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第三章 柳澤の章

第51話 勝孝と十郎太4

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 それから数か月が過ぎ、真冬のそれはそれは寒い日にお末は産気づいた。ここ何年か雪の降らない年が続いていたが、その日は五年ぶりに大雪が降った。
 外の天気はお末の心を映し出すかのように荒れ狂っていた。気温が下がり、産湯を準備するのも大変で、屋敷中の人間が総出で湯を沸かした。
 夕方産気づいてからなかなかお産が進まず、一晩中苦しんだ末に、やっと朝方になって勝孝とお末の子はこの世に誕生した。
 その時のことを十郎太は今でも覚えている。お産を終えた直後のお末は、勝孝ではなく十郎太を呼びつけ、こう言ったのだ。
「十郎太さまにお願いがございます。勝孝さまに知られぬように松原屋へ行ってください。そして例のものを大急ぎで仕立てるようにと。『女の子』です」
 十郎太は血の気が引くのがわかった。最悪の事態だ。立っているのがやっとだった。
 だがお末の方は違った。子を産んだことで母になったのだ。昨日までのビクビクしていたお末の面影はもうそこには無かった。
 子が姫であったことがわかったのなら、その姫を母として全力で守り抜くという固い意思がその瞳に宿っていた。
 夜の間の猛吹雪は町を一晩にして真っ白に塗り替えていた。積もった雪に足を取られながら、十郎太は朝一番に松原屋へと駆け込んだ。
 お末の伝言を主人に伝えると、なんとも言えない微妙な表情で「おめでとうございます」と言った。主人も事情が分かっていたのだろう。大至急仕立てると約束してくれた。
 屋敷に戻った十郎太は、早速勝孝に呼びつけられた。
 勝孝は十郎太を見るや否や、開口一番「子は生まれたか」と訊いた。周りの者から何も聞かされていないのだと悟った。勝孝が男子を熱望しているのを知っていて、生まれた子供が女子おなごであったとは誰も言えなかったのだろう。「つい先ほどお生まれになったようでございます」と伝えると、勝孝は嬉しそうにこう言ったのだ。
「名前には勝の字を入れようと思うのだが、どうであろうか」
 生まれた子が女子であろうとは露ほども想定していない言葉だった。それはまるで男子以外は我が子とは認めないという宣言のようにも聞こえた。
 事実を告げたらお末はどうなってしまうのだろうか――恐怖を感じながらも、ずっと黙っているわけにもいかず、十郎太は覚悟を決めて赤ん坊が女子であったことを伝えた。
 勝孝は最初、言われたことの意味が分からなかったようだった。呆気にとられる上司に、十郎太はもう一言間違えようのない言葉を添えた。元気な姫様でございます、と。
 勝孝はしばらく呆然としていたが、やがて意味を理解したのか「そうか」と言った。怒るでも悲しむでも落胆するでもなく、ただ、理解したというように。
 そして表情を変えぬまま、お末はどうしているかと尋ねた。
 十郎太は屋敷に戻ってからはお末に会っていなかったが、松原屋へ行っていたとは言えず、「夜を徹してのお産でしたので、今はお休みになっておられます」と言っておいた。
 口から出まかせではあったが、あながち間違いでもないだろうと思われた。いずれにしろ今のお末は絶対に勝孝に会いたくないだろうと思ったのだ。
 だが、それを聞いた勝孝は安心したようにとんでもないことを言い出したのだ。
「お末が眠っているならちょうどいい。今のうちに姫を始末して参れ」
 今度は十郎太が意味を測りかねる番だった。
 ――始末とはどういうことか。この男は自分に何をさせようとしているのか。
 十郎太の顔を見てわかったのだろう、勝孝はさらに言葉を継いだ。
「女子は役に立たん。無駄なものに手も金もかけられん。姫は亡くなったことにしろ。お前は今日中に姫を始末して来るのだ。必ず今日中にだ。絶対に姫をお末に抱かせてはならぬ。情が涌いてからでは遅い」
 強い口調だった。とても意見などできる雰囲気ではなかった。意見できないということは、その指示を承ったことを意味する。必ず今日中に姫を始末しなければならないということだ。
 お末が一晩中苦しんで、やっと産んだ子だ。長い間お末の腹の中で大切に育まれてきた子だ。その命を自分が奪う。まだ母の腕に抱かれてすらいない無垢の赤子を、この手で殺すのだ。
 せめて、その前に一目だけでもお末に会わせてやりたい。一度だけでも腕に抱かせてやりたい。
 だがそれが本当にお末のためになるかと言えば、答えは否だ。彼女はもう十五の少女ではない、母になったのだ。一度でも抱けば絶対に離さないだろう。そんなことになればお末さえもどうなるかわからない。
 苦渋の決断を迫られた十郎太は、赤ん坊の泣き声のする方へと半ば呆然と歩いて行った。赤ん坊の世話に忙しく立ち働く下女たちに「下がって良い」と声をかけた。意味が分からずオロオロする彼女たちに、勝孝の決断を伝えた。
「姫は生まれてすぐに亡くなられた。勝孝さまからの御伝言だ。ここをすぐに片づけるのだ。以前と同じように、何も変わっていないように。良いな」
 姫を抱いていた乳母が「十郎太さま、姫様は」と言いかけて口をつぐんだ。十郎太は流れる涙もそのままに「亡くなられた」ともう一度言って、姫を乳母から取り上げた。
 初めて抱いた赤ん坊は、十郎太には重く感じた。こんなに重い子をはらの中にずっと抱いていたのかと愕然とした。
 十郎太の抱き方が上手かったのか、乳母の手から彼の手に渡ると赤子はピタリと泣き止んだ。自分を抱いている男に殺されると本能的に知ったのかとも思ったが、その表情は機嫌が良さそうだった。
「まあ! 姫様は十郎太さまをお気に召されたのですね。何をやっても泣き止まなかったのに、こんなにご機嫌になられて」
 乳母の言葉が十郎太の心を抉った。
 ――やめろやめろやめろ、俺はこれからこの子を手にかけるのだ――
「姫は……亡くなられた」
 絞り出すようにもう一度告げると、十郎太は姫を抱いたまま部屋を後にした。
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