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底なし沼にて
84.
しおりを挟むーーヘイデル王国ーー
『フィオーレ王国の王都【ロサ】にて、革命軍を名乗る集団の動きが再び活発化している。
先日XX日、保守派の伯爵家であるデスペリア家当主が路上にて死亡している所を発見された。遺体は肩から腹部に向けて大きな斬り傷が見られた事から、失血死と見られている。騎士団はこの路上での凶行を革命軍によるものと判断し、調査を続けている。』
翡翠階級の教室にポツンと1人座り新聞記事を眺める青年ーーノア・シトリンは、残酷な挿絵を見つめ、深く息を吐いた。その黄金色の美しい瞳の下にはいつしか濃い隈が出現し、全身からは疲労感が滲み出ている。
周囲の生徒達はそんな彼の様子を痛ましげに見つめた
が、特段何かを話しかけることもできないまま己の無力を恥じて目を伏せる。自分達如きでは、彼の心労を和らげる事は出来ないと痛い程分かっているのだ。
疲れきったノアは、そんな彼等の視線には一瞥も返す事なく新聞の1頁を見つめ、眉間に深い皺を刻んだ。
ヘイデル王国の新聞にも、ここ最近は毎日のように隣国であるフィオーレ王国の傾いた情勢が載るようになっている。
ノアの初めての親友であるレーネ・フォーサイスが母国へと帰国してから、時事的な事に基本的に関心のなかった彼は毎日新聞を取るようになった。他にも、投影結晶で少しでもフィオーレ王国の報道が流れれば、必ず記帳して覚えるようにしている。
少しでもレーネの周りの様子を理解して、同じ時を過ごそうと努めた。
しかし実際の所、レーネの名前が直接出てきたのは大広場で1人の女性を彼が処刑した時くらいだ。報道では『保守派の恐ろしい騎士がーー』なんて揶揄するように表現されていたが、ノアは、彼が恐ろしい騎士でない事を知っている。
その報道が流れた時は思わず食堂に設置されている投影結晶を破壊してしまったが、反省も後悔もしていない。憶測ばかりの主観的な情報だけを流す報道に、いったいどんな価値があるのか。反省文は書いたが全くもって本心ではなかった。
「……レーネ、」
『ノア、俺が教えてやろうか』
悪戯っぽい笑みを浮かべ、講義中ヒソヒソと俺に囁きかけて来たレーネの姿が脳裏に浮かぶ。あんなに優しくて魅力的な騎士を、ノアは今まで見た事がなかった。
吐き出す息にのせて愛しい友人の名前を呼び、祈るように目を閉じる。彼が愛し、愛されている【風】が、ノアの祈りを届けてくれないか、なんて有り得ないことを願って。
一緒に過ごしたのはたった1年足らずだったのに、レーネは沢山俺に幸せをくれたな。今も、飯を2人分作っちまうんだ。朝、寝汚いレーネを起こしに行って、誰もいない寝具を見つけるのがどれ程寂しいか。ーー今日も今日とて持ってきてしまった2人分の昼餉を見下ろし、思わず苦笑を漏らす。レーネは今、もっと辛い目に遭っているだろうに、俺はなんて欲深いのだろう。こうして今のんびり昼休憩を迎えることができる事も、限りなく幸運な事なのに。
新聞を閉じ、乱雑に机に置いたところで。ふと横に人の気配を感じてノアは隣の席を一瞥した。そして、目を瞬かせる。
「ノア、それお昼?余ってるなら食べていい?」
「……ロバル。如何してここに」
「監視の男に入れてもらったんだよぉ」
食べていい?と聞いてくる割にノアの許可なく既に手を伸ばしているあたり、その我儘っぷりは健在である。ノアは深い溜息を吐いて彼のふわふわの金糸をポコリと叩き、1人分のベーグルサンドを差し出してやる。
「ーーほんっと面倒臭い!!ルキナ様と遊びたいのにい!」
しかし。
作法の勉強がしんどいだの、勉強が怠いだの大声で愚痴を吐きながらベーグルを食べる彼に、瞬く間に周囲から不愉快そうな視線が集まり始める。元々勤勉な者が集まる翡翠階級だ。彼の怠けきった愚痴を良く思う人間は少ないだろう。
斯く言うノアも、いつものように彼の愚痴を笑って諌めてやるほどの心の余裕がないからか、次第に不機嫌そうな表情へと変わっていく。そのまま遂に我慢出来なくなって、ふい、と視線を逸らしてしまった。
レーネは、今も頑張っているのに。なんて彼を責めるのはお門違いなのだろうけれど。そう思ってしまうのも、仕方なくはないだろうか。
しかし、隣に腰掛けてモグモグとベーグルを頬張っていたロバルは、そんなノアの様子を敏感に察したようで、何処か読めない表情を浮かべて口角を上げる。そして、眉を顰めて唇を引き結ぶノアを見上げ、口についた食べカスを手巾で拭き取った。
「彼奴が心配?」
「……信じてる。けど、不安になっちまう時もある。革命軍にやられる事とかじゃなくてーーレーネが自分で、死を選んでしまわないか、」
「死ぬよ?レーネはこのまま」
ーーダァアアン!!!
コテン、と可愛らしく首を傾げながら世にも残酷な言葉を平気で口にするロバル。教室中から一切の音が消え去り、視線が彼に集中した事に気付いているのかいないのか。彼はニコニコと異様にもとれる笑顔で再度「死ぬよ。このままじゃね」と呟いた。
ギチリ、と自分の歯が軋む鈍い音で我に帰る。ノアは、自分は今どれ程醜い顔になっているのだろうか、なんて何処か冷静に考えながらも、机に打ちつけた両拳を無言で見つめた。これが、憤怒か。
最低限の理性で彼に殴りかかろうとする己を律する事に成功したノアは、しかし殺気の籠った瞳を爛々と輝かせてロバルを睨みつけ、口を開く。
「ーーおまえが、信じてやらねぇで、誰がッ、レーネを待ってやれるって言うんだッッ」
ぼろ、と限界を超えて落ちる水滴など気にする事も出来ないまま、喘ぐ様に必死に言葉を紡ぐ。周囲が驚いたようにざわざわと騒めいた。
なのに、すぐ横に座る彼は全くもって冷静で。それが更にノアを苛立たせるとわかっているのだろうか。わなわなと震える身体を押さえつけ、ノアは目の前の男の両肩を握った。ロバルが小さく呻く。
ーーうるせぇ、レーネはもっと痛いんだ。
「レーネはずっと、お前を、求めてたッ!今も!!俺が、教授がどんだけ手を尽くしたってッ、ロバルしか見てなかったッッ」
「……だろうね?」
「ッ、くそ、ふざけんなよ、ふざけんなッ!!レーネは死なねぇ!!ぜってぇ死なねぇ!!!」
ロバルを煌々と輝かせた黄金色で突き刺し、血を吐くように叫ぶ。レーネ、なぁ、レーネ。約束しただろ。ずっと一緒だって。
しかし。目の前に座る彼は、絶望的なな現実でいとも簡単にノアの願いを斬り捨てるのだ。
「ならぁ、ノアに何が出来るのぉ?」
「ーーッッ、……」
「ほら、図星。何も出来ないじゃん。ずぅっと安寧の地から待ってるだけ」
「そんな、」
「なら、今すぐ国境超えて助けに行ってみる?ーーまぁ、すぐに殺されるけどね?」
外から好き勝手物を言うのは楽でいいよね?
そう言って、冷たく嘲笑するロバルを見つめ、ノアは呆然と固まってしまう。周囲の生徒達も、ロバルから放たれる威圧感に息を呑んで沈黙した。ーー彼もまた、長い歴史を誇るフィオーレ王国の王子なのだと、彼等はようやく思い知ったのだ。
すっかり白けてしまった教室内を一望したロバルは、緩まったノアの手を塵でも払うように退けた後、至極つまらなさそうに息を吐いて立ち上がった。そしてちゃっかりベーグルサンドが入った袋を手に取ると、「じゃあねぇ~」とにこやかに手を振って去っていってしまった。
教室に、奈落のような重たい沈黙が落ちる。誰もが気遣わしげに、俯くノアを見つめることしか出来なかった。
「……レーネ。……レーネ、レーネ。なぁ……」
囁きかけるように何度か愛しい人の名前を呼んだノアは、ズキズキと軋む胸を抑え、ぼんやりと新聞記事に視線をやる。するとすぐ視界に入る『フィオーレ王家、もうまもなく撃沈か!?』なんて冗談めかして書かれた大見出しに、彼は薄い唇を噛み締め、ポタリと最後の一雫を机に落とした。
嫌になる程の幸せを用意して待ってるから。頼むから、生きてくれ。俺達との未来を、選んで。
レーネの居場所は此処にあるよ。
ふふん、と鼻歌すら歌いながら軽やかに歩いていたロバルは、背後から此方を射殺さん限りに見つめてくる人の気配を感じ、くるりと振り返った。そして、眉を下げて煽るように深い溜息を吐く。如何すれば人が苛立つのか、彼は1つ上の兄の姿を見て熟知しているのだ。
「……はぁ。視線がうるさいんだけどぉ」
ぎらぎらと憤怒と憎悪に濡れた目でこちらを見つめている己の護衛騎士のーー誰だったか。名前は覚えていないがとにかく、フィオーレ王国からレーネが連れてきた騎士達がロバルを睨みつけていた。
そこに漲る殺意が面白くて、思わず鼻で嗤ってしまう。手を出したいなら、出せばいいのだ。彼等が愛してやまないらしい隊長に、嫌われたいのならば、だが。
「ーー来るなら来ればいいよぉ」
「隊長が望んでおりませんので」
「はいはい、隊長、隊長、隊長ねぇ……聞き飽きたよぉ」
あからさまに馬鹿にするように息を吐けば、3人の騎士の内の1人ーー女性の格好をした騎士が前に出る。栗色の瞳を揺らし、美しく薄紅で飾られた唇を噛んだ彼女はさも苛立たしげに髪を靡かせた。
「何を考えてるのヨ。善人ぶってみたりして、アタシ達で遊んでるヨネ。何がオカシイノ。何が楽しいのヨ!!!」
「ユズ、口を慎め。殿下の御前だぞ」
「うるさいヨ!!!殿下なんて思ったことないヨ!赦さない。絶対に赦さないカラ」
ロバルのそばに、彼等が護りたい存在であるレーネがいないからだろう。随分と身の程知らずな言葉を吐いてくる女性騎士を見つめ、ロバルは退屈そうに欠伸を漏らす。すると、彼女を咎めていたはずの真面目そうな騎士もロバルを冷たい漆黒の瞳で見据えた。ーー静かな、純粋な殺意だ。
女性騎士は、尚も声を荒げる。
「隊長が死んだら、お前なんか直ぐに殺してアタシも死んでやるヨ。隊長が戻ってきても、もう2度と手出しなんかさせない。赦さない」
「ユズ」
しかし、糸目を限界まで見開いて此方を睨め付ける彼女とは反対に、ロバルの心は冷めていくばかりだ。
だって、何奴も此奴も「レーネが大事」と言う割には、その感情のままに彼を助けにいかない。所詮、身分や立場を優先する程度の愛なのだ。そんなものでイキがられても、ロバルには何も響かない。
なんの反応も示さないロバルに激昂した騎士を肌黒の騎士が羽交い締めにして静止するのを傍観しながら、彼はコテンと首を傾げた。ーー愛しているのなら、直ぐに駆けつければいいのだ。そして無惨に死ねば、少しはレーネの心にも刻み付けられるだろうに。
女性騎士を抑えながらもその蒼い美しい瞳で此方を見据える黒い騎士を、見上げる。騎士の手には、白い魔核が埋め込まれた指輪が輝いている。
レーネはきっと、ロバルの脅威が彼等部下に降りかからないよう、学園内での地位を与えたのだろう。気にしなくても、レーネ以外にしないのに。直接手を加える程の価値もないから。
如何にも真面目そうな顔をした騎士が死んだ目で静かに此方を見下ろして会釈をした。寛大なロバルは彼が立ったまま発言するのをまたもや許可してやる。顎をくい、とあげて言葉を促せば、存外礼儀のなっているらしい男は(それでも跪きはしなかったが)小さく頷いて口を開いた。
「……隊長は、俺達のものです。渡しませんよ」
「ふふん、お前達全員まとめてボクのものだからねぇ」
「俺達は、隊長のものだ」
「だから、みんなボクのものじゃない」
まぁ、今は、兄様か。ーーさっさと返してもらいたいものだ。
とはいえ、これ以上意味の無い水掛け論に時間を割いていられる程ロバルは暇ではない。小さな血豆1つない手をひらひらと揺らして言外に解散を宣言すると、彼は再度本来の進行方向へと身体を向け直した。そして、首だけで騎士の方を振り返り、歪に嗤う。
「僕、『無駄話』に時間を割いてやる程、暇じゃないんだよねぇ」
「ふざけーーーーーッ」
大声で怒鳴りつけようとした女性騎士の声は、その後ろにいた真面目そうな騎士に口を押さえつけられたことで、虚空へと消えていった。
女性騎士ーーではなく、女性の姿をした男性騎士、ユズは、憎悪の対象が去っていった方向を睨め付けたままギチリと音を立ててその真っ白な歯を食いしばる。ユズを拘束していたセスとエーレも、苛立たしげに眉を顰め、腰の剣に手を掛ける。
隊長が苛々している時にこうして剣に触れていたから、彼等もそうするようになった。きっと、隊長は知らないのだろう。徐々に落ち着いてきたらしいユズが、身体の力を抜いてセスの身体に凭れかかるのを感じ、彼等も拘束を解いた。
エーレはぽた、ぽた、と彼女の可愛らしい糸目から滲み出る涙を唇で掬い取り、抱き締める。セスも、そんな2人を更に包み込むように抱き締めた。すると、エーレの腕の中から、くぐもった嗚咽が響いてくる。
「……隊長はアタシ達のなのに……いっつも、いつだって『国』はアタシから大切なものを奪っていくのヨ……」
「……ユズ、大丈夫だ。俺とセスがいるだろう」
「わかってるヨ、でも隊長がいないとアタシ……う、う、もう奴隷はやだヨ……人間がいいヨ……」
人間が人間であれる事がどれ程幸せな事か。彼等は知っている。
「……ぅう、ムカつく。嫌いヨ……ムカつく……2人とも、今から可愛がらせてヨ」
「「…………腰砕けにならない程度で、頼む」」
「は?無理だヨネ~? 」
「……あーあ、3人仲良くしちゃって。ーーで?暫くはする事ないでしょお?」
上階の、丁度3人の騎士が真下に観察できる位置の窓枠に両肘を乗せたロバルは、さも退屈そうにふわりと欠伸を漏らした。そして、背後に静かに立つ監視役に問いかける。無言で頷いた男の気配を感じ取った彼は、騎士から視線を逸らし、ぼんやりと空を見上げた。
風が、ざわざわと不穏に揺れている。
「はーあ、こればっかりは、ボクじゃ如何しようもないよねぇ。全部結局彼奴次第じゃん」
「……今のところ、正しく進んでいるはずです。ーー貴方はするべき事をしました」
涼やかに告げる少年を胡散臭げに振り返ったロバルは、薄紫の瞳を細め、警戒の眼差しで睥睨した。しかし、相手はロバルの威圧にも一切怯む事なく彼を見つめている。
まったく、何奴も此奴も気に食わない。全てを悟った賢者のような顔をして、口出しばかり一丁前で。自分じゃなにもしない癖にーー出来ない癖に。
「それも、神のお告げって奴ぅ?……お前、本当に嫌い」
「光栄ですね。俺もずっと、生まれる前から嫌いでしたよ」
如何にも印象に残り辛い薄い顔をした青年は、ニコリと皮肉げに微笑んだ。ーーそして。
「精々役に立ってくださいよ。『傲慢で馬鹿な王子』様」
ギチリ、と歯を鳴らす。
あぁ、気に食わない。気に食わない。
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