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第2章 夜な夜な泣き彷徨う霊
第15話 帰るところがないのなら、うちにおいでよ。
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職場に戻って今回の案件の報告書を書いていたら、いつの間にか窓の外は暗くなっていた。
晴高はとっくに、定時きっかりに帰ってしまっている。
(……そういえば、あの人あんまり残業しないよね)
夜に現場調査にいかなければいけないときなどはもちろん残業しているが、それ以外の日は定時とともにあがっているようだ。
(仕事早そうだから、それでも問題ないんだろうなぁ)
この職場に配属されて、早一週間。
千夏はまだここでの仕事になれていなくて、どうしても残業が多くなってしまう。
今日なんて管理職ももう全員帰ってしまって、オフィスには千夏だけになっていた。
隣の席の元気は当然ここにいるのだが、彼は千夏から借りたタブレットを興味深げに眺めている。今見ているのはニュースページのようだ。
「そろそろ帰ろうかと思うんだけど」
「ああ、うん。じゃあ、このタブレット返すよ。貸してくれてありがとう」
そう言って、元気は柔らかく笑う。
千夏は元気のデスクに置かれていたタブレットを手に取り、電源を落とすとトートバッグにしまった。
元気は、千夏が配属されてくるまではその席に座って、俯いたまま始終ぼんやりしていることが多かったようだ。
晴高に聞いても、元気は半年くらい前にそこに出没しだしてからというもの、たまに場所が変わったりはしていたが、基本的にただ虚ろに座っていただけだったという。
『勝手に絡んでくる霊もいるが、大半の霊はそんなもんだ』なのだそうだ。
でも、話しかければ意思の疎通ができる相手にずっと隣の席でぼんやり俯かれているのも、千夏自身が落ち着かない。
そこで通勤時間中にドラマを見るために持ち歩いていたタブレットを元気に渡してみたところ、とても喜んでくれた。それからはニュースページを見たり、海外ドラマを見たり。千夏がオフィスにいる間、彼はタブレットを見て過ごすのが日課になりつつあった。三年も幽霊をやってきて、知的刺激に飢えていたのかもしれない。
「それじゃあ、また明日」
「ああ、また。気を付けてね」
千夏は自分のノートパソコンを閉じると、そんな挨拶を交わしてトートバッグを肩にかけた。
オフィスの出入り口まで歩いていくと、
「じゃあ、消しちゃうね」
壁際にある照明のスイッチをオフにした。パッと室内の照明が消えて、光源は非常出口のおぼろげな緑の明かりだけになる。
オフィスを出るとき一度振り返ると、元気がぼんやりと席に座っているのが見えた。
真っ暗な広いオフィスに、ぽつんと一人残される元気の姿。
静かに俯き加減で座るその姿は、まるで幽霊のように見えた。
(幽霊なんだけどさ)
いつも明るく元気に話してくる彼の姿からすると、いまの幽霊然とした様子はまるで別人のように思えてしまう。
千夏はオフィスを出て廊下を歩くと、エレベーターへと向かった。
しかし、さっき見た元気の姿が脳裏にこびりついて離れない。
彼も生きていたころ。ここの下の階にある銀行に勤めていたころには、仕事が上がれば自宅に帰ったり飲みに行ったり、友人や彼女と会ったり、そうやって普通の人として暮らしていたのだろう。
しかし、今の彼にはほかに帰るべき場所もなければ、休めなくてはいけない肉体もない。
街中などでたまにみかける幽霊たちと同じように、ただぼんやりと俯いてそこにいるだけ。別におかしなところはない。彼は幽霊なんだから。
(そうなんだけど。そうなんだけどさ……)
楽しそうにタブレットを眺めていた元気の姿と、今見たうつむいた姿が重なる。
ころころとよく表情を変え、よく笑い、よく喋る彼と、精巧に作られたオブジェのように微動だにしない俯いた彼。
まるでスイッチがオンオフするかのようだ。
彼はああやって毎晩一人きりで、ただ夜が過ぎるのを待っているんだろうな。眠ることもなく、たった一人で。こんな寂しいところで。
エレベーターが昇ってきた。一階から二階へと表示があがってくるのを見上げながら、ふとこんな思いが頭をよぎった。
(別に、この場所でなくてもいいんじゃない? 元々特に思い入れがあるわけでもなさそうだったし)
スイッチがオフになってただ佇むだけだったとしても、別にここでなくてもいいはずだ。いや、なんだか千夏自身が、彼をこんなところに一人で置いておきたくなかった。
そう思ったらもう、足が勝手に動き出していた。
背後でチンとエレベーターが三階についたことを音で知らせる。
しかし千夏の足はオフィスへと踵を返していた。オフィスのドアを開けると、やはりあの席に元気が俯いて座っている。
その背中に声をかけた。
「ねぇ! 元気!」
突然、夜に沈むオフィスに響いた千夏の声に、元気が驚いたように立ち上がってこちらを振り向いた。
「びっくりしたぁ。どうしたの、忘れ物?」
「そう。忘れ物なの」
すたすたと元気の元へ歩いていくと、彼はまだ戸惑った様子で千夏を見下ろしてくる。
手を伸ばして彼の腕をつかもうとするが、その手はスカッと空を切った。
(そうだ。つかめないんだったっけ)
あははと笑って腕を引っ込めると、元気の目を見上げた。
「あのさ。アナタ、夜はいっつもそこでじっとしてるんでしょ?」
「ああ、うん。そうだけど……」
千夏は、「じゃあさ」と笑いかけた。
「うちに来ない?」
元気の目が大きく見開かれるのがわかった。
「……え?」
「だからさ。ずっとそこに座っててもつまんないでしょ? うちに帰ればタブレットもまだ貸してあげられるし、パソコンとかテレビもあるから、アナタも楽しめるんじゃないかなって思って。……それとも、ここにいなきゃいけない理由とかあるの?」
元気は困ったような焦ったような顔で千夏から視線を逸らすと、口元に手を当てて考えるしぐさをする。
「別にここにいなきゃいけない理由もない、けど……」
戸惑いがちに零れ落ちた言葉に、千夏はパッと笑って。
「じゃあ、いいじゃない。うちにおいでよ。缶ビールくらいなら、おごるわよ」
まだしばらく元気は照れ臭そうに迷っていたが、ビールにつられたのかコクンと頭を縦に振った。
「それなら……お邪魔させてもらおうかな」
「ええ。是非どうぞ」
そう言うと二人の視線が絡み、どちらともなく笑みがこぼれた。
晴高はとっくに、定時きっかりに帰ってしまっている。
(……そういえば、あの人あんまり残業しないよね)
夜に現場調査にいかなければいけないときなどはもちろん残業しているが、それ以外の日は定時とともにあがっているようだ。
(仕事早そうだから、それでも問題ないんだろうなぁ)
この職場に配属されて、早一週間。
千夏はまだここでの仕事になれていなくて、どうしても残業が多くなってしまう。
今日なんて管理職ももう全員帰ってしまって、オフィスには千夏だけになっていた。
隣の席の元気は当然ここにいるのだが、彼は千夏から借りたタブレットを興味深げに眺めている。今見ているのはニュースページのようだ。
「そろそろ帰ろうかと思うんだけど」
「ああ、うん。じゃあ、このタブレット返すよ。貸してくれてありがとう」
そう言って、元気は柔らかく笑う。
千夏は元気のデスクに置かれていたタブレットを手に取り、電源を落とすとトートバッグにしまった。
元気は、千夏が配属されてくるまではその席に座って、俯いたまま始終ぼんやりしていることが多かったようだ。
晴高に聞いても、元気は半年くらい前にそこに出没しだしてからというもの、たまに場所が変わったりはしていたが、基本的にただ虚ろに座っていただけだったという。
『勝手に絡んでくる霊もいるが、大半の霊はそんなもんだ』なのだそうだ。
でも、話しかければ意思の疎通ができる相手にずっと隣の席でぼんやり俯かれているのも、千夏自身が落ち着かない。
そこで通勤時間中にドラマを見るために持ち歩いていたタブレットを元気に渡してみたところ、とても喜んでくれた。それからはニュースページを見たり、海外ドラマを見たり。千夏がオフィスにいる間、彼はタブレットを見て過ごすのが日課になりつつあった。三年も幽霊をやってきて、知的刺激に飢えていたのかもしれない。
「それじゃあ、また明日」
「ああ、また。気を付けてね」
千夏は自分のノートパソコンを閉じると、そんな挨拶を交わしてトートバッグを肩にかけた。
オフィスの出入り口まで歩いていくと、
「じゃあ、消しちゃうね」
壁際にある照明のスイッチをオフにした。パッと室内の照明が消えて、光源は非常出口のおぼろげな緑の明かりだけになる。
オフィスを出るとき一度振り返ると、元気がぼんやりと席に座っているのが見えた。
真っ暗な広いオフィスに、ぽつんと一人残される元気の姿。
静かに俯き加減で座るその姿は、まるで幽霊のように見えた。
(幽霊なんだけどさ)
いつも明るく元気に話してくる彼の姿からすると、いまの幽霊然とした様子はまるで別人のように思えてしまう。
千夏はオフィスを出て廊下を歩くと、エレベーターへと向かった。
しかし、さっき見た元気の姿が脳裏にこびりついて離れない。
彼も生きていたころ。ここの下の階にある銀行に勤めていたころには、仕事が上がれば自宅に帰ったり飲みに行ったり、友人や彼女と会ったり、そうやって普通の人として暮らしていたのだろう。
しかし、今の彼にはほかに帰るべき場所もなければ、休めなくてはいけない肉体もない。
街中などでたまにみかける幽霊たちと同じように、ただぼんやりと俯いてそこにいるだけ。別におかしなところはない。彼は幽霊なんだから。
(そうなんだけど。そうなんだけどさ……)
楽しそうにタブレットを眺めていた元気の姿と、今見たうつむいた姿が重なる。
ころころとよく表情を変え、よく笑い、よく喋る彼と、精巧に作られたオブジェのように微動だにしない俯いた彼。
まるでスイッチがオンオフするかのようだ。
彼はああやって毎晩一人きりで、ただ夜が過ぎるのを待っているんだろうな。眠ることもなく、たった一人で。こんな寂しいところで。
エレベーターが昇ってきた。一階から二階へと表示があがってくるのを見上げながら、ふとこんな思いが頭をよぎった。
(別に、この場所でなくてもいいんじゃない? 元々特に思い入れがあるわけでもなさそうだったし)
スイッチがオフになってただ佇むだけだったとしても、別にここでなくてもいいはずだ。いや、なんだか千夏自身が、彼をこんなところに一人で置いておきたくなかった。
そう思ったらもう、足が勝手に動き出していた。
背後でチンとエレベーターが三階についたことを音で知らせる。
しかし千夏の足はオフィスへと踵を返していた。オフィスのドアを開けると、やはりあの席に元気が俯いて座っている。
その背中に声をかけた。
「ねぇ! 元気!」
突然、夜に沈むオフィスに響いた千夏の声に、元気が驚いたように立ち上がってこちらを振り向いた。
「びっくりしたぁ。どうしたの、忘れ物?」
「そう。忘れ物なの」
すたすたと元気の元へ歩いていくと、彼はまだ戸惑った様子で千夏を見下ろしてくる。
手を伸ばして彼の腕をつかもうとするが、その手はスカッと空を切った。
(そうだ。つかめないんだったっけ)
あははと笑って腕を引っ込めると、元気の目を見上げた。
「あのさ。アナタ、夜はいっつもそこでじっとしてるんでしょ?」
「ああ、うん。そうだけど……」
千夏は、「じゃあさ」と笑いかけた。
「うちに来ない?」
元気の目が大きく見開かれるのがわかった。
「……え?」
「だからさ。ずっとそこに座っててもつまんないでしょ? うちに帰ればタブレットもまだ貸してあげられるし、パソコンとかテレビもあるから、アナタも楽しめるんじゃないかなって思って。……それとも、ここにいなきゃいけない理由とかあるの?」
元気は困ったような焦ったような顔で千夏から視線を逸らすと、口元に手を当てて考えるしぐさをする。
「別にここにいなきゃいけない理由もない、けど……」
戸惑いがちに零れ落ちた言葉に、千夏はパッと笑って。
「じゃあ、いいじゃない。うちにおいでよ。缶ビールくらいなら、おごるわよ」
まだしばらく元気は照れ臭そうに迷っていたが、ビールにつられたのかコクンと頭を縦に振った。
「それなら……お邪魔させてもらおうかな」
「ええ。是非どうぞ」
そう言うと二人の視線が絡み、どちらともなく笑みがこぼれた。
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