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底なし沼にて
95.
しおりを挟む「……………うる、さ」
耳障りな【声】が聞こえないように、恐ろしい【顔】が見えないように、耳と目を塞ぐ。もう、何もかもが嫌で。
分かっている。本当は自分がこんな風に閉じこもっている場合ではないことは分かっている。だけど、部屋を出ればまた、想像もつかないほどの苦痛の時間がやって来るのだと思うと、途端に足が動かなくなるのだ。まるで魔法で世界が閉ざされてしまったかのように、部屋から出ることができないのだ。
相も変わらず沢山の【声】は俺を責め立てて、窓の外へ魔力なしに飛び立たせようとする。死んでしまえと、殺してしまえと、叫んでくる。耳を塞いでも目を塞いでも眠りに落ちても尚、止めどなく。何にも効果がないことをわかっていて塞ぐ俺を嘲笑っては罵って。
身体中は立っているのも辛いほどの痛みが襲ってくる。魔力の軋みによる慢性的な高熱と吐き気が俺を苛み、苦痛を忘れさせてくれない。
「……」
また、自分を傷付けたいような衝動と苛立ちが込み上げてきて、気を逸らすようにパチン、と小さく指を鳴らす。するとすぐに、寝具の下に隠されていた魔具製の金庫がふよふよと俺の目の前まで浮かび上がってきた。俺は迷いなく金庫の鍵部分へと魔力を流し、解錠する。
第1部隊の騎士の1人が「そんな大事なもの堂々と置いてんじゃねぇよ」と言って、持ってきてくれた金庫。詠めば防護魔法と攪乱魔法、それにいくつかの攻撃魔法が厳重に凝らされていた1級品だった。
俺は中に入れていたノアの手紙と深緑の日記帳を取り出し、寝具の上に並べ置く。沢山の思いが詰まったそれらが、今では俺の唯一の指針となっていた。
我を忘れそうな程苦しくなった時に、この2つがふと俺を正気に戻す。その度にまた苦しくなって訳も分からず頭や首の火傷痕を掻きむしってはまた呆然眺めて正気に戻って、ーーその、繰り返し。
俺はよろよろと立ち上がって窓の傍まで歩き、窓を開けた。寒い寒い凍てつくような雪の季節が終わり、麗らかな風が柔らかく俺の頬を撫でて部屋を駆け、そしてまた楽しげに外に走り去っていく。
ケラケラと笑う風をぼんやりと眺めながら、俺は整然とした街並みをぼんやりと見つめた。時折ドォンッ!!!ドォン!!と不規則に響いてはロサの街並を揺らす轟音は、きっと革命軍の仕業だろう。
革新派の騎士団が去っていってからというものの、騎士団の宿舎には怪我人が格段に増えた。国民から搾取し、無駄に沢山備蓄されていた治療薬や包帯などがここにきて国民たちの手によって傷ついた騎士の為に役に立っているという皮肉。また1つ上がった大きな音と白煙へと耳を傾けながら、俺は小さく鼻で嗤った。
「……くもってるなぁ」
火魔法が、火災へと発展したのだろう。もくもくと上がり始めた黒煙が空へと昇っていくのを陶然と見上げる。その先には、もうすっかり見慣れてしまった曇り空が広がっていて、今日も日の光が姿を現すことはない。
見ているだけで鬱屈した感情になって、俺は慌てて視線を下げた。そのまま、手に持っていた日記帳を開く。
ヘイデル王国の国境を超える最後の日で止まっているそれに、もう何度目を通しただろうか。頁を捲れば捲るほど、濃密な思い出の数々が俺の中に鮮烈に蘇ってくる。大好きな人たちが、誰1人として欠けることなく安心して笑っていられる時間だった。
知らず口元に微かな笑みを称えながら、窓枠に肘をついて頁を捲る。暫くすると、俺の日記帳に興味を示したのか、何処からか飛んできた小さな鳥が窓枠に止まって、俺の手元を覗き込んできた。可愛らしく小首を傾げながら俺と日記帳を交互に見つめる小鳥に、俺も笑みを零す。――表情筋は、動かないにしても。
「ーー……」
「ピ?」
サファイア教授が言っていたことを、俺は実行出来ているだろうか。適当に命令を受け流してその裏をかいて動き、出来る限り人を虐げないような生き方が出来ているだろうか。これでも、頑張っている方なのだけれど。これでも。
「処分しといて」と言われれば、罪人の髪を切って色を染料で染めて顔を隠させ、夜の闇に紛れて城から逃がした。それがうっかり第2部隊隊長に見つかってからは、人数の多い第2部隊に紛れ込ませたりもして(第2部隊隊長には呆れきったような顔をされた)。彼らも、離反と共に無事去っていったはずだ。
勿論「殺せ」と言われてしまえば逆らえなかったけれど。最大限頑張ったのだ。俺が、俺でいる為に。
それでもこの手で握り潰してしまった命の方が、遥かに多い。【助けて】【死にたくない】【見逃して】と叫ぶ彼らの悲鳴や懇願が脳内に木霊して、思わず眉を顰める。すると小鳥がまるで心配するかのように俺の手に頬ずりしてくれた。可愛い。
外では、燃料に引火したのか大きな爆発が起こっている。塵が室内に舞い込んではいけないので、俺は可愛らしい小鳥を指に止まらせ手中に招き入れ、戸を閉めた。きっと、死人が出ているのだろう。小鳥は見なくていい。
再び寝具に戻った俺は日記帳を上掛けにのせ、小鳥をその隣に下ろした。俺はノアが想いを込めてくれた手紙を手に取り、もう一度初めから目を通していく。そして、俺を嫌いにならないと言ってくれたノアを、何度も思い出す。
寝具に乗れば心なし落ち着くのは、学園の寝具の上で、ノアが沢山のお話をしてくれたからだ。沢山の美しい話を思い出せるからだ。目を閉じ、空想の世界に思いを馳せれば、そこにはいつだってノアがいる。王様が、先輩方が、第3部隊の皆が、父上が母上が兄上がカンナが。ーー大切な人達皆が笑って幸せに過ごしている。
空想の世界は、何処までも素敵で自由だから。
瞼を上げ、動きにくくなった表情筋を無理やり持ち上げる。笑えば、幸せになれるから。きっと。
「ーーね、鳥」
「ピ?」
「君も……もうそろそろロサから離れた方がいい。決戦の日はまもなくだから。君も、君の家族も友人も、死にたくはないだろ?」
「ピピ」
「俺?俺はいいんだよ。……俺はいいんだ。もう十分幸せだからね」
「ビ」
随分と感情豊かな小鳥だなぁ、なんて。小鳥の言葉はついぞわからないから、これも俺の独りよがりだ。
「愛嬌があるのは生き抜く上で良い事だよ。――ほら、行きな」
「ピ、ピ」
「他の動物たちにも伝えてやれ。……大丈夫。また、戻ってこられるから」
生きてさえいれば。
微笑んで、いつしか日記帳の表紙に鎮座していた小鳥の頭を中指で撫でれば、小鳥はもう1度可愛らしく鳴いて俺の手を甘噛みしてくれた。多分、賢いこの子にはしっかり伝わったのだろう。動物達を無闇矢鱈に巻き込むことにはならないはずだ。
くい、と指を動かし、風魔法で窓の扉を開けてやる。すると可愛らしい――黒羽に金目が輝く小鳥は、優雅にぱたぱたと羽を揺らし、曇り空へと旅立っていった。
しん、と静まった部屋。当たり前になってしまったはずなのに、どうしてか淋しさが襲ってくる。見苦しい感情に蓋をするように俺は日記帳(ほんのり生温かくなっている)と手紙を金庫に入れ、もう1度指を鳴らした。するとまもなく寝具の下へと消えていく金庫から視線を逸らしーー。
「……なんだこれ」
俺は、小さく丁寧に四角に折られて寝具の上にちょこんと置かれた紙片に目を瞬かせる。先程まで――少なくとも、俺が最初に窓を開ける前まではなかったそれ。恐らくは先程の小鳥が置いていったものだろう。道理で人懐っこいと思った。殺しておいた方が良かっただろうか。……あああ違う、そんなことはない。筈だ。
警戒を怠ることなく紙切れを詠む。が、特に魔力の気配などはない。それでも気を緩めることなく俺はそっと紙切れを摘んで手に取り、もう1度爆弾などが入っていないことを確認してから丁寧に折られたそれを開いていく。
そして、中に書かれた美しい文字に、大きく目を見開いた。
「――ヴィンセント殿下……?なんで、」
自分を完璧であると信じて疑わない完璧な青年の、これまたお手本のような筆跡。しかし定型文などは一切なく言いたい事だけが端的に書かれたそれは、どうにも歪に映って。俺は首を傾げつつも、美しい羅列に目を通していく。
『調子はどうだ。俺は全く良くない。お前の所の双子ーーシャルとシャロンだったか、奴らは如何にかならないのか。悪戯にカトリーヌを茶化すものだから、毎日のように戦争が起こる。躾はきちんとしておくように。部下を甘やかすな。』
「……だって可愛いから……それに、もう違う」
『ああそうだ、アンリはお前を憎んでいない。し、勿論無事だ。つまり、必要以上に気に病むなよ。代わりに王子たるこの俺から文を貰える光栄を噛み締めろ』
思わず半目になりながらミシミシと嫌な音が鳴るほど紙切れを握りしめてしまって、慌てて指の力を緩める。危ない危ない殺意が。ほら、薬の影響で。
ヴィンセント第2王子殿下はそれはそれは聡明で努力家だが、どうにもこう……癪に障るところがあるのだ。無論、自分に自信を持てるというのは素晴らしいことだけれど。けれども。ーー言い方がうざいんだよなぁ。
ああ、また、爆風が窓を揺らした。
父上と母上を殺した自分を、兄上は憎んでいないという。そんな事が、あるものか。だって、兄上は毎日のように俺の耳元で【死ね】と叫んでいる。殿下のお優しい嘘に苦笑を零しつつも、俺はまだまだ続く文字列に目を通していく。
というか長いな。それに文字が小さいんだよ。団長くらいの年齢だったら読めないぞこれ。老化で。
『ーー決戦は一週間後だ』
「いや言っちゃうの?それ。怒られません?」
『備えるも備えないも、兄上や父上に伝えるも伝えないも、お前の自由だ。任せよう』
「……それが一番困るんですけどねぇ……」
『最後に、伝言だ。
【レーネ、先の事なんて気にしなくていい。少なくとも君の過去は君の味方だからさ。僕は君の絶え間ない努力を、揺るがない信念を、築き上げてきた人間性を知っている。先の事は、またその時に考えようじゃないか。ーーお互いにね】
……とのことだ。お前達の言う先が何処にあるのかは知りようもないが――フィオーレ王国は、俺に万事任せていろ。己の道は己で選んで決めろ。俺が赦す。 ヴィンセント・フィオーレ』
ああ。
第2王子から認識され手紙を頂けるということが、実際どれ程光栄で有難くて奇跡的な事か、俺は身に染みてわかっている。……分かってはいるけれど、これがイリアス様からなら、陛下からなら、と考えてしまう俺は、一体どれ程滑稽で傲慢なのだろう。
イリアス様は相変わらずの恐ろしさで。陛下は着々と擦り減っていく騎士団に激怒し、気を病んでしまっている。俺は、彼等の中にずっと存在しないままだ。
でも、そういえば少し前に、陛下に夜伽を命令されたのだったか。己の使命ではない筈のそれへの恐ろしさと陛下に求められた嬉しさが綯い交ぜになったまま頷こうとしたけれど、その場で何故か第1部隊隊長に止められた。イリアス様のご意向らしい。よく分からなかった。
ーー折角、求めて頂けたと思ったのに。また、そして恐らくもう二度と、陛下は俺に一瞥も下さらないのだろう。
「…………ずいぶん、知ったように言う」
語り口から推測するに、伝言の主は恐らく2つ結びの血の少女のものだろう。俺は伝言の部分を指でするりと撫で、目を伏せる。自分よりも遥かに幼い容姿で、その実遥かに大人びた瞳をしていた人。俺が、シャルとシャロンのように自由にしてやれなかった人。
沢山の苦しみを絶望を奈落を乗り越えて、その先に得た信念がこれなのだとすれば、なんて悲しくて、そして強い人なのだろう。
先に、未来に、希望など見出せるはずもないのだ。だって、彼女は希望なんて過去に見た事がないのだから。その点、幸せな過去を持っているだけ自分は幸せ者だ。
「『刻め』」
俺は手紙を閉じ、風魔法で粉々にしていく。これは、何人にも見せてはならないものだから。万が一にも、見つかってはいけないもの。イリアス様にも――今後、国を築いていく人々にも。ヴィンセント殿下が俺に気を遣っていた事実は歴史に必要ない。
でも。その通りだ。過去は俺の味方だ。
沢山の人を殺して傷つけて苦しめた俺は、もう皆に合わせる顔がない。それ以前に会うことも厭われるだろう。けれど、少なくとも過去の皆は、俺をずっと好きでいてくれる。ーー2つの宝物が、何よりの証拠だろう。
教授がいずれこうなる事を見越して日記を書かせたのだとすれば、あの人はやはり凄い人だ。先見の明に富んでいて、1人1人を大事にする。……理事長には一生涯離して貰えないだろうなぁ。
「……もっと、話したかったな」
ボソリと呟き、よろめきながらも立ち上がった俺は、机の引き出しに入れておいた瓶から5粒程の安定剤と鎮痛剤を取り出し、一気に飲み込む。すると間もなくして、身体から軋むような痛みと息苦しさが抜けていくのを感じた。
代償として手の痙攣が始まるのだが、もう慣れてしまった。カタカタと小刻みに揺れる指先を見つめ、俺は小さく息を吐く。
ーードォオオン!!!ドォン!!!
また、爆音が響き渡る。それと共に、連絡用の通信魔具がぶるぶると震えた。痙攣する手で通信魔具を手に取り、起動する。
「はい。第3部隊隊長、レーネ・フォーサイス」
『……分かるな。殲滅してこい』
「……了解です」
いけませんよ。団長。【殺せ】とちゃんと伝えなければ。俺は努めて柔和な声を意識しながら通信魔具を切り、素早く騎士服に着替えて掛けておいた剣を取る。
そして、俺の忠誠心にかまけて大雑把な命令しか出さない騎士団長へとクスリと仄かな嘲笑を贈りつつも、ゆったりと窓の扉を開けた。
黒煙が上がる空は、重苦しい暗雲が立ち込めている。
「……もうすぐ、ーー」
だから ーー最期の時くらい、せめて晴れたらいい。そしたらもう、満足だ。
風を纏い、炎の最中へと向かう。水属性の騎士は、もう死んだのだろうか。1度瞼を閉じ、再び足を進める。
ふわりと飛べば、空へと近づく。
でも、何処までも遠くて、永劫辿り着く事は無い。
「ーーそっちの空は、変わらず綺麗ですか」
こっちはこのとおり。
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