3 / 121
はじまり
彩芽、転移する
しおりを挟む
遠くの空に、竜が飛んでいるのが見えた。
月は空に二つあり、一つは見ていて分かるぐらいのスピードで空を横切り流れている。
眼下に広がる町並みは、西洋風でいて、どこか住む人々の文化それ自体に、見る人がすぐには気付かない違和感を感じさせるものがある。
まさしく剣と魔法のファンタジー世界そのものであり、商店が立ち並ぶ朝市には様々な人種の人々が溢れかえっているのが見えた。
「えええええええええええええええええええええーーーーーーーーーー!?」
そこがどこなのかは分からない。
でも、地球では無いどこかにいる事だけは確かに分かった。
* * *
木城彩芽(成人)。
生まれも育ちも東京都、O区。
母親が自分を生んだ時に亡くなり、父子家庭で育つも、その父親とも交通事故で数年前に死別。
兄弟姉妹はおらず、胸を張って友達と呼べる知り合いは片手で足りる。
現在、彼氏無し。
彼女は、ついこの間まで都内の中堅IT企業D社にフリーランスのプログラマーとして雇われていた。
フリーランスでも、一つの会社からの依頼を外注として請け負い、主な生計を立てるのは普通の事である。
要望には可能な限り応えて来たし、納期には常に間に合わせてきた。
仕事先からの信頼もあったし、悪評も無かった。
趣味は近所に住む野良猫のクロ(色が黒いから)に餌をあげる事。
飼いたいが動物アレルギー持ちで、過去には猫カフェにマスクをつけて行ったのが原因で、呼吸困難になり病院に担ぎ込まれた事もある。
そう言う意味では、欲望に忠実である。
ここ数年は、都内の二階建てアパート一階の風呂無し六畳一間で、質素な独り暮らしをしている。
ちなみに、家賃は五万三千円である。
大きな不満は無いが、同時に大した希望も無い、そんな生活を送って今に至る。
* * *
全ての始まりは、夏のあの日、突然に始まった。
セミがこれでもかと愛を叫ぶ真夏日、平日の午前11時。
「あちぃ……」
彩芽は、部屋でぐったりとしていた。
大きな不満が無いと書いたが、あれは今や嘘である。
目下の不満は、このご時世の部屋に扇風機しかない事であった。
だが、壁を見るとザラザラの土壁には、今どき見ない木目調のエアコンがあるにはある。
問題は故障していて、動かすと水が漏れてきて室内が水浸しになるのだ。
ラジエーターあたりがイカレテいるのは分かるが、なにぶん修理の技術が無い。
専門はパソコンやスマホのアプリ開発で、エアコンは専門外である。
修理業者が来るのが一週間後なので、リサイクルショップで買ってきた扇風機に頼る他に無い。
それよりも、大きな不満もある。
主な仕事の依頼元だったIT企業の社長が一昨日に夜逃げをして、依頼以前に事業継続が絶望的な状態と連絡が入ったのだ。
にもかかわらず、担当者は何かあるかもしれないから報酬の確証は無いが仕事を続けて欲しいと泣きついてきた。
ただ働きなんてやっていられないのでもちろん断ったが、主な収入源が途絶えた今、コネが無いならフリーランスを捨てて再就職しなければならない。
その合否通知の電話を待っているのだが、それが来ないのでぐったりとしているのだった。
だが、直接会った事も無い社長にも夜逃げしたくなる理由があったのだろうと、そこを責める気にはならなかった。
人生山あり谷ありでも、他人の谷のツケが回ってくる事をイチイチ責めていては、キリがない。
「変えられるのは、いつだって自分の人生の山と谷だけだ」
と、最近誰かがテレビで言っていたなと思い出す。
良い事言うじゃん、と曖昧に思い出しながらも、どこかで少し寂しいなとも思った。
だが、まあ、余分な金こそ持って無いが、すぐに死ぬほど切迫している訳でもないので焦る事も無い。
スマホを見ても、スパムメールさえ来やしない。
歯で舌ピアスを引っかけ、カチカチと口の中でピアスを遊ぶ。
彩芽が暇な時や、考え事をする時に出る癖である。
もっとも、パンツ一枚で畳の上に寝転がり、豊満な胸に畳跡をつけて床に押しつぶす状況では、頭は欠片も働いてはいない。
正直、おっぱいなんて大きくても、やたらと肩がこるし、こういう体勢では邪魔でさえある。
冷たい床を探して本能のままに転がりまわるのにも、いい加減限界があった。
この時の室温は、窓を開けているのに(道に面したベランダには、塀の目隠しと植え込みが一応ある)三十六度を超えていた。
体温と同じぐらいあり、かなりの暑さである。
カチカチカチ……
舌は動くが、変わらず頭が働いていない。
明る目の金髪に染めている背中まで届く長い髪が、汗で肌にべっとりと張り付き、うなじの蒸し暑さに比例して不快感が増していく。
散らかった床を這って、すぐそこの台所にある小さな冷蔵庫まで行くと、中には猫缶とビール(別に銘柄にはこだわっていない)と、おつまみのサラミしか入っていない。
ビールを二缶出して、一つをおでこに、もう一つを股間に挟むとパンツが缶の水滴でじんわりと濡れるが、引き換えに太い血管を流れる血液が冷えていき体温が少し下がる。
人様には見せられない恰好だが、少しだけ生き返った気がする。
だが、すぐにビール缶が温くなり、先ほどの快感は消えてしまう。
このまま、だらけていても埒が明かない。
上体を起こすと、おでこの温くなったビール缶を開けて、数口だけグビグビと飲んで乾いた喉を潤す。
また少し生き返った気がした。
ぬるめのクールダウンを潤滑油にして、ようやく動き始めた頭で考える。
スマホだけ持って近所のファミレスか、平日昼間はガラガラの銭湯にでも避難しようと意気込む程度の気力が戻ってきた。
気力が霧散しないうちに、行動を起こすしかない。
やる気は行動で呼び起こされると、昔色んな意味で世話になったダメ上司が言っていたのを思い出す。
誰が言っていたかは置いておき、行動は大事である。
脱ぎ散らかしてあったリアルダメージジーンズを拾うとノソノソと足を通し、スリムな尻を収める。
まずは人様の前に出ても、通報されない恰好にならなければならない。
床を埋め尽くす古い雑誌や使いかけの化粧品、キーボードの汚いノートパソコン、いつか畳む予定の洗濯物、空のビール缶と灰皿に、捨て損ねたゴミ袋を乱暴にどける。
ここ数時間行方知れずだった黒いブラジャーを探し出し、大きな胸を中に収納する。
あばらが浮く程にスレンダーなのに、胸だけ前よりも少しキツイ。
あと、とにかく暑い。
下乳と、ワイヤーが入っている部分が熱を帯びて蒸れる。
しかし、ノーブラで外に出るのには抵抗がある程度の羞恥心と理性は、この暑さでもギリッギリ残っていた。
そうだ、と思い出し、壁にかけてある黒いパーカーのポケットを弄ってクシャクシャのタバコの箱(中南海)とノーマルのジッポライター、黄色いハートのシールが貼ってある携帯灰皿を取り出し、ジーパンの尻ポケットに突っ込む。
さっきまで股に挟んでいたビール缶を特に思案する事も無く冷蔵庫に戻そうとすると、冷蔵庫の明かりがつかない事に気が付いた。
気が付けば部屋の電灯も扇風機もスイッチがONの状態なのに停止している。
「え、冗談でしょ!?」
玄関の上にあるブレーカーを見ると、どれも落ちていない。
夏場にエアコンだけでなく、冷蔵庫と扇風機までもが同時に死んだら悲惨だったが、どうやら停電らしい。
都会で停電なんて、かなり珍しい。
だが、まあそれなら、そのうち復旧するだろう。
まだキンキンに冷たい猫缶を冷蔵庫から取り出し、大学生の時に女友達から誕生日にプレゼントされて以来なんとなく着ているリアルな骨柄Tシャツを着る。
髪を黒いゴムでまとめて雑にポニーテールにすると、ようやく外出の準備が整った。
残念ながら、メイクをする気力は残っていなかったが、合コンに誘われている訳でも無しに気にしない事にした。
* * *
「?」
アパートの自分の部屋を出たつもりだったのだが、何かおかしい。
普段ならば、そこには二階に上がる階段の影が落ち、狭い路地の光景が広がっている筈だった。
大家さんの壁に貼ってある、いつも目が合う選挙ポスターも無い。
それどころか、どこを見ても行きつけの銭湯の煙突は見当たらないし、ファミレスのある大通りに繋がる道も無い。
使い古したサンダルで踏み出したそこは、西洋建築の街並みが広がる、どこか知らない海沿いの街だった。
どうやら高台にあるらしく、眼下に広がる町並みが日の光を反射してキラキラと煌めき、頬を撫でる海風がえらく気持ちいい。
これが海外旅行なら、写真の一枚でも記念に撮るのだろう。
だが、そんな発想にはならなかった。
反対を向くと、そこには丘の上に西洋建築の砦らしき物が見える。
彩芽は、状況が分からず、部屋に戻ろうと後ろに下がる。
すると、そこには壁があった。
後ろを振り返ると、そこには今さっき出てきたアパートの扉が、無い。
代わりに見た事も無い大きな建物の、観音開きの重厚な扉が閉じた状態で、そこにある。
「えええぇ!?」
まさにキツネにつままれた様な感覚。
「えええええええええええええええええーーーーーーーー!!!???」
と言う、意味のある言葉にもならない動揺しか湧きあがらない。
ポケットのスマホを取り出し見ると、五分前の新着メッセージがホーム画面に表示されている。
どうやら、再就職は成功したようだが、時間は十二時丁度を指し電波は圏外とある。
その直後、圏外の表示の横で赤いバッテリーマークが点滅すると、画面が無慈悲にもブラックアウトしてしまう。
これは充電のし忘れであり、停電は関係ない。
ヤバい。
メッセージにとりあえず返信したいのだが、スマホは反応しない。
とりあえず落ち着こうと、タバコを口に咥え、ライターで火をつけようとする。
だが、最近補充を怠っていたせいか、ちょうどオイル切れを起こし、火がつかない。
「そんなぁ~」
これにはスマホのバッテリー切れよりも大きなショックを受け、その場で打ちひしがれる。
やけくそにビールを飲もうと手に持った缶を見ると、猫缶である事に気付き、更に落ちこむ。
あまりの暑さにビール程度の低アルコール飲料を数口飲んだぐらいで、あり得ないバッドトリップでもしたのか、全てが夢なのか。
下手をすると熱中症でアパートの中で、自分は今まさに死にかけているのではないかとまで考え、頬を強めにつねる。
目は覚めず、ただ頬が痛む。
もう一度目を閉じ、後ろを振り返ると、そこにはやはり見た事の無い町並みが広がっている。
夢では無い異常事態に目と眉を引くつかせていると、不意に誰かに声をかけられた。
「よう、そこのお姫さま」
えらく低く渋い、身体がかなり大きな男性の声だった。
こんな事態だが、とりあえずライターをポケットに押し込み、猫缶片手に返事をする。
「あの、よかったらで良いんですけど、火貰えませんか?」
とりあえず、一服して落ち着こうと思ったのだが、どうもそうはいかないらしい。
「あ、何の話だ? それよりお姫さまよ。あんたいくらだ?」
声のする上の方に振り返ると、そこには身長が三メートルを軽々超える髭面でマッチョの大男が立っていた。
彩芽が一メートル七〇センチの身長なので、自分よりも身長が一メートル以上高い所にある顔を見上げる事になる。
大男と目が合うと、驚きのあまり口からタバコが零れ落ちた。
月は空に二つあり、一つは見ていて分かるぐらいのスピードで空を横切り流れている。
眼下に広がる町並みは、西洋風でいて、どこか住む人々の文化それ自体に、見る人がすぐには気付かない違和感を感じさせるものがある。
まさしく剣と魔法のファンタジー世界そのものであり、商店が立ち並ぶ朝市には様々な人種の人々が溢れかえっているのが見えた。
「えええええええええええええええええええええーーーーーーーーーー!?」
そこがどこなのかは分からない。
でも、地球では無いどこかにいる事だけは確かに分かった。
* * *
木城彩芽(成人)。
生まれも育ちも東京都、O区。
母親が自分を生んだ時に亡くなり、父子家庭で育つも、その父親とも交通事故で数年前に死別。
兄弟姉妹はおらず、胸を張って友達と呼べる知り合いは片手で足りる。
現在、彼氏無し。
彼女は、ついこの間まで都内の中堅IT企業D社にフリーランスのプログラマーとして雇われていた。
フリーランスでも、一つの会社からの依頼を外注として請け負い、主な生計を立てるのは普通の事である。
要望には可能な限り応えて来たし、納期には常に間に合わせてきた。
仕事先からの信頼もあったし、悪評も無かった。
趣味は近所に住む野良猫のクロ(色が黒いから)に餌をあげる事。
飼いたいが動物アレルギー持ちで、過去には猫カフェにマスクをつけて行ったのが原因で、呼吸困難になり病院に担ぎ込まれた事もある。
そう言う意味では、欲望に忠実である。
ここ数年は、都内の二階建てアパート一階の風呂無し六畳一間で、質素な独り暮らしをしている。
ちなみに、家賃は五万三千円である。
大きな不満は無いが、同時に大した希望も無い、そんな生活を送って今に至る。
* * *
全ての始まりは、夏のあの日、突然に始まった。
セミがこれでもかと愛を叫ぶ真夏日、平日の午前11時。
「あちぃ……」
彩芽は、部屋でぐったりとしていた。
大きな不満が無いと書いたが、あれは今や嘘である。
目下の不満は、このご時世の部屋に扇風機しかない事であった。
だが、壁を見るとザラザラの土壁には、今どき見ない木目調のエアコンがあるにはある。
問題は故障していて、動かすと水が漏れてきて室内が水浸しになるのだ。
ラジエーターあたりがイカレテいるのは分かるが、なにぶん修理の技術が無い。
専門はパソコンやスマホのアプリ開発で、エアコンは専門外である。
修理業者が来るのが一週間後なので、リサイクルショップで買ってきた扇風機に頼る他に無い。
それよりも、大きな不満もある。
主な仕事の依頼元だったIT企業の社長が一昨日に夜逃げをして、依頼以前に事業継続が絶望的な状態と連絡が入ったのだ。
にもかかわらず、担当者は何かあるかもしれないから報酬の確証は無いが仕事を続けて欲しいと泣きついてきた。
ただ働きなんてやっていられないのでもちろん断ったが、主な収入源が途絶えた今、コネが無いならフリーランスを捨てて再就職しなければならない。
その合否通知の電話を待っているのだが、それが来ないのでぐったりとしているのだった。
だが、直接会った事も無い社長にも夜逃げしたくなる理由があったのだろうと、そこを責める気にはならなかった。
人生山あり谷ありでも、他人の谷のツケが回ってくる事をイチイチ責めていては、キリがない。
「変えられるのは、いつだって自分の人生の山と谷だけだ」
と、最近誰かがテレビで言っていたなと思い出す。
良い事言うじゃん、と曖昧に思い出しながらも、どこかで少し寂しいなとも思った。
だが、まあ、余分な金こそ持って無いが、すぐに死ぬほど切迫している訳でもないので焦る事も無い。
スマホを見ても、スパムメールさえ来やしない。
歯で舌ピアスを引っかけ、カチカチと口の中でピアスを遊ぶ。
彩芽が暇な時や、考え事をする時に出る癖である。
もっとも、パンツ一枚で畳の上に寝転がり、豊満な胸に畳跡をつけて床に押しつぶす状況では、頭は欠片も働いてはいない。
正直、おっぱいなんて大きくても、やたらと肩がこるし、こういう体勢では邪魔でさえある。
冷たい床を探して本能のままに転がりまわるのにも、いい加減限界があった。
この時の室温は、窓を開けているのに(道に面したベランダには、塀の目隠しと植え込みが一応ある)三十六度を超えていた。
体温と同じぐらいあり、かなりの暑さである。
カチカチカチ……
舌は動くが、変わらず頭が働いていない。
明る目の金髪に染めている背中まで届く長い髪が、汗で肌にべっとりと張り付き、うなじの蒸し暑さに比例して不快感が増していく。
散らかった床を這って、すぐそこの台所にある小さな冷蔵庫まで行くと、中には猫缶とビール(別に銘柄にはこだわっていない)と、おつまみのサラミしか入っていない。
ビールを二缶出して、一つをおでこに、もう一つを股間に挟むとパンツが缶の水滴でじんわりと濡れるが、引き換えに太い血管を流れる血液が冷えていき体温が少し下がる。
人様には見せられない恰好だが、少しだけ生き返った気がする。
だが、すぐにビール缶が温くなり、先ほどの快感は消えてしまう。
このまま、だらけていても埒が明かない。
上体を起こすと、おでこの温くなったビール缶を開けて、数口だけグビグビと飲んで乾いた喉を潤す。
また少し生き返った気がした。
ぬるめのクールダウンを潤滑油にして、ようやく動き始めた頭で考える。
スマホだけ持って近所のファミレスか、平日昼間はガラガラの銭湯にでも避難しようと意気込む程度の気力が戻ってきた。
気力が霧散しないうちに、行動を起こすしかない。
やる気は行動で呼び起こされると、昔色んな意味で世話になったダメ上司が言っていたのを思い出す。
誰が言っていたかは置いておき、行動は大事である。
脱ぎ散らかしてあったリアルダメージジーンズを拾うとノソノソと足を通し、スリムな尻を収める。
まずは人様の前に出ても、通報されない恰好にならなければならない。
床を埋め尽くす古い雑誌や使いかけの化粧品、キーボードの汚いノートパソコン、いつか畳む予定の洗濯物、空のビール缶と灰皿に、捨て損ねたゴミ袋を乱暴にどける。
ここ数時間行方知れずだった黒いブラジャーを探し出し、大きな胸を中に収納する。
あばらが浮く程にスレンダーなのに、胸だけ前よりも少しキツイ。
あと、とにかく暑い。
下乳と、ワイヤーが入っている部分が熱を帯びて蒸れる。
しかし、ノーブラで外に出るのには抵抗がある程度の羞恥心と理性は、この暑さでもギリッギリ残っていた。
そうだ、と思い出し、壁にかけてある黒いパーカーのポケットを弄ってクシャクシャのタバコの箱(中南海)とノーマルのジッポライター、黄色いハートのシールが貼ってある携帯灰皿を取り出し、ジーパンの尻ポケットに突っ込む。
さっきまで股に挟んでいたビール缶を特に思案する事も無く冷蔵庫に戻そうとすると、冷蔵庫の明かりがつかない事に気が付いた。
気が付けば部屋の電灯も扇風機もスイッチがONの状態なのに停止している。
「え、冗談でしょ!?」
玄関の上にあるブレーカーを見ると、どれも落ちていない。
夏場にエアコンだけでなく、冷蔵庫と扇風機までもが同時に死んだら悲惨だったが、どうやら停電らしい。
都会で停電なんて、かなり珍しい。
だが、まあそれなら、そのうち復旧するだろう。
まだキンキンに冷たい猫缶を冷蔵庫から取り出し、大学生の時に女友達から誕生日にプレゼントされて以来なんとなく着ているリアルな骨柄Tシャツを着る。
髪を黒いゴムでまとめて雑にポニーテールにすると、ようやく外出の準備が整った。
残念ながら、メイクをする気力は残っていなかったが、合コンに誘われている訳でも無しに気にしない事にした。
* * *
「?」
アパートの自分の部屋を出たつもりだったのだが、何かおかしい。
普段ならば、そこには二階に上がる階段の影が落ち、狭い路地の光景が広がっている筈だった。
大家さんの壁に貼ってある、いつも目が合う選挙ポスターも無い。
それどころか、どこを見ても行きつけの銭湯の煙突は見当たらないし、ファミレスのある大通りに繋がる道も無い。
使い古したサンダルで踏み出したそこは、西洋建築の街並みが広がる、どこか知らない海沿いの街だった。
どうやら高台にあるらしく、眼下に広がる町並みが日の光を反射してキラキラと煌めき、頬を撫でる海風がえらく気持ちいい。
これが海外旅行なら、写真の一枚でも記念に撮るのだろう。
だが、そんな発想にはならなかった。
反対を向くと、そこには丘の上に西洋建築の砦らしき物が見える。
彩芽は、状況が分からず、部屋に戻ろうと後ろに下がる。
すると、そこには壁があった。
後ろを振り返ると、そこには今さっき出てきたアパートの扉が、無い。
代わりに見た事も無い大きな建物の、観音開きの重厚な扉が閉じた状態で、そこにある。
「えええぇ!?」
まさにキツネにつままれた様な感覚。
「えええええええええええええええええーーーーーーーー!!!???」
と言う、意味のある言葉にもならない動揺しか湧きあがらない。
ポケットのスマホを取り出し見ると、五分前の新着メッセージがホーム画面に表示されている。
どうやら、再就職は成功したようだが、時間は十二時丁度を指し電波は圏外とある。
その直後、圏外の表示の横で赤いバッテリーマークが点滅すると、画面が無慈悲にもブラックアウトしてしまう。
これは充電のし忘れであり、停電は関係ない。
ヤバい。
メッセージにとりあえず返信したいのだが、スマホは反応しない。
とりあえず落ち着こうと、タバコを口に咥え、ライターで火をつけようとする。
だが、最近補充を怠っていたせいか、ちょうどオイル切れを起こし、火がつかない。
「そんなぁ~」
これにはスマホのバッテリー切れよりも大きなショックを受け、その場で打ちひしがれる。
やけくそにビールを飲もうと手に持った缶を見ると、猫缶である事に気付き、更に落ちこむ。
あまりの暑さにビール程度の低アルコール飲料を数口飲んだぐらいで、あり得ないバッドトリップでもしたのか、全てが夢なのか。
下手をすると熱中症でアパートの中で、自分は今まさに死にかけているのではないかとまで考え、頬を強めにつねる。
目は覚めず、ただ頬が痛む。
もう一度目を閉じ、後ろを振り返ると、そこにはやはり見た事の無い町並みが広がっている。
夢では無い異常事態に目と眉を引くつかせていると、不意に誰かに声をかけられた。
「よう、そこのお姫さま」
えらく低く渋い、身体がかなり大きな男性の声だった。
こんな事態だが、とりあえずライターをポケットに押し込み、猫缶片手に返事をする。
「あの、よかったらで良いんですけど、火貰えませんか?」
とりあえず、一服して落ち着こうと思ったのだが、どうもそうはいかないらしい。
「あ、何の話だ? それよりお姫さまよ。あんたいくらだ?」
声のする上の方に振り返ると、そこには身長が三メートルを軽々超える髭面でマッチョの大男が立っていた。
彩芽が一メートル七〇センチの身長なので、自分よりも身長が一メートル以上高い所にある顔を見上げる事になる。
大男と目が合うと、驚きのあまり口からタバコが零れ落ちた。
0
お気に入りに追加
560
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

日本列島、時震により転移す!
黄昏人
ファンタジー
2023年(現在)、日本列島が後に時震と呼ばれる現象により、500年以上の時を超え1492年(過去)の世界に転移した。移転したのは本州、四国、九州とその周辺の島々であり、現在の日本は過去の時代に飛ばされ、過去の日本は現在の世界に飛ばされた。飛ばされた現在の日本はその文明を支え、国民を食わせるためには早急に莫大な資源と食料が必要である。過去の日本は現在の世界を意識できないが、取り残された北海道と沖縄は国富の大部分を失い、戦国日本を抱え途方にくれる。人々は、政府は何を思いどうふるまうのか。

ダンジョンブレイクお爺ちゃんズ★
双葉 鳴|◉〻◉)
ファンタジー
人類がリアルから撤退して40年。
リアルを生きてきた第一世代は定年を迎えてVR世代との共存の道を歩んでいた。
笹井裕次郎(62)も、退職を皮切りに末娘の世話になりながら暮らすお爺ちゃん。
そんな裕次郎が、腐れ縁の寺井欽治(64)と共に向かったパターゴルフ場で、奇妙な縦穴──ダンジョンを発見する。
ダンジョンクリアと同時に世界に響き渡る天からの声。
そこで世界はダンジョンに適応するための肉体を与えられたことを知るのだった。
今までVR世界にこもっていた第二世代以降の若者達は、リアルに資源開拓に、新たに舵を取るのであった。
そんな若者の見えないところで暗躍する第一世代の姿があった。
【破壊? 開拓? 未知との遭遇。従えるは神獣、そして得物は鈍色に輝くゴルフクラブ!? お騒がせお爺ちゃん笹井裕次郎の冒険譚第二部、開幕!】

家の庭にレアドロップダンジョンが生えた~神話級のアイテムを使って普通のダンジョンで無双します~
芦屋貴緒
ファンタジー
売れないイラストレーターである里見司(さとみつかさ)の家にダンジョンが生えた。
駆除業者も呼ぶことができない金欠ぶりに「ダンジョンで手に入れたものを売ればいいのでは?」と考え潜り始める。
だがそのダンジョンで手に入るアイテムは全て他人に譲渡できないものだったのだ。
彼が財宝を鑑定すると驚愕の事実が判明する。
経験値も金にもならないこのダンジョン。
しかし手に入るものは全て高ランクのダンジョンでも入手困難なレアアイテムばかり。
――じゃあ、アイテムの力で強くなって普通のダンジョンで稼げばよくない?
悪行貴族のはずれ息子【第1部 魔法講師編】
白波 鷹(しらなみ たか)【白波文庫】
ファンタジー
★作者個人でAmazonにて自費出版中。Kindle電子書籍有料ランキング「SF・ホラー・ファンタジー」「児童書>読み物」1位にWランクイン!
★第2部はこちら↓
https://www.alphapolis.co.jp/novel/162178383/450916603
「お前みたいな無能は分家がお似合いだ」
幼い頃から魔法を使う事ができた本家の息子リーヴは、そうして魔法の才能がない分家の息子アシックをいつも笑っていた。
東にある小さな街を領地としている悪名高き貴族『ユーグ家』―古くからその街を統治している彼らの実態は酷いものだった。
本家の当主がまともに管理せず、領地は放置状態。にもかかわらず、税の徴収だけ行うことから人々から嫌悪され、さらに近年はその長男であるリーヴ・ユーグの悪名高さもそれに拍車をかけていた。
容姿端麗、文武両道…というのは他の貴族への印象を良くする為の表向きの顔。その実態は父親の権力を駆使して悪ガキを集め、街の人々を困らせて楽しむガキ大将のような人間だった。
悪知恵が働き、魔法も使え、取り巻き達と好き放題するリーヴを誰も止めることができず、人々は『ユーグ家』をやっかんでいた。
さらにリーヴ達は街の人間だけではなく、自分達の分家も馬鹿にしており、中でも分家の長男として生まれたアシック・ユーグを『無能』と呼んで嘲笑うのが日課だった。だが、努力することなく才能に溺れていたリーヴは気付いていなかった。
自分が無能と嘲笑っていたアシックが努力し続けた結果、書庫に眠っていた魔法を全て習得し終えていたことを。そして、本家よりも街の人間達から感心を向けられ、分家の力が強まっていることを。
やがて、リーヴがその事実に気付いた時にはもう遅かった。
アシックに追い抜かれた焦りから魔法を再び学び始めたが、今さら才能が実ることもなく二人の差は徐々に広まっていくばかり。
そんな中、リーヴの妹で『忌み子』として幽閉されていたユミィを助けたのを機に、アシックは本家を変えていってしまい…?
◇過去最高ランキング
・アルファポリス
男性HOTランキング:10位
・カクヨム
週間ランキング(総合):80位台
週間ランキング(異世界ファンタジー):43位
悪行貴族のはずれ息子【第2部 魔法師匠編】
白波 鷹(しらなみ たか)【白波文庫】
ファンタジー
※表紙を第一部と統一しました
★作者個人でAmazonにて自費出版中。Kindle電子書籍有料ランキング「SF・ホラー・ファンタジー」「児童書>読み物」1位にWランクイン!
★第1部はこちら↓
https://www.alphapolis.co.jp/novel/162178383/822911083
「お前みたいな無能は分家がお似合いだ」
幼い頃から魔法を使う事ができた本家の息子リーヴは、そうして魔法の才能がない分家の息子アシックをいつも笑っていた。
東にある小さな街を領地としている悪名高き貴族『ユーグ家』―古くからその街を統治している彼らの実態は酷いものだった。
本家の当主がまともに管理せず、領地は放置状態。にもかかわらず、税の徴収だけ行うことから人々から嫌悪され、さらに近年はその長男であるリーヴ・ユーグの悪名高さもそれに拍車をかけていた。
容姿端麗、文武両道…というのは他の貴族への印象を良くする為の表向きの顔。その実態は父親の権力を駆使して悪ガキを集め、街の人々を困らせて楽しむガキ大将のような人間だった。
悪知恵が働き、魔法も使え、取り巻き達と好き放題するリーヴを誰も止めることができず、人々は『ユーグ家』をやっかんでいた。
さらにリーヴ達は街の人間だけではなく、自分達の分家も馬鹿にしており、中でも分家の長男として生まれたアシック・ユーグを『無能』と呼んで嘲笑うのが日課だった。だが、努力することなく才能に溺れていたリーヴは気付いていなかった。
自分が無能と嘲笑っていたアシックが努力し続けた結果、書庫に眠っていた魔法を全て習得し終えていたことを。そして、本家よりも街の人間達から感心を向けられ、分家の力が強まっていることを。
やがて、リーヴがその事実に気付いた時にはもう遅かった。
アシックに追い抜かれた焦りから魔法を再び学び始めたが、今さら才能が実ることもなく二人の差は徐々に広まっていくばかり。
そんな中、リーヴの妹で『忌み子』として幽閉されていたユミィを助けたのを機に、アシックは本家を変えていってしまい…?
◇過去最高ランキング
・アルファポリス
男性HOTランキング:10位
・カクヨム
週間ランキング(総合):80位台
週間ランキング(異世界ファンタジー):43位

ふたりのMeg
深町珠
ファンタジー
かわいいお話です。(^^)
ルーフィ:魔法使い。主人の眠りを覚ますために時間を旅してMegに出逢う。
Meg:なぜか、ルーフィに魔法使いにさせられた旅行作家。21才。
めぐ:Megの異世界での同位ー3年。 18才。
神様:その国の神様。
クリスタ:元々天使だったが、地上でめぐを護るために下りる。
にゃご:元人間、元悪魔。今は、猫。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる