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第三章 柳澤の章
第53話 勝孝と十郎太6
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どうやって来たのかわからないが、気付いた時には十郎太は屋敷に戻っていた。思考は完全に停止していたにもかかわらず、体は当たり前のようにやるべきことをやっていた。
勝孝には「始末した」と報告した。実際には稲荷に置いてきただけだが、この寒さの中、あんなところに放置されれば半刻も持たないだろう。
その後、下女たちを集めて、姫は流行り病で亡くなったと通達した。ゆえに、お末の方に病気が感染することの無いよう、そのまま火葬に回したと話した。
当然下女たちはそんなことは嘘だとわかっている。だが、それで口裏を合わせよというお達しだということもわかっているので誰も何も言わない。
お末の方には自分から話をする旨、下女たちに話した。が、そのとき思いがけない言葉をかけられた。「十郎太さま、大丈夫でございますか」と。
十郎太はその時初めて、自分が死にそうな顔をしているのだと気づいた。下女たちがしきりに「お体が冷えていらっしゃいます」「湯に入られては如何ですか」「何かお食事をお持ちしますか」と言うのを聞きながら、自分にその恩恵を受ける価値は無いと思った。
姫は乳の味も知らずに死んだのだ。温かい母の腕に抱かれることもなく旅立ったのだ。十郎太の手によって。それなのに、なぜ自分だけが飯を食い、湯に入れるというのか。
十郎太はこの時悟った。自分はこうして死ぬまで姫を想いながら生きていくのだ。死ぬことも許されず、ただこの重荷に耐えながらお末を守って生きていくしかないのだ。
十郎太は心を無にし、お末の部屋を訪問した。
彼女は笑顔で迎えてくれた。そして十郎太が何も言わないうちにこう言った。
「一番嫌なお役目を果たしにいらしたのですね。大丈夫です、わかっています。お産の前から覚悟はしておりました。もしも生まれた子が姫ならば、産湯から私の手に戻ることはないだろうと」
十郎太は自分の不甲斐なさに、奥歯をギリギリと嚙みしめた。血の味がした。
彼が今お末に対してできることは、ひたすら廊下に額を押し付けて平伏することだけだった。
「十郎太さまにお願いがございます。松原屋が産着を仕立てたら、勝孝様に見つからないよう、わたくしのところへお持ちいただけますか」
言われて、十郎太はハッと顔を上げた。松原屋に女の子の産着を頼んでいた!
お末はこうなることがわかっていて、朝一番に松原屋に注文したのだ。
誰も着ることの無い女の子用の産着。これを大切に手元に置いて、姫のことを忘れまいということか。
十郎太が勝孝に仕える新しい理由ができた。尊敬するからでもなく、お末を守るためでもなく。
勝孝に復讐するために。
尊敬する勝孝は、もうどこにもいなくなってしまった。今いるのはただの鬼畜だ。
こんな思いをさせるためにお末を嫁に迎えたというのか。あの時、勝孝とお末の縁談をぶち壊していれば。
死んでしまいたい、死んで楽になりたい――だが、お末の方がずっと苦しいに決まっている。自分にはお末を守る義務があるのだ。
十郎太はこの時に決めたのだ。この命尽き果てるまで、お末に尽くそうと。
それから数か月が過ぎ、蕗の薹が顔を出し始めたころ、お末は再び懐妊した。
いくらなんでも早すぎる。つい先日出産したばかりではないか。姫を亡くして心の傷も癒えぬうちに次を産ませるとは、勝孝は女子を一体なんだと思っているのか。
それでもお末は愚痴の一つもこぼさなかった。十郎太と毎日顔を合わせられるだけで幸せだと言ってくれた。十郎太にとってその言葉は嬉しくもあり、また辛くもあった。
だが、第一子の時と異なり、今回は最初からお末の気持ちは不安定であった。
――もしもこのお腹の子が女子だったら。あの人はお許し下さるだろうか。それともまた――。
実際十郎太は既に勝孝から言われていたのだ。もしも今回も女子であれば、流行り病でその日のうちに死ぬのだ、と。
端から男子でなければ生きる権利が与えられていないのだ。
十郎太は考えに考えて、もしも赤ん坊が女子だった場合はお末を連れてこの屋敷を逃げ出そうと考えた。どんなにみすぼらしい暮らしでも、ここで生きながら地獄を味わうよりも人間らしい生き方ができると思った。
だがそれを実行するには難しすぎる問題があった。お初である。
お初は繁孝に嫁いでいる。妹が繁孝の弟のところに嫁いでいるにもかかわらず、家臣の男と共に失踪したということになると、姉のお初の立場が悪くなる。
八方塞がりだ。お末が男子を産むしか残された道は無かった。
最初の姫を産んでからちょうど一年経った頃、同じ季節にお末は第二子を出産した。二人目が女子だった場合のことを考えて、恐怖のあまり体が硬直し、大変な難産になってしまった。
母体が産みたがっていないのだ、難産になるのは当然と言えた。
散々に苦しんだ末にやっと生まれた子供は男の子だった。
長時間に及ぶ苦しい出産で体力を消耗しきっていたお末は、生まれた子供が男子であることを確認すると、緊張から解き放たれたようにあっさりと亡くなってしまった。「やっとお役目を果たすことができました」と言い残して。
なんという運命のいたずらだろうか。念願の男子を産み、やっと落ち着いて暮らせるようになったというのに。
お末を失った十郎太は、生きる目的を見失った。生き続ける意味が分からなくなるには、十七歳という年齢は若すぎた。
勝孝に仕える意味もなくなってしまった。もはや尊敬もしていない。守るべきお末もいない。復讐する意味すら存在しない。人生そのものがどうでも良くなってしまったのだ。
生きる価値も見いだせず、死ぬ意味も持ち合わせていなかった十郎太は、死人のように生き続ける道を選択した。
自分では何も決めない、何も考えない、何の感情も持たず、ただ命令されるまま勝孝の指示に従って生かされ続けよう。それが亡くなった姫とお末に対する懺悔だ。
十郎太は誰も来ない奥の納戸を一つ空けた。そこに彼女の大切にしていた着物や簪など身の回りのものを保管した。いつまでも一緒にいられるようにと、姫の産着はお末の着物の間に挟んだ。
この納戸を心のよりどころにして生きて行こう。時間のある限りここへきて、お末と姫を弔おう。十郎太はそう心に決めた。
勝孝には「始末した」と報告した。実際には稲荷に置いてきただけだが、この寒さの中、あんなところに放置されれば半刻も持たないだろう。
その後、下女たちを集めて、姫は流行り病で亡くなったと通達した。ゆえに、お末の方に病気が感染することの無いよう、そのまま火葬に回したと話した。
当然下女たちはそんなことは嘘だとわかっている。だが、それで口裏を合わせよというお達しだということもわかっているので誰も何も言わない。
お末の方には自分から話をする旨、下女たちに話した。が、そのとき思いがけない言葉をかけられた。「十郎太さま、大丈夫でございますか」と。
十郎太はその時初めて、自分が死にそうな顔をしているのだと気づいた。下女たちがしきりに「お体が冷えていらっしゃいます」「湯に入られては如何ですか」「何かお食事をお持ちしますか」と言うのを聞きながら、自分にその恩恵を受ける価値は無いと思った。
姫は乳の味も知らずに死んだのだ。温かい母の腕に抱かれることもなく旅立ったのだ。十郎太の手によって。それなのに、なぜ自分だけが飯を食い、湯に入れるというのか。
十郎太はこの時悟った。自分はこうして死ぬまで姫を想いながら生きていくのだ。死ぬことも許されず、ただこの重荷に耐えながらお末を守って生きていくしかないのだ。
十郎太は心を無にし、お末の部屋を訪問した。
彼女は笑顔で迎えてくれた。そして十郎太が何も言わないうちにこう言った。
「一番嫌なお役目を果たしにいらしたのですね。大丈夫です、わかっています。お産の前から覚悟はしておりました。もしも生まれた子が姫ならば、産湯から私の手に戻ることはないだろうと」
十郎太は自分の不甲斐なさに、奥歯をギリギリと嚙みしめた。血の味がした。
彼が今お末に対してできることは、ひたすら廊下に額を押し付けて平伏することだけだった。
「十郎太さまにお願いがございます。松原屋が産着を仕立てたら、勝孝様に見つからないよう、わたくしのところへお持ちいただけますか」
言われて、十郎太はハッと顔を上げた。松原屋に女の子の産着を頼んでいた!
お末はこうなることがわかっていて、朝一番に松原屋に注文したのだ。
誰も着ることの無い女の子用の産着。これを大切に手元に置いて、姫のことを忘れまいということか。
十郎太が勝孝に仕える新しい理由ができた。尊敬するからでもなく、お末を守るためでもなく。
勝孝に復讐するために。
尊敬する勝孝は、もうどこにもいなくなってしまった。今いるのはただの鬼畜だ。
こんな思いをさせるためにお末を嫁に迎えたというのか。あの時、勝孝とお末の縁談をぶち壊していれば。
死んでしまいたい、死んで楽になりたい――だが、お末の方がずっと苦しいに決まっている。自分にはお末を守る義務があるのだ。
十郎太はこの時に決めたのだ。この命尽き果てるまで、お末に尽くそうと。
それから数か月が過ぎ、蕗の薹が顔を出し始めたころ、お末は再び懐妊した。
いくらなんでも早すぎる。つい先日出産したばかりではないか。姫を亡くして心の傷も癒えぬうちに次を産ませるとは、勝孝は女子を一体なんだと思っているのか。
それでもお末は愚痴の一つもこぼさなかった。十郎太と毎日顔を合わせられるだけで幸せだと言ってくれた。十郎太にとってその言葉は嬉しくもあり、また辛くもあった。
だが、第一子の時と異なり、今回は最初からお末の気持ちは不安定であった。
――もしもこのお腹の子が女子だったら。あの人はお許し下さるだろうか。それともまた――。
実際十郎太は既に勝孝から言われていたのだ。もしも今回も女子であれば、流行り病でその日のうちに死ぬのだ、と。
端から男子でなければ生きる権利が与えられていないのだ。
十郎太は考えに考えて、もしも赤ん坊が女子だった場合はお末を連れてこの屋敷を逃げ出そうと考えた。どんなにみすぼらしい暮らしでも、ここで生きながら地獄を味わうよりも人間らしい生き方ができると思った。
だがそれを実行するには難しすぎる問題があった。お初である。
お初は繁孝に嫁いでいる。妹が繁孝の弟のところに嫁いでいるにもかかわらず、家臣の男と共に失踪したということになると、姉のお初の立場が悪くなる。
八方塞がりだ。お末が男子を産むしか残された道は無かった。
最初の姫を産んでからちょうど一年経った頃、同じ季節にお末は第二子を出産した。二人目が女子だった場合のことを考えて、恐怖のあまり体が硬直し、大変な難産になってしまった。
母体が産みたがっていないのだ、難産になるのは当然と言えた。
散々に苦しんだ末にやっと生まれた子供は男の子だった。
長時間に及ぶ苦しい出産で体力を消耗しきっていたお末は、生まれた子供が男子であることを確認すると、緊張から解き放たれたようにあっさりと亡くなってしまった。「やっとお役目を果たすことができました」と言い残して。
なんという運命のいたずらだろうか。念願の男子を産み、やっと落ち着いて暮らせるようになったというのに。
お末を失った十郎太は、生きる目的を見失った。生き続ける意味が分からなくなるには、十七歳という年齢は若すぎた。
勝孝に仕える意味もなくなってしまった。もはや尊敬もしていない。守るべきお末もいない。復讐する意味すら存在しない。人生そのものがどうでも良くなってしまったのだ。
生きる価値も見いだせず、死ぬ意味も持ち合わせていなかった十郎太は、死人のように生き続ける道を選択した。
自分では何も決めない、何も考えない、何の感情も持たず、ただ命令されるまま勝孝の指示に従って生かされ続けよう。それが亡くなった姫とお末に対する懺悔だ。
十郎太は誰も来ない奥の納戸を一つ空けた。そこに彼女の大切にしていた着物や簪など身の回りのものを保管した。いつまでも一緒にいられるようにと、姫の産着はお末の着物の間に挟んだ。
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