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58.練習中なの。
しおりを挟む結婚式を早めることが決まってから2週間。
アンジェは、結婚までに身につけるべき様々な事柄を一気に習得しようと頑張っている。
「ただいま。今日は何をしてたんだ?」
いつもと同じように玄関で出迎えてくれる彼女は、ほんの少しだけど疲れた表情をしていた。
「セトスさま、おかえりなさい。
今日は、お義母さまと一緒にお花を選んだの。束ねてブーケにするのと、会場に飾るの、両方選んだよ」
俺が近づくだけで、気配を読んで近くに来て、腕に手を掛ける。
こんなことも出来るようになってるんだな。
リビングルームのいつものソファに、いつものように並んで座る。
疲れてるようだから俺にもたれられるように引き寄せると素直に甘えてくれる。
「どんな花にしたいんだい?」
「んー、お花のことはわたし、あんまり分からないんだけど。セトスさまは明るい人だから、明るい感じのにしてくださいって言ったよ?
それに、ジャンがマリーちゃんの咲く季節だって言うから、それもいれてもらうの」
「アンジェの好きなものを選べてよかったな。ジャンがいたってことは、今回の会場の花は外から買わないのか?」
うちの庭は広いけど、式場全部に使えるほどの花はないと思うんだが……
「ううん。お義母さまと、ジャンと、お店の人と一緒に選んだの。お店の人は、絵の並んでる本を持って来てたみたいで、わたしには分からなかったけど、それをお義母さまとジャンが説明してくれたから、選べたのよ?」
「楽しかったみたいでよかったな」
「楽しかったよ!いつか、セトスさまのお休みの日があったら一緒に選ぼうね?」
「もちろん。俺も、アンジェが選んでる所を見たいからな」
絶対かわいいだろうから。
「うん!約束だよ?
それにね、色んなものを、お義母さまと一緒に選んでるんだけど、これも、わたしの練習なんだって」
「そうだろうな。お店の人と話すのは上手くできてる?」
「できてる、と、思うよ?」
「なんでそんなに自信ないんだい?」
「できることもあるけど、できないこともやっぱり多いから」
「今日は何が出来なかったんだ?」
「話すときに、あんまり言葉を切らずに言えるようには、なってきてるみたいなの。でも、ふつうの人は、話すときに相手の方を見るんだって。
どこに居るのかは分かってるから、その方を向いたらいいんだけどね……
ちょっと、むずかしい。練習中なの」
「なるほどなぁ……確かに、俺は今、アンジェの方向いてるけど、アンジェは床を見てるもんな」
「……えっ?ごめんなさい。そういうことかぁ……」
「無理はしなくていいと思うよ。練習始めたばかりで疲れてるだろうし。でも、普段から気をつけていた方が良い。緊張した時とかには普段の振る舞いが出るから」
「セトスさま、ありがとう!がんばるね!」
まっすぐ俺の方を向いて宣言するアンジェが可愛くて、彼女の柔らかな頬をそっと撫でた。
***
アンジェが毎日頑張っているということは、アンジェとの会話から充分過ぎるほどに伝わってきた。
例えば、本格的な食事をとる時の練習や社交辞令や挨拶といった基本的な話し方など。
毎日、その日にした事を楽しそうに報告してくれるんだ。
そんな中で、彼女が一番頑張らないといけないことがある。
それは、『階段を登る』こと。
「アンジェ、ちょっといいか?」
「うん。どうしたの?」
「結婚式の入場のことなんだけど、この辺りでは、新郎が入ってから新婦が入場することになっているんだ。アンジェは、一人で歩くだけならできると思うけど、会場には階段があって……」
「一人で、階段?」
「やっぱり難しいかな?無理なら、地域によっては父親や夫と一緒に入場することもあるから俺と一緒でもいいんだけど」
「でも、セトスさまは、わたしが一人で歩いたほうがいいのよね?」
「そうだな。やっぱり、他の人も集まることだしね……」
「それなら、わたし、がんばるよ!練習したら、できるようになるんだから、練習する」
「ありがとう。一緒に頑張ろうな」
そもそも、『階段を登る』という行為自体、アンジェはほとんどした事がない。だから、一人で歩くことに比べて大変だろうとは予想している。
普通の建物は、ゲストが入れるのは1階で、2階以上はホストのプライベートスペースか、少人数で使うような部屋になっていることが多い。
叔父の家も、この前のパーティーも1階にしか入っていない。
これまで、階段を登る必要性がある事がなかったから練習したこともなかったんだ。
「アンジェ、一回、階段の段差を触ってみようか。しゃがんで?」
「うん」
バランスがうまく取れなくて俺にもたれるようにしながら座った彼女の手を取って、段の高さを確認させる。
「これくらいの高さ。わかった?」
「たぶん、分かったと、思う」
「じゃあ、立ってやってみようか」
地べたに座った状態から立つのはかなり負担が大きいから、アンジェの腕を持って引き上げるようにして立たせる。
「無理に立たせたけど、大丈夫?どこか痛かったりしない?」
「ん、だいじょうぶ。段は、どこ?」
「先に、ここの手すりを持って」
さまよう手を握って手すりを持たせた。
「足を触るよ?持ち上げるから、バランス取れなかったら手すりにしっかり掴まってね」
声をかけてからアンジェの右足を持ち上げ、1段目に乗せる。
「あ、これが段差ね」
「そう。ちょっとは分かったかな」
「ちょっとだけは、分かったかも」
「次は、今右足を置いてる段の次の段に置くから、上がる高さは倍になるよ。右足に体重かけて、左足を浮かせて?」
言われたとおり、重心を右足に傾けた彼女の左足を、段に上げる。
「わわっ!」
手すりに掴まりっぱなしだったせいで、そちらに気を取られてバランスを崩した身体を慌てて受け止める。
「ごめん!怪我しちゃった?」
「ううん、だいじょうぶ。セトスさまが、ちゃんと見ててくれたから」
「ごめんな、手すりはもう少し上の方を持つように言わないといけなかった」
足元に気を取られすぎた俺のミスだ。
「手すりを持つところは、もっと上ね。このくらい?」
もっと怖がってしまうかと思ったけれど、アンジェは冷静に次の課題を見据えていた。
「そう、そのくらいの所を持っていれば、転びにくいと思うよ。……大丈夫?怖くない?」
「うーん、ちょっとは、こわい、かも。
でも、わたしはこのくらいで怖がっていられないでしょ?
だからね、もう一回!」
未知のことに取り組んで、失敗して怪我をしそうになったというのに、彼女はとても前向きだった。
「アンジェは強いな、俺よりもずっと強い」
「そんなことはないよ?だって、わたしは、一人きりじゃあ何もできないんだもん。
でも、セトスさまとなら何でもできるの。セトスさまの方がすごいよ!」
そう言って笑ってくれる彼女。
「ありがとう。もう一回、頑張ろうか」
「うん!もう一回ね!」
階段を登るという行為自体を覚えられるように、一段一段、踏みしめるように登る彼女。
歩くこともままならず、部屋に一人きりで座っているだけの彼女はもうどこにもいなかった。
手すりや俺を頼りにしながらも、自分一人で動き、好きなところへ行く手段を、アンジェは手に入れることができたんだ。
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