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第十二話 果ての岬
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海で魚を捕る術を身に着けたヨルとユキは、細かく休憩を挟みながら北を目指した。
もう決してユキに無理をさせぬよう、ヨルは速度を抑えることを心掛けた。
以前なら本格的な冬が来る前にと焦る気持ちが先を急がせていたが、今はそれがない。
あとどれくらいかという目算が付き、陸から餌が失われていくことを心配する必要もなくなったため、心に余裕が生まれたのだ。
波の荒い磯での狩りはさすがに難しかったものの、港付近の静かな海でなら、ヨル達は腹を満たせるだけの魚を捕まえることができた。
サザナミは岬まであと二日ぐらいと言っていたが、三日掛かっても構わないという気持ちでヨルとユキは飛んだ。
一日目は小さな漁港で休み、二日目の夕方に比較的大きな町へと辿り着いた。
空から見る限り、そこから先は町らしいものがなく、深い森がずっと遠くまで続いている。これが恐らくオオワシがいるかもしれないという森だろう。
その日は森の手前で眠り、夜明けと同時に二羽は出発した。
海岸沿いにはなだらかな砂浜が広がり、多くのカモメが空を舞っている。
この辺りはいい漁場のようだったので、ヨルたちは彼らに混じって魚を捕った。
鮮やかに狩りをするヨルたちを、カモメたちは驚いた顔で眺めていた。
長い砂浜が途切れると、海岸は険しい磯に様相を変える。
二羽はできるだけ高度を下げ、岸に近い場所を飛んだ。
「ヨル、こんなに低く飛んでいていいんですか? 前に聞いた冒険の話では、オオタカに一度襲われた後、奇襲されないよう今度は高い所を飛んだと言っていたのに……」
ユキは空に気を配りながら、不安そうに訊ねてくる。
「オオタカとオオワシは違うよ。レンは言ったんだ……二、三羽じゃ勝つことはできないって。確かに高く飛んだら不意打ちは避けられるけど、相手の目に留まりやすくもなる。もしオオワシが立ち向かうことも、逃げることもできない相手だったら……狙われた時点でおしまいだろ?」
ヨルの説明を聞いて、ユキは息を呑んだ。
「……そうですね。本当にオオワシがいるのかも、それがどんな鳥なのかも分かりませんが……ヨルの判断は正しいと思います」
波の荒い岩場の近くを飛ぶのは神経を使ったが、舞い散る白い波しぶきはヨルたちの姿を霞ませた。
だからこそ、ヨルたちの方が先に見つけることができたのだろう。
「ヨル!」
ユキの切迫した声に驚いて上を見ると、大きな影が空にあった。
「な……」
距離はかなり離れている。だというのに大きい。ヨルたちよりも遥かに巨大だということがはっきりと分かる。体の大きさは二倍……いや三倍以上はあるはずだ。
太陽を背にすると光を遮ってしまうほど長大な茶色の翼。鋭く、太い、黄色のくちばしと爪。翼の一部と尾羽は白く、見事に調和した三色がその存在感をより引き立たせていた。
ヨルたちは一目で理解する。あれこそが空の帝王――オオワシだと。
「ユキ、隠れろ!」
急いで海岸に降り、岩場の影に身を潜める。
幸いオオワシはまだこちらに気付いていなかったようで、そのまま上空を通り過ぎて行った。
「ヨルの言った通り……例え二羽がかりでも勝てそうにありませんね」
ユキが溜息を吐いて言う。
「見えなくなったけど、まだ近くにいるかもしれない。慎重に進もう」
ヨルは注意を促し、岩場を縫うようにして飛んだ。
「あ、またいました!」
するとユキが再びオオワシの姿を見つけた。二羽は岸壁のくぼみに隠れて、オオワシをやり過ごす。
姿が見えなくなったところで再開するが、またすぐにオオワシはヨルたちの頭上に現れた。
二羽は身を隠しては少しずつ進むことを繰り返す。だがヨルは嫌な予感を覚え始めていた。
「オオワシは、何羽もいるんでしょうか……」
度重なる遭遇に疲れた様子のユキがつぶやく。
「いや……全部同じオオワシだと思う。みんな翼の付け根に小さな白い斑点があった。考えたくないことだけど……僕たちはもう見つかっているのかもしれない」
ヨルは空を見上げて言った。
「でも、だったらどうして襲ってこないんですか?」
「僕たちが狩りやすい場所に来るまで待っているのかも……ほら、もう少し先に行くと砂浜だ。隠れられる岩場はない」
岩場の向こうに広がる砂浜をヨルはくちばしで指し示した。
「それじゃあ、ここで隠れてオオワシが諦めるのを待つしかないですね……」
ユキは不安そうに溜息を吐いた。
「どうだろう……それで諦めてくれるかな。他にいい獲物を見つけたらそっちへ行くかもしれないけど、構わずに岩場で襲ってくるかもしれない」
ヨルはそう言いながら考える。もしもオオワシが襲ってきたら逃げるしかない。だがその場合に狙われるのはヨルより飛ぶのが遅いユキだろう。
ユキを見捨てて先へ進むなんて論外だ。この冒険はもうヨルとユキ、二羽のものなのだから。
あまり悩んでいる時間はない。ヨルたちが動きを止めれば、意図がばれたと判断して襲ってくる可能性がある。
ヨルは迷いを振り切り、覚悟を決めた。
「ユキ、よく聞いてくれ。これから僕が囮になってオオワシを引きつける。その間にユキは先へ行ってくれ。〝果ての岬〟はたぶんもうすぐだ。サザナミが言っていた大きな灯台で落ち合おう」
「なっ……そんなのダメです! 囮が必要なら、私がなります!」
「これはユキを狙わせないための作戦なんだから、それじゃ意味がないよ。僕の方がユキより体力がある。逃げ切れる可能性は僕の方が高いんだ。だから囮は僕の役目さ」
「で、でも……」
声を震わせてユキはヨルを見る。ユキの瞳は揺れていた。
「大丈夫だよ。僕は死ぬつもりなんてない。これが二羽で旅を続けるための最善の方法だと思うから、僕は行くんだ」
「……本当ですか? ヨルは、私を置いてきぼりにしませんか?」
「ああ、約束する。置いて行かれることがどれだけ辛いか知っているから……ユキにそんな思いはさせないよ」
レンとの別れを思い出しながらヨルは言う。ユキはヨルの目をじっと見つめた後、瞼を閉じて頷いた。
「分かりました。ヨルを信じます」
「ありがとう、ユキ。オオワシの注意が僕に向いたら、ユキは北へ向かって飛ぶんだ。振り返らずに、全速力で」
「――はい」
ヨルとユキはくちばしをすり合わせ、互いの無事を祈った。
「それじゃあ、行ってくる」
翼を広げ、ヨルが飛び立つ。オオワシの待つ空へと。
その威容はすぐ視界に入った。先ほどヨルたちの上空を通り過ぎたと思っていたのに、何故か後方を飛んでいる。 きっと海岸沿いを大きく旋回しながら、ヨルたちを見張っていたのだろう。
オオワシは既にヨルの動きを察知しており、大きな翼を広げて飛んでくる。だがヨルは逃げることなく、自らオオワシに向かっていった。
その行動は少なからずオオワシの意表を突くものだった。ヨルが逃げるものと考えていたオオワシは、攻撃態勢へ移るのがわずかに遅れる。
それが最初の交差において、ヨルの命を救った。
オオワシは太い両足を前に突き出し、鋭い爪でヨルを捕えようとする。しかし寸前のところで間に合わず、ヨルはオオワシの真下を通過した。そしてそのまま向かい風を受けて急上昇。ヨルは綺麗に宙返りをしてオオワシの上を取る。
海での狩りを重ねたことにより、ヨルの飛行は巧みなものとなっていた。
「僕は――ここだ!」
ヨルはオオワシの後頭部へくちばしを振り降ろした。固いくちばしがオオワシを打つ。しかしバランスを崩したのはヨルの方だった。オオワシは全く揺るがない。あまりに大きさと体重が違い過ぎたのだ。
ヨルの攻撃は単にオオワシを怒らせただけだった。
オオワシは瞳を血走らせて体を捻る。大きな翼がヨルの体を薙ぎ払った。
「うわっ」
何とか海へ落ちる前にバランスを取り戻すが、オオワシとの位置は逆転していた。
帝王たる猛禽が小さなカラスを引き裂こうと、爪を構えて空の高みから舞い降りる。
「……っ!?」
ヨルは急加速してオオワシを振り切ろうとする。しかし、その距離は次第に縮まっていく。
大きさと速度はオオワシの方が上。体力も恐らくはオオワシが勝っているだろう。
このままでは逃げることすらできない。
だがヨルには考えがあった。オオワシを怒らせたのも計画の内。頭に血が昇ったオオワシは、北へ飛び去っていくユキのことなど眼中にない。分を弁えず王に挑んだ不届き者のことしか見ていなかった。
恐らくはヨルがどこへ逃げ込もうとしているのかも意識していないだろう。
「こっちだ!」
ヨルは海の上から陸へと向かい、岩場と砂浜の上空を通り過ぎ、最高速度のまま森の中へ突入する。
無数の木と枝葉の間を縫うように翼を動かすヨル。森の中は薄暗く、障害物だらけなので非常に飛びにくい。当然スピードは落ちるが、それはオオワシも同様だった。体の大きなオオワシはヨル以上に森の中では動きが制限される。
それでもオオワシはヨルを追ってきた。ヨルは何度も木々に衝突しそうになりながら、ひたすら逃げた。逃げて、逃げて、気が付くとオオワシの姿は消えていた。
「逃げ切った……?」
ヨルは速度を落とし、前後左右を見回す。あの恐ろしい帝王の姿はない。気を抜くと疲れが一気に翼へ圧し掛かってきた。
枝の上で一旦休もうと木に留まろうするヨル。
その瞬間、森の天井を――木々の枝葉を突き破り、巨大な影が降ってきた。
大気を打ち震わせる羽音だけで、それがオオワシだとヨルには分かった。オオワシはヨルの後ろではなく、上にいたのだ。鋭い爪がヨルに迫る。
「うわっ!?」
身をよじったヨルの首筋を爪の先がかすめた。翼を畳んでしまっていたら今の一撃で終わりだっただろう。
意識が恐怖を感じるより早く、本能が「全力で逃げろ」とヨルの体を勝手に動かす。
休んでいる暇などなかった。森の中へ逃げ込んだ程度で安心できる相手ではなかった。
ヨルが敵に回したのは空の帝王。この深い森の空は全てあのオオワシのもの。
ここはヨルが目指す〝誰のものでもない空〟とは全く正反対の世界。
オオワシのなわばりから抜け出さない限り、逃げ切ったとは言えない。ヨルの目的地には決して辿り着けない。
「ユキ……」
ヨルは自分を待つ、白いカラスの名をつぶやく。
絶対にユキのところへ戻るんだとヨルは自分に言い聞かせ、方向も分からなくなった暗い森の中を必死に逃げ続けた。
ユキはヨルに言われた通り、一切振り返ることなく北へ飛んだ。
前だけを見て、ヨルの無事を祈りながら翼を動かした。
しばらく飛ぶと森は途切れ、起伏のある丘へと変わる。丘は広大な草地になっており、毛が長く、ずんぐりとした体付きの馬たちが枯草を食べていた。
そしてユキの行く手に白くて細長い建物が見えてくる。あれがきっと灯台だ。
大地はそこより先には続いておらず、北には海が広がっている。
「ここが〝果ての岬〟……」
ユキは灯台の天辺に舞い降りて、辺りを見渡す。視界を遮るものがなく、世界がとても広く思える。
ついに陸の果てまでやって来た。でもここにはヨルがいない。
「私だけが辿り着いても……意味がないんです。ヨル、早く来てください……」
遠くに見える森を見つめ、ユキはつぶやく。
じっと、ずっと、視線を動かさずにヨルの姿が見えるのを待つ。
太陽が傾き、西へと没し、空が濃紺の闇に覆われてもユキは待ち続けた。
辺りが暗くなると灯台はまばゆい光を放ち始める。その輝きは闇を裂き、遥か彼方まで届いていた。
「これならきっと、ヨルも迷いませんよね……」
灯台の光がヨルの道しるべになることをユキは期待した。
夜が更けても、ユキは眠らずにヨルを待った。吹き付ける海風はとても冷たい。いつも隣にあった体温がないせいで、ユキは余計に寒く感じた。
西から流れてきた雲が月と星を隠してしまう。周囲を照らすのは灯台の明かりだけとなり、遠くの森は暗闇に紛れて見えなくなった。
雨が降りそうな空模様だ。寒風の吹きすさぶ中で雨ざらしになれば凍えてしまう。しかし今のユキにとって、そんなことはどうでもよかった。
ユキが望むのはヨルが無事に追いついてきてくれることだけ。
夜空よりも真っ黒な翼を持つカラスを、暗闇の中から一秒でも早く見つけ出すことだけ。
オオワシから逃げ切ったのならば、もうとっくに姿を現している頃合いだ。日没後もオオワシが狩りを続けるとは思えない。
時間が経つほどに悪い想像は膨らむが、ユキはヨルと交わした約束を信じた。
やがて空を厚く覆った雲から、小さな白い粒がちらほらと降り始めた。
「雨じゃない……?」
ユキは初めて見る光景に驚く。
白い何かはユキのくちばしに落ちると、すぐに溶けて水滴となった。
「これはもしかして――」
ユキは両親から聞いた話を思い出す。冬になると、空からは雨とは違うものが落ちてくる。それは真っ白な、ふわふわと風に乗る小さな雲の欠片。ユキの翼と同じ色。だからユキはその名を貰った。
「……雪」
小さな声でユキはつぶやく。空から降り注ぐ物の名前を。
白い雪は静かに夜の世界を包み込む。
じっとしていると体の上に積もっていく雪は、とても冷たい。綺麗ではあるが、決して優しいものではなかった。
ユキは時折雪を振り払いつつ、白く霞む彼方を見つめる。
この景色をヨルと眺めたかった。初めて雪を見た感動を分かち合いたかった。でもヨルは今、隣にいない。
雪が降り積もるほどに周囲から音が消えていった。風の音も、波の音も遠くなる。
ユキが生まれて初めて眠らずに過ごす夜は、気が遠くなるほど長くて、恐ろしいほど静かだった。
いつしか雪は止んだ。雲間から星が覗く。東の空が白み始めていた。
もうすぐ夜明けだ。
それなのに……ヨルは来ない。
「っ……ダメです。泣いたら……諦めたことになってしまいます」
ユキはこみ上げる感情を抑えつけようとするが、もう限界が近かった。
いつまで我慢できるかは分からなかった。
「お願いです……ヨル……置いてきぼりにしないって言ったじゃないですか……」
声が震える。こんなところで呼びかけても聞こえてないことは分かっている。でも言わずにはいられなかった。叫ばずにはいられなかった。
「ヨルーっ!!」
「――――ユキっ!」
「え……?」
あるはずのない返事が聞こえて、ユキは呆然とする。だが南の空に鳥影はない。
ついに幻聴を聞くようなったのかと思ったとき、またしてもユキを呼ぶ声が耳に届いた。
「――ユキ!!」
はっとして西を向く。まだ暗い西の空から近づいてくる鳥がいた。
夜を背にしても、なお暗く見える翼。真っ黒なカラス――。
「ヨルっ!」
ユキは待ち続けた相手の名を呼んだ。
「ユキ、遅くなってごめん」
ヨルはユキの前に舞い降りると、頭を下げて謝った。全身の羽毛が乱れているが、大きな怪我はないようだ。
「……そうです。本当に遅いです。いったい何をやっていたんですか?」
「森の中を滅茶苦茶に逃げ回ったせいで、かなり西に出たんだよ。オオワシのいる森には引き返せないから、森を迂回して北の海岸沿いにここまで来たんだ」
ユキはその返事を聞き、体から力が抜けた。
「心配……させないでください」
ヨルに寄りかかって、ユキは言う。
「――体が冷たい。ずっとここで待っていてくれたんだね。ありがとう、ユキ。風が当たらない場所で休もう」
二羽は灯台の天辺から、風を避けられる建物の影へ移動した。
そこで身を寄せ合い、明るくなっていく空を見上げる。
「ヨル……空から降って、大地に積もった、白くて冷たいものを見ましたか?」
ユキが訊ねるとヨルは頷く。
「うん、見たよ。あれが、雪なんだよね?」
「はい……私の翼よりもずっと白くて、綺麗でした」
「でも僕は空の雪より、隣にいるユキの方がいいな。温かいから」
ヨルは笑って言う。
「……ヨル、そういう恥ずかしいことを真顔で言うのは止めてください」
「え、別に僕は恥ずかしくないけど?」
「私が恥ずかしいんです……まったく……もういいです、この話は。今は、ここまで辿り着けたことを喜びましょう。目的地は、もうすぐそこなんですよね……あと、海を越えれば……」
「ああ、真っ直ぐ北へ飛べば〝羽の湖〟に辿り着くはずだよ。出発するのは日が沈んでからにしよう。雲がなければ北を指し示す星が見える。それを目印に飛ぶんだ」
それはヨルがレンから教わったことの一つだった。天を巡る星々の中で唯一、北の座から動かない星――北極星。それがヨルたちの道しるべ。
ヨルの言葉を聞いてユキは目を細める。
「最後は……真夜中の旅ですか。とても楽しみです」
「楽しみ、か。僕はちょっと怖いけどな」
正直にヨルは言う。
「怖いというのは……何に対してでしょうか?」
「それは――」
ヨルは答えようとして言葉に詰まる。暗い海を渡るのは初めてなので不安はあった。けれど臆しているわけではない。ならばどうしてだろうと、ヨルは首を傾げた。
「ヨルが何を怖がっているのか……私は分かる気がします。憧れていた〝誰のものでもない空〟がどんなものなのか……本当にあるのか……それを確かめるのが怖いんじゃないですか?」
ユキの言葉はヨルが今まで考えないようにしてきたことを浮き上がらせた。
「……そうかもしれない。僕はずっと疑わないようにしていたからね。迷ったら先に進めないから、あると信じて飛んできたんだ」
ヨルは弱音とも取れる本当の気持ちを口に出す。ユキはそんなヨルを優しい眼差しで見つめて問いかけた。
「ヨルは〝誰のものでもない空〟はどんなものだと思いますか?」
「分からないよ。だから、それを確かめに行くんだ」
「では……〝誰のものでもない空〟を見つけた後、ヨルはどうしますか?」
「え……?」
「誰のものでもないのなら、自分のものにしますか?」
ユキの問いかけに、ヨルはすぐ答えることができなかった。
ゆっくりと自分の内側に問いかけ、心を見つめ直してからヨルは口を開く。
「旅に出たばかりの頃は、そういう気持ちもあったと思う。ずっと窮屈な狭い町で生きてきたから、自分が自由に飛べる空が欲しかったんだ。でも……」
ヨルはそこで言葉を切る。するとユキが後を続けた。
「自分のものにしてしまったら……〝誰のものでもない空〟ではなくなりますね」
「うん……それに自分だけの空っていうのは、結局なわばりと同じものだよ。僕が一番欲しいものは、もっと別の、違う何かなんだ。なわばりを手に入れるために、僕は冒険してきたわけじゃない」
なわばりが欲しければ、誰かと戦い、勝ち取ればいい。町を出る必要はなかった。
「それじゃあ……何のために?」
「まだ、やっぱり分からない。でも、何となく〝誰のものでもない空〟を見ることができたら……納得できるような気がしてる」
「納得?」
「僕は、ずっと納得していなかったんだよ。狭い町で暮らすこと、山に近づいてはいけないこと、冬のために木の実を集めておくこと、春には誰かとつがいを作ること……みんな、最初から決まってた。僕はそれが、すごく嫌だったんだと思う」
自分自身の心は見つめてみると意外と複雑で、ヨルは上手く全てを言葉にできなかった。
しかし何度も繰り返し質問をしてきたユキは、その答えを聞いて満足したらしい。
「――やっぱりヨルは、私が思った通りのカラスでした。聞かせてくれて、ありがとうございます」
「ユキ、今ので何か分かったの?」
「はい、ヨルのことがよく分かりました」
ユキは頷き、言葉を続けた。
「私も、この白い翼のことがずっと納得できなかったんです。物珍し気に私を見る仲間たちの群れは自分の居場所じゃないと感じていました。檻に囚われたとき……実を言うと、ここが私にふさわしい場所なんじゃないかって、少し考えたんです」
「そんな! ユキは檻を出たいって僕に言ってくれたじゃないか」
「ヨルが現れたから、そう思えたんですよ。旅をしてきたヨルに憧れて、たくさんの冒険譚を聞かせてもらって、檻の中なんかで満足していられなくなったんです。全部、全部、ヨルのせいです」
「ぼ、僕のせい?」
「そうです。だから、どこまでもついていきます。海の向こうにでも、〝誰のものでもない空〟へでも、その先にだって、ずっと、ずっと……」
ユキはそう言って目を閉じる。
太陽が東の水平線から顔を出し、海と大地を明るく照らし出した。いつもなら目を覚ます時間だが、二羽は今夜の出発に備えて休まなければならない。
お互い一睡もしておらず、疲労は限界だったので、睡魔はあっという間にやってきた。
まどろみながら、ユキは囁く。
「いつまでも一緒で……構いませんか?」
それは単なる問いかけではなかった。ずっと共にいることを求める、つがいの誓い。
ヨルはその意味が分かった上で、はっきりと頷く。
「うん……どこまでも、一緒に行こう」
つがいとなった二羽のカラスは眠りに落ちる。同じ未来を、夢に見ながら。
もう決してユキに無理をさせぬよう、ヨルは速度を抑えることを心掛けた。
以前なら本格的な冬が来る前にと焦る気持ちが先を急がせていたが、今はそれがない。
あとどれくらいかという目算が付き、陸から餌が失われていくことを心配する必要もなくなったため、心に余裕が生まれたのだ。
波の荒い磯での狩りはさすがに難しかったものの、港付近の静かな海でなら、ヨル達は腹を満たせるだけの魚を捕まえることができた。
サザナミは岬まであと二日ぐらいと言っていたが、三日掛かっても構わないという気持ちでヨルとユキは飛んだ。
一日目は小さな漁港で休み、二日目の夕方に比較的大きな町へと辿り着いた。
空から見る限り、そこから先は町らしいものがなく、深い森がずっと遠くまで続いている。これが恐らくオオワシがいるかもしれないという森だろう。
その日は森の手前で眠り、夜明けと同時に二羽は出発した。
海岸沿いにはなだらかな砂浜が広がり、多くのカモメが空を舞っている。
この辺りはいい漁場のようだったので、ヨルたちは彼らに混じって魚を捕った。
鮮やかに狩りをするヨルたちを、カモメたちは驚いた顔で眺めていた。
長い砂浜が途切れると、海岸は険しい磯に様相を変える。
二羽はできるだけ高度を下げ、岸に近い場所を飛んだ。
「ヨル、こんなに低く飛んでいていいんですか? 前に聞いた冒険の話では、オオタカに一度襲われた後、奇襲されないよう今度は高い所を飛んだと言っていたのに……」
ユキは空に気を配りながら、不安そうに訊ねてくる。
「オオタカとオオワシは違うよ。レンは言ったんだ……二、三羽じゃ勝つことはできないって。確かに高く飛んだら不意打ちは避けられるけど、相手の目に留まりやすくもなる。もしオオワシが立ち向かうことも、逃げることもできない相手だったら……狙われた時点でおしまいだろ?」
ヨルの説明を聞いて、ユキは息を呑んだ。
「……そうですね。本当にオオワシがいるのかも、それがどんな鳥なのかも分かりませんが……ヨルの判断は正しいと思います」
波の荒い岩場の近くを飛ぶのは神経を使ったが、舞い散る白い波しぶきはヨルたちの姿を霞ませた。
だからこそ、ヨルたちの方が先に見つけることができたのだろう。
「ヨル!」
ユキの切迫した声に驚いて上を見ると、大きな影が空にあった。
「な……」
距離はかなり離れている。だというのに大きい。ヨルたちよりも遥かに巨大だということがはっきりと分かる。体の大きさは二倍……いや三倍以上はあるはずだ。
太陽を背にすると光を遮ってしまうほど長大な茶色の翼。鋭く、太い、黄色のくちばしと爪。翼の一部と尾羽は白く、見事に調和した三色がその存在感をより引き立たせていた。
ヨルたちは一目で理解する。あれこそが空の帝王――オオワシだと。
「ユキ、隠れろ!」
急いで海岸に降り、岩場の影に身を潜める。
幸いオオワシはまだこちらに気付いていなかったようで、そのまま上空を通り過ぎて行った。
「ヨルの言った通り……例え二羽がかりでも勝てそうにありませんね」
ユキが溜息を吐いて言う。
「見えなくなったけど、まだ近くにいるかもしれない。慎重に進もう」
ヨルは注意を促し、岩場を縫うようにして飛んだ。
「あ、またいました!」
するとユキが再びオオワシの姿を見つけた。二羽は岸壁のくぼみに隠れて、オオワシをやり過ごす。
姿が見えなくなったところで再開するが、またすぐにオオワシはヨルたちの頭上に現れた。
二羽は身を隠しては少しずつ進むことを繰り返す。だがヨルは嫌な予感を覚え始めていた。
「オオワシは、何羽もいるんでしょうか……」
度重なる遭遇に疲れた様子のユキがつぶやく。
「いや……全部同じオオワシだと思う。みんな翼の付け根に小さな白い斑点があった。考えたくないことだけど……僕たちはもう見つかっているのかもしれない」
ヨルは空を見上げて言った。
「でも、だったらどうして襲ってこないんですか?」
「僕たちが狩りやすい場所に来るまで待っているのかも……ほら、もう少し先に行くと砂浜だ。隠れられる岩場はない」
岩場の向こうに広がる砂浜をヨルはくちばしで指し示した。
「それじゃあ、ここで隠れてオオワシが諦めるのを待つしかないですね……」
ユキは不安そうに溜息を吐いた。
「どうだろう……それで諦めてくれるかな。他にいい獲物を見つけたらそっちへ行くかもしれないけど、構わずに岩場で襲ってくるかもしれない」
ヨルはそう言いながら考える。もしもオオワシが襲ってきたら逃げるしかない。だがその場合に狙われるのはヨルより飛ぶのが遅いユキだろう。
ユキを見捨てて先へ進むなんて論外だ。この冒険はもうヨルとユキ、二羽のものなのだから。
あまり悩んでいる時間はない。ヨルたちが動きを止めれば、意図がばれたと判断して襲ってくる可能性がある。
ヨルは迷いを振り切り、覚悟を決めた。
「ユキ、よく聞いてくれ。これから僕が囮になってオオワシを引きつける。その間にユキは先へ行ってくれ。〝果ての岬〟はたぶんもうすぐだ。サザナミが言っていた大きな灯台で落ち合おう」
「なっ……そんなのダメです! 囮が必要なら、私がなります!」
「これはユキを狙わせないための作戦なんだから、それじゃ意味がないよ。僕の方がユキより体力がある。逃げ切れる可能性は僕の方が高いんだ。だから囮は僕の役目さ」
「で、でも……」
声を震わせてユキはヨルを見る。ユキの瞳は揺れていた。
「大丈夫だよ。僕は死ぬつもりなんてない。これが二羽で旅を続けるための最善の方法だと思うから、僕は行くんだ」
「……本当ですか? ヨルは、私を置いてきぼりにしませんか?」
「ああ、約束する。置いて行かれることがどれだけ辛いか知っているから……ユキにそんな思いはさせないよ」
レンとの別れを思い出しながらヨルは言う。ユキはヨルの目をじっと見つめた後、瞼を閉じて頷いた。
「分かりました。ヨルを信じます」
「ありがとう、ユキ。オオワシの注意が僕に向いたら、ユキは北へ向かって飛ぶんだ。振り返らずに、全速力で」
「――はい」
ヨルとユキはくちばしをすり合わせ、互いの無事を祈った。
「それじゃあ、行ってくる」
翼を広げ、ヨルが飛び立つ。オオワシの待つ空へと。
その威容はすぐ視界に入った。先ほどヨルたちの上空を通り過ぎたと思っていたのに、何故か後方を飛んでいる。 きっと海岸沿いを大きく旋回しながら、ヨルたちを見張っていたのだろう。
オオワシは既にヨルの動きを察知しており、大きな翼を広げて飛んでくる。だがヨルは逃げることなく、自らオオワシに向かっていった。
その行動は少なからずオオワシの意表を突くものだった。ヨルが逃げるものと考えていたオオワシは、攻撃態勢へ移るのがわずかに遅れる。
それが最初の交差において、ヨルの命を救った。
オオワシは太い両足を前に突き出し、鋭い爪でヨルを捕えようとする。しかし寸前のところで間に合わず、ヨルはオオワシの真下を通過した。そしてそのまま向かい風を受けて急上昇。ヨルは綺麗に宙返りをしてオオワシの上を取る。
海での狩りを重ねたことにより、ヨルの飛行は巧みなものとなっていた。
「僕は――ここだ!」
ヨルはオオワシの後頭部へくちばしを振り降ろした。固いくちばしがオオワシを打つ。しかしバランスを崩したのはヨルの方だった。オオワシは全く揺るがない。あまりに大きさと体重が違い過ぎたのだ。
ヨルの攻撃は単にオオワシを怒らせただけだった。
オオワシは瞳を血走らせて体を捻る。大きな翼がヨルの体を薙ぎ払った。
「うわっ」
何とか海へ落ちる前にバランスを取り戻すが、オオワシとの位置は逆転していた。
帝王たる猛禽が小さなカラスを引き裂こうと、爪を構えて空の高みから舞い降りる。
「……っ!?」
ヨルは急加速してオオワシを振り切ろうとする。しかし、その距離は次第に縮まっていく。
大きさと速度はオオワシの方が上。体力も恐らくはオオワシが勝っているだろう。
このままでは逃げることすらできない。
だがヨルには考えがあった。オオワシを怒らせたのも計画の内。頭に血が昇ったオオワシは、北へ飛び去っていくユキのことなど眼中にない。分を弁えず王に挑んだ不届き者のことしか見ていなかった。
恐らくはヨルがどこへ逃げ込もうとしているのかも意識していないだろう。
「こっちだ!」
ヨルは海の上から陸へと向かい、岩場と砂浜の上空を通り過ぎ、最高速度のまま森の中へ突入する。
無数の木と枝葉の間を縫うように翼を動かすヨル。森の中は薄暗く、障害物だらけなので非常に飛びにくい。当然スピードは落ちるが、それはオオワシも同様だった。体の大きなオオワシはヨル以上に森の中では動きが制限される。
それでもオオワシはヨルを追ってきた。ヨルは何度も木々に衝突しそうになりながら、ひたすら逃げた。逃げて、逃げて、気が付くとオオワシの姿は消えていた。
「逃げ切った……?」
ヨルは速度を落とし、前後左右を見回す。あの恐ろしい帝王の姿はない。気を抜くと疲れが一気に翼へ圧し掛かってきた。
枝の上で一旦休もうと木に留まろうするヨル。
その瞬間、森の天井を――木々の枝葉を突き破り、巨大な影が降ってきた。
大気を打ち震わせる羽音だけで、それがオオワシだとヨルには分かった。オオワシはヨルの後ろではなく、上にいたのだ。鋭い爪がヨルに迫る。
「うわっ!?」
身をよじったヨルの首筋を爪の先がかすめた。翼を畳んでしまっていたら今の一撃で終わりだっただろう。
意識が恐怖を感じるより早く、本能が「全力で逃げろ」とヨルの体を勝手に動かす。
休んでいる暇などなかった。森の中へ逃げ込んだ程度で安心できる相手ではなかった。
ヨルが敵に回したのは空の帝王。この深い森の空は全てあのオオワシのもの。
ここはヨルが目指す〝誰のものでもない空〟とは全く正反対の世界。
オオワシのなわばりから抜け出さない限り、逃げ切ったとは言えない。ヨルの目的地には決して辿り着けない。
「ユキ……」
ヨルは自分を待つ、白いカラスの名をつぶやく。
絶対にユキのところへ戻るんだとヨルは自分に言い聞かせ、方向も分からなくなった暗い森の中を必死に逃げ続けた。
ユキはヨルに言われた通り、一切振り返ることなく北へ飛んだ。
前だけを見て、ヨルの無事を祈りながら翼を動かした。
しばらく飛ぶと森は途切れ、起伏のある丘へと変わる。丘は広大な草地になっており、毛が長く、ずんぐりとした体付きの馬たちが枯草を食べていた。
そしてユキの行く手に白くて細長い建物が見えてくる。あれがきっと灯台だ。
大地はそこより先には続いておらず、北には海が広がっている。
「ここが〝果ての岬〟……」
ユキは灯台の天辺に舞い降りて、辺りを見渡す。視界を遮るものがなく、世界がとても広く思える。
ついに陸の果てまでやって来た。でもここにはヨルがいない。
「私だけが辿り着いても……意味がないんです。ヨル、早く来てください……」
遠くに見える森を見つめ、ユキはつぶやく。
じっと、ずっと、視線を動かさずにヨルの姿が見えるのを待つ。
太陽が傾き、西へと没し、空が濃紺の闇に覆われてもユキは待ち続けた。
辺りが暗くなると灯台はまばゆい光を放ち始める。その輝きは闇を裂き、遥か彼方まで届いていた。
「これならきっと、ヨルも迷いませんよね……」
灯台の光がヨルの道しるべになることをユキは期待した。
夜が更けても、ユキは眠らずにヨルを待った。吹き付ける海風はとても冷たい。いつも隣にあった体温がないせいで、ユキは余計に寒く感じた。
西から流れてきた雲が月と星を隠してしまう。周囲を照らすのは灯台の明かりだけとなり、遠くの森は暗闇に紛れて見えなくなった。
雨が降りそうな空模様だ。寒風の吹きすさぶ中で雨ざらしになれば凍えてしまう。しかし今のユキにとって、そんなことはどうでもよかった。
ユキが望むのはヨルが無事に追いついてきてくれることだけ。
夜空よりも真っ黒な翼を持つカラスを、暗闇の中から一秒でも早く見つけ出すことだけ。
オオワシから逃げ切ったのならば、もうとっくに姿を現している頃合いだ。日没後もオオワシが狩りを続けるとは思えない。
時間が経つほどに悪い想像は膨らむが、ユキはヨルと交わした約束を信じた。
やがて空を厚く覆った雲から、小さな白い粒がちらほらと降り始めた。
「雨じゃない……?」
ユキは初めて見る光景に驚く。
白い何かはユキのくちばしに落ちると、すぐに溶けて水滴となった。
「これはもしかして――」
ユキは両親から聞いた話を思い出す。冬になると、空からは雨とは違うものが落ちてくる。それは真っ白な、ふわふわと風に乗る小さな雲の欠片。ユキの翼と同じ色。だからユキはその名を貰った。
「……雪」
小さな声でユキはつぶやく。空から降り注ぐ物の名前を。
白い雪は静かに夜の世界を包み込む。
じっとしていると体の上に積もっていく雪は、とても冷たい。綺麗ではあるが、決して優しいものではなかった。
ユキは時折雪を振り払いつつ、白く霞む彼方を見つめる。
この景色をヨルと眺めたかった。初めて雪を見た感動を分かち合いたかった。でもヨルは今、隣にいない。
雪が降り積もるほどに周囲から音が消えていった。風の音も、波の音も遠くなる。
ユキが生まれて初めて眠らずに過ごす夜は、気が遠くなるほど長くて、恐ろしいほど静かだった。
いつしか雪は止んだ。雲間から星が覗く。東の空が白み始めていた。
もうすぐ夜明けだ。
それなのに……ヨルは来ない。
「っ……ダメです。泣いたら……諦めたことになってしまいます」
ユキはこみ上げる感情を抑えつけようとするが、もう限界が近かった。
いつまで我慢できるかは分からなかった。
「お願いです……ヨル……置いてきぼりにしないって言ったじゃないですか……」
声が震える。こんなところで呼びかけても聞こえてないことは分かっている。でも言わずにはいられなかった。叫ばずにはいられなかった。
「ヨルーっ!!」
「――――ユキっ!」
「え……?」
あるはずのない返事が聞こえて、ユキは呆然とする。だが南の空に鳥影はない。
ついに幻聴を聞くようなったのかと思ったとき、またしてもユキを呼ぶ声が耳に届いた。
「――ユキ!!」
はっとして西を向く。まだ暗い西の空から近づいてくる鳥がいた。
夜を背にしても、なお暗く見える翼。真っ黒なカラス――。
「ヨルっ!」
ユキは待ち続けた相手の名を呼んだ。
「ユキ、遅くなってごめん」
ヨルはユキの前に舞い降りると、頭を下げて謝った。全身の羽毛が乱れているが、大きな怪我はないようだ。
「……そうです。本当に遅いです。いったい何をやっていたんですか?」
「森の中を滅茶苦茶に逃げ回ったせいで、かなり西に出たんだよ。オオワシのいる森には引き返せないから、森を迂回して北の海岸沿いにここまで来たんだ」
ユキはその返事を聞き、体から力が抜けた。
「心配……させないでください」
ヨルに寄りかかって、ユキは言う。
「――体が冷たい。ずっとここで待っていてくれたんだね。ありがとう、ユキ。風が当たらない場所で休もう」
二羽は灯台の天辺から、風を避けられる建物の影へ移動した。
そこで身を寄せ合い、明るくなっていく空を見上げる。
「ヨル……空から降って、大地に積もった、白くて冷たいものを見ましたか?」
ユキが訊ねるとヨルは頷く。
「うん、見たよ。あれが、雪なんだよね?」
「はい……私の翼よりもずっと白くて、綺麗でした」
「でも僕は空の雪より、隣にいるユキの方がいいな。温かいから」
ヨルは笑って言う。
「……ヨル、そういう恥ずかしいことを真顔で言うのは止めてください」
「え、別に僕は恥ずかしくないけど?」
「私が恥ずかしいんです……まったく……もういいです、この話は。今は、ここまで辿り着けたことを喜びましょう。目的地は、もうすぐそこなんですよね……あと、海を越えれば……」
「ああ、真っ直ぐ北へ飛べば〝羽の湖〟に辿り着くはずだよ。出発するのは日が沈んでからにしよう。雲がなければ北を指し示す星が見える。それを目印に飛ぶんだ」
それはヨルがレンから教わったことの一つだった。天を巡る星々の中で唯一、北の座から動かない星――北極星。それがヨルたちの道しるべ。
ヨルの言葉を聞いてユキは目を細める。
「最後は……真夜中の旅ですか。とても楽しみです」
「楽しみ、か。僕はちょっと怖いけどな」
正直にヨルは言う。
「怖いというのは……何に対してでしょうか?」
「それは――」
ヨルは答えようとして言葉に詰まる。暗い海を渡るのは初めてなので不安はあった。けれど臆しているわけではない。ならばどうしてだろうと、ヨルは首を傾げた。
「ヨルが何を怖がっているのか……私は分かる気がします。憧れていた〝誰のものでもない空〟がどんなものなのか……本当にあるのか……それを確かめるのが怖いんじゃないですか?」
ユキの言葉はヨルが今まで考えないようにしてきたことを浮き上がらせた。
「……そうかもしれない。僕はずっと疑わないようにしていたからね。迷ったら先に進めないから、あると信じて飛んできたんだ」
ヨルは弱音とも取れる本当の気持ちを口に出す。ユキはそんなヨルを優しい眼差しで見つめて問いかけた。
「ヨルは〝誰のものでもない空〟はどんなものだと思いますか?」
「分からないよ。だから、それを確かめに行くんだ」
「では……〝誰のものでもない空〟を見つけた後、ヨルはどうしますか?」
「え……?」
「誰のものでもないのなら、自分のものにしますか?」
ユキの問いかけに、ヨルはすぐ答えることができなかった。
ゆっくりと自分の内側に問いかけ、心を見つめ直してからヨルは口を開く。
「旅に出たばかりの頃は、そういう気持ちもあったと思う。ずっと窮屈な狭い町で生きてきたから、自分が自由に飛べる空が欲しかったんだ。でも……」
ヨルはそこで言葉を切る。するとユキが後を続けた。
「自分のものにしてしまったら……〝誰のものでもない空〟ではなくなりますね」
「うん……それに自分だけの空っていうのは、結局なわばりと同じものだよ。僕が一番欲しいものは、もっと別の、違う何かなんだ。なわばりを手に入れるために、僕は冒険してきたわけじゃない」
なわばりが欲しければ、誰かと戦い、勝ち取ればいい。町を出る必要はなかった。
「それじゃあ……何のために?」
「まだ、やっぱり分からない。でも、何となく〝誰のものでもない空〟を見ることができたら……納得できるような気がしてる」
「納得?」
「僕は、ずっと納得していなかったんだよ。狭い町で暮らすこと、山に近づいてはいけないこと、冬のために木の実を集めておくこと、春には誰かとつがいを作ること……みんな、最初から決まってた。僕はそれが、すごく嫌だったんだと思う」
自分自身の心は見つめてみると意外と複雑で、ヨルは上手く全てを言葉にできなかった。
しかし何度も繰り返し質問をしてきたユキは、その答えを聞いて満足したらしい。
「――やっぱりヨルは、私が思った通りのカラスでした。聞かせてくれて、ありがとうございます」
「ユキ、今ので何か分かったの?」
「はい、ヨルのことがよく分かりました」
ユキは頷き、言葉を続けた。
「私も、この白い翼のことがずっと納得できなかったんです。物珍し気に私を見る仲間たちの群れは自分の居場所じゃないと感じていました。檻に囚われたとき……実を言うと、ここが私にふさわしい場所なんじゃないかって、少し考えたんです」
「そんな! ユキは檻を出たいって僕に言ってくれたじゃないか」
「ヨルが現れたから、そう思えたんですよ。旅をしてきたヨルに憧れて、たくさんの冒険譚を聞かせてもらって、檻の中なんかで満足していられなくなったんです。全部、全部、ヨルのせいです」
「ぼ、僕のせい?」
「そうです。だから、どこまでもついていきます。海の向こうにでも、〝誰のものでもない空〟へでも、その先にだって、ずっと、ずっと……」
ユキはそう言って目を閉じる。
太陽が東の水平線から顔を出し、海と大地を明るく照らし出した。いつもなら目を覚ます時間だが、二羽は今夜の出発に備えて休まなければならない。
お互い一睡もしておらず、疲労は限界だったので、睡魔はあっという間にやってきた。
まどろみながら、ユキは囁く。
「いつまでも一緒で……構いませんか?」
それは単なる問いかけではなかった。ずっと共にいることを求める、つがいの誓い。
ヨルはその意味が分かった上で、はっきりと頷く。
「うん……どこまでも、一緒に行こう」
つがいとなった二羽のカラスは眠りに落ちる。同じ未来を、夢に見ながら。
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