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第三章 人類は忘却と虚構で成り立っていることを知る
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佐野家は損壊していた。とても居心地が悪い。
玄関周りの外壁はことごとくボロボロになっており、下を見れば割れたコンクリートから草が生えている。家を囲った生垣の内側の庭は見事に草だらけ。まさに佐野家という土地は、荒れ放題という状況だった。
そのため、玄関が半分ほど開きぱなしでも、それほど不思議ではない。
見た目だけで言ったら、こんな家には誰も住んでいないだろうと思うほうが正しい。木材の郵便ポストの口はガムテープが貼られ、玄関の上を見れば、割れた電球が剥き出しになって放置されている。この家は簡単に言うと、お化け屋敷だと言えた。
「ごめんくださ~い」
返事はない。
「ごめんくださ~い」
やはり、返事はない。
誰もいないようなので、そのまま黙って開いていた扉を抜ける。
玄関には女性用のサンダルと黒い運動靴が転がっていた。埃がついていないので、最近使われていたような気もする。
誰かいるのかもしれないな。
そんな疑いを持ちながら、一歩ずつ玄関の奥に足を踏み入れていく。
靴をスリッパに履き替える。
埃っぽい匂いにまみれながら、上がり框を踏んで家のなかに上がる。
古い建物のため踏み込むたびに、ギィギィと床が軋む。建具は歪み、触れたら壊れそうだから怖い。
そんな廊下を歩くと、西側に襖があった。開いていたので覗いてみると、仏壇が見える。観音開きされた中央の座には、御釈迦様が薄らとした双眸をこちらに向けてくる。なんとも言えない、色即是空な心のゆらぎが漂う。
ふと、あることに気づく。
お供えものが添えてあるではないか。小さな赤い皿にご飯が盛られている。
この家には、誰か住んでいる。そう確信した。その瞬間。奥の部屋から、ガタッと椅子が引かれる音が聞こえた。
いる、誰かいる?
と、察しながら、ゆっくりと歩き、奥の部屋の襖を覗く。
そこには、一人の老婆が椅子に座っていた。
白髪で細い皮だけの肉体は、まるで壊れた人形のようだ。目は開きっぱなしで、壁にかけられた絵画を見つめているばかり。
その絵画には、蒼穹の下いっぱいに咲くひまわりの花が描かれおり、お化け屋敷には、なんとも不釣り合いな自然彩る絵画が飾られてある。不気味としか言いようがない。爽やかな絵画とは対照的に、この朽ち果てた空間には希望の光りがまったく見えてこない。絶望の闇に包まれているとしか思えなかった。
それでも、老婆はジッと絵画を見つめ、微動だにしない。
時の感覚が狂い出す。
虫のような呼吸、かすかな瞬き、沈黙……。
老婆はおそらくアルツハイマー病、つまり認知症。
もう戻ることはない、不可逆的に進行する脳疾患で、記憶や思考能力がゆっくりと破壊され、最後には、プツンッと糸の切れた風船のように虚空を仰ぐことになる。そうなると、日常生活がほぼできないと言われているが、果たしてこの老婆はどこまでボケているのだろうか。仏壇のお供えものがある限り、飯の支度は自分で用意できるようだが、その真偽は定かではない。ホームヘルパーさんが来訪している可能性もある。
とりあえず老婆のことは無視して、二階に上がってみることにする。
階段を仰ぐと、二階は薄暗く、弱々しい日の光りが射し込む。
さらに、至るところに蜘蛛の巣が張っており、人が階段を使用した気配はまったくない。ゆっくり、一歩ずつ慎重に階段を上る。階段の幅を目測したところ、この程度の幅なら真里を抱えて運ぶことは可能だと判断できる。真里を拉致した犯人が、二階で監禁している可能性は充分にある。
階段を上がり切ったところで、すぐに壁に突き当たった。
首を振ると左右に部屋がある。両方とも襖だった。とりあえず、西側の襖を開けてみる。物置のようで段ボール箱が置かれていた。日に焼けた畳の色が茶色く変色していて、その模様が悪魔に見えるから不気味だ。カーテンはボロボロにくたびれて、遮光性はまったく期待できない。
次に、反対の部屋を調査しようと振り返る。襖に手をかけた……。そのときだった。
「う……」
かすかに人の呼吸する音が聞こえる。まさか一階の老婆のものとは思えず、急激に血の気が引いていくのを感じる。
この襖の向こうに、誰かいる?
手袋をはめた指先に力を込め、ゆっくりと襖を引く。
すると、ありえない光景が目に飛び込んできた。
この瞬間、日常が引く波にさらわれる砂の城のように崩れ去っていく。と同時に、ガタガタガタと地震が来て足下が揺れる。こんなときにマジかっ!? と身構えたが、それは錯覚だと思い知る。
自分の身体が震えていたのだ。そのことに気づいたとき、やっと目の前に吊るされた物体が何なのか、倒れている赤い服を着た女が誰なのか、という疑問が生まれる。
その現実、いや、その真実を受け入れようと脳が動き出している。
ただ、厄介なことに感情だけがうまく定まらない。
退廃的で暴力性のある残酷な光景が、ザクザクと鋭いナイフで抉られるように、俺の心を貪っている。
嗚咽しそうになり口を手で抑えた。自分の体内にあるすべての臓器が弾け飛びそうな錯覚に襲われる。これが死体と直面したときの衝動なのだ。はっきり言って、気持ちが悪い。魚が腐ったような匂い、酸化して錆びた鉄の匂い、畳に染み付いた汗の匂いが部屋のなかに充満し、カオス的かつ死滅的な空間を醸している。
つまり、俺の目に映っているのは首吊りした死体。
その傍らで横たわるのは、真里……なのか?
そのことを確認するため、ゆっくりと足を踏み出していった。
玄関周りの外壁はことごとくボロボロになっており、下を見れば割れたコンクリートから草が生えている。家を囲った生垣の内側の庭は見事に草だらけ。まさに佐野家という土地は、荒れ放題という状況だった。
そのため、玄関が半分ほど開きぱなしでも、それほど不思議ではない。
見た目だけで言ったら、こんな家には誰も住んでいないだろうと思うほうが正しい。木材の郵便ポストの口はガムテープが貼られ、玄関の上を見れば、割れた電球が剥き出しになって放置されている。この家は簡単に言うと、お化け屋敷だと言えた。
「ごめんくださ~い」
返事はない。
「ごめんくださ~い」
やはり、返事はない。
誰もいないようなので、そのまま黙って開いていた扉を抜ける。
玄関には女性用のサンダルと黒い運動靴が転がっていた。埃がついていないので、最近使われていたような気もする。
誰かいるのかもしれないな。
そんな疑いを持ちながら、一歩ずつ玄関の奥に足を踏み入れていく。
靴をスリッパに履き替える。
埃っぽい匂いにまみれながら、上がり框を踏んで家のなかに上がる。
古い建物のため踏み込むたびに、ギィギィと床が軋む。建具は歪み、触れたら壊れそうだから怖い。
そんな廊下を歩くと、西側に襖があった。開いていたので覗いてみると、仏壇が見える。観音開きされた中央の座には、御釈迦様が薄らとした双眸をこちらに向けてくる。なんとも言えない、色即是空な心のゆらぎが漂う。
ふと、あることに気づく。
お供えものが添えてあるではないか。小さな赤い皿にご飯が盛られている。
この家には、誰か住んでいる。そう確信した。その瞬間。奥の部屋から、ガタッと椅子が引かれる音が聞こえた。
いる、誰かいる?
と、察しながら、ゆっくりと歩き、奥の部屋の襖を覗く。
そこには、一人の老婆が椅子に座っていた。
白髪で細い皮だけの肉体は、まるで壊れた人形のようだ。目は開きっぱなしで、壁にかけられた絵画を見つめているばかり。
その絵画には、蒼穹の下いっぱいに咲くひまわりの花が描かれおり、お化け屋敷には、なんとも不釣り合いな自然彩る絵画が飾られてある。不気味としか言いようがない。爽やかな絵画とは対照的に、この朽ち果てた空間には希望の光りがまったく見えてこない。絶望の闇に包まれているとしか思えなかった。
それでも、老婆はジッと絵画を見つめ、微動だにしない。
時の感覚が狂い出す。
虫のような呼吸、かすかな瞬き、沈黙……。
老婆はおそらくアルツハイマー病、つまり認知症。
もう戻ることはない、不可逆的に進行する脳疾患で、記憶や思考能力がゆっくりと破壊され、最後には、プツンッと糸の切れた風船のように虚空を仰ぐことになる。そうなると、日常生活がほぼできないと言われているが、果たしてこの老婆はどこまでボケているのだろうか。仏壇のお供えものがある限り、飯の支度は自分で用意できるようだが、その真偽は定かではない。ホームヘルパーさんが来訪している可能性もある。
とりあえず老婆のことは無視して、二階に上がってみることにする。
階段を仰ぐと、二階は薄暗く、弱々しい日の光りが射し込む。
さらに、至るところに蜘蛛の巣が張っており、人が階段を使用した気配はまったくない。ゆっくり、一歩ずつ慎重に階段を上る。階段の幅を目測したところ、この程度の幅なら真里を抱えて運ぶことは可能だと判断できる。真里を拉致した犯人が、二階で監禁している可能性は充分にある。
階段を上がり切ったところで、すぐに壁に突き当たった。
首を振ると左右に部屋がある。両方とも襖だった。とりあえず、西側の襖を開けてみる。物置のようで段ボール箱が置かれていた。日に焼けた畳の色が茶色く変色していて、その模様が悪魔に見えるから不気味だ。カーテンはボロボロにくたびれて、遮光性はまったく期待できない。
次に、反対の部屋を調査しようと振り返る。襖に手をかけた……。そのときだった。
「う……」
かすかに人の呼吸する音が聞こえる。まさか一階の老婆のものとは思えず、急激に血の気が引いていくのを感じる。
この襖の向こうに、誰かいる?
手袋をはめた指先に力を込め、ゆっくりと襖を引く。
すると、ありえない光景が目に飛び込んできた。
この瞬間、日常が引く波にさらわれる砂の城のように崩れ去っていく。と同時に、ガタガタガタと地震が来て足下が揺れる。こんなときにマジかっ!? と身構えたが、それは錯覚だと思い知る。
自分の身体が震えていたのだ。そのことに気づいたとき、やっと目の前に吊るされた物体が何なのか、倒れている赤い服を着た女が誰なのか、という疑問が生まれる。
その現実、いや、その真実を受け入れようと脳が動き出している。
ただ、厄介なことに感情だけがうまく定まらない。
退廃的で暴力性のある残酷な光景が、ザクザクと鋭いナイフで抉られるように、俺の心を貪っている。
嗚咽しそうになり口を手で抑えた。自分の体内にあるすべての臓器が弾け飛びそうな錯覚に襲われる。これが死体と直面したときの衝動なのだ。はっきり言って、気持ちが悪い。魚が腐ったような匂い、酸化して錆びた鉄の匂い、畳に染み付いた汗の匂いが部屋のなかに充満し、カオス的かつ死滅的な空間を醸している。
つまり、俺の目に映っているのは首吊りした死体。
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そのことを確認するため、ゆっくりと足を踏み出していった。
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