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目を開けて、視界に映るのが自宅のすすけた天井でない事にしばらく首を傾げたが、時間をかけて、ようやくここがどこだかを思い出した。
薄暗い部屋を小さな電灯が照らしていた。まだ庶民の間では高価で普及していないけれど、富裕層はこうして日常的に使っている。ただ使用人である自分が使って良いものではないなと思って、エルナは部屋にあるものもそのままにしていた。
カチャリ、と静かに扉が開いた。
旦那様がガラス製の水差しを持って部屋に入ってきた。
「目が覚めたか」
旦那様の顔を見た途端、自分が倒れた後の事を思い出した。あのまま運ばれ、されるがままに自分が世話をされるのを所々覚えている。
「あ、あの・・・・」
上体を起こそうとしたが、身体に力が入らない。声も掠れてほとんど音にならなかった。旦那様は水差しをベッドサイドに置いて、私の身体を支え、コップに水を注いだ。
「飲みなさい」
エルナはコップを受け取り、カラカラになっていた喉を潤した。
「・・・何か腹に入れた方がいいな。少し見てくる」
「だ、旦那様、わたし、自分でやります」
よろよろとベッドから出ようとする自分の肩を、旦那様は優しく押し戻した。
「君はここで寝ていなさい。熱が随分高い」
エルナは暫し旦那様が出ていったドアの方を見つめていたが、ふらふらとまたベッドに横になった。
主人にここまでさせるのはまずい。まずいのだが、身体も頭も上手く働かず、言われた通りにするしかなかった。
お仕着せのエプロンは脱がせられ、襟元も緩めてあったが、その他に乱れはない。
台所から戻った旦那様は、トレーに湯気の立つ白い器とパンを持っていた。
「昨日の残りのようだが、これなら食べられるか?」
玉葱をバターで炒めて作ったシンプルなスープ。しかし材料は質の良いものを揃えてくれるので、家で食べていたものよりずっと美味しい。しばらくカチャ、カチャと食器がぶつかる音だけが響いた。
「・・・・すみません」
パンは残してしまったが、温かいスープは身体の隅々まで沁みた。
当然のように空のお皿を持って、旦那様は何も言わずに部屋を出ていった。
(おやすみのご挨拶をしそびれてしまったわ。お礼もきちんと申し上げていない・・・・明日ちゃんと、)
ふいに目頭が熱くなって、堪える間もなく涙が溢れ落ちた。
何故自分は泣いているのか。自分でもわからなくて、エルナは戸惑う。
(なんで・・・・・)
「ミス・フィッシャー、タオルを・・・・・」
まさか旦那様がまた戻って来るとは思っていなくて、慌てて涙を拭う。
「・・・・・身体を拭くなら、と思ったが、その前に顔を拭くのに必要だな」
旦那様はそう言って、白いタオルをエルナの膝に置いた。
「・・・・・・・・・」
エルナはタオルを目に当てて旦那様が部屋を出ていくのを待ったが、出ていくどころか、旦那様が移動したのか、ベッド脇に置いてある椅子に座るのを気配で感じた。
どうしてここにいるのか、などと聞けるはずもなく、ただ沈黙が流れた。先に口を開いたのは旦那様だった。
「・・・・・君は何故、この地に留まったんだ?」
エルナはタオルから少し顔を離した。
「妹と一緒に行くという選択も出来たはずだ。君は・・・・ここに、家庭があるわけではないし、望みの勤め先もなかった。首都の方が仕事は多くあるだろう」
旦那様がおっしゃる通りで、イザベラにも散々言われた事だ。自分と一緒に行こうと。あちらで一緒に暮らそうと。
でもエルナは決して首を縦には振らなかった。父や母の眠る墓があるからと。
「私は、邪魔ですもの・・・・・・」
今はいい。しばらくはこれまで通りに暮らしていけただろう。でも五年後は?十年後は?イザベラが結婚して、子どもが生まれれば、エルナはどうしたって邪魔になってしまう。
自分は一人で生きていかねばならない。
ここの仕事の紹介はちょうどよかった。お金の面でもそうだったが、一人で暮らすには心の準備と練習が必要だったから。
しかし一人での慣れない生活は、エルナの心身を疲弊させていた。
「覚悟していたはずだったんですけど・・・・」
「・・・・・・・・」
しっかりしなくては。こんな簡単に体調を崩して、泣き言を言って迷惑をかけては、すぐに解雇されてしまうかもしれない。そうなったらイザベラだって心配するだろう。
エルナは目元の涙を拭って、
「本当に、申し訳ございませんでした、旦那様。汚してしまった廊下も明日きちんと・・・・」
と言いかけたのだが、旦那様はそれを手で制した。
「いや、明日も様子を見た方ががいい。仕事は気にしなくていいから休みなさい。あれは私がやっておこう」
「そんなわけには・・・・・・」
「ミス・フィッシャー、体調不良が長引けば仕事の質が落ちる。これは提案ではなく、命令だ」
「・・・・はい、旦那様」
厳しい声にエルナは肩を落とした。やはりクビにされてしまうかもしれない。新しい仕事は見つかるだろうか。イザベラは心配しないだろうか・・・・。
「ミス・フィッシャー。この間のハーブティーはとても美味しかった」
「は、はい。・・・・・・?」
急な話題にエルナは戸惑った。
「体調が良くなったら、また淹れて欲しい。・・・・頼めるか?」
先日軽食とともに、エルナが摘んで作ったハーブティーを出したのだ。覚えておいでだったなんて。
旦那様はこう言っているのだ。
”ここにいても大丈夫”だと。
「はい、旦那様・・・・・」
エルナの目から、温かい涙が一筋流れた。
薄暗い部屋を小さな電灯が照らしていた。まだ庶民の間では高価で普及していないけれど、富裕層はこうして日常的に使っている。ただ使用人である自分が使って良いものではないなと思って、エルナは部屋にあるものもそのままにしていた。
カチャリ、と静かに扉が開いた。
旦那様がガラス製の水差しを持って部屋に入ってきた。
「目が覚めたか」
旦那様の顔を見た途端、自分が倒れた後の事を思い出した。あのまま運ばれ、されるがままに自分が世話をされるのを所々覚えている。
「あ、あの・・・・」
上体を起こそうとしたが、身体に力が入らない。声も掠れてほとんど音にならなかった。旦那様は水差しをベッドサイドに置いて、私の身体を支え、コップに水を注いだ。
「飲みなさい」
エルナはコップを受け取り、カラカラになっていた喉を潤した。
「・・・何か腹に入れた方がいいな。少し見てくる」
「だ、旦那様、わたし、自分でやります」
よろよろとベッドから出ようとする自分の肩を、旦那様は優しく押し戻した。
「君はここで寝ていなさい。熱が随分高い」
エルナは暫し旦那様が出ていったドアの方を見つめていたが、ふらふらとまたベッドに横になった。
主人にここまでさせるのはまずい。まずいのだが、身体も頭も上手く働かず、言われた通りにするしかなかった。
お仕着せのエプロンは脱がせられ、襟元も緩めてあったが、その他に乱れはない。
台所から戻った旦那様は、トレーに湯気の立つ白い器とパンを持っていた。
「昨日の残りのようだが、これなら食べられるか?」
玉葱をバターで炒めて作ったシンプルなスープ。しかし材料は質の良いものを揃えてくれるので、家で食べていたものよりずっと美味しい。しばらくカチャ、カチャと食器がぶつかる音だけが響いた。
「・・・・すみません」
パンは残してしまったが、温かいスープは身体の隅々まで沁みた。
当然のように空のお皿を持って、旦那様は何も言わずに部屋を出ていった。
(おやすみのご挨拶をしそびれてしまったわ。お礼もきちんと申し上げていない・・・・明日ちゃんと、)
ふいに目頭が熱くなって、堪える間もなく涙が溢れ落ちた。
何故自分は泣いているのか。自分でもわからなくて、エルナは戸惑う。
(なんで・・・・・)
「ミス・フィッシャー、タオルを・・・・・」
まさか旦那様がまた戻って来るとは思っていなくて、慌てて涙を拭う。
「・・・・・身体を拭くなら、と思ったが、その前に顔を拭くのに必要だな」
旦那様はそう言って、白いタオルをエルナの膝に置いた。
「・・・・・・・・・」
エルナはタオルを目に当てて旦那様が部屋を出ていくのを待ったが、出ていくどころか、旦那様が移動したのか、ベッド脇に置いてある椅子に座るのを気配で感じた。
どうしてここにいるのか、などと聞けるはずもなく、ただ沈黙が流れた。先に口を開いたのは旦那様だった。
「・・・・・君は何故、この地に留まったんだ?」
エルナはタオルから少し顔を離した。
「妹と一緒に行くという選択も出来たはずだ。君は・・・・ここに、家庭があるわけではないし、望みの勤め先もなかった。首都の方が仕事は多くあるだろう」
旦那様がおっしゃる通りで、イザベラにも散々言われた事だ。自分と一緒に行こうと。あちらで一緒に暮らそうと。
でもエルナは決して首を縦には振らなかった。父や母の眠る墓があるからと。
「私は、邪魔ですもの・・・・・・」
今はいい。しばらくはこれまで通りに暮らしていけただろう。でも五年後は?十年後は?イザベラが結婚して、子どもが生まれれば、エルナはどうしたって邪魔になってしまう。
自分は一人で生きていかねばならない。
ここの仕事の紹介はちょうどよかった。お金の面でもそうだったが、一人で暮らすには心の準備と練習が必要だったから。
しかし一人での慣れない生活は、エルナの心身を疲弊させていた。
「覚悟していたはずだったんですけど・・・・」
「・・・・・・・・」
しっかりしなくては。こんな簡単に体調を崩して、泣き言を言って迷惑をかけては、すぐに解雇されてしまうかもしれない。そうなったらイザベラだって心配するだろう。
エルナは目元の涙を拭って、
「本当に、申し訳ございませんでした、旦那様。汚してしまった廊下も明日きちんと・・・・」
と言いかけたのだが、旦那様はそれを手で制した。
「いや、明日も様子を見た方ががいい。仕事は気にしなくていいから休みなさい。あれは私がやっておこう」
「そんなわけには・・・・・・」
「ミス・フィッシャー、体調不良が長引けば仕事の質が落ちる。これは提案ではなく、命令だ」
「・・・・はい、旦那様」
厳しい声にエルナは肩を落とした。やはりクビにされてしまうかもしれない。新しい仕事は見つかるだろうか。イザベラは心配しないだろうか・・・・。
「ミス・フィッシャー。この間のハーブティーはとても美味しかった」
「は、はい。・・・・・・?」
急な話題にエルナは戸惑った。
「体調が良くなったら、また淹れて欲しい。・・・・頼めるか?」
先日軽食とともに、エルナが摘んで作ったハーブティーを出したのだ。覚えておいでだったなんて。
旦那様はこう言っているのだ。
”ここにいても大丈夫”だと。
「はい、旦那様・・・・・」
エルナの目から、温かい涙が一筋流れた。
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