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デキアイ
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最近は季節が移り変わるのが早い。
大人になると時の流れが速くなる、というのは本当だと思う。暮れが近づくと、それを日増しに感じるようになる。
いつでもうちの店は忙しくて、暇だなんて思ったことは一度もないが、イベントごとがある月は一段と慌ただしくなる。
来月のクリスマスシーズンを前に企画だ、メニューだとみんな大わらわ。
毎日帰りも遅くて最近はゆっくり広海先輩の顔を見ていない。
ご飯もなかなか作ってあげられなくて、出来合いのもので済ませてもらうことも多くなってきた。
毎年のことだけど癒やしが足りなくて、もう少し彼との時間をゆっくり過ごしたいと思ってしまう。
「おい! 三木!」
大きな声で名前を呼ばれて、肩が大げさなほど跳ね上がった。目を瞬かせて、いまを把握しようと頭が回転し始める。
どうやら少し意識が遠くに行っていたようだ。
ちらりと広い厨房内を見回せば、俺と同じコックコートを着たスタッフたちが、開店の準備に追われていた。
しばらく動きが止まっていたような気もするが、周りは忙しいためか、俺の様子には気がついていないようだ。
フライパン持ちながら現実逃避するとか、俺どれだけ器用なの?
中身が焦げついていないのを確認して、思わず安堵の息をついてしまう。
そしてふるふると首を振って、ぼんやりした頭を引き戻すと、ゆっくりと声がしたほうへ顔を向ける。
「なんですか? 俺、なにかミスしました?」
一メートルほど先で、まっすぐと立ちこちらを見つめているのは、うちの店タン・カルムの店長兼ホールマネージャーの峰岸さん。
すらりとした細身の体型で、顔は芸能人ばりに整っている。
いつもスーツを着ていて、茶髪の髪と相まって一見するとホストに見えなくもない。
でもまだ若いけどすごく仕事の出来る人だ。どんなに忙しくてもこの人がいるから店が回っている。
「なんだよ。失敗するようなことしたのか?」
「あ? いやー、そういうわけじゃ」
さすがにいま、半分寝たような状態だったとは言えない。曖昧に笑って誤魔化すと、ほんの少し目を細められた。
けれど深く追求する気はないのか、峰岸さんは肩をすくめて息をつく。
ああ、オープン前でよかった。
営業が始まってからこんなことしていたら、料理長の久我さんに怒られるところだった。
いや、それがバレたら怒られるだけでは済まないな。きっと雷が落ちて厨房から追い出されていただろう。
久我さんが遅い出勤の日でよかった。
「まあ、魂抜けてたのは見逃してやる。それよりお前にお使いだ」
両手を腰に当てた峰岸さんは何事もない顔をしているけど、さらりと言った言葉は聞き逃せない。
なにも見ていなかったみたいな口ぶりだったのに、俺の気の抜けた現場をしっかり見ていたんだ。
いつから見られていたんだろう。この人、本当に油断も隙もない。
「お使いって、なんですか?」
「ああ、通町台って三木が住んでるところの隣だよな?」
「そうですけど」
「そこに新しく出来たレヴィデラ・フォレストって言うカフェレストランがあるんだけど。うちの系列でさ。ちょっと俺の代わりに行って書類届けてきてくれない?」
「え? 俺がですか?」
こちらを窺うように小さく首を傾げた峰岸さんに、俺は挙動不審なくらいアタフタしてしまった。
店のオープンまでもう間もない。彼の言う駅までは電車で片道三十分だ。
目的の店が駅からどのくらいかはわからないが、大急ぎで行って帰ってきても到底時間には間に合わない。
なんで俺なんかを指名してきたのだろう。
「お前、定期だから交通費かかんないだろ」
「え! そんな理由!」
「うそうそ、これ交通費。まあ使わないだろうから、これで飯でも食ってから帰って来い」
ゆっくりと目の前まで近づいてくると、スーツの内ポケットから茶色い封筒を取り出して、峰岸さんはひらひらと俺の目先でそれを振ってみせる。
その仕草に今度は訝しみながら、彼の顔をまじまじと見つめてしまった。
お使いと言うだけでもちょっと意味がわからないのに、飯まで食ってこいとはどういうことなんだ。
状況を飲み込めないでいる俺に、目の前の人は片頬を上げてにやりと笑った。
「ちょっと外に行って息抜いてこい。久我さんから許可はもらってある」
「え?」
「最近、久我さんに付き合って遅くまで残ってるだろ。あの人はこれが生きがいだからいいんだよ。でもお前はちょっと煮詰まり過ぎ。着替えたら声かけろ。書類渡すから」
驚きに目を見開く俺の額を薄っぺらい封筒でぺちぺちと叩くと、それを俺の胸に押しつけて、峰岸さんはさっさとホールに戻っていってしまった。
残された俺はいまだ呆然と、その後ろ姿を見つめてしまう。
「なんだ、瑛治。まだいたのか。準備終わってんだろう。早く行ってこい」
しばらく立ち尽くしていたら、ふいに後ろから声が聞こえてきた。その声に驚いて飛び上がると、呆れたようなため息が聞こえてくる。
振り返った先にいるのは、厳めしい顔をした白髪交じりの男性。彼は俺を見ながら眉間にしわを寄せている。
けれどこれは怒っているわけではなく、普段からそういう顔なのだ。怒った時はもっと怖い鬼の形相になる。
「久我さんおはようございます。あ、はい。急いで行ってきます」
「急がなくていい。しっかり用事を済ませてこい。帰ってきたら嫌でも仕事させてやる」
「あ、ありがとうございます!」
頭を下げた俺に言うだけ言うと、久我さんも峰岸さんのようにさっさと仕事に取りかかってしまう。だが顔を上げた俺の口元には笑みが浮かんだ。
仕事前に外に出されてしまうなんて、もしかして厄介払いされているのか? なんて考えてしまったけど。
どうやらそれは俺の杞憂で、むしろその反対だったようだ。
自分でもちょっと息苦しさは感じでいたが、普段からのほほんとしている俺は、あんまりそう言ったことは顔に出ない。
仕事場のみんなも、夜遅くまで大変だねと気にかけてくれていたけど、自主的に残っているのでさほど心配はされていなかった。
それなのに気付いてしまう峰岸さんはさすがだなと思う。あの人の気配りはいつも細やかで、少しでも普段と違うと見抜かれてしまうのだ。
「峰岸さんが声をかけたってことは、俺だいぶやばいとこに足突っ込んでたのかも。まだ大丈夫だと思ってたんだけどな」
仕事をする上でのボーダーライン。それを越えかけていたのかもしれない。
目の前のことにばかり集中すると、視野が狭くなって周りが見えなくなるものだ。
「おはよう」
更衣室に戻ると、談話スペースのソファでお喋りをしているスタッフの後ろ姿を見つけた。
いまの時間帯はオープンの時間から入るホールの子たちがやってくる。
いつもと変わらない調子で声をかけると、なぜかそこにいる二人は大きく肩を跳ね上げた。
その反応に俺が首を傾げれば、二人は顔を見合わせてこちらを振り向く。そして戸惑いがちな目で俺を見た。
「あ、小宮さん、と城戸さん」
振り返った顔を見て、俺まで肩を跳ね上げてしまった。向こうも気まずそうな顔をしているが、こちらもおそらく同じような顔をしているのだろう。
ぎこちない笑みを返される。
あれからずっとシフトが噛み合うことがなく、ほとんど顔を合わせることがなかった。
一緒に仕事をしていてもホールと厨房だ。ゆっくり会話をする時間もない。
あの日から俺たちは一度も、言葉を交わしていなかった。
「今日は二人とも通しなんだね」
「あ、うん。そうなの」
いつまでも固まって立ち尽くしているわけにもいかない。あまり気を使わせないようになるべく平静を装って声をかける。
それに驚いた表情を見せながらも、小宮さんが小さく頷いた。城戸さんは少し目をそらすように俯いたままだ。
「瑛冶さんどこか行くの?」
「ああ、うん。マネージャーにお使い頼まれて」
「そうなんだ」
小さな声を聞きながら、コックコートを脱いでそそくさと私服に着替える。
そしてダウンコートを着込んだ俺の後ろで、なにか言いたげな視線がこちらを見ているのを感じた。
どうしようかと考えたけど、無視することもできなくて。ロッカーを閉じるとその視線を振り返った。
「あのさ」
「瑛冶さん!」
「え?」
俺が声を発するのとほぼ同時か、小宮さんの声が室内に響いた。
思いのほか大きな声が出たことに自分でも驚いているのか、小宮さんの頬は少し赤くなっている。それでも彼女はまっすぐに俺を見つめた。
「どうしたの?」
「あの! 私たち、瑛冶さんに謝らなくちゃって思ってたの。嫌な思いさせてしまってごめんなさい。ほら、詩織」
「あ、えっと、瑛冶くん。あんなひどいこと言って、ごめんなさい。詩織、自分のことしか考えていなかった。好きな人にあんなこと言うなんて最低だよね。そんなに好きじゃなかったんだろうって言われて、傷ついたけど。なんだか目が覚めた気がする」
「私たち、優しい瑛冶さんに甘えてた。付き合っている人いるってわかってるのに、優しくしてもらえることに浮かれてたの」
思いがけない謝罪に少し面食らってしまう。
けれどこちらを見ている小宮さんの顔は真剣で、そわそわしている城戸さんもいつもの強気な表情は鳴りを潜めている。
もしかしたらずっと言い出せなくて、悩んでいたのかもしれない。
「せっかくデートしてたのに、いきなり私たちが割り入った感じだったよね。嫌な思いして当然だよね」
「うん、まあ、でもちょっと広海先輩のあれは言い過ぎだったよね。ごめんね」
「いいの! 私たちもう全然そのことは気にしてない。それよりも瑛冶さんにずっと謝りたくて」
「もう俺も平気だよ。ちょっとへこんだけど、もうあんまり気にしてないんだ。いまは広海先輩も気にしている感じはないし。俺はそれだけでいいって言うか」
あれから広海先輩はしばらく思い悩んでいる感じはあったけど、いまは以前と変わりない様子を見せている。
あのまま思い詰めるようなことになったら、さすがに恨んでしまったかもしれないが。
あの人がいつもみたいに笑えているのであれば、俺はそれ以上気にすることはない。
「瑛冶さんは広海先輩がほんとに好きなんだねぇ」
「あー、うん。こればっかりは誰にも譲れない」
「広海先輩も、瑛冶さんのこと大好きだよね」
「あはは、まあ、そうだって信じてるけど」
相変わらずまっすぐに好きだとか、言われたことはないけど、最近は前よりも傍にいてくれるようになった。
俺が忙しいからかもしれないが、ほんの少しの時間でも黙って隣にいてくれる。
特別なにかをしてくれるわけでも、言ってくれるわけでもない。それでも小さな優しさを感じるだけで、幸せだなぁって思う。
「私、瑛冶さんの彼女は諦めたけど。やっぱり好きだからぁ。これからは詩織と二人で瑛冶さんたちのこと応援することにするねぇ」
「え! あ、うん。ありがとう」
空気を変えるように、にんまりと笑みを浮かべた小宮さんは、先ほどまでの雰囲気を一変して、いつもののんびりとした声音に戻った。
その笑みに少し肩の力が抜けた気がする。
彼女の勢いにはいつも驚かされることは多いけど、いつも明るくてみんなのムードメーカーだ。
その元気にいまちょっと救われた気がする。
もう気にはしてなかったのは確かだったけど、ちょっと二人と話をするのは気が引けてた。だからいつものように笑ってくれてほっとした。
大人になると時の流れが速くなる、というのは本当だと思う。暮れが近づくと、それを日増しに感じるようになる。
いつでもうちの店は忙しくて、暇だなんて思ったことは一度もないが、イベントごとがある月は一段と慌ただしくなる。
来月のクリスマスシーズンを前に企画だ、メニューだとみんな大わらわ。
毎日帰りも遅くて最近はゆっくり広海先輩の顔を見ていない。
ご飯もなかなか作ってあげられなくて、出来合いのもので済ませてもらうことも多くなってきた。
毎年のことだけど癒やしが足りなくて、もう少し彼との時間をゆっくり過ごしたいと思ってしまう。
「おい! 三木!」
大きな声で名前を呼ばれて、肩が大げさなほど跳ね上がった。目を瞬かせて、いまを把握しようと頭が回転し始める。
どうやら少し意識が遠くに行っていたようだ。
ちらりと広い厨房内を見回せば、俺と同じコックコートを着たスタッフたちが、開店の準備に追われていた。
しばらく動きが止まっていたような気もするが、周りは忙しいためか、俺の様子には気がついていないようだ。
フライパン持ちながら現実逃避するとか、俺どれだけ器用なの?
中身が焦げついていないのを確認して、思わず安堵の息をついてしまう。
そしてふるふると首を振って、ぼんやりした頭を引き戻すと、ゆっくりと声がしたほうへ顔を向ける。
「なんですか? 俺、なにかミスしました?」
一メートルほど先で、まっすぐと立ちこちらを見つめているのは、うちの店タン・カルムの店長兼ホールマネージャーの峰岸さん。
すらりとした細身の体型で、顔は芸能人ばりに整っている。
いつもスーツを着ていて、茶髪の髪と相まって一見するとホストに見えなくもない。
でもまだ若いけどすごく仕事の出来る人だ。どんなに忙しくてもこの人がいるから店が回っている。
「なんだよ。失敗するようなことしたのか?」
「あ? いやー、そういうわけじゃ」
さすがにいま、半分寝たような状態だったとは言えない。曖昧に笑って誤魔化すと、ほんの少し目を細められた。
けれど深く追求する気はないのか、峰岸さんは肩をすくめて息をつく。
ああ、オープン前でよかった。
営業が始まってからこんなことしていたら、料理長の久我さんに怒られるところだった。
いや、それがバレたら怒られるだけでは済まないな。きっと雷が落ちて厨房から追い出されていただろう。
久我さんが遅い出勤の日でよかった。
「まあ、魂抜けてたのは見逃してやる。それよりお前にお使いだ」
両手を腰に当てた峰岸さんは何事もない顔をしているけど、さらりと言った言葉は聞き逃せない。
なにも見ていなかったみたいな口ぶりだったのに、俺の気の抜けた現場をしっかり見ていたんだ。
いつから見られていたんだろう。この人、本当に油断も隙もない。
「お使いって、なんですか?」
「ああ、通町台って三木が住んでるところの隣だよな?」
「そうですけど」
「そこに新しく出来たレヴィデラ・フォレストって言うカフェレストランがあるんだけど。うちの系列でさ。ちょっと俺の代わりに行って書類届けてきてくれない?」
「え? 俺がですか?」
こちらを窺うように小さく首を傾げた峰岸さんに、俺は挙動不審なくらいアタフタしてしまった。
店のオープンまでもう間もない。彼の言う駅までは電車で片道三十分だ。
目的の店が駅からどのくらいかはわからないが、大急ぎで行って帰ってきても到底時間には間に合わない。
なんで俺なんかを指名してきたのだろう。
「お前、定期だから交通費かかんないだろ」
「え! そんな理由!」
「うそうそ、これ交通費。まあ使わないだろうから、これで飯でも食ってから帰って来い」
ゆっくりと目の前まで近づいてくると、スーツの内ポケットから茶色い封筒を取り出して、峰岸さんはひらひらと俺の目先でそれを振ってみせる。
その仕草に今度は訝しみながら、彼の顔をまじまじと見つめてしまった。
お使いと言うだけでもちょっと意味がわからないのに、飯まで食ってこいとはどういうことなんだ。
状況を飲み込めないでいる俺に、目の前の人は片頬を上げてにやりと笑った。
「ちょっと外に行って息抜いてこい。久我さんから許可はもらってある」
「え?」
「最近、久我さんに付き合って遅くまで残ってるだろ。あの人はこれが生きがいだからいいんだよ。でもお前はちょっと煮詰まり過ぎ。着替えたら声かけろ。書類渡すから」
驚きに目を見開く俺の額を薄っぺらい封筒でぺちぺちと叩くと、それを俺の胸に押しつけて、峰岸さんはさっさとホールに戻っていってしまった。
残された俺はいまだ呆然と、その後ろ姿を見つめてしまう。
「なんだ、瑛治。まだいたのか。準備終わってんだろう。早く行ってこい」
しばらく立ち尽くしていたら、ふいに後ろから声が聞こえてきた。その声に驚いて飛び上がると、呆れたようなため息が聞こえてくる。
振り返った先にいるのは、厳めしい顔をした白髪交じりの男性。彼は俺を見ながら眉間にしわを寄せている。
けれどこれは怒っているわけではなく、普段からそういう顔なのだ。怒った時はもっと怖い鬼の形相になる。
「久我さんおはようございます。あ、はい。急いで行ってきます」
「急がなくていい。しっかり用事を済ませてこい。帰ってきたら嫌でも仕事させてやる」
「あ、ありがとうございます!」
頭を下げた俺に言うだけ言うと、久我さんも峰岸さんのようにさっさと仕事に取りかかってしまう。だが顔を上げた俺の口元には笑みが浮かんだ。
仕事前に外に出されてしまうなんて、もしかして厄介払いされているのか? なんて考えてしまったけど。
どうやらそれは俺の杞憂で、むしろその反対だったようだ。
自分でもちょっと息苦しさは感じでいたが、普段からのほほんとしている俺は、あんまりそう言ったことは顔に出ない。
仕事場のみんなも、夜遅くまで大変だねと気にかけてくれていたけど、自主的に残っているのでさほど心配はされていなかった。
それなのに気付いてしまう峰岸さんはさすがだなと思う。あの人の気配りはいつも細やかで、少しでも普段と違うと見抜かれてしまうのだ。
「峰岸さんが声をかけたってことは、俺だいぶやばいとこに足突っ込んでたのかも。まだ大丈夫だと思ってたんだけどな」
仕事をする上でのボーダーライン。それを越えかけていたのかもしれない。
目の前のことにばかり集中すると、視野が狭くなって周りが見えなくなるものだ。
「おはよう」
更衣室に戻ると、談話スペースのソファでお喋りをしているスタッフの後ろ姿を見つけた。
いまの時間帯はオープンの時間から入るホールの子たちがやってくる。
いつもと変わらない調子で声をかけると、なぜかそこにいる二人は大きく肩を跳ね上げた。
その反応に俺が首を傾げれば、二人は顔を見合わせてこちらを振り向く。そして戸惑いがちな目で俺を見た。
「あ、小宮さん、と城戸さん」
振り返った顔を見て、俺まで肩を跳ね上げてしまった。向こうも気まずそうな顔をしているが、こちらもおそらく同じような顔をしているのだろう。
ぎこちない笑みを返される。
あれからずっとシフトが噛み合うことがなく、ほとんど顔を合わせることがなかった。
一緒に仕事をしていてもホールと厨房だ。ゆっくり会話をする時間もない。
あの日から俺たちは一度も、言葉を交わしていなかった。
「今日は二人とも通しなんだね」
「あ、うん。そうなの」
いつまでも固まって立ち尽くしているわけにもいかない。あまり気を使わせないようになるべく平静を装って声をかける。
それに驚いた表情を見せながらも、小宮さんが小さく頷いた。城戸さんは少し目をそらすように俯いたままだ。
「瑛冶さんどこか行くの?」
「ああ、うん。マネージャーにお使い頼まれて」
「そうなんだ」
小さな声を聞きながら、コックコートを脱いでそそくさと私服に着替える。
そしてダウンコートを着込んだ俺の後ろで、なにか言いたげな視線がこちらを見ているのを感じた。
どうしようかと考えたけど、無視することもできなくて。ロッカーを閉じるとその視線を振り返った。
「あのさ」
「瑛冶さん!」
「え?」
俺が声を発するのとほぼ同時か、小宮さんの声が室内に響いた。
思いのほか大きな声が出たことに自分でも驚いているのか、小宮さんの頬は少し赤くなっている。それでも彼女はまっすぐに俺を見つめた。
「どうしたの?」
「あの! 私たち、瑛冶さんに謝らなくちゃって思ってたの。嫌な思いさせてしまってごめんなさい。ほら、詩織」
「あ、えっと、瑛冶くん。あんなひどいこと言って、ごめんなさい。詩織、自分のことしか考えていなかった。好きな人にあんなこと言うなんて最低だよね。そんなに好きじゃなかったんだろうって言われて、傷ついたけど。なんだか目が覚めた気がする」
「私たち、優しい瑛冶さんに甘えてた。付き合っている人いるってわかってるのに、優しくしてもらえることに浮かれてたの」
思いがけない謝罪に少し面食らってしまう。
けれどこちらを見ている小宮さんの顔は真剣で、そわそわしている城戸さんもいつもの強気な表情は鳴りを潜めている。
もしかしたらずっと言い出せなくて、悩んでいたのかもしれない。
「せっかくデートしてたのに、いきなり私たちが割り入った感じだったよね。嫌な思いして当然だよね」
「うん、まあ、でもちょっと広海先輩のあれは言い過ぎだったよね。ごめんね」
「いいの! 私たちもう全然そのことは気にしてない。それよりも瑛冶さんにずっと謝りたくて」
「もう俺も平気だよ。ちょっとへこんだけど、もうあんまり気にしてないんだ。いまは広海先輩も気にしている感じはないし。俺はそれだけでいいって言うか」
あれから広海先輩はしばらく思い悩んでいる感じはあったけど、いまは以前と変わりない様子を見せている。
あのまま思い詰めるようなことになったら、さすがに恨んでしまったかもしれないが。
あの人がいつもみたいに笑えているのであれば、俺はそれ以上気にすることはない。
「瑛冶さんは広海先輩がほんとに好きなんだねぇ」
「あー、うん。こればっかりは誰にも譲れない」
「広海先輩も、瑛冶さんのこと大好きだよね」
「あはは、まあ、そうだって信じてるけど」
相変わらずまっすぐに好きだとか、言われたことはないけど、最近は前よりも傍にいてくれるようになった。
俺が忙しいからかもしれないが、ほんの少しの時間でも黙って隣にいてくれる。
特別なにかをしてくれるわけでも、言ってくれるわけでもない。それでも小さな優しさを感じるだけで、幸せだなぁって思う。
「私、瑛冶さんの彼女は諦めたけど。やっぱり好きだからぁ。これからは詩織と二人で瑛冶さんたちのこと応援することにするねぇ」
「え! あ、うん。ありがとう」
空気を変えるように、にんまりと笑みを浮かべた小宮さんは、先ほどまでの雰囲気を一変して、いつもののんびりとした声音に戻った。
その笑みに少し肩の力が抜けた気がする。
彼女の勢いにはいつも驚かされることは多いけど、いつも明るくてみんなのムードメーカーだ。
その元気にいまちょっと救われた気がする。
もう気にはしてなかったのは確かだったけど、ちょっと二人と話をするのは気が引けてた。だからいつものように笑ってくれてほっとした。
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