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第5章 廃病院に集まる悪霊たち

第48話 廃病院

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 そうこうしている間にも、廃病院を取り巻く黒いモヤのようなものは密度を増してきているように思えた。

 千夏は晴高が地面に引いた線の手前に立つと、トートバッグを胸に抱きしめる。
 この中に入っているキリンのマスコットを、建物の中に置いて来さえすればいい。ただ、それだけでいいんだ。建物の入り口はここからも見えている。おそらく元は自動ドアのついていたと思しきその入り口は、完全にガラスが割れてしまっていた。

「……行くか」

 隣に立つ元気が手を差し出してくる。それをぎゅっと握って、こくんと千夏はうなずく。すぐ後ろに立つ晴高が読経を始める。それに合わせて、少しずつモヤが薄れていくように見えた。

 千夏と元気は同時に、線の向こう側へと足を踏み出す。
 途端にねっとりと肌に絡みつくような空気の濃度を感じた。まるで水の中を歩いているかのようだ。まだ昼前のはずなのに、黄昏時のような薄暗さ。
 千夏たちの前に、建物の入り口がぽっかりと口を開けていた。

 オオオオオオオオ………

 建物を通り抜ける風が不気味に鳴る。
 足が竦んでしまいそうだ。

(あそこまで行くだけでいい。このマスコットを置いてくるだけ。そうしたら、すぐにダッシュで戻ろう)

 幸い、霊らしき姿は千夏には視えなかった。
 建物に向かって歩き出す。早くここから立ち去りたい。恐怖が足を急かす。
 後ろからついてきてくれている晴高の読経の声が心強かった。霊が近寄ってこないのは、この読経のおかげかもしれない。

 千夏と元気は急いで建物の前までいくと、トートバッグからあのキリンのマスコットを取り出した。一瞬、あの悪夢で見たように目が人の目のようになっていたらどうしようと想像して怖かったが、取り出したマスコットはかわいらしいつぶらなビーズの瞳のままだった。

(この子をお返しします)

 そう心の中で唱えながら、入り口から手だけ差し入れてキリンのマスコットを建物の中に置こうとした。
 そのとき、背後からパタパタパタという軽い足音が迫ってくる。

「え……」

 振り向いた瞬間、何かが千夏の身体をすり抜けた。

「え、な、なに!?」

 キリンのマスコットを手に持ったまま、今すり抜けていったものを目で追うと、五歳くらいの男の子の背中が見えた。

 そして、たったいままで目の前に廃病院のエントランスが見えていたはずなのに、いつのまにかそこには病室があった。荒れた廃墟の病室ではなく、清潔な個室。
 何が起こったのかさっぱりわからない。隣にいる元気を見上げると、彼も困惑した表情を浮かべていた。

 その病室には、一台のベッドが置かれている。いつの間にか、晴高の声も聞こえなくなっていた。
 男の子は千夏たちがまったく見えていないかのようにすり抜けたあと、ベッドまで走っていった。そのベッドには、髪の長い若い女性がパジャマ姿で座っている。

「華奈子おねえちゃん!」

 名前を呼ばれてベッドの女性が振り向く。彼女は男の子の姿をみつけると、優しい笑顔を浮かべた。そして駆け寄ってくる男の子の身体を抱きとめ、優しく頭を撫でる。

「おねえちゃん!  ボク、きょうもイタイのガンバったよ!」

 男の子は誇らしげに彼女にそう報告する。

「すごい!  偉いなぁ」

 彼女に褒められて、男の子は満足そうに満面の笑みを浮かべた。その男の子の手には、千夏がいま手にしているものと同じキリンのマスコットがあった。

(この景色……)

 この光景には見覚えがある。以前、晴高が倒れた時に見た華奈子のものとおぼしき記憶と同じ。ただ、アングルが違っている。あのときは、華奈子の目を通してみた情景が見えていたが、今回は華奈子とも男の子とも違う、千夏たちがその場に第三者としていたかのような視点からの景色だった。

 しかもあの時見た記憶はたしかここまでで途切れていたはずだったが、目の前の華奈子と男の子の会話はさらに続く。

「ボクね。らいしゅう、シュジュツするんだって。でも、ゲンキになってタイインできたら、パパとママとハルカと四人で、また動物園いくんだよ」

 男の子は目をキラキラさせて、華奈子に言う。彼女は、柔らかく目元を緩めて優しく男の子の頭を撫でた。

「そっか。じゃあ、頑張らなきゃね」

「うんっ」




 そこで、ぐらっと周りの景色が反転する。
 今度は、病室の廊下にいるようだった。華奈子は男の子と手を繋いで歩いていた。

「華奈子おねえちゃん! かくれんぼしようよ!」

 男の子が言う。華奈子が迷っていると、男の子は彼女の手を離れてパタパタと廊下を走って行ってしまった。

「あ、こら! 走っちゃダメだって!  また、悪くなっちゃう!」

 華奈子はそう言って追いかけようとするが、彼女はゆっくりしか歩けないようだ。男の子はどんどん先に行く。
 廊下の先で立ち止まると、男の子は振り返った。ちょっと走っただけなのに肩で息をしている。しかしその表情は、華奈子に構ってもらっているからか楽しそうだ。

「きょうはゲンキだから、大丈夫だもん。ボク、かくれるから。華奈子おねえちゃん、みつけてね」

 そして、どこかの部屋に入ったのか彼の姿が視界から消えた。

「まったく、もう……」

 少し困ったような笑みを浮かべながら、華奈子は彼を追った。彼女は彼がどこに隠れているのか知っているようだった。ゆっくりとした足取りだったが、確実にある場所へと向かう。

 それは廊下の中ほどにある大き目の部屋だった。窓からは明るい日差しが差し込み、室内には丸テーブルが数台。その周りにそれぞれゆったりとした椅子が四脚ずつおかれている。壁際にはテレビや、本棚もあった。

 おそらく、入院患者が見舞客とひと時を過ごしたり、読書などをしにくるデイルームと呼ばれる部屋だろう。その部屋の傍らには手洗い場があった。

 華奈子はその手洗い場に近づくと、その下の収納扉を開ける。そこは配水管がむき出しになっているだけで普段は何も入れていないようだったが、いまは小さく丸まって男の子が隠れていた。

「みつけた」

 彼女が声をあげると、男の子は嬉しそうに笑う。

「みつかっちゃた」




 ぐにゃっと目の前の景色が歪んだかと思うと、今度は再び病室にいた。
 ベッドの周りにたくさんの大人たちが取り囲んでいる。誰かが泣いていた。ベッドの上には静かに目を閉じた男の子。母親らしき女性が涙を流しながら、しきりに男の子の腕を撫でていた。

「ソウタ……よく、頑張ったね……ソウタ……」

 傍には父親らしいスーツの男性と、その男性に抱かれた一歳くらいの女の子もいる。
 その子は抱かれたままベッドの上の男の子を指さして「にーた。にーた」と父親に言った。父親は涙を拭くこともできずに肩を揺らしていた。




「おいっ! おい! 大丈夫か!?」

 ハッと気が付くと、目の前に晴高の顔があった。彼に両肩をつかまれて揺さぶられていたようだ。

「あ、あれ? 晴高さん……?」

 ひどく慌てた晴高を不思議に思うが、彼は千夏が呼びかけに反応したことでホッとした顔になった。

 周りを見回すと、ここは廃病院の中のようだ。天井がはがれ落ち、窓ガラスはほとんどが割れ、周りには医療ワゴンやら落ち葉やらゴミのようなものが散乱している。

「……焦った。お前らが急に、何も言わずにこの中に入っていくから」

 そこは建物の入り口から数メートル入った廊下だった。そこからさらにT字路になって奥へと廊下が続いている。廊下の両側にはいくつもの扉が並んでいた。そのすぐ近くには上への階段も見える。
 なぜ自分がここにいるのかわからない。

「そうだ。私……」

 手の中には未だにあのキリンのマスコットが握られていた。それを入り口に置こうとして、それからここに来るまでの記憶がない。ただ、さっき見えたきれいな病室の情景ははっきりと覚えていた。あれは、おそらくこの病院の在りし日の姿。

「あの子に、そのキリン。返さないとな」

 ポツリと元気が言う。

「そうなの。このキリンさんをあの子に返すためにここに来たの。でも、それはそこに置いておくだけではダメ。悪い霊たちがまた邪魔をしてこのキリンさんを隠してしまうから。そうなる前に、あの子を見つけ出して。あの子に直接このキリンを返さなきゃ。そしてあの子をここから救い出すの」

 そうスラスラと千夏の口から言葉が紡がれる。自分の言葉でありながら、自分で言ったものではないような言葉の数々。
 そう、これは千夏の中にあった言葉ではない。言わせているのは華奈子しか考えられなかった。
 千夏は晴高に言う。

「華奈子さんが教えてくれた。男の子の隠れている場所もわかってる。行きましょう、晴高さん。華奈子さんが導いてくれる」

 華奈子の名前に、晴高が瞳を揺らした。しかし、それも一瞬ですぐに彼の瞳にも強い光が戻る。

「わかった。行こう」

 そのとき、それまで静寂に満ちていた館内に不気味な音が轟く。

 オオオオオオオオオオオオオォォオォォォォオォオォォォ……

 さっきは風が吹き抜ける音にしか聞こえなかったが、今ならわかる。
 これは声だ。沢山の人の、うめき声。ひとつひとつが、生者への憎しみと恨みで満ちていた。

 ……ニクイ…ニクイ……

 ……ナンデ…クライ、クライヨ……

 …タスケテ……オネガイ……イヤ…イタイ……

 ……シネ……シネ…シネ、シネ、シネ、シネ……シネ!!!

 廊下の奥に黒いモヤが集まりだした。それはすぐに形をなし、天井に達するほどの黒い塊となった。何本もの黒い手足を持ち、這うようにこちらに向かってくる。巨大な黒い塊には人の顔のようなものがあちこちに現れては消えていく。それらが口々に、生者への憎しみを呟いていた。

 後ろを振り向くと、いつのまにか入り口は閉まっていた。あそこにはガラスの割れた自動ドアがあったはずだ。なのに、いまそこは何か黒く長いもので一面を覆われていて、光すら通さなくなっていた。あれは、人の髪の毛だ。

 退路をふさがれてしまった。もう、前に進むしかない。
 千夏と元気と晴高は互いに目配せすると、頷きあった。

 そして、一斉に走り出すと階段へ向かう。目指すは、あのデイルームがあるはずの三階だ。
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