遅咲きの番は孤独な獅子の心を甘く溶かす

葉月めいこ

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獣王の素顔

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 温室の内部はなんとも形容しがたいが、あえて言うならば清浄な空気が漂う、神聖な場所という印象だった。
 入り口付近、広く空間の取られたホールを抜け、石畳の道を逸れずに進んでいくと、両脇に花壇を配した横幅が二人分ほどの道に変わる。

 花壇では真っ白な花が微かな風に花弁を揺らされ、光の粉を振りかけられているかの如く輝いて見えた。
 花壇一面に咲く白い花が国花の〝メイヴィー〟であるのはすぐに気づいた。

 思いがけず花が咲いている状態が見られて、リトは感動で言葉を失う。
 白い花弁に映える鮮やかな青い花心。想像の何倍も、何十倍も美しい花だった。

「……あの方が、国王陛下?」

 さらに奥へ進めばひらけた場所にたどり着き、ティーセットやケーキスタンドを載せたテーブルが目についた。
 目的の人物を探して視線を動かせば、柔らかく降り注ぐ陽射しの中でこちらに背を向け立っている人が目に留まり、リトは無意識に息を飲んだ。

 獅子の獣人だけあって体躯が大きいものの、背の高さも相まって厳つさは感じられない。
 癖のあるオレンジブラウンの髪は編んで背中に垂らされており、それが獅子の尾のようにも見える。横髪に自分の髪色を見つけて、リトは彼で間違いないと確信した。

 陛下もロザハールの衣装を身につけており、無地だったベルイの衣装とは異なって、刺繍がふんだんに施された非常に華やかな上掛けだ。
 本物の獅子の尾はいま、くるぶし近くまである上掛けに隠れている。それでも丸みのある耳は後ろからでも見て取れた。

「こ、国王陛下にご挨拶申し上げます」

 無闇に近づくのも無礼に思えて、こうべを垂れリトは少し離れた位置から声を上げた。
 震える声が情けなく響き、リトに気づいた陛下がゆっくりと振り返ったのが、なんとなく感じられる。

「よく来てくれた。もっと近くへ」

「……?」

 耳に心地良い低音で呼びかけられたけれど、やけに聞き覚えのある声で、リトは頭を下げた格好で固まった。
 グルグルと思考が駆け巡り、必死で現状を理解しようとしている自分は、夢でも見ているのかと思わず頬を指先でつまむ。

「やはり君は、最初から俺が視えていたんだな。目だけでなく耳まで良いとは。それとも相手のスキルに影響を受けない体質なんだろうか」

 滑稽なリトの仕草に小さく笑った陛下は、つい最近どこかで聞いた言葉を連ね始める。
 ようやく点と点が結ばれた瞬間、リトは体中に滝のような汗が流れる錯覚に陥った。エリックのときとは比べものにならない動揺だ。

(僕は王様を荷車に押し込んでぼろ布を被せたの? 運河なんかに飛び込ませるとか不敬どころじゃない。……そもそも彼に心が惹き寄せられたのは、番だったから、なのか)

 ゆるりと顔を持ち上げた先にいたのは左目の傷が痛々しい、蜂蜜色の瞳をしたまた会いたいと願っていた人。
 嬉しい気持ちはあるけれど、がっかりとした気持ちも同じくらい感じる。

 もしロヴェが相手だったらいいのに、と考えたのは嘘ではなかった。だが現実になると運命などでなく自身の心で彼を好ましく感じたとは、心から思えなくなってきた。
 いまもロヴェを目の前にして心を乱され、黄金色の瞳に魅了されている自分に、リトは落ち着かなくなる。

「陛下、申し訳ありません。これまでの数々の無礼をお許しください」

「……リト、もう名は呼んでくれないのか?」

「自分などが陛下の尊名を軽々しく呼ぶのは」

「そうか、久しぶりに名を呼ばれて嬉しかったのだが、無理強いはできないな。まずは椅子に掛けてくれ。少しくらいは話をしてくれるだろう?」

 寂しそうに目を伏せたロヴェの横顔にリトは自分の失敗を悟る。己が感じた負の感情をなんの非もない彼にぶつけてしまった。
 元々、ロヴェはリトを騙すつもりではなく、二度の邂逅はまったくの偶然であるはずだ。

 彼の疑問から推測すれば、初めて会った日も姿を変えていたのだろう。
 思い返せばリトが金色の瞳に見とれたのだと言った時、ロヴェは驚き考え込んでいる様子だった。

 まさか本来の姿を見られていたとは想像もしなかった上に、二十年も音沙汰のなかった番である。不用意に自分の素性は伝えられるわけがない。

「あの日、なぜ白の騎士団を避けていたんですか?」

「……正直なところあの日だけではないんだ。毎度毎度、彼らには無駄な労力を使わせていたな。申し訳ない真似をした」

「内緒で王宮を抜け出してたって意味ですか?」

 立ち止まった場所から動かず問いかけるリトに苦笑しながら、ロヴェは椅子に腰掛けると自らティーポットを手に取る。
 自分がすべきだったのではと慌てるリトを片手で制して、そのまま彼はティーカップに注いだお茶を優雅に口に運んだ。

「数ヶ月ほど前からなぜだか落ち着かない気持ちになってな。城下に降りたくてたまらないが、私的な行動でも護衛はぴったりとくっついてくる。黙って抜け出すのは最初のうち目をつぶってくれていたものの、頻度が高くなりすぎて追い回される結果になってしまった」

「数ヶ月、前……」

「あの日は自分と同じ魔力を感じて駆けつけたら、君がいた」

「でもあれは、この首飾りのせいじゃ」

 ロヴェが落ち着かなくなったのは、もしかしたら自分が王都へ来たからではと考えたけれど、首飾りについてエリックはそこから感じる魔力と間違えたと言っていた。
 リトがあれからずっと身につけていた首飾りを首元から取り出せば、ロヴェはわずかに眉尻を下げる。

「それは俺の魔力で作られたものだ。君が会ったモルドールのキリエルは俺の協力者で、各地各国で番を探せるように首飾りを預けていた。彼は高い魔力感知能力を持っているから、微弱な君の魔力に気づいて目印のつもりで渡したようだ」

「なるほど、そういう経緯だったんですね」

「首飾り、俺に返してくれないか?」

「えっ? これは」

 突然の返却要求にリトは大げさに戸惑い、思わず首飾りの石をぎゅっと強く握りしめた。
 自分が持つには分不相応だとは思っていたが、ロヴェの瞳に似た石がとても気に入っていたのだ。

「すまない。言い方が悪かった。他人から渡された装飾品を身につけて欲しくないんだ。君のために新しく作るから、それは手放して欲しい。獣人という存在は厄介なほど嫉妬深いんだ」

「陛下は僕が番だから良くしてくれるんですか?」

「どうなのだろうな。君に対して恋しい気持ちを感じるし、守りたいとも大切にしたいとも感じる。だとしても俺は君をまだよく知らないから、愛を囁くのは無理だろう」

「……そうです、よね」

 正直なロヴェの言葉で頭を殴られた気分になり、自分の愚かさにリトは恥ずかしさでいたたまれなくなった。
 いくら定められた番同士とはいえ、出会ってすぐ恋に落ちて愛し合うなんて、魅了のスキルでも使わなければあり得ない。人の心理はそこまで短絡的ではないはずだ。

 片寄った先入観で己の気持ちは作られたもの、ロヴェも獣人だから番と言うだけで自分を気にかけたのだと判断し、リトは一線を引いた。

 そもそもここまでの話をきちんと聞いていれば、疑問を持ってしかるべきである。
 初めて出会った時にリトが番だと気づいていたのであれば、居場所を突き止めて、王宮への訪問命令を下してもいいくらいだろう。

 それをしなかったのは、これまで名乗らなかったなんらかの理由を考慮して、ロヴェ自身はリトの行動を待つ選択をしたのだ。

「ごめんなさい。僕、いま頭がちょっと混乱してるみたいで、上手く考えが」

「構わない。いますぐに結論を出す必要もない。選択次第ですべてが大きく変わるのだから、このままなにもなかったことにして、元の生活に戻ってもいい。これまでも王家への輿入れを拒んだ番は、数多く存在する」

「それが王様の番でも?」

「……過去の事例になかったとしても、君の意思を尊重する」

(番には甘いって聞いてたけど、さすがにこれは甘すぎるよ。僕の迷いのために全部を諦めるっていう意味でしょう? 献身的と言うより自己犠牲が強い)

 このまま平凡な生活に戻って、毎日それなりの幸せを甘受して暮らしていくのは容易い。しかしそんな日々をリトが送る一方で、王族獣人のロヴェは生涯、誰も愛せずに生きていく。

 それどころかヘリューンの王女を形だけの王妃にして、気遣いながら暮らしていくのだと想像すれば、途端にリトは胸の奥にモヤモヤとした黒い影を感じた。

「あ、あの! 勝手なお願いですが、しばらくのあいだ僕を王宮に置いていただけないでしょうか! 王家や王宮、貴方をなに一つ知らない状態では返事ができません。だから僕に知る機会をください」

「……そうか。だったら一つだけ交換条件だ」

「な、なんでしょうか」

「やはり名を呼んで欲しい。ロヴェインでもロヴェでもいい。もう身内で俺の名を呼んでくれる人がいないんだ」

 寂しさを含んだ黄金色の瞳が揺れて、リトは心臓を掴まれたみたいに苦しくなった。
 ロヴェイン・ディル・ロザハール――王宮に来てから、ロヴェの名前を一度も聞かなかった状況に気づく。王位に就いたいまの彼は、個人ではなく常に公人なのだと理解する。

 もしかしたらそれ以前から、生まれた時から周囲に〝王太子〟と呼ばれていた可能性すらある。幼い頃は名で呼ばれていても、歳を重ね、気がつけばロヴェインという個人は己の陰に隠れていたかもしれない。

「ロヴェ、いくらでも呼ぶので、僕もリトって呼んでください。突き放してごめんなさい」

 リトが名前を呼ぶのを拒否したからなのだろう。
 一線を引いてへりくだった態度を取るリトをあえて気遣い、ロヴェも最初の一言以外でリトの名を呼ばなかった。

 気づいた瞬間、寂しさを覚えたが、拒否されたロヴェはそれ以上に悲しかったはずだ。

「リト、しばらくは難しく考えずにのんびり過ごすといい。俺は君という存在を窮屈な箱に収める気はない」

「あ、あの、またロヴェには会えますか?」

「もちろん。リトが望むならいくらでも」

 やんわりと目を細めたロヴェの眼差しにリトの胸は少し早い音を立てる。
 名前もついていない、くすぶる気持ちが形になるのはきっとまだ先だけれど、優しさに満ちた瞳を持つ彼をもっと知ろうという気持ちは確かに芽生えた。
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