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学びの庭にて
52.
しおりを挟む「……調子はーー良くはないらしいな」
目の前にだらしのない姿勢で座るサファイア教授を見つめ、苦笑する。あとおよそ半年でこの学園――この国を去ることを聞いたからだろう。その顔は非常に険しい。
理事長の強襲に遭って以来、魔法詠みによる結界をお願いされることはなくなったが、一週間ごとの定期的な面談は継続されている。今日は、俺が部屋に入った途端この表情になった教授によって、彼がユズに直接頼んで作ってもらったらしい一般の範疇に収まる効果の安定剤を1粒渡された。特別何か負の感情を抱いて入室したわけではないのだが。俺は若干困惑しながらも、素直に渡された水と共にそれを飲みこんだ。
「俺、そんなやばい顔してましたか?」
「いや、普通だな。……『やばい顔』とやらをしてたらいいんだけどな」
「……?」
言っている意味がよく分からなくて首を傾げるが、教授はそれ以上何も言うことなく俺から水が入ったカップを取り上げた。それを机の上に置くと、新たに暖かいミルクティーが入ったマグカップを渡される。
相変わらず部屋は散らかっているし汚いが、紅茶だけは美味しいんだよな。俺も、ノアが作ってくれたスコーンを勝手に皿を用意してのせ、半分に割って口に入れる。――うん、やっぱり美味しい。
仮設の寝具に腰掛けてもぐもぐとスコーンを頬張る俺を、サファイア教授はボロボロの瓶底眼鏡越しに柔らかな空色の瞳を細めて見つめている。そう言えば、この人が出す飲み物も、最初から毒の検査をすることなく飲んだ気がする。王様にしれっと嘘を吐いてしまった。
「最近あった楽しいことを教えてくれ」
くるくるとペンを手で回しながら問い掛けるサファイア教授。楽しいこと、と言われても。
毎日が楽しい。殿下をロバル様と呼ぶようになってからは特に。彼が俺を認めようと、知ろうとしなかったのと同様に、俺も殿下を何処かで突き放して、彼が変わることなどないのだ、と関係を諦めきっていたのだと気付いた。
殿下は俺に訓練以外でも何気ない日常の話をしてくれるようになったし、俺の話も以前よりは聞いてくれるようになった。
「殿下、鈍色階級の皆様と仲良くなり始めているみたいで。殿下が闘技大会の余興で勝利できれば、他の鈍色階級にも理事長に目を向けてもらえるのでは、と期待されているようですね」
「…………ないだろ」
「期待出来ることがあるって素晴らしいことですよ」
たとえそれが到底叶わないことでも。にこやかに微笑んでカップに口を付けた俺を、澄んだ湖のように静かな瞳で見つめ、教授は小さく息を吐いた。
彼の言わんとすることはわかる。どうせ、「お前は期待できることはないのか」とかそういったことだろう。ここまで何度も何度も誰しもに言われれば先読みもできるようになるというものだ。カップから口を離して「真面目な話は嫌いです」と呟くと、彼は予想通りに眉を顰めた。
どうせこの後に絶望が待っているのなら、今ぐらい楽しいことで埋め尽くされていたい。まぁ、絶望の果てには、忠誠のままに殉死するという、騎士にとって最上級の幸せが待っている。そう、王族の為に死ぬのは、絶望することじゃない。幸せなこと。騎士団長が言ってた。
俺は軽く目を伏せて床にまで書かれた魔法式を見つめ、息を吐く。すると、何かが喉に息がつっかえる様な感覚に咳が漏れた。
最近、胸が妙に胸が騒ぐ。季節の変わり目だからだろうか。
「本当、毎日が新鮮で、楽しくて、気付けば笑顔になっているのが不思議で……今も尚、国民は苦しい生活を強いられているんだ、誰かが今処刑されているんだ、そう思い直して諫めはするんですけど、また何もかもすっぽかして笑って。その繰り返しです」
「……楽しいって思ってくれるだけで今は十分だ。俺も含めて周囲はフォーサイスに沢山期待をかけるだろうが、それに応えようと思う必要はねぇよ。自分で考えて、思ったように動け」
「……そ、ですか」
ぎゅっと手を握った。
自分で考えるってなんだろう。
寮室の扉を開くと、ふわりと葡萄酒の香りが広がる。きっと、ノアが美味しい夕餉を作って待ってくれているのだろう。中に入ればノアが、温かな陽だまりのような黄金色の瞳を緩めて俺を迎え入れて「お疲れ」と低い声で囁いて頭を撫でてくれるのだろう。
……なのに、どうして俺は、扉を閉めてしまうのだろう。部屋に入ることなくドアノブを離し、徐々に閉じていく扉を呆然と見つめる。そしてガチャリと閉まり切ってしまった音に、何故か俺はたまらず悲しい気持ちになって、逃げるように寮室を後にした。
背後でもう1度扉が開く音がしたが、振り返ることはなかった。
「――は、は、…は、」
浅くなる呼吸を何とか整えて、翡翠寮の裏に回り、地面にしゃがみ込む。日の光もとうに沈み、真っ暗な夜空が俺を包んだ。夜風が冷える。
王国からの文が届いてから、ずっとこんな感じだ。
何故か猛烈な恐怖と不安が襲いかかってくる。それでも周りに心配をかけまいと普通に振舞おうとして、だけど呼吸が苦しくなって逃げ出してしまう。本当に心配をかけたくないのなら、おくびにも出してはいけないのに、それが何故かできないのだ。
きっとノアも、開いて閉まった扉の音に気付いただろう。探してくれているかもしれない。ああ申し訳ない。
いつものように酸素をうまく取り込めなくて、カタカタと身体が震える。両手で抱きしめるように身体を抱え込んでも、震えは一向に止まってくれない。静まりかえった空間に、俺の呼吸音だけが異常に響いた。
「ッは、――ぅ、」
別に、ヘイデル王国で過ごす日々が終わるのが怖いわけじゃない。死ぬ日が近づいてくることが怖いわけじゃ――ない。ただ、第3部隊の皆と、離れ離れになるのだと。――皆をここに置いて、たった一人で死んでいくのだと。
「……」
俺は、無意識に通信魔具を起動させて、耳に当てる。暫くの間ぶるぶると震えていたそれは、相手が通信魔具を起動させたのと同時に動きを止めた。
そして、相手の――俺を恨んでいる人の声が聞こえた途端、安定剤を飲んだ時のように心が凪いでいく。
「突然、失礼します。ラルム先輩」
『いや……なんかあったのか?外か?』
ーー何も。何もなさ過ぎて、穏やかすぎて恐ろしい。こんな風に、ふと俯瞰的に自分を見て心情を分析して、どうしようもなく変われない自分に呆然とするのだ。殿下は、自分を見つめて変わっていっているのに、俺だけが変わらず自分の人生を被虐的に受け止めて。
こうして楽しく生活出来ているだけで俺は恵まれている側の人間なのに、アリアに言わせれば『悲劇の主人公』になりたいかのように、不幸ばかりを探して落ち込んで、そのままで。でも、―――。
黙ったまま固まっていた俺は、いつしか呼吸を止めていたらしい。『フォーサイス君』という先輩の静かな声に、ヒュッと喉が鳴った。
「――――俺、間違ってませんよね、?」
『……何が』
「俺、何も間違ってないですよね、幸せを感じるのも普通ですよね、今は楽しくていいんですよね、――ッさ、最後は、ちゃんと不幸になって死んでいくから、今くらい――……ぁ、違う、死ぬのは不幸なことじゃなくて、忠誠の証で、」
『フォーサイス君、落ち着け』
「間違ってない、間違ってない、間違ってない、」
瞬きすらすることもなく、只管自分に言い聞かせるように呟く。そう思い込めばそうなるのだと、いつの日かナヨンも言っていた。ブツブツと暗闇の中で呟く俺はさぞ不気味なことだろう。しかし勝手に動く口は止められなかった。
すると、暫くは俺の支離滅裂な相談を聞いていたラルム先輩が、わざと響かせるように大きく溜息を吐いた。その音にびくりと身体が大げさに震える。
この学園で俺に直接正当な悪意を向けてくれるのは、ラルム先輩しかいない。ギャアギャア喚くだけの雑魚ならいくらでもいるが、しっかり目を見て直接罵ってくれるのは、彼しかいない。ほら、今だって、俺が死んでいくのを肯定してくれるはずでーーーー
『間違ってるよ』
「は、?」
『間違ってる。お前が選ばされてる忠誠は、未来は間違ってる。お前は今みたいに楽しい毎日を幸せに生きるべきだ。幸せを溶かして煮詰めた甘ったるいジャムみたいな日々を送るべき人間だ』
「ちがう、そんなことを聞きたいんじゃ、」
ぽろ、と零れ落ちた本音に、ラルム先輩は鼻で嗤った。
『なんだ?俺に罵って欲しかったか?いつもみたいに死ねって、赦さないって言って欲しかったか?……悪いが、それなら俺はもう役不足だよ。俺はもうお前を恨めねぇよ』
「な、んで」
『―――だってお前、良い奴過ぎる』
どこか悔し気に、吐き捨てるように呟いたラルム先輩。俺の混乱を極めた脳では、彼の言葉をうまく理解することができない。
彼が、彼さえ俺を恨んでくれれば、俺は明日も有能なレーネ・フォーサイスで居られるのに。殿下の訓練を手伝い、会計や会長と研究を進め、ノアと穏やかな時間を享受する。そして、それら全てを王の為に捨てられる、そんな自分で。
完全に言葉を失ってしまった俺を置いて、先輩は尚も続ける。
『俺はフィオーレ王国の騎士を赦さないし、赦す日は来ない。だけど、俺はレーネ・フォーサイスという人間を好ましく思ってる。素直で、誰かの為に命賭けて動けて、強くて、でもどこか子供らしい、そんなフォーサイス君を尊敬しちゃってんだよなぁ……』
「…………やめて下さい」
『生きてくれ』
「やめてくだ」
『死ぬな。なぁ、お前ずっとこの国にいろよ』
「やめ、」
『死ぬのは幸せなことじゃないよ。だってお前、死にたくないんだろ?』
死んで幸せになれるのは、死にたいと心から思ってる奴だけだよ。
一切の情け容赦もなく言い捨てた先輩の言葉が、俺の心臓に突き刺さる。死にたくないのか、と感情を聞かれたとき、死ぬのだと事実で返した。それは、逃げだったのだろうか。俺は、死にたく――――
「ちがう、ちがうちがうちがう、俺はいい奴じゃない。国民を殺して、いい奴なんかじゃ、先輩だってそう言ってたのに」
『お前がしたくてすることじゃねぇだ――』
ぶつッと嫌な音を立てて、先輩の声が途切れる。不思議に思って魔具を持った手を見つめれば、通信魔具は握り締めすぎて白くなった俺の手の中で、壊れてしまっていた。
あーあ、勿体無い。魔具はどんなものだって等しく高価なのに。
魔具の破片で傷ついた掌からポタポタと零れる赤い雫を見つめ、どこか冷静になった俺はそれを地面に捨てた。そして、夜空を見上げる。
したくてした訳じゃなかったら、誰かの命を奪う罪は赦されるのか。自分の家族を殺されて、『どうしようもなかった』と言われて、遺族は俺を赦すのか。
『思い直してください』『どうか国民を想ってください』と何度懇願されたことか。殿下を殺しにやってきた刺客は、俺に殺される直前まで『貴方を救いたいんです』と叫んでいた。
それら全て、捨ててきたのだ。
「…………王族の言うことを聞くことが幸せなはずなのに、殿下が変わった後の方が幸せで、国に帰ることを恐れて王族の言うことを聞いて国民を殺すことが幸せだと思えない」
矛盾してるなぁ。おかしいな。でも、どれも間違ってないんだよな。
こういう矛盾は初めてじゃない。何度も何度も混乱して、その度に騎士団長が『王族の命令を聞くことが正しいことだ。お前は間違っていないよ』と頭を撫でてくれたものだ。俺は、団長がしてくれたように、自分の頭をくしゃくしゃと撫でてみる。
ノアの手ほど、気持ち良くないなぁ。
「…………そうじゃん。第1王子殿下が来るのも別に怖いことじゃないじゃん。だって、俺は王族にずっと変わらず忠誠を誓ってるんだから。何も、」
「……どういうことだ。レーネ」
威圧感たっぷりの仁王立ちで此方を見下ろす男を見つめ、俺はへらりと微笑んだ。
「ノアー、最期の日は俺、ノアの卵粥が食べたいなぁ」
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