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第3章 飛び降り続ける霊

第22話 記憶の中の景色

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 翌日の午前中は代休を取って午後に出社すると、千夏はすぐにノートパソコンを開いた。

 あのあと自宅に帰ってからずっと考えていたのだ。
 あのマンションから飛び降り続けるサラリーマンの霊。彼はどこの会社に勤めていたんだろう。そして、その会社はいまどうなっているんだろう、って。

(手掛かりは、あの霊の思い出の中にあった景色くらいしかないんだけどね)

 あの霊の記憶は、どれも会社でのものだった。オフィスの中から見たものと、オフィスビルの入り口を見たもの。

 彼が上司に怒られていたあの記憶。あのとき、上司の背後に見えていた窓からの景色ははっきりと覚えていた。窓から見えたモノは道路の向かいに建つ雑居ビルと、そのさらに奥に見えていた特徴的な形の大きなビル。あれだけ大きく見えたということは普通のビルではない。おそらく、かなりの高さのある高層ビルだ。

 そして彼が飛び降りたマンションが建っているのは、大久保。新宿からは目と鼻の先にある。彼があのマンションの住民だったのかどうかは結局調べても分からずじまいだったが、あそこはファミリー向けの分譲マンションだ。なんとなく、まだ二十代後半くらいに見えた彼は住人ではなかったような気がしていた。彼は、会社に出社するために最寄り駅まで来たものの、会社に行けずにさ迷い歩いているうちに背の高いあのマンションを見つけて入り込み、飛び降りたんじゃないだろうか。

 彼の勤め先があったのは、高層ビルが立ち並ぶ西新宿の周辺のどこかだと目星をつけていた。

 パソコンの地図アプリで、西新宿周辺をくまなく調べる。
 昨日、記憶の新しいうちに、窓から見えた景色とビルの入り口の簡単なデッサンを描き取っておいた。それと照らし合わせながら、衛星写真を元に作られた地図アプリの画像を見比べていく。

 一人では探しきれないため、同じ記憶を覗いた元気にも手伝ってもらうことにした。彼は、デスクの上に置かれたタブレットで同じ地図アプリを起動して、千夏が探している場所とは違うブロックを調べてくれている。

 傍から見るとデスクに置かれたタブレットの画面が勝手に動いているように見えるだろうが、最近は職場の人たちも慣れたのか気にしなくなったうえに、時々職員に配るお菓子を元気のデスクにも置いて行ってくれる人まで現れるようになった。

「お前、すっかりうちの職員と化してるな」

 と、これは晴高の言だが、

「時間なら、いっぱいあるからね」

 元気は地図アプリを見ながら、すいすいと画面を指で操作していく。
 実際のところ、元気と作業を分担できるのは助かることこの上ない。
 そうやって手分けして探していたところ、

「あ、これ。それっぽくない?」

 大久保寄りの地域を調べていた元気が、声を弾ませた。

「え? どれどれ?」

 千夏は覗き込むと、画像を指で引き延ばしてみた。
 そこには千夏が書いたラフ絵とそっくりなエントランスが映っていた。

「これだよ!」

 試しにタブレットに映っていた画像を方向転換させてみる。エントランスが映しだされていた画像がぐるっと百八十度向きを変えて、今度は向かいのビルとその先にある西新宿の高層ビル群を映し出していた。この場所で間違いない。

 早速、千夏と元気は現場確認に出かける。
 水道橋からは、総武線一本ですぐに新宿に出ることができる。西口から出ると、平日昼間でも多い人波を縫うようにしてあの景色の場所へと向かった。

「確か、この辺りなのよね……」

 新宿駅の大ガードから中野へと延びる幹線道路。かなりの車が行き来している。その歩道をスマホアプリ片手にぶつぶつ言いながら歩いていると、ほどなくして目当てのオフィスビルを見つけた。

「あ、あった!!!」

 すぐに駆け寄る。うん。間違いない。このアングルからの景色もあの霊の記憶にあったものとほとんど一緒だ。





 次の月曜日の深夜。
 千夏たち三人は三度みたび、あのマンションを訪れていた。

 千夏が持っているトートバッグには、この一週間で調べ上げた、あの霊を説得するための資料が入っている。

 この時間はもう管理人はいないため、管理事務所用のマスターキーでオートロックを開けるとエレベーターホールへ向かう。上のボタンを押してカゴが下りてくるのを待っていると、「あ」と晴高が声をあげた。
 パタパタとズボンやジャケットのポケットを触るが、そこにあるはずの感触がなかった。

「まずい、スマホを車に忘れてきた」

 そのとき、チンという音をたててエレベーターが一階につくと、扉が開く。

「ちょっと取りに行ってくる」

「わかりました。私たち、先に上、行ってますね」

「ああ」

 そんな短いやりとりを交わして、千夏たちが乗り込んだエレベーターの扉が閉じた。

 まだ、あの霊がでる時刻まであと小一時間ある。先に千夏たちだけ上に行かせても問題ないはずだ。晴高はそう考えていた。
 マンションのエントランスを出たところで、手がジャケットのポケットに触れた。

(あれ……?)

 ポケットに手を入れると、そこに探していたスマホがある。

(……おかしいな)

 さっきはなぜ、スマホがないと思ったのだろう。不思議に思いながらも晴高はエレベーターホールに戻った。
 千夏たちは既に十四階に着いたようだ。上のボタンを押すと、ほどなくしてカゴが下りてきたのですぐに乗り込む。
 14のボタンを押すとすぐに上昇をはじめた。

 扉の上に並んだ数字の明滅が1から順に右に移っていくのをぼんやりながめていて、晴高は妙なことに気づいた。
 数字が8と9の間で行ったり来たりして進まなくなっている。
 しかし未だエレベーターは上昇を続けていた。

(なんだ、これ……)

 そもそも、さっきスマホを忘れたと思ったところからおかしかったのだ。ちゃんといつも通りポケットに入っていたのに、それに気づかないなんてことがあるか?
 ぞわと、嫌な冷たさが背筋を這い上ってくる。
 おかしい。明らかに異常だ。

「……!」

 晴高は叩くように『開』ボタンを押した。しかし、何の反応もない。いまだ、エレベーターは動き続けている。どんだけ上昇してるんだ。緊急ボタンを押しても何の反応もなかった。いま何階にいる? いや、そもそもマンションの中なのか?

(くそっ、閉じ込められた!!!)

 心の中に焦りが湧き上がってくる。嫌な予感がどんどん増してきた。

 そこで、ふとあることに気づいて晴高はスマホを取り出した。ここに来る前に見た、ある新聞記事のスクリーンショットを選び出す。それは数年前の、親族が勝ち取った過労死自殺の労災記事だった。千夏の調査であの霊の勤め先名が判明し、そこから芋づる式に出てきたニュースだ。当時、二十六歳だった杉山大輔という職員が、過労とパワハラを理由に自殺している。

 そのスクショを引き延ばして見てみた。彼の亡くなった日までは記載されていなかったが、彼が亡くなった年月はそこに載っていた。それを確認して、思わず晴高はエレベーターの壁を力いっぱい殴る。

(やっぱりだ……しまった。そこに気づかなかったなんて……)

 それは、今からちょうど六年前の今月だった。だとすると、彼の七回忌にあたる命日が今日だった可能性がある。いや、この事態を見るに、ほぼ確定だろう。

 千夏と元気は先に十四階に行ったはずだ。奴らの目的はなんだ? そんなの考えりゃわかる。除霊の力を持った晴高が邪魔だったからだ。だから、千夏たちだけ先にいかせて、晴高は引き離された。

(頼む……無事でいてくれ。頼む……。もう、誰も失いたくないんだ!)

 晴高は心の中で叫ぶように祈った。
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