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学びの庭にて
57.
しおりを挟むどうして、こうもままならないのだろう。
ノアは目の前の悲惨な光景を見つめながら、ギチリと歯軋りをした。
表彰式が終わってすぐ。
ノアは自分を囲んで称賛しようとする翡翠の生徒達を放置し、ひたすら闘技場の最上階を目指した。途中で風紀の先輩に止められはしたが、「職務です」とだけ言えば、察しのいい先輩は何も言うことなく通してくれた。
そして、もうすぐ最上階というところまで差し掛かった時。目の前に現れた見慣れた顔に、ノアは大声で叫んだ。
「ロバル!!!」
「え、うわぁ!!ノア!?」
ロバルの肩を掴み、思いっきり揺する。機嫌よさげに鼻歌を歌いながら降りてきいたロバルは、突然現れた鬼気迫る様子のノアに目を白黒とさせている。
走りっぱなしで荒くなってしまった息を整え、何とか会話ができる状態になったノアは、ロバルの目を真っ直ぐに見つめ、問い掛ける。
「レーネは!?レーネは、一緒じゃ、ないのか!?」
「…………レーネ?なんで?」
「レーネはお前んとこの第1王子に呼ばれたはずだ!!」
本当に訳が分からない、と言いたげに首を傾げるロバルに、ノアの焦りはますます募る。てっきりロバルも『フィオーレ王国第3王子』という肩書でレーネと共に呼ばれたのかと思ったのだが、違うのだろうか。一刻も早くレーネのもとへ行ってやりたいのに。
キョトンとしていたロバルは、「わからないけれど」と呟いてちらりと目を逸らす。彼が言うには、彼は自分の兄に会いに行こうとしたらしいのだが、「公務中だ」と警備の者に追い返されたのだという。レーネの顔は一度たりとも目にしていない、と。
「本当か?」
「本当だってぇ!!まったくわかんない!!」
その目に一切の躊躇や焦りーー嘘の色がないのを確認して、ノアは彼を押さえつけていた両手を漸く離した。そして、小さく謝罪をする。力のあるノアが手加減なしで掴みかかったのだ。きっと痣になってしまうだろう。
しかし、気まずげなノアとは反対に、ロバルはニコニコと無邪気に笑った。その表情が不可解で、思わず訝し気に眉を顰める。
いつも威張り散らしているかおどおどするかの彼しか見た事がなかったので、何処か違和感を感じたのだ。ーーしかし。
「ほら、探さなきゃなんでしょ?行きなよぉ」
「ッッ、あぁ、悪い」
確かに、今はそれどころではない。ふと感じた違和感を追及するよりも先に、今まさに何かされているのかもしれないレーネを探さなければ。
そう思いなおしたノアは、渋々頷くともう一度謝罪してロバルの横を通り過ぎ、そのまま速度を上げた。
背後の少年の、酷く冷めた目には気付かないまま。
「…………可哀想に。お前じゃ何にも出来ないよ」
「ちょっとアンタ誰よ」
最上階へと上がり、長い廊下を駆けたノアが辿り着いたのは、廊下にまで血との臭いが充満した空間。その中心である1つの扉の前に立っていた騎士団長様が、訝し気な表情で剣の柄に手をかけたのを見たノアは、慌てて平伏し、敵意がないことをアピールする。
いっそのこと騎士団長様すらも押しのけて室内に押し入りたい位だったが、それをしてはこの場の血の匂いが増えるだけだ。
焦燥を何とか胸の中へと押し込み、出来る限り平静を装って言葉を紡ぐ。
「突然のご無礼大変失礼いたしました。私はこの学園で、レーネ・フォーサイスの監視役を務めております、ノア・シトリンでございます。レ――フォーサイスが先程から行方が分からず、捜索しておりました」
「…………あぁ、剣術部門に出てた子ね?んふふ、悪くなかったわ」
何度も何度もつっかえながらもそう述べたノアに、少しの間逡巡していた騎士団長様が、得心がいったとばかりに満足そうな表情をする。自分が将来志している騎士団の最高身分の方からの賞賛の言葉に胸が熱くなるが、喜びきれない。それよりも、中にいるのがレーネであるかどうかが、今のノアには重要なことだった。
「誉あるお言葉、恐悦至極にございます」と掠れた声で述べたノアに、騎士団長様は何か面白いものを見つけたような――例えば普段の理事長のような、愉しそうな表情になった。そして、扉の前から身体を退けると、俺を見下ろしてニッコリと微笑む。……何故か寒気がした。
「いいわよ、入って。アンタは見るべきだわ」
「レーネは無事なんでしょうか」
「……無事かどうかは彼自身が決めることよ」
「ッッ、――失礼します」
少なくとも、廊下の一角にまで充満する血の匂いで、身体面が無事であるはずはない。そして、心理面も。
ロバルと楽しんで、と囁いたレーネが泣き出しそうな表情をしていたことを、彼自身は知っているのだろうか。
泣き出しそうな表情を、出来るようになったのだと知っているのだろうか。
果たして、騎士団長様に導かれたまま部屋へと入ったノアは、目の前の光景に完全に硬直してしまった。
そんな彼に気付いた宰相様が、ノアを不審げに見つめ、騎士団長様を見上げた。その目に咎める様な色が見受けられるのに気付いたが、ノアは目を逸らすことができない。
彼らの会話も一切耳に入らないまま、挨拶すらできずに呆然と見つめる。
「騎士団長、部外者を室内に入れるなと――」
「彼は部外者じゃないわよ。ほら、スコーン少年よ」
「……あぁ、スコーン少年でしたか、失礼しました」
ノアが敬愛してやまないヘイデル王その人が、地に足を付けて、へたりと力無く座り込んでいる裸体のレーネを抱き締めている。ガタイの良い陛下の腕の中にいるレーネの背中は、酷く華奢で頼りなく見えた。そして、その周囲には、夥しいほどの血液の跡が。
陛下の腕の中で身動ぎもせずにいるレーネは、きっと意識を失っているかかなり朦朧とした状況なのだろう。陛下が厳かに「聞こえるか」「わかるか」と囁く声にも、一切の反応を見せない。
レーネ、と自分でも驚くほどにか細い声が零れた途端、陛下がその冷涼な金の瞳でノアを突き刺した。あまりの威圧感に、無意識に喉が鳴る。
警戒したように此方を注視する陛下に、最敬礼すら取れずにぼんやりと突っ立っている不敬な青年。
しかし、陛下は咎めるでもなく、赤く染まった布を水桶に浸していた宰相様を一瞥した。それに気付いた宰相様が「スコーン少年です」と囁く。……スコーン少年ってなんだ。
困惑するノアとは反対に、それで通じたらしい陛下は警戒を解き、再び視線をレーネへと戻す。騎士団長様に促されてノアが彼らに近づいても、何も言うことはない。
「…………レーネ、」
陛下の腕の中にいるレーネは、目を閉じていた。その顔が前のように苦しげに歪められていないことに少しだけ安堵して、その表情が全てを諦めているようなときの彼の者であるとわかり、歯軋りをする。
ノアを無表情で見つめていた陛下が、真正面から彼を抱きしめていた体勢から、姫抱きのような姿勢に変える。すると、その腹部と太腿に付けられた無惨な刺し傷があらわになった。
腹部は何度も筋切りをするように切り付けられたのだろう。浅い一本線のような切り傷が幾つも幾つもつけられている。
左太腿は突き刺されて抉られたのか、特に出血が酷い。右太腿は刺されただけなのか、出血はまだマシだが、傷口が小さいということは恐らく、迷いない手付きで突き刺されたのだろう。
無言でレーネを想い、眉を下げるノアを、陛下が分かりにくい表情で眺めている。本当の感情を表情に出さない事に長けている所が、出会った当初のレーネに少し似ているような気がした。
「……何か言いたいことがあるなら言え」
唇を噛み締めて顔を歪めたノアを見つめ、陛下が静かに呟いた。それが何故か酷く他人事のようにすら感じてしまって。あろうことか、陛下に苛立ちすら感じている自分に、ノアは驚愕した。
異を唱えることは罪ではない。そう告げた陛下の目は、ノアが初めて彼を見た時から変わらない。威厳があって、静謐で、誠実。
これこそが『王』なのだ、と幼いながらに思ったものだ。
「陛下なら、護れたのではなかったのですか」
「ちょっとスコーン少年アンタねぇ、」
「黙れ。――許す。お前の心を述べるがいい」
声を荒げて剣を抜こうとした騎士団長様を一声で制し、陛下がノアを真摯に見つめる。それに更に勝手な苛立ちが募って、ノアは陛下を睨みつけた。そして、意識のないレーネの身体を彼から奪い、抱きしめる。
だって、ここはヘイデル王国。陛下の領土だ。ならば、レーネのことだって大手を振って護れたはずだ。手を出せば赦さない、そう、宣言できたはずなのに。
ーー陛下はそうしなかったのだ。きっと第1王子を見過ごして、レーネを放置したのだ。この部屋に。恐怖と絶望に。
「レーネを国に返さなくても、陛下ならレーネを奪えるのではないのですか。ヘイデル王国の、陛下のものなんでしょう。なら、こんなに傷付いて、悲しんで、なのに、」
「…………」
「フィオーレ王国なんて潰してしまえばいい。今すぐ停戦協定なんて破棄して国ごと滅ぼしてしまえば、ーー……」
衝動のままに叫べたのは、ここまでだった。唇を血が出そうな程噛んで俯く。静寂が部屋を包んだ。
わかっている。そんなのは理想論だ。
今すぐ戦争を仕掛ければ、国際規約を違反したとして、ヘイデル王国は他国から白い目で見られるだろう。きっと社会的制裁が打たれる。最悪、他国が仲介として戦争に介入してくることだって有り得るのだ。
それに、戦争では人が死ぬ。
たった一人の為に戦争を起こして、国民の命を大量に散らせる事なんて、王たる人間がやっていいことではない。
本当は、陛下だって今すぐレーネを助けたいのだと、分かっている。だって、彼は俺の腕の中にいるレーネだけを見つめているのだから。
無理矢理フィオーレ王国から奪えたら、どれだけいいだろう。だけど、そんな簡単なものではない。陛下にも、そしてレーネにも、譲れない立場があるのだ。
レーネの艶やかな髪の毛に顔を埋め、「申し訳ございません。勝手を言いました」と震える声で告げる。
「……私は、自分の私欲の為だけに、国民を動かす訳にはいかない。国民の多くは私の為に動いてくれようとするが、私はそれを許すわけにはいかん」
「ッッはい、」
「私が王である限り、レーネを最優先することはない。レーネもそれを望まない。……私はレーネに、『王』の在るべき姿をみせねばならんのだ。この身でな。
――それに、
今私がフィオーレ王国を滅ぼしてレーネを救い出しても、彼の心は救われない。寧ろ、レーネは命を懸けてでも私の命を狙い、そして死ぬ。……何故なら今、此奴の心はフィオーレ王国にあるからだ」
知っている。痛いほど、嫌になるほど知っているとも。
陛下はノアの茶髪を一撫ですると、その感触に驚いたように顔を上げた彼に向って、微かに微笑んで見せた。
「ノア・シトリン。君のおかげで、レーネは確実に変わっている。顔色が良くなった。自然に笑うようになった。私の目を見るようになった。――全て、君の功績だ」
「…………勿体無き、お言葉にございますッッ」
ボロリ、と零れ落ちた涙を陛下の指が掬い上げていくのを見つめ、嗚咽を堪える。
ノアだって、まだ17歳の少年だ。戦争なんて文献や投影結晶での映像でしか見たことがない。大量の血や、王子の為に本気で敵を半殺しにする人間を、直接見た事などなかっただろう。
そんな彼が、レーネを恐れず、心に寄り添い、癒すのにどれだけの努力と忍耐を要したかなんて、この場にいる全員が簡単に想像できることだ。
「サイラス・ヘイデルの名に賭けて神に誓おう。君の功績を無駄にはしない。レーネと君を、私が必ずや幸せにしよう」
「、ッッお願い申し上げます、どうか、ッッどうか安寧を、未来を、彼に、――――」
ボロボロと零れ落ちる涙を止めることもせず、ノアは頭を下げた。
「どうすんのよ王サマ。スコーン少年、想像以上にイイ子よあれ。……やっぱりシトリン家って苦手なのよね、アタシ。」
「えぇ、これでは奪われてしまいますよ。陛下。
現状、陛下がレーネ殿の為にしたことと言えば、本を渡す位のものですからねぇ…………一見」
実際は、そんなことはない。
例えば、激化しているフィオーレ王国の【革命軍】の中心人物に、第3部隊副隊長のアリア・ネルを仲介して連絡を取り、国境で武器や資金を援助し始めている。そして、フィオーレ王国の内情を国際機関にリークし、他先進国からの心証を悪くしようと画策している。
毎日毎日、陛下はレーネ殿の為に、王として出来る限りのことを行っているのだ。
宰相であるマーヴィンは、誰よりもそれを知っている。知っているからこそ、口惜しい。スコーン少年の純粋な言葉は、陛下に深く突き刺さっただろうから。
『ぁ……はは……王様、には、見られたく、なかったなあ』
部屋に入ったマーヴィン達を、黒く汚れた手巾で床を拭きながら見上げ、ヘラリと笑ったレーネ殿。
その足からはまだまだ血が出ているのに、そんなことは気にもならないのか。彼は、ただ一心に陛下を見つめ、そして、倒れた。
『レーネ殿ッ!!――騎士団長、手当の道具と人避けを、陛下、』
『レーネ。どうして欲しい。――助けてほしいか。逃げ場が欲しいか』
慌てるマーヴィンとは違い、冷静にレーネ殿の傍に近づいた陛下は、黒衣が汚れるのも厭わずにレーネ殿を抱きしめ、低く囁いた。
助けて、と。そう言ってさえくれれば、外聞も体裁も、それら全て捨ててでも動きたいのだ。陛下も。
『―――おうさま?どう、したんです?』
『レーネ。助けは必要か』
その言葉を聞いて、幸せで堪らない、とばかりに最上の笑みを浮かべたレーネ殿を、陛下がどんな顔で見つめていたのか。
知っているのは、マーヴィンだけでいい。
「さっさと王サマの部屋に連れてっちゃいましょ」
「あぁ」
『―――――いらない。あんたじゃない……あんたにじゃない……』
「……ままならないものですね、レーネ殿」
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