ体勢がキツい。

 天希としては伊上を丸洗いして、早々にベッドへ移りたかった。床に落ちたボディータオルを拾い、ゆすいで泡立て直すと片手に構えて目の前の男を見上げる。

 きょとんとした顔で見下ろされ、羞恥が湧いてきたけれど勢いで背後に回った。
 広くて頼り甲斐のある、はっきりと肩甲骨が浮いた綺麗な背中。思わず抱きつきたくなる衝動をこらえて、天希はせっせと手を動かす。

「僕の背後に立てるのはあまちゃんくらいだね」

「なんかさらっと恐ぇこと言うなよ」

「背中なんて取られたら八割の確率で人生の終わりだよね」

「それはどっちの話、って聞かねぇほうがいいな」

 小さく笑った伊上の反応に、間違いなく後ろに立った人間だなと悟る。相変わらず特殊すぎる彼の世界を、天希には一切見せようとはしない。
 それでもこうしてたまに会話に紛れさせてくるのは、見せはしないが忘れさせるつもりはないのだろうと推測している。

「よーし、次は髪だ」

 いまのご時世、あちこちでドンパチやるような物騒さはないようだが、平凡な人間よりも緊張を常に強いられる世界に違いない。
 だからこそ天希はいまこうして無防備にこうべを垂れる恋人の、貴重なこの時間を満喫させてあげたいと思っていた。

「痒いところはございませんかぁ」

「あまちゃんの手が気持ちいい」

「短いから洗いやすいな。……はい、お疲れさん」

 シャワーを止めると伊上は両手のひらで顔を拭い、前髪を掻き上げる。元から長さはないのでそれほど大きな差はないのに、額を大きく出したスタイルは普段よりも男臭さが増す。
 密かにドギマギしながら、天希はおしまいとばかりに回れ右をした。

 今度こそこの場から逃げようという意思の表れだった、のだが。追いかけ伸ばされた腕に捕まった。後ろから巻きついた腕が天希の腰をぎゅうっと抱きしめる。

「なんでここで盛るんだよ」

「どうせまた汗を掻くよ?」

「利便性を重視するんじゃねぇ。そこは情緒だろ!」

「触れたいだけだよ」

「嘘つけ。それだけで、済まないクセに」

 すり寄せられる頬から伝わる熱に身体が侵食される。不思議な感覚に囚われながらも、分け与えられるのは温度だけではなく、熱情なのだと胸の奥で広がる渇望に天希は諦めを覚えた。
 欲しい、欲しくない。二択であれば迷いは微塵もない。

「あれだな。あんた、お疲れなんだろ。癒やされたい、とかだろう?」

「あまちゃんが癒やしてくれるの?」

「癒やすって言っても、よしよししてやるだけじゃ、満足しねぇんだろ?」

「ぜひあまちゃんを堪能させてもらいたいね。いまの僕に足りないのは君だからね」

「別にヤるのは嫌じゃねぇよ? 風呂場がちょっといまいちなだけで」

 後ろから顔を覗き込んでくる伊上を見上げれば、目元を和らげて笑みを深くする。いかにも期待しています、と言わんばかりで、天希はたじろいだ。
 それでも毎日に疲れる恋人は癒やしてあげたいのも本音。もぞもぞと身じろぎ身体を向き合わせると、見下ろしてくる伊上の頬を両手で掴み撫でた。

 軽く背伸びをしながら、引き寄せるように手に力を込める。屈んだ身体をもっと近くへ寄せて、アッシュグレーの髪を撫で梳き、目の前の首元に腕を絡めた。
 触れ合わせた唇を食み、何度も口づけを繰り返しているうちに、伊上の手は天希の腰を抱く。胸がぴったりと触れ合い、鼓動が混ざり始める。

「んぅっ、まっ、た。いが、み」

 静かな空間にお互いの唾液が淫靡に絡まり合う音が響いて、仕掛けたはずの天希がすっかり伊上に主導を奪い取られていた。
 絡んだ舌を甘噛みされた挙げ句、撫で回されて吸いつかれれば腰が抜けそうになる。必死でこらえても攻め続けられると、快楽に弱い天希では勝ち目がない。

 抵抗を示し頭を鷲掴みして引き剥がせば、口の端から二人分の唾液がこぼれた。目元が赤らみ、見るからに発情し始めた天希の顔はひどく蠱惑的に映る。
 それと同じく、飢えた獣のごとく目を欲情にギラつかせる恋人は、破壊的な雄の色香を放っていた。
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