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第18話 穏やかな時間

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 入院開始、数日は絶食だったが、不思議と食べなければ食べないでいいか、と思ってしまった一真は仕事中毒だと言われた。

 普段からそういった生活をしているだろうと、医師に指摘され、言葉に詰まったのは言うまでもない。

 そういう人間は、食事よりも余暇に身を持て余すはずだと言われ、家族に本を大量に持ってきてもらった。

「お兄ちゃん、これもう読んだの?」

「読んだ。その左の山は読んだから持って帰っていいぞ」

 見舞いに来ていた妹の真帆が、一真の言葉に呆れた顔をする。兄妹だけあって、もれなく顔立ちの整った真帆は、ふて腐れても愛らしい顔をしている。
 しかし二つ歳下の彼女はこれでも新妻だ。

 長年付き合った彼氏と去年籍を入れた。結婚式は近いうちに、というのがいまどきの若者夫婦な気がした。

「か弱い妹に、こんなに持って帰れとか、愛のない兄だわ」

「どうせ一階でそれ送るんだろ?」

「気遣いがないって言ってるの! もう」

 ぷりぷりと怒りながら、真帆は本を段ボールに詰めていく。一階の売店で、小型の台車を借りてきているのは知っている。
 父親の蔵書なので、実家へ全部送るのだ。

 入院してから母親や姉の真未、妹の真帆がこうして代わる代わる見舞いに来てくれる。
 ただこの先ずっと一緒にいたい恋人ができたら、絶対にパートナーシップ制度を利用して、と口を酸っぱくして言われた。

 そんなに俺の世話をするのが面倒か、と一真は複雑な気分になったものの、言いたいことはわかる。

(通常、結婚してないと手続きとか面会とか、色々と不便があるからな)

 真帆が片付けしているのを横目に見ながら、一真は小さく息をつく。
 希壱についてはお試し期間を設けたので、家族へまだなにも伝えていない。しかし毎日のように顔を見せるため、薄々気づいているだろう。だからこそ釘を刺されたのだ。

 ようやっと重い腰を上げたのだから、見つけた相手を死んでも放すな、くらいはきっと思われている。

(……手放す予定はねぇけど)

 お試し期間を設けたが、一真の気持ちはもう固まっている。
 おそらく希壱もそうだろうけれど、やはり友人の弟、兄の友人という部分を一旦、リセットしてからのほうがいいと思えた。

 年上への憧れや、歳の離れた弟への愛情は時折、恋愛の邪魔になる。
 これから恋人になる――いいのか、この相手で――という意識をお互いに持つのがなにより大切だ。

 たまに恋愛の熱に煽られてくっついたはいいが、一気に勢いが消沈して、早々に破局なんて話も聞く。できたら一真は希壱とそうなりたくない。

「お兄ちゃんも、そろそろまともな恋愛して幸せになってね」

 ふいにぽつんと、独り言みたいな音量で呟かれた真帆の言葉に、一真はわずかばかり片眉を上げて抗議する。

「まともなって、失礼だな」

「だってそうじゃない。高校時代は一生報われない片想いしてさ。卒業したと思ったらあっちへふらふら、こっちへふらふら。誰かと本気で付き合おうとしなかったし」

(高校は一年だけ、そういや一緒だったな)

 最後の年は二人を同時に好きになって、とりあえず割って入って満足していた。
 学年が違っても、そんな兄を見かけていたのだろう。そもそも彼氏が一真と同級生だった。

「三島さんの弟くんとは思わなかったけど」

「まだ付き合ってねぇよ」

「まだでしょぉ? お試し期間中なんだってね。お兄ちゃんにしては冷静だね」

「冷静じゃねぇから入院してんだろ」

「あ、そっか」

 どうやら歳が近いので、希壱と真帆、いつの間にか二人は仲良くなっていたようだ。しかし結婚している妹にヤキモチを妬くほど、残念な兄ではない。
 鼻歌を歌っている彼女の横顔に、肩をすくめるだけに留めた。

「もうすぐでお兄ちゃん、誕生日だね」

「……そうだったか」

「やだ、自分の誕生日も忘れたの?」

「そんなに気にするもんか?」

 大げさに驚く真帆に眉をひそめながら、一真はサイドボードのカレンダーへ、ちらりと視線を向けた。
 退院予定日の二週間後くらいだ。

(希壱の誕生日っていつだった? 夏だったような気はしたけど。去年はまだ再会したばっかりで気に留めてなかったな)

 早いものであと二ヶ月もすれば、三年ぶりに再会をした季節が再び巡ってくる。
 夏休みに入ってすぐくらいだったと、一真は再会した日を思い返す。まさかあの場所で再会をするとは、思いも寄らなかった。

(今年は色々イベントごと、してやりてぇなぁ。去年は誕生日もクリスマスも、なにもしてやれなかったし)

 希壱はおそらくそういった、イベントが好きなはずだ。
 恋人に祝われた経験がないだろうし、余計に気を使ってやりたい。

「お兄ちゃん、可愛い」

 想像して、無意識に笑みを浮かべていたのだろうか。小さな呟きとともに、真帆の視線を感じた。

 恥ずかしくはないが、なんとなく浮かれた自分を見られるのが癪で、一真は目をつぶって寝たふりをする。
 さらに小さく笑われたけれど、無視をして目をつぶったままにした。

 そうしたらうっかりと、目を閉じているあいだに眠ってしまったらしく、目が覚めたら室内は暗かった。

(さすがに真帆は帰ったか。いま何時だ?)

 身じろぎをして一真が時計を見ようと、ベッドサイドのライトをつけたら、室内に人がいた。
 一瞬驚いて体が反射的にビクッとしたけれど、よくよく見れば椅子に腰掛けた希壱だった。

 一真が起きるのを待っていて、眠ってしまったようだ。
 時計を見たら二十時を過ぎている。一真はベッドを降りて、希壱の傍まで歩いていく。

 もうしばらくしたら面会時間も終わりなので、話せず今日が終わるのは嫌だった。

 だがさすがにすぐ起こすのは気が引けて、眠っている彼の前でしゃがみ込み、じっと寝顔を見つめる。

(今日は何曜日だったか。連休明けだから忙しかっただろうな)

 仕事終わりの、最近すっかり見慣れたスーツ姿。居眠りしてしまうくらい疲れているのに、たとえ数分でも、毎日欠かさず顔を見せてくれる。

「寂しがり屋は俺のほうだったな」

 こうして顔を見るだけでほっとできる。

 常に人の気配を傍に感じていたい。

 愛する人が欲しい。

 自分が人のぬくもりと愛に飢えていたなんて、希壱と再会するまで、一真は気づきもしなかった。

 独りでも生きていける、そう錯覚していたのは、一真自身がそうでありたいと思っていたからなのか。

「……一真、さん?」

「起こす前に起きたな」

「いつからここにいたの? もっと早く起こしてくれて良かったのに」

「ほんの少し前だ」

 重たそうなまぶたを擦りながら、希壱は背もたれに預けていた体を起こす。そして立ち上がった一真を、おもむろに引き寄せて膝に乗せた。

「入院して一週間ちょっとだけど。痩せたんじゃない?」

「三キロくらい?」

「いまはずっと寝てるから筋肉が衰えちゃうのは、仕方ないか。ご飯もまだあまり食べられないしね」

 心配そうな眼差しで見上げてくる希壱は、腕を回した一真の体をぎゅっと抱きしめた。

「このくらいはすぐに戻る」

「うん。でもあんまり痩せると、俺が心配になるから。タンパク質がしっかり取れる、おいしいレシピを覚えておくね」

 胃の修復にも、タンパク質は大事なのだとか。一真の退院に備えて、忙しい最中で希壱は色々なレシピを調べていると言っていた。

「希壱もしっかり食べてしっかり寝て、体を壊すなよ」

「気をつける。……ねぇ、一真さん」

「ん? おねだりか? いいぞ」

 いつものおねだり声に、希壱が望んでいるものに気づく。すぐに一真が了承すると、嬉しそうに希壱の表情がほころんだ。
 抱きしめていた一真の頬を撫で、彼はそっと唇を重ねてくる。

 優しく、まるで壊れ物を扱うみたいなキスで、一真はくすぐったい気持ちになった。それと同時に、まだ気にしているのだろうかとも思う。

 一真が胃を壊して倒れたのは、自分にも原因があると、口に出さないまでも、しばらく希壱はひどく気に病んでいた。
 確かに間違いではないけれど、すべてではないので責任を感じるなと、何度も言ったのだが。

 まっすぐな性格の希壱が、気にしないわけがない。乱暴にしたらガラスのように壊れるのでは、と感じていそうだった。

「遠慮がちだな」

「あんまりすると、ほら、さ。我慢とかも」

「なるほど。溜まってるんだ?」

「そこそこ」

「忙しいしな。退院したらいっぱい抜いてやるからな」

「一真さんが手に入るのは、あとどのくらいなのかな?」

 照れくさそうにする希壱へキスを返したら、ちらっと窺うような眼差しを向けてくる。
 彼の言う〝手に入る〟は、付き合えるようになるのほかに、一真自身も含まれているのだろう。

「希壱は俺が抱きたいのか?」

「う、うん。駄目?」

「……ああ、だからあの時、喜んでたのか」

 ネコをしたことはないが、相手によると一真が言ったら、希壱の目が輝いたのを思い出す。当時から希壱が自分を欲していたと気づき、少しだけ一真は驚いた。

「元々はこだわりがなかったんだけど。一真さんが相手だったら、俺、そっちがいい」

「仕方ねぇな。可愛い希壱に俺の初めてをくれてやるか」

「ほんと! やった、嬉しい」

 その日を楽しみにしていると、熱のこもった目で見られて、一真は胸がドキリとした。
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