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底なし沼にて
93.
しおりを挟む絢爛豪華を極めた謁見室の1番奥。本来ならばこの国の代表たる人物が腰を据えるべき玉座に悠然と腰掛けたイリアスは、ほんの僅かーー階下の下座に立っている男たちにすら悟られないような程小さく、溜息を吐いた。そのまま玉座の背もたれに深く身体をもたせかけ、迅速に修理された天窓を見上げて美しい薄紫を冷たく細める。
暫くして、虚空を見つめてぼんやりとしている彼を見かねた騎士団長が1歩前に出ても、彼は相変わらず天井を見上げたままであった。全く己を見ようともしないイリアスに遂に痺れを切らしたらしい騎士団長が、断りなく口を開く。
「殿下、玉座からお降り下さいませ。その場は陛下のみが座する場所。不敬で御座います」
「秀麗」と表現するのが相応しいイリアスの顔から、お飾り程に添えられた笑みが消える。そして彼は間髪入れることなく火の弓矢を出現させると、容赦なく矢をつがえ弓引いた。その標的となった団長が慌てて左に避けると、丁度彼の顔面があった辺りを火矢が真っ直ぐに通り抜け、扉に刺さって消える。全く殺意を出さず、しかし完全に殺すつもりで放たれた魔法痕を見つめ、騎士団長は冷や汗を流した。
呆然と目を見開いて固まった団長には目もくれず、イリアスは退屈そうに肘をつくと今度こそ彼等にも聞こえるように大きく息を吐く。そのまま玉座にふんぞり返り直して長い足を優雅に組み、騎士団長と同様下座に立っているゴーダンを睥睨した。すると、全く感情の読み取れない無表情であった彼が直様漆黒の瞳を蕩けさせる。
そんな可愛い傀儡の様子にイリアスも多少機嫌を持ち直したのか、再び温度のない笑みを繕って。
「レーネは?」
「激しく衰弱しています。しかし自我の崩壊にまでは及んでおりません。もう少し待てば、戦場である程度使い物になる程には回復すると思われます」
「ふぅん……意外と我慢強いね。今回で終わりかと思ったけれど」
「彼は強いですから」
己の言葉を肯定するように深く頷くゴーダン。そしてそんなに彼を愛おしげに見つめるイリアス。しかし楽しげに彼等が交わす極めて冷酷無慈悲な内容に、騎士団長は更に顔色悪く右横の男を見つめた。そして、自分が空気になりつつあることを察したらしい彼は、心なし視線を泳がせながら口を開く。
無駄に気位が高いこの男。自分を差し置いて第1部隊隊長であるゴーダンがイリアスと多く語ることが腹立たしくて仕方がないのである。何処までも自分の身分にしか関心のない彼は、自分の身分に見合った待遇を、目上にも求めるという悪癖があった。
「か、彼は我々の戦力の要となる存在に御座います故。殿下ももう少しお考えになって彼を動かしてくださいませ」
目立つ為に大仰に両手をあげ、演説するかのように目を閉じた男。だからこそ、彼はイリアスが不愉快そうに薄紫の瞳を歪めた事にすら気づくことはなく。
「第3部隊隊長に不満があるのは分かります。しかしーー」
「君如きが、僕を知ったような口で語らないでくれるかな」
謁見室を斬り裂くような凍てついた声が響き渡る。思わず両手を上げたまま口を噤んだ騎士団長が玉座の方を見上げて、ひゅ、と無様に息を呑んだ。
それはそれは麗しい男が、まるで路傍の塵を見下ろすような冷え切った瞳で、団長を見つめていた。薄紫を不気味に揺らめかせたイリアスは1つ大きく息を吸い込むと、苛立ちを隠さず長い髪を掻き上げて足を組み替える。
常に冷静沈着な彼が、珍しく感情を露わにしている。その事実が言いようもなく騎士団長の心を焦らせた。
「僕はゴーダンと話していたんだ。君に発言権を与えた覚えはない」
「……し、失礼いたしました。しかし、」
「うるさいな」
とりつく島もない。完全に騎士団長と会話する気を失ってしまったらしいイリアスの冷笑に、騎士団長は屈辱に俯き歯軋りをする。そんな男の様子を、イリアスはつまらなさそうに肘置きについた手に頬を預けて見下ろしていた。
しかし、騎士団長の言葉は決して間違いではない。そもそもの人数が少ない風属性、更にそれを極めた実力者であるレーネの魔法はとにかく魔法士にとって対策が難しい厄介者なのだ。強力で便利な魔法が多いが、その分魔法の習得が難しく『大器晩成型』と表現されることも多い風属性。それを完全に使いこなしているレーネが一体どれ程研鑽を積んだのか。
保守派にとっての貴重な戦力であるとイリアスも理解しているから、彼を停戦協定の最中に呼び戻したのだ。
そう、目の前に立つ騎士団長は理解しているのだろう。ーーしかし、だ。イリアスは退屈そうに鼻を鳴らし、踵で大理石の床を打ち鳴らした。途端、直ぐ様跪いた目の前の男2人を見下し、身勝手に嗤って宣う。
「ふふ、イベリス。君はまさかこの争いに勝てると思っているの?」
「ーーは、?」
「あっはは!!本当に思っているんだ!」
ああおかしい!
涙すら浮かべ、腹を抱えて大笑いするイリアスを騎士団長が驚愕の表情で見上げている。彼はそのまま隣に跪くゴー団へと視線を移しーー男が全く驚いた様子も動揺した様子も見せていないのを確認するや、恐怖に唇を震わせた。対して、ゴーダンは全て知っているとばかりにイリアスを柔らかく見上げている。
隣の『気狂い』の視線の先にいたイリアスは愉悦を顔全面に浮かべて玉座から立ち上がると、クスクスと鳥が歌うように笑いながら、あろう事か先程まで己が腰掛けていた俺を蹴り付けた。何度も何度も何度も、散りばめられた宝石を抉らんばかりに。
突然の王子の暴挙に慌てて駆け寄り止めようとした団長。しかし、そんな男の動きを視線ひとつで封じたイリアスは、もう1度「うるさいな」と言葉で彼を拘束した。そして、負け惜しみのように「陛下がお座りになる玉座を蹴るなど!!!」と立ち止まりながらも叫ぶ男を睥睨し、上品な唇を動かす。ーー限りのない嘲笑をのせて。
「ははっ…なにを怒鳴っているんだい、イベリス。こんなもの、どうせ直ぐに無くなるのだから。気にすることはないよ」
「なーーんて事を、仰る。流石の殿下といえど、これ以上の不敬は看過できませんぞ。それに、我々が負けるなど……」
「不敬だなんだって!結局君は己の地位が脅かされるか否かにしか関心がないのに、よくもそんな図々しく忠義を語れるものだねぇ」
ただただ侮蔑を含んだ言葉が、騎士団長に襲いかかって。図星を刺された事に息を呑み、言い返せないまま黙ってしまった彼にイリアスは失望したように更に玉座を激しく蹴りつけた。ゴーダンはそんな彼等の様子をただ傍観しているだけで、特に動くことはない。それで、良いのである。
不愉快に眉を顰め顔を歪めたイリアスは、まるで世界全てを嘲笑するかのように天窓を見上げ、その更に向こうに広がる曇り空を見据えた。
なんて、馬鹿馬鹿しい世界だろうか。
「教えてあげようか。この争い、保守派の負けだよ。ーーだけど、僕は勝つ。有象無象の言葉を借りていうのならば『革命』か。勝者は革命軍でも、弟でも、保守派でも父上でもない」
この、僕だ。
そう言って狂ったように身を捩って嗤うイリアスを見つめ。
最早すっかり頭がが回らなくなったのか、呆然と彼を見上げて固まっている騎士団長を見つめ。
漸く、置物のように跪いていたゴーダンは口元を緩ませた。
「左様で御座います。我が主」
「兄上がーーイリアス・フィオーレがなにを考えているのか、俺はずっとわからないでいる」
暗闇の中、ヴィンセントの言葉が紙にインクが染み渡るように部屋に滲んだ。
デスペリア家の屋根裏部屋にポツンと2つ置かれたソファに座った彼は、仮設の寝具ですやすやと眠っているアンリ・フォーサイスと双子の少年少女を見つめ、そう呟く。彼の忠臣であるアルヴィアやカトリーヌ、そしてカンナは屋敷の見廻りへと赴いて不在。彼の言葉を唯一耳に入れた少女、アリスはコテンと首を傾げて不思議そうに血色を瞬かせた。
「王位に異様な執着を見せている、と国民の間では話題沸騰だけれど?」
涼やかな彼女の声に、ヴィンセントは躊躇いなく頷く。アリスが言う通り、イリアスは己が筆頭である王位継承権に固執し、常にヴィンセントや弟のロバルを排除せんと企んできた。第3部隊の騎士達は、やって来た刺客が『ヴィンセント』由来の者だけではない事を言わなかったのだろうーー弟は全く気付いていないようであったが。
しかし、ヴィンセントの記憶が確かであるならば(確かでないならば即刻慰者に罹らなければならない)、まだ幼い頃のイリアスは王位継承権になど関心を抱いていなかったはずなのだ。関心ーーと言うよりも、拘りと言うべきか。少なくとも、少年に一括りされる程度の年齢の頃のイリアスは、ヴィンセント以上に自由奔放で我儘で。
少なくとも、権力を望んでいるようには見えなかった。
『可愛いヴィンス。おいで、一緒に遊ぼう』
ヴィンセントに対しても、彼は何処までも優しかった。周囲を怖がって外に出る事を尻込みするヴィンセントを馬に乗せ、森や湖や、時には城を出てロサの街並みを歩かせてくれた事もある。外の世界を恐れない勇敢な兄を。弱い自分を導いてくれる兄を覚えている。だって、そんな美しい彼をヴィンセントはずっと慕っていたのだから。
目を伏せ、1対のソファの中央に置かれた魔具灯を見つめて唇を噛む。すると、そんなヴィンセントの言葉を静かに聞いていたアリスがちょこちょことソファを伝ってヴィンセントに程近い距離まで移動すると、ピタリと彼に体を合わせてニッコリと覗き込んできた。彼女は覗き込んだ先、ヴィンセントの頬にささやかな紅がさしたのを確認するや、更にニンマリと口角を上げる。
ヴィンセントが離れようとすればその分近づくのだから、そのうち彼も諦めて好きなようにさせて。項垂れて疲労の溜息を吐く彼を見つめ、アリスは鈴のように言葉を紡いでいく。
「王子君がなにをしたいのか、なにが目的か。そんなものは如何だって良いじゃないか。彼は敵。彼は殺戮対象。どんな過去がどんな経歴がどんな理想があろうとした事は消えないのだから、ね」
「……わか…ってる」
「いいや、君はわかっていない。どんな事情があれど、国民を理不尽に虐げていた事が許される理由にはならない。慈悲などない。あってはならないんだよ、ヴィンセント」
現に、彼はもう君に慈悲など与えなかったじゃないか。
耳元に唇をよせ、息を吹き込むかのように語る彼女にヴィンセントが大袈裟な程身体を奮わせる。頬を真っ赤に染め上げ、しかし苦渋に染まって此方を睨み下ろすその表情たるや、なんとも扇情的で可愛らしい。彼の初心で素直な反応はアリスの機嫌を大いに底上げした。
しかし、反比例するようにヴィンセントの気分は落ちていく。彼女に言われた言葉を脳内で反芻しながら、彼は悲愴に眉を下げ、真紅の瞳を揺らした。
イリアスはもう、ヴィンセントに一切の情を持たない。そんな事はわかっているのだ。愛しい部下であるアルヴィアの片目を失ったその日から、重々理解している。
けれど、側室のーー娼婦上がりの下賤な子どもと、城内で多くの人に疎まれてきた彼を、優しく手を握りしめて導いてくれたかつてのイリアスを、忘れる事も出来なくて。
昔の兄上に戻って欲しい。そう、何度懇願したことか。当時の悲しみが蘇り、思わず目を瞑ってかぶりを振る。
『……なにを言っているのかな、ヴィンスは。僕は昔っからなに1つ変わってなどいない。ああ、君なら分かってくれると思ったのだけれどね。ーー残念だよ』
君も、いらないな。
そう言って、そら恐ろしい程の美しく麗しい笑顔を浮かべて、俺は彼に捨てられたのだ。かくもあっさりと。
薄暗い部屋の中、アンリと双子の穏やかな寝息だけが聞こえてくる。フォーサイス弟を裏切って此方側についた双子の少年少女は、割と早期でアンリに懐き、ああして常に共に過ごしているらしい(カンナ・カルミア談)。ーー失ったものの影を、その兄に見出しているのだろう。そう苦笑したカンナの言葉を思い出しながら、何処か焦がれるように彼等の寝顔を見つめたヴィンセント。その様子に、アリスが不満げに唇を尖らせた。
そして、横を向いた彼の後ろから細い手を顎に伸ばし、ぐいと彼女の不尾を振り返らせる。直ぐに、宝石のような赤と、血のような赤が、かち合った。
かぁ、と恥ずかしそうに頬を染めるヴィンセントが可愛らしくてアリスはクスクスと嗤う。全くこの青年は本当にアリスを悦ばせるのが上手なのだ。
アリスは己の手が慌てたように振り払われるやいなや、持ち前の怪力でヴィンセントの身体をソファへと押し倒して。想像だにしなかったらしいその動きにヴィンセントは抵抗もままならないままソファに倒れ込んだ。そして、肘置きに頭をぶつけたのか両腕で後頭部を押さえ、呻いている。
「えい」
「えっ」
丁度良いのでそのまま両腕をアリスの細い片指でガッチリと拘束し、あっさりと彼の腹部へと乗り上げてみせる。
ここに来て漸く己の体勢の危うさに気付いたらしい。ヴィンセントは顔を真っ青にしてあわあわと視線を泳がせた。
ニコニコと楽しそうに笑みを浮かべるアリス。彼女はヴィンセントの事を大層気に入っているのだ。本人に自覚はないらしいが。ーー例えば、次の世では共に過ごす事を願っても良いと思えるほどには。翡翠の青年も同じくらい。
しかし、そんな事を想われているとは露ほども知らない目の前の青年は、蒼白な顔で逃げを打つ。
「い、いや、分かるぞ。分かるけども。眉目秀麗、博識多才、気宇壮大、文武両道ーー」
「なにを言っているんだい、君」
「俺の持ち得る全てを考慮して、俺に欲情してしまうのも無理はないと思う。だがな、」
「ふ、ふふ、……まったく、君は面白い」
ベラベラと極めて正確な自己分析を行いながらも、なんとかアリスの拘束を解かんと奮闘していた青年。しかし、アリスの声が徐々に不穏な響きを持っていくのを敏感に感じとったのか、彼は真っ白になった顔を恐る恐る上げて、彼女と再び視線を合わせた。そして小さく「ヒェ」なんて格好悪い悲鳴を漏らした。
「ああ、可愛くてかわいくて、」
欲情、なんて。可愛い事を言ってくれるものだから、本当にその気になってしまったじゃないか。本当はただ揶揄ってやるだけのつもりだったのに、なんて適当なことを嘯いてみる。
ぐるぐると渦巻いて揺れる彼女の深淵のような血色の瞳を凝視して固まってしまったヴィンセントの顎を掬い上げ、にたり、と口角を上げて覆い被さるように顔を近付けて。彼女は。
「喰べてしまいたく、なる、ね」
魔具灯の光が、ゆらりと消えた。
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