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底なし沼にて
86.
しおりを挟む「……本当だ。落ち着いてる」
真っ赤な瞳をした少女の姿が完全に見えなくなったことを確認し、俺は深く息を吐いた。はらはらと夜闇を照らすように降り始めた雪を掌で受け止める。それによって慢性的な手の痙攣が一時的に落ち着きを見せている事に気付き、ぱちぱちと数度目を瞬かせた。
如何やらアリスのお礼は本当らしい。まさか、血を見て感じる安心感が他のもので代用できるとは。何故、今まで気付かなかったのだろうか。……あぁ、気にする余裕もなかっただけか。
俺は耳に付けている真紅のピアスを手に取り、じっと見つめる。すると直ぐに、何処か心の奥底に燻る苛立ちのようなものが、じわじわと浸透するように消えていくのを感じた。ほう、と白い息が零れる。
存外有難い情報を聞けた事が嬉しくて、口角が上がる。人を殺すのは楽しいけれど、疲れるのだ。疲れる事はしたくない。
周囲を見回し、人の気配が一切しないのをもう1度確かめると、俺は会場の方へくるりと踵を返した。外気に冷やされた身体を自ら抱き締めるように身を縮こませながら正規の入り口を入り、警備の一般騎士に会釈をする。すると、彼等もよそよそしい敬礼を返してくれた。
「お帰りなさいませ。どうぞ」
「あぁ。有難う」
淡々とした挨拶に小さく返し、薄暗い廊下を歩く。カツン、カツン、と俺の足音が不気味に反響するのが何となく恐ろしいような気持ちになって、知らず口を窄めた。ーーやはり魔具灯の光は苦手だ。夜闇から逃げられないまま、独りぼっちで消えてしまいそうな気がするから。
ぼんやりと大理石の床を見つめ、歩みを進める。広い会場の中には今の所一切人の姿は見えない。きっとまだ、皆は夜会を楽しんでいるのだろーーーー
「遅い」
ーーガァン!!!!!
「!?ーーーーッ"」
低い低い声が耳元でするやいなや。
突然首を掴まれるぞわりとした感覚がして、俺は驚愕に目を見開いた。しかし、声がした方向へと視線を向けることもできず、俺の身体は壁に叩きつけられる。廊下に鈍い衝突音が響いたが、警備の騎士達の気配は何故か一切動く事はない。
壁に押し付けられるようにして首を拘束された俺は、咄嗟の判断で手と首の隙間に両指を挟み込み、突然の襲撃者ーー第1部隊隊長、ゴーダン・ブラックを見上げた。
全く、気付かなかった。
「ッッ、ゲホッ……な、ん、」
しかし、彼はいくら俺が咳き込もうが、一切表情を動かす事も力を緩めることもない。ただギリギリと大きな片手で俺の首を締め続け、その光のない漆黒の瞳で俺を見つめるだけだ。異様に透明度の高いそれには、俺が無様にもがき苦しむ様子が鮮明に映されていた。
暫くの間無感動に俺を見つめていた彼は、ふと何かを思い付いたのか徐々に拘束する腕の高さを上げていく。同時に全身が持ち上げられ、足がつかなくなりそうな不気味な重圧に、俺は大きく目を見開いた。首が更に締まっていく。
最終的に爪先立ちになったところで彼は腕を止め、漸くその重たい口を開いた。
「……呑気なものだ。逢引きか」
「そ、んッ…なこと、ーーカハッ"」
「相手はデスペリア家の生き残りか。何を話していた?」
酸素不足でズキズキと痛み出す頭で必死に考える。その際感情や視線を動かさないように努める為、俺は挟んだ両指に再度力を込めた。ーー相変わらず、警備の気配は動かない。
確かに、イリアスさまの気配ばかり気にして、第1部隊隊長の事をすっかり忘れていたのは俺の落ち度だ。しかし、多少運の良い事に(俺にとっても、アリスにとっても。)会話の内容までは聞かれていなかったらしい。
浅く呼吸を繰り返し、眉を顰める。そして、俺は掠れる視界で、俺よりも頭2つ分ほど高い第1部隊隊長の顔を見つめた。……この人に嘘をつく事は、恐らく不可能だ。
「もうし、わけ、ござ、いません」
だから、謝る。誠心誠意謝る。
だが、今回の彼は余程不機嫌なのか俺の返答を聞くや強面を更に恐ろしく歪め、ギリギリと拘束する力を強めてきた。思わずはくりと酸素を求めて口を開く。
「貴様はイリアス様のものだ。婚約などできると思うな」
「ッッ"、…ッ、けほっ…」
「聞いているのか」
聞いていますよ。と伝わるように、目を瞑りながらも必死に首を縦に振る。すると、彼は漸く満足してくれたようで、俺の拘束を少しだけ緩めてくれた。途端、急速に入ってくる酸素にゲホゲホと咳き込んでしまう。
それにしてもだ。イリアス様のものであるという事実が、如何して女性と話をしない事に繋がるのだろう。それとも、第1部隊隊長は隊長なりに、彼女が相当な危険人物である事に気付いたのだろうか。ーーきっと、そうだろう。だって、イリアス様が、俺如きの色恋沙汰に興味を持つ意味がわからないもの。
そういえば、いつしかおうさまにも婚約者の有無を執拗に聞かれたなぁ、なんて現実逃避に耽る。過保護の兄が俺をそういう政略的なことから遠ざけていた、と返したら無言でマーヴィン殿と手を合わせていた……思い出。
おうさま、元気だろうか。歳が歳だし、そろそろ四十肩とかに悩まされていないだろうか。
そんな事を考えていた俺は、目の前の強者が、俺を冷酷に睥睨している事に、気付いていなかった。
ーーじゅぅううッ
「……ぁ"ッ"ッ"ーーーーー!?!?!?」
「この俺を差し置いて考え事とは。その逃避癖を如何にかしろと何度指導すれば分かる」
のどが、やける。あつい、あつい、あつい!!!!
肉が焦げるような特徴的な匂いと共に、尋常ではない程の痛みが喉を襲う。じわじわと肌が焼かれていく悍ましい感覚に身悶えるが、彼は呆れたように深い溜息を吐くのみで。拘束する手に付与した火属性の魔法を解除する気は全くないようだった。
激痛が、全身を凍らせる。あつい、あつい、いたい、いたいいたいいたい。閉じた目から生理的な涙が滲んだ。
「あ"ッぁあ"あ"ッッ」
「痛いか」
がくがくと首肯する。人間の急所の1つを焼かれる感触に、全身の震えが止まらない。臭い。
「ーーヅァッ"、あ"」
すると、そろそろ俺の体が限界であると判断したのか、第1部隊隊長がパッと手の拘束を外した。あまりにも突然の解放にドサリと蹲るようにして喉を押さえ、何度も何度も咳き込んでしまう。手からは、爛れた皮膚の感触と、血が流れる感触がする。
取り敢えず「あ"ー、あ"ー、…」と掠れつつながらも声が出る事を確認し、再度ゲホゲホと荒く咳き込んだ。ああ、痛い。ーー痛いのは、嫌いだ。
かた、と本能的な恐怖で細かく震え始める体を抱き締めるように抱える。ぼた、と喉から塊のような血が落ちた。それでも何とか顔を上げ、此方を一切の情もなく見下ろしている第1部隊隊長へと視線をやる。
すると、彼はしゃがみ込んだ俺の目の前まで顔を寄せるように身を屈め、上から覆い被さるように壁に両手をついた。顔に、影がさす。ーー光のない漆黒には、蒼白になって唇を噛む俺が、映されている。
「お前はイリアス様にーー」
「失礼いたします、隊長。殿下がお呼びでございます!」
何事かを、神妙な調子で口にしようとした男は、突然の空気の読めない乱入者の声に眉間の皺を更に深めた。しかし、再度淡々と「隊長」と呼ぶ自らの部下の声に退屈そうに一度深い息を吐くと、顔を上げる。そして小さく「わかった」とだけ返すと、頬を染めて彼を見つめる部下に一瞥もくれる事なくその横を通り過ぎ、廊下の向こうへと消えていった。
廊下には、未だ蹲ったままの俺と、第1部隊の傲慢な騎士だけが残っている。てっきり己の隊長の後を追っていくだろうと思っていた俺は、立って此方を見下ろしたままの騎士に何となく後ろめたい気分になって、無言で立ち上がった。
騎士服や外套に付いた小さな埃を払い、喉を押さえる。ぬるりと嫌な感触がした。
「……」
「おい、待てよ」
小さな少女を殺そうとした男。
広場で女性を愚弄し、俺を最初に嘲笑した男。
カレンを押さえつけ、犯した男。
視界に入れることすら、呪わしい。ーー対面すれば無惨に殺したくなってしまうから、見ないようにしていたのに。
無言のまま彼の横を通り過ぎようとした俺を、あろう事か彼は呼び止めてきたのだ。そして、あからさまに嫌そうに立ち止まった俺の腕を掴み、無理矢理近場の空き部屋の扉を開けて中へと押し込んだ。
物置のような小さな部屋には埃がふわふわと舞っている。掃除の行き届いていない薄汚い室内に知らず不愉快げに眉を顰めた。そんな俺を、彼は真っ直ぐに見つめてくる。俺も、警戒を緩めずに見返した。
実の所、彼にこうして空き部屋に連れ込まれるのは初めてではない。王城でも彼は時折俺をこうして連れて来ては、一頻り罵って放置する謎の習慣を持っていたのだ。
ーーほら、今日も始まる。
「隊長に目を掛けられて楽しいか」
「いえ、全く」
「ウルセェなぁ!!!」
声を出す度痛む喉をおさえ、絶叫と共に飛んでくる炎の球を首を傾げて避ける。それは勢い良く俺の背後の石壁へとぶつかり、埃を一通り燃やし尽くして消えていった。すぐさま首を元の位置に戻し、男を再度見据える。傲慢な騎士はわなわなと歯軋りをすると、言葉にならない絶叫を上げた。余程鬱憤が溜まっているらしい。
しかし、歪に歪んだその瞳には、俺は全く映っていない。陶酔するように濁ったその瞳に一体誰が映るのかなんて、聞かなくてもわかることである。
男が大仰な足取りで近付いてくるのを見つめ、反対に部屋を回るように距離を取る。みんな、ただ後ろに下がれば壁にぶつかるから、部屋の中で逃げる時はぐるぐる回るように逃げような。
「ーーくそッ馬鹿にしているのかぁああ!!!」
「して、いません」
「してんだろぉがあぁああッッ!!」
ただし、相手を挑発する行為になりかねないので、注意が必要だ。ーー逆に挑発したい場合は遠慮なくやるといい。
苛苛と頭を掻きむしって目を剥く男を見つめ、俺は溢れかけた溜息を飲み込んだ。無駄な挑発は悪手である。
尚もガリガリ、ガリガリ、と皮膚に傷がつきそうなほど乱雑に頭を掻いた情緒不安定な騎士は、次第に少しだけ落ち着いてきたのか前屈みになってゾッとするような上目遣いで俺を見つめると、まるで呪いのような言葉を紡ぎ始める。その目の下には、酷い隈が出来ていた。
思わず目を瞬かせる。今の今まで、彼の体調が悪そうであることに全く気が付いていなかった。すると、彼はそんな俺の様子を見つめて狂ったような嘲笑をあげる。
「ギャハハははは!!!ほら、ほらぁ!!そうだよなああ!!!俺如き雑魚、お前は気にも留めないよなぁああ!!!!」
「そんなこと、」
「黙れ黙れ黙れ黙れ!!!!」
ぐわん、と部屋に響く絶叫。あぁ、うるさいのは怖い。
【死ね】【死ね】【死ね】
息を、呑んだ。騎士が、此方を見ている。
「お前みたいな奴等は、自分よりも実力のない多くの他者になんて一切気も配らない!!!興味も持たない!!なぁにが騎士だ!!なぁあにが国民を護るだ!!お前らは『国民』という概念を免罪符にしてるだけだろうが!!!」
「ッちが、」
「なら、俺の名前は言えるか!?!?他の騎士は!?侍従は!?侍女は!?国民は!?!?」
ほうら、何も言えない。覚える気もない大勢を護るなんて大袈裟な言葉を吐いて、1つ1つの小さな命を平気で見ないふりができる。その癖に、自分で騎士としての人生を誇っているお前が、気に食わない。
呪詛のような攻撃力の高い言葉の数々に、俺は知らず逃げる足を動かせなくなっていて。知らずベッタリと血のついた両拳を握りしめ、目を伏せる。ーー図星だった。
「お前にあるのはただの傲慢さと、自分の傲慢に気付かない醜さだけだ。調子に乗るなよ。貴様如きが上に立つ人間になれるはずがないだろう」
目の前に立った騎士が、不健康に青褪めた顔でぐらぐらと俺を見下ろしている。その歪んだ唇が更に歪に震えるのを見つめ、俺はブルリと身体を震わせた。そして、両耳を塞ぐ。
これ以上、壊さないでほしい。矜持を。砦を。
なのに。
男は俺の両腕を取ると、尚もぐいっとその顔を近づけてくる。思わずよろめいた俺は彼の身体にボスリと衝突してしまった。
「お前は隊長や殿下のような高位存在じゃない。俺達と同じ、ただの人間だよ」
「ーーッッ」
そう吐き捨て、俺の返事を待つことなく押し退けるようにして去っていく騎士。彼の延びた背筋を見つめ。
俺は、首を傾げる。
「……おれが、おなじ?」
非力な、ただただ迫害されて死んでいく国民と、同じだって?
ただ護られ、慈しまれ、愛されて生きるべき人間達と、同等だって?
どろり、と思考が澱む。嘲笑するような声が、埃だらけの床に零れ落ちた。
「違う」
俺は、護る側の人間だ。俺は、おれは、つよいから。
大好きな物語の、1小節を思い出す。
『エドモンはその類い稀なる力によって多くの非力な民を護り、安寧へと導いた』
ほら、強いなら、そう在るべきだろう。
「…………あれ?」
それって、民を見下しているのか?
あれ、おれ、まちがってた?
『反吐が出ますね。そんな忠誠は間違っている』
そう、誰に言われたのだったか。俺は、間違っていないと返したはずだ。ゆらゆらと不安定に視界が揺れるのを感じて、瞼を両手で隠すように覆う。
そして、ふらりと地面に崩れ落ちてしまった。
間違っていない、はずだろう。
びき、と、心臓が鈍い音を立てた。
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