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第7章

第?章:ブルローネの新人11(ifルート)

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「お父さん?」

「ううん……」

「じゃあ、誰?」

「…………た」



「え?」



「……あなた」



「……え? ……私? ……………………………………………………どれ?」



 彩芽は、イシャーラがどの事を指して言っているのか、本気で分からなかった。

「……あなたの髪……」

「髪?」

「いつも、お風呂の後、ふいてるでしょ……」

 イシャーラは、恥ずかしそうにそんな事を言い出す。

 彩芽は、そう言えばと思い出した。

 彩芽がどこにでも付きまとう中、イシャーラがプライベートでしてくれたのは、トイレに一緒に行ったら出て来るのを待つのと、風呂あがりに身体をふきっこするぐらい。

 本当に、それぐらいであった。

 それ程までに、イシャーラは他人の為に何かを、自分の意思でした事が無かった。



「私の髪、ねぇ……」



 二人は、沈黙の中、身を寄せ合って身体を温める。

 イシャーラは、隣で黙って炎を見つめている彩芽を、彩芽にバレない様に盗み見ながらも、その髪を見ていた。
 すっかり炎の熱で乾いている金髪の長い髪。

 浴場の更衣室で、最初にふいたのは、別に喜ばせるためでは無かった。

「先に行かないで~」と冗談交じりに泣きついて来る彩芽が、身体を洗うのも拭くのもイシャーラより時間がかかるので、早く部屋に戻りたいが、置いていくのは可哀そうに思い、自分の為に手伝っただけだ。

 だが、それを繰り返すうちに日課になり、イシャーラは彩芽が身体や髪を拭かれるのが好きな事が分かると、それからは喜ぶと思って、喜ばす為にふいていた。

 そこに、損得は無く、ただ彩芽が喜んでくれるのが、小鳥に餌を与える事ぐらいの感覚でこそあるが嬉しかった。



「他人の為に、自分の意思で何かをするのが大事」

「与えらるから、与えられる」



 今まで何度も聞いた人生の先輩達の言葉だ。

 だが、どれも、言っていたのが姫娼婦だからと、自分にとって大事な人では無いと、聞きながらに聞き流していた。
 聞いて頭に残っても、真面目に向き合っていなかった。

 誰が言ったかにイシャーラはこだわっていたが、そうなると、イシャーラは誰の言う事も受け入れない事になる。
 愛する父が死に、母に失望し、恋人に捨てられた。

 誰が言ったかは重要ではない。
 何を言ったか、そして何よりも、なぜ言ったのかの方が遥かに重要だ。

 イシャーラの中で、何かが腑に落ちると、自分に足りていないのが、まさにそれである事が初めて理解できた。



 与えるから、与えられる。
 それは、求めても、求められるだけである事の裏返しである。
 求める物が大きければ、それだけ大きな物を求められる。
 自分の抱える人生の負債は、自分の支払い能力を超える物を、価値も考えずに求め続けた結果であった。

 その事が理解出来ると、イシャーラは自分がどんなに愚かだったのかがわかった。

 ずっと、与えるのは、損をする事だと思っていた。
 与えても、返ってくる保証など無い。
 与えれば、自分の中の何かが目減りしていくと。

 だが、彩芽の髪を、身体をふいていて、ふいた事を後悔した事など無い。
 それどころか、あまりにもチョロく、そんな事で更に自分に懐く彩芽の事が可愛かった。

 小鳥程度に、だが。



 これは、あまりにも遅く、あまりにも小さな開眼であった。
 だが、目を覚ます事に遅すぎる事など無い。

 今まで理解していなかった世界の法則に気付くと言う事は、何にも勝る価値があるのが、今なら分かる。
 元々、イシャーラは地頭が悪いわけでは無い。
 ただ、考えるに至らない人生だったに過ぎない。



 そうなると、イシャーラは、すぐそばにあるのに見つけられずにいた、ようやく発見した法則を試したくなった。

 与えれば、返ってくる。
 与えるから、与えられる。

 髪や身体をふくだけで、彩芽は喜び、自分も嬉しかった。



 自分が、もっと与えたら、今度は何が返ってくるのだろうか?

 何を与えられるだろうか。
 何かを与えたい。

 試してみたい。



 覚醒したイシャーラは、何も無い自分に出来る事を、初めて考え始める。

 与える喜びの入り口に、立っている。



 イシャーラは、まず彩芽の身体を触ってみた。
 彩芽は、イシャーラの手が身体に触れても、拒否しない。



「背中、冷たい……」

 そう言うと、イシャーラは、彩芽の後ろから抱き着いた。

「急にどうしたの……ああぁ……あったか~い……」

 彩芽は、背中に当たるイシャーラの小さくて柔らかくて、元から高めの体温が暖炉でさらに高くなった身体の感触に包まれ、暖をとる。



 密着した彩芽の冷たい背中に、自分の体温が移っていくのを感じる。
 自分の温度を与えている。

 受け入れて貰っていると言ってもいい。

 彩芽の身体に触れているだけで、イシャーラは与えた分を、早くも与えられた様な気さえした。
 自分で考えた、彩芽への奉仕を受け入れて貰えた。

 それだけで、こんなに心が満たされるとはと、与える事の喜びは、イシャーラの想像を、はるかに超えていた。



 彩芽は、イシャーラが抱き着いてきた事で、自分も抱き着いても良いと思い、お返しとばかりにイシャーラの背中にも抱き着き返す。

 与えた返礼に、彩芽の体温と、押し付けられた豊満な胸を伝って背中に響く鼓動に包まれる。

 男女や友人、家族の「好き」よりも、抽象的な好意。
 イシャーラは、感じた事の無い幸福感に毛が逆立つのを感じる。

 与え、与えられ、すると、もっと与えたくなる。

 イシャーラは、自分に他に与えられる物が何か無いか探す。



 その時、彩芽の頬に、自分の爪がつけた小さな傷があった。
 血が生乾き、まだ固まりきってもいない。

 イシャーラは、彩芽の頬の傷を、恐る恐る触る。
 傷は浅く、あとも残らないだろうが、姫娼婦にとって顔は商売道具である。

 彩芽は、不安そうなイシャーラの顔を見て、これぐらいどうって事無いと笑う。

「唾でもつけておけば、治るよ」

 彩芽は、イシャーラの頭を撫でた。

 イシャーラは、気付く。
 撫でられるだけで、気持ちが落ち着く。



 今まで、頭を撫でるのは、ずっと記号だと思っていた。



 良い子である証。
 かわいい物を愛でる、撫でる側の自己満足。

 だが、覚醒した今だからわかる。



 撫でるのは、それだけで与えるに足る行動である。



 すると、今まで、自分が周囲の人たちに、撫でる以上の物を与えられ続け、それを返していない事が脳裏をよぎった。

 バトラは、ずっと返しもしない自分が妹だからと、根気強く与え続けていた。

 だから、彩芽を連れて行った時に、バトラはイシャーラが成長したと、人に与える事をついに覚えたと、感動して泣いていたのだ。
 あれは、冗談で覆われているが、バトラの本気の涙だった。

 アコニーにも与えられ続け、ボルドレットにも、母親にも、死んだ父親にも与えられていた。



 与えずに、求めるだけの自分への理解が深まれば深まる程に、気分が悪くなる。



「……また泣いてるの?」

 彩芽に聞かれて気付く。
 イシャーラは、周囲の自分を良くしてくれた人達を傷つけ続けていた自分に気付いた時、自然と後悔の涙を流していた。

 自分の為では無い。

 父親が亡くなった時でさえ流しそびれた、他人の為に流す涙。



 申し訳ない。
 自分に関わってきた人達に、ひたすらに申し訳なかった。



「さっきもあんなに泣いたのに、結構泣き虫だったんだ……」

 彩芽が涙を優しくぬぐう。

 イシャーラは、声を殺しグズグズと泣く。
 涙が止まらない。

 止まる筈も無い。

 今まで溜めに溜めた、他人の為に使う筈であった感情の蓄積が、喜怒哀楽入り混じり、全て一気に溢れ出ているのだ。

 最愛の父親が亡くなった時でさえ、これからの自分が生きる環境の変化が怖くて、喪失感と不安で泣いていた涙の割合が多かった。

 それが、今さらだが、それでも、やっと、好きだった父親の為に泣けていた。



 あの時よりも、状況は悪い。



 手を差し伸べて来た人の思いを、与えられた物を片っ端から踏みにじってきたのだ。

 それでも、やっと父親の死を受け入れ、その死を心から悲しむ事が出来るだけの「心」を手に入れた。

 昔住んでいた幸せの詰まった、今は廃屋の暖炉の前で、イシャーラは、父親が死んで以来止まっていた時間が動き出すのを感じる。



 これまでみたいに、過去を目指しても仕方が無い。

 過去は思い出すだけに留め、未来を見なければならない。

 持っている物は分かっている。

 ただ、現実を受け入れ、身一つで生きる為に、自分は何でもしなければならない。

 求められるからでも、求めるのでもない。

 誰かに与えて、与えられて生きなければならない。



「イシャーラ? イシャッ!?」

 自分の全てを与えても、惜しくない。
 きっと、彩芽は、返してくれるから。

 イシャーラは、彩芽を愛おし気に抱きしめる。



「……甘えて……るの?」

「ううん……あなたに、これからは……甘えて貰う……甘えて欲しいの……」

「……どうして?」

「ちゃんと、覚えてるから……あなたが言った事。もっと私と一緒にいたいって、他の子みたいに、ちゃんと姉妹になりたいって……ごめん……ずっと、そんな事もしてあげられなくて……」

「イシャーラ……」

「あなたの姉に戻る……戻って……みんなに……謝る。どんな事にも……耐えるから。だから……あなたの姉で、いさせて……私は、あなたの……アヤメの姉でいたいの……」

 それが、今を受け入れたイシャーラの、自分の意思で決め、本心からありたい自分であった。
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