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第二章 木槿山の章
第31話 誘拐3
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ペタンと座り込んでいた狐杜は慌ててきちんと座り直した。板張りと違って畳の上は柔らかくて気持ちがいい。
入ってきた娘は、手にした小さな行李を横に置くと、板張りの床に額を付けた。
「姫様の身の回りのお世話をさせていただきます鈴と申します」
ここで「私は姫です」というのも変だし、「はい」と返事をするのも変だ。こういう時なんと返事をするのが正解なのか狐杜にはわからない。
お鈴には申し訳ないが、必然的に黙っているしかないのだ。
「姫様のお召し物をお持ちしました」
「え? なんで?」
「そのような粗末なものでは体が擦れて痛かろうと雪之進さまが心配されて」
なぜあの雪之進は親切にしてくれるのか。姫と特別な関係にあったのだろうか。
だが、彼は初対面らしい挨拶をした。知り合いという感じでは全く無かった。
「あの。雪之進さまはおいくつなんですか」
聞いてから焦った。姫がこんな事を聞くのはおかしくないだろうか。しかし一度口から出た言葉は戻らない。覆水は盆に返らないのだ。
「十八になられました」
どうやらお鈴はあまりそういうことを気にしないらしい。よく見ればお鈴もまだ子供だ。与平と大して変わらないのではないだろうか。
雪之進は十八、姫は十二、二人の年齢差は六つ。片や繁孝さまの娘で、片や勝孝の家臣だ。そう考えると、勝孝の家臣なら姫を知っていても不思議じゃないし、姫の方が雪之進を知らないのもあり得る。
でも勝孝の家臣がどうして勝孝の敵である姫に情けをかけるのだろう。
「あの、お召し替えのお手伝いをさせていただいてよろしゅうございますか」
着替えを持って来たと言っているのに考えに耽ってしまった狐杜に、お鈴がかなりの遠慮をもって声をかけた。
「あ、はい、お願いします!」
――いやーん、急に声をかけないでよ、素のまま返事しちゃったじゃないの! これじゃ全然姫様じゃないよぉ。
後悔先に立たずである。こういう時に姫がいったいどういう反応をするのが正解なのか、狐杜が知っているわけがない。
本当は自分一人で着られるし、なんなら襷に前掛け、頬被りまでできるけど……と思いながらもお鈴に任せていると、見たこともないような美しい紐やら飾りやらが出てきて狐杜は目を白黒させた。
こんなもの見たことが無い狐杜には使い方などさっぱりわからない。最初のうちは何でもお鈴に任せておいた方が安全だ。
ここで狐杜はふと、この着物の出どころに疑問を抱いた。
勝孝には娘がいない。勝宜という十五になる息子が一人いるだけと聞いた。目の前にいるお鈴がこんな着物を誂えられるとは思えない。格が違うのだ。
かと言ってさっきいきなり狐杜を連れて来て、すぐに着物を仕立てられるわけではないことくらい、仕立て屋の狐杜が知らないわけがない。この着物はいったい「どこから」。
ついうっかり最後の言葉だけ音声化されてしまった。お鈴がきょとんとした顔で「何でしょうか」と聞き直した。
「あ、いえ、その」
「ああ、このお召し物でございますね」
なかなかに気が回る。だが気の回る人間は危ない。狐杜が姫ではないとバレる可能性が格段に跳ね上がった。
「ご気分を害されるかもしれませんが。これは勝孝さまの亡き奥方様のものにございます。勝宜さまをご出産されたときに亡くなられたと聞き及んでおります。わたしが生まれる前のことですゆえ詳しいことはわかりかねますが、勝孝さまと一緒におられる時間が少なかったようで、一人寂しくお亡くなりになられたと聞きました。それを不憫に思った十郎太さまが、奥方様のお召し物を大切に保管しておいでだったようです」
つまり納戸はここだけではなく、他にもあるということだ。そっちの納戸に普段使わないお客様用の食器や奥方様の着物、他にも狐杜には想像のつかないようなものが片付けられているに違いない。
そしてここは布団ばかりの納戸。宿泊する客でも来ない限り誰もここには近寄らない。きっと姫を監禁するためにここを指定したのは雪之進だ。
――それにしても勝孝とかいう親父、どこまでも腐りきってるわ! 奥方様を独りぼっちで死なせるなんて、ぶん殴ってやりたい。こんなのを叔父に持って、姫様も気の毒に!
ついでに言えば、あたしを二度も殺しに来た十郎太とかいう侍、割といいとこあるじゃない、ちょっと見直した――
心の中とは裏腹に、姫を演じる狐杜はちょっとしんみりと「そうでしたか」などと言って見せる。
「申し訳ありません、急でしたので仕立てが間に合わず」
「いえ、奥方様の大切な着物を貸していただいてありがとうございます」
こんな上等な着物なんか一生かかったって着られやしないって思ってたもん。あたしは作る人であって着る側の人間じゃないもん。
「さっき着てたので十分です。奥方様の大切な着物を汚してはいけないから、さっきの服を洗ったらまたあれを着るわ」
――ってこれ、姫様の言葉遣いじゃない? なんか失敗してる? 大丈夫?
黙っていれば大丈夫と思いながら、気づくと喋ってしまっている自分に頭を抱える。なぜ自分は黙っていられないのだろうか。情けない。
そのとき、お鈴が何故かニコッと笑った。
「噂通りの姫様で安心いたしました」
「え? 噂ですか」
「はい。竹を割ったような気持ちのいいお人柄で、変に取り澄ましたりなさらないと聞いていたので」
狐杜はちょっと反応に困って笑ってごまかした。
姫様がさっぱりとした感じの人ならやりやすい。油断は禁物だが、ここにいるのは姫様をよく知ってる人達ではないからバレにくいだろう。
「また後程参ります。姫様御入用のものがあればお持ち致しますが」
――そうだ雪之進さまに聞かなくちゃ。あたしはなぜここにいるのか。
「雪之進さまに確認したいことがあります。雪之進さまのお時間のある時に、ここに来てくださいって言ってもらえますか」
「かしこまりました。必ずお伝え致します」
「あと、お腹が減りました。ご飯ください」
お鈴はクスッと笑うと頷いた。
「急いで準備させます」
入ってきた娘は、手にした小さな行李を横に置くと、板張りの床に額を付けた。
「姫様の身の回りのお世話をさせていただきます鈴と申します」
ここで「私は姫です」というのも変だし、「はい」と返事をするのも変だ。こういう時なんと返事をするのが正解なのか狐杜にはわからない。
お鈴には申し訳ないが、必然的に黙っているしかないのだ。
「姫様のお召し物をお持ちしました」
「え? なんで?」
「そのような粗末なものでは体が擦れて痛かろうと雪之進さまが心配されて」
なぜあの雪之進は親切にしてくれるのか。姫と特別な関係にあったのだろうか。
だが、彼は初対面らしい挨拶をした。知り合いという感じでは全く無かった。
「あの。雪之進さまはおいくつなんですか」
聞いてから焦った。姫がこんな事を聞くのはおかしくないだろうか。しかし一度口から出た言葉は戻らない。覆水は盆に返らないのだ。
「十八になられました」
どうやらお鈴はあまりそういうことを気にしないらしい。よく見ればお鈴もまだ子供だ。与平と大して変わらないのではないだろうか。
雪之進は十八、姫は十二、二人の年齢差は六つ。片や繁孝さまの娘で、片や勝孝の家臣だ。そう考えると、勝孝の家臣なら姫を知っていても不思議じゃないし、姫の方が雪之進を知らないのもあり得る。
でも勝孝の家臣がどうして勝孝の敵である姫に情けをかけるのだろう。
「あの、お召し替えのお手伝いをさせていただいてよろしゅうございますか」
着替えを持って来たと言っているのに考えに耽ってしまった狐杜に、お鈴がかなりの遠慮をもって声をかけた。
「あ、はい、お願いします!」
――いやーん、急に声をかけないでよ、素のまま返事しちゃったじゃないの! これじゃ全然姫様じゃないよぉ。
後悔先に立たずである。こういう時に姫がいったいどういう反応をするのが正解なのか、狐杜が知っているわけがない。
本当は自分一人で着られるし、なんなら襷に前掛け、頬被りまでできるけど……と思いながらもお鈴に任せていると、見たこともないような美しい紐やら飾りやらが出てきて狐杜は目を白黒させた。
こんなもの見たことが無い狐杜には使い方などさっぱりわからない。最初のうちは何でもお鈴に任せておいた方が安全だ。
ここで狐杜はふと、この着物の出どころに疑問を抱いた。
勝孝には娘がいない。勝宜という十五になる息子が一人いるだけと聞いた。目の前にいるお鈴がこんな着物を誂えられるとは思えない。格が違うのだ。
かと言ってさっきいきなり狐杜を連れて来て、すぐに着物を仕立てられるわけではないことくらい、仕立て屋の狐杜が知らないわけがない。この着物はいったい「どこから」。
ついうっかり最後の言葉だけ音声化されてしまった。お鈴がきょとんとした顔で「何でしょうか」と聞き直した。
「あ、いえ、その」
「ああ、このお召し物でございますね」
なかなかに気が回る。だが気の回る人間は危ない。狐杜が姫ではないとバレる可能性が格段に跳ね上がった。
「ご気分を害されるかもしれませんが。これは勝孝さまの亡き奥方様のものにございます。勝宜さまをご出産されたときに亡くなられたと聞き及んでおります。わたしが生まれる前のことですゆえ詳しいことはわかりかねますが、勝孝さまと一緒におられる時間が少なかったようで、一人寂しくお亡くなりになられたと聞きました。それを不憫に思った十郎太さまが、奥方様のお召し物を大切に保管しておいでだったようです」
つまり納戸はここだけではなく、他にもあるということだ。そっちの納戸に普段使わないお客様用の食器や奥方様の着物、他にも狐杜には想像のつかないようなものが片付けられているに違いない。
そしてここは布団ばかりの納戸。宿泊する客でも来ない限り誰もここには近寄らない。きっと姫を監禁するためにここを指定したのは雪之進だ。
――それにしても勝孝とかいう親父、どこまでも腐りきってるわ! 奥方様を独りぼっちで死なせるなんて、ぶん殴ってやりたい。こんなのを叔父に持って、姫様も気の毒に!
ついでに言えば、あたしを二度も殺しに来た十郎太とかいう侍、割といいとこあるじゃない、ちょっと見直した――
心の中とは裏腹に、姫を演じる狐杜はちょっとしんみりと「そうでしたか」などと言って見せる。
「申し訳ありません、急でしたので仕立てが間に合わず」
「いえ、奥方様の大切な着物を貸していただいてありがとうございます」
こんな上等な着物なんか一生かかったって着られやしないって思ってたもん。あたしは作る人であって着る側の人間じゃないもん。
「さっき着てたので十分です。奥方様の大切な着物を汚してはいけないから、さっきの服を洗ったらまたあれを着るわ」
――ってこれ、姫様の言葉遣いじゃない? なんか失敗してる? 大丈夫?
黙っていれば大丈夫と思いながら、気づくと喋ってしまっている自分に頭を抱える。なぜ自分は黙っていられないのだろうか。情けない。
そのとき、お鈴が何故かニコッと笑った。
「噂通りの姫様で安心いたしました」
「え? 噂ですか」
「はい。竹を割ったような気持ちのいいお人柄で、変に取り澄ましたりなさらないと聞いていたので」
狐杜はちょっと反応に困って笑ってごまかした。
姫様がさっぱりとした感じの人ならやりやすい。油断は禁物だが、ここにいるのは姫様をよく知ってる人達ではないからバレにくいだろう。
「また後程参ります。姫様御入用のものがあればお持ち致しますが」
――そうだ雪之進さまに聞かなくちゃ。あたしはなぜここにいるのか。
「雪之進さまに確認したいことがあります。雪之進さまのお時間のある時に、ここに来てくださいって言ってもらえますか」
「かしこまりました。必ずお伝え致します」
「あと、お腹が減りました。ご飯ください」
お鈴はクスッと笑うと頷いた。
「急いで準備させます」
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