4 / 64
第一章 序
第4話 序4
しおりを挟む
「爺、橘はまだ戻らぬのか」
落ち着きなく立ったり座ったりを繰り返す家老は、若の声に慌てて座り直した。
「桔梗丸、橘は戻れば真っ先にこちらに来るはずです。爺を困らせるような言葉は慎みなさい」
「はい、母上」
――こんな幼子でもちゃんと母の言葉が聞けると言うに、儂は何をしておるのじゃ。
家老はがっくりと肩を落とす。が、またすぐに心がざわざわと騒ぎ始める。
無理もない。橘は姫が生まれてすぐにこの城に入り、一緒に育って来た我が子のようなものだ。あの当時は橘もまだ十二、現在の姫と同い年だった。
「帯刀殿も少し落ち着きなさい。わたくしたちが橘を信じないでどうするのです。橘は必ず戻って来ます。怪我が祟って今は動けないのでしょう」
「母上、橘は怪我をしたのですか」
母の隣にちょこんと座る若の頭を撫でながら、お初の方は優しく頷いた。
「賊からわたくしたちを守るために怪我を負われたのです。でも桔梗丸は心配せずとも良いのですよ。橘はとても強いのですから。必ず戻ります」
橘は強い――確かに強い。いや、強かった。だが今はどうなのであろうか。
教育係になって十二年、その強さを発揮せねばならないような場面にほとんど出くわしていない。あの当時の橘なら余裕で躱すことができたであろう攻撃も、実戦をこなしていない今となっては決して容易くは無かろう。
問題は彼の身に何が起こったのかである。
「御家老様はこちらですか」
庭から声がした。喜助である。家老は急いで障子を開けた。
「ここじゃ、待ちくたびれたぞ。何か橘の手がかり――」
そこまで言って、家老は息を吞んだ。
目に涙をいっぱいに溜めた喜助の手には、姫の緋色の羽織が大切そうに抱えられていたのだ。
「それは姉上の羽織じゃ」
舌っ足らずの若の声に、お初の方の声が重なる。
「間違いありませぬ。喜助、それをどこで」
お初の方に促され、喜助は羽織を家老に渡した。
「山の方を探してたんですけど見つからないんで、川に流されたかもって考えて。それで川沿いにずっと探してたら、ここから一里くらい下った辺りで木の枝にぶら下がってたんです。雨で水かさが増えたときに木に引っかかって、そのまま水が引いたんだと思います。橘さまも近くにいるんじゃないかって、必死に探したんですけど」
「橘は見かけなかったのですね」
「はい」
顔をくしゃくしゃにして今にも泣きだしそうな喜助に、桔梗丸が駆け寄る。
「喜助、男は泣いてはならぬ。姉上の羽織を見つけてくれた褒美じゃ。ゆえに泣いてはならぬ」
自分より五つも年下の若に菓子を渡され、喜助は「ありがとうございます」と涙を落とした。
喜助もつい最近庭師見習いとして城に入ったばかりで、歳はまだ十になったばかり。環境が変わってお城の勝手もわからず、そのうえ優しくしてくれた橘が賊に襲われたとあって気持ちが不安定なのだろう。
それを桔梗丸が幼いながらに察したのだと思うと、喜助はいくら歯を食いしばっても涙が止められない。
――本当ならおいらが若様の不安を取り除いて差し上げなければならないのに――
そこへ今度は廊下側から家老を呼ぶ声が届いてきた。
「御家老様はどちらにおいでですか」
「あ、姉ちゃんの声だ」
声の主は喜助の姉で、女中として働いている小夜だった。
「ここじゃ」
家老が襖を開けると、「御家老様」と少し通り過ぎた声が戻って来た。小夜は不安気に帯刀を見上げ、言いにくそうに口を開いた。
「勝孝さまがお見えです」
落ち着きなく立ったり座ったりを繰り返す家老は、若の声に慌てて座り直した。
「桔梗丸、橘は戻れば真っ先にこちらに来るはずです。爺を困らせるような言葉は慎みなさい」
「はい、母上」
――こんな幼子でもちゃんと母の言葉が聞けると言うに、儂は何をしておるのじゃ。
家老はがっくりと肩を落とす。が、またすぐに心がざわざわと騒ぎ始める。
無理もない。橘は姫が生まれてすぐにこの城に入り、一緒に育って来た我が子のようなものだ。あの当時は橘もまだ十二、現在の姫と同い年だった。
「帯刀殿も少し落ち着きなさい。わたくしたちが橘を信じないでどうするのです。橘は必ず戻って来ます。怪我が祟って今は動けないのでしょう」
「母上、橘は怪我をしたのですか」
母の隣にちょこんと座る若の頭を撫でながら、お初の方は優しく頷いた。
「賊からわたくしたちを守るために怪我を負われたのです。でも桔梗丸は心配せずとも良いのですよ。橘はとても強いのですから。必ず戻ります」
橘は強い――確かに強い。いや、強かった。だが今はどうなのであろうか。
教育係になって十二年、その強さを発揮せねばならないような場面にほとんど出くわしていない。あの当時の橘なら余裕で躱すことができたであろう攻撃も、実戦をこなしていない今となっては決して容易くは無かろう。
問題は彼の身に何が起こったのかである。
「御家老様はこちらですか」
庭から声がした。喜助である。家老は急いで障子を開けた。
「ここじゃ、待ちくたびれたぞ。何か橘の手がかり――」
そこまで言って、家老は息を吞んだ。
目に涙をいっぱいに溜めた喜助の手には、姫の緋色の羽織が大切そうに抱えられていたのだ。
「それは姉上の羽織じゃ」
舌っ足らずの若の声に、お初の方の声が重なる。
「間違いありませぬ。喜助、それをどこで」
お初の方に促され、喜助は羽織を家老に渡した。
「山の方を探してたんですけど見つからないんで、川に流されたかもって考えて。それで川沿いにずっと探してたら、ここから一里くらい下った辺りで木の枝にぶら下がってたんです。雨で水かさが増えたときに木に引っかかって、そのまま水が引いたんだと思います。橘さまも近くにいるんじゃないかって、必死に探したんですけど」
「橘は見かけなかったのですね」
「はい」
顔をくしゃくしゃにして今にも泣きだしそうな喜助に、桔梗丸が駆け寄る。
「喜助、男は泣いてはならぬ。姉上の羽織を見つけてくれた褒美じゃ。ゆえに泣いてはならぬ」
自分より五つも年下の若に菓子を渡され、喜助は「ありがとうございます」と涙を落とした。
喜助もつい最近庭師見習いとして城に入ったばかりで、歳はまだ十になったばかり。環境が変わってお城の勝手もわからず、そのうえ優しくしてくれた橘が賊に襲われたとあって気持ちが不安定なのだろう。
それを桔梗丸が幼いながらに察したのだと思うと、喜助はいくら歯を食いしばっても涙が止められない。
――本当ならおいらが若様の不安を取り除いて差し上げなければならないのに――
そこへ今度は廊下側から家老を呼ぶ声が届いてきた。
「御家老様はどちらにおいでですか」
「あ、姉ちゃんの声だ」
声の主は喜助の姉で、女中として働いている小夜だった。
「ここじゃ」
家老が襖を開けると、「御家老様」と少し通り過ぎた声が戻って来た。小夜は不安気に帯刀を見上げ、言いにくそうに口を開いた。
「勝孝さまがお見えです」
2
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
旅路ー元特攻隊員の願いと希望ー
ぽんた
歴史・時代
舞台は1940年代の日本。
軍人になる為に、学校に入学した
主人公の田中昴。
厳しい訓練、激しい戦闘、苦しい戦時中の暮らしの中で、色んな人々と出会い、別れ、彼は成長します。
そんな彼の人生を、年表を辿るように物語りにしました。
※この作品は、残酷な描写があります。
※直接的な表現は避けていますが、性的な表現があります。
※「小説家になろう」「ノベルデイズ」でも連載しています。
信忠 ~“奇妙”と呼ばれた男~
佐倉伸哉
歴史・時代
その男は、幼名を“奇妙丸”という。人の名前につけるような単語ではないが、名付けた父親が父親だけに仕方がないと思われた。
父親の名前は、織田信長。その男の名は――織田信忠。
稀代の英邁を父に持ち、その父から『天下の儀も御与奪なさるべき旨』と認められた。しかし、彼は父と同じ日に命を落としてしまう。
明智勢が本能寺に殺到し、信忠は京から脱出する事も可能だった。それなのに、どうして彼はそれを選ばなかったのか? その決断の裏には、彼の辿って来た道が関係していた――。
◇この作品は『小説家になろう(https://ncode.syosetu.com/n9394ie/)』『カクヨム(https://kakuyomu.jp/works/16818093085367901420)』でも同時掲載しています◇
北宮純 ~祖国無き戦士~
水城洋臣
歴史・時代
三国時代を統一によって終わらせた晋(西晋)は、八王の乱と呼ばれる内紛で内部から腐り、異民族である匈奴によって滅ぼされた。
そんな匈奴が漢王朝の正統後継を名乗って建国した漢(匈奴漢)もまた、僅か十年で崩壊の時を迎える。
そんな時代に、ただ戦場を駆けて死ぬ事を望みながらも、二つの王朝の滅亡を見届けた数奇な運命の将がいた。
その名は北宮純。
漢民族消滅の危機とまで言われた五胡十六国時代の始まりを告げる戦いを、そんな彼の視点から描く。
要塞少女
水城洋臣
歴史・時代
蛮族に包囲され孤立した城を守り抜いた指揮官は、十四歳の少女であった。
三国時代を統一によって終わらせた西晋王朝の末期。
かつて南中と呼ばれた寧州で、蛮族の反乱によって孤立した州城。今は国中が内紛の只中にあり援軍も望めない。絶体絶命と思われた城を救ったのは、名将である父から兵法・武芸を学んだ弱冠十四歳の少女・李秀であった……。
かの『三國志』で、劉備たちが治めた蜀の地。そんな蜀漢が滅びた後、蜀がどんな歴史を辿ったのか。
東晋時代に編纂された史書『華陽國志』(巴蜀の地方史)に記された史実を元にした伝奇フィクションです。
クロワッサン物語
コダーマ
歴史・時代
1683年、城塞都市ウィーンはオスマン帝国の大軍に包囲されていた。
第二次ウィーン包囲である。
戦況厳しいウィーンからは皇帝も逃げ出し、市壁の中には守備隊の兵士と市民軍、避難できなかった市民ら一万人弱が立て籠もった。
彼らをまとめ、指揮するウィーン防衛司令官、その名をシュターレンベルクという。
敵の数は三十万。
戦況は絶望的に想えるものの、シュターレンベルクには策があった。
ドナウ河の水運に恵まれたウィーンは、ドナウ艦隊を蔵している。
内陸に位置するオーストリア唯一の海軍だ。
彼らをウィーンの切り札とするのだ。
戦闘には参加させず、外界との唯一の道として、連絡も補給も彼等に依る。
そのうち、ウィーンには厳しい冬が訪れる。
オスマン帝国軍は野営には耐えられまい。
そんなシュターレンベルクの元に届いた報は『ドナウ艦隊の全滅』であった。
もはや、市壁の中にこもって救援を待つしかないウィーンだが、敵軍のシャーヒー砲は、連日、市に降り注いだ。
戦闘、策略、裏切り、絶望──。
シュターレンベルクはウィーンを守り抜けるのか。
第二次ウィーン包囲の二か月間を描いた歴史小説です。
混血の守護神
篠崎流
歴史・時代
まだ歴史の記録すら曖昧な時代の日本に生まれた少女「円(まどか)」事故から偶然、大陸へ流される。
皇帝の不死の秘薬の実験体にされ、猛毒を飲まされ死にかけた彼女を救ったのは神様を自称する子供だった、交換条件で半不死者と成った彼女の、決して人の記録に残らない永久の物語。 一応世界史ベースですが完全に史実ではないです
忍者同心 服部文蔵
大澤伝兵衛
歴史・時代
八代将軍徳川吉宗の時代、服部文蔵という武士がいた。
服部という名ではあるが有名な服部半蔵の血筋とは一切関係が無く、本人も忍者ではない。だが、とある事件での活躍で有名になり、江戸中から忍者と話題になり、評判を聞きつけた町奉行から同心として採用される事になる。
忍者同心の誕生である。
だが、忍者ではない文蔵が忍者と呼ばれる事を、伊賀、甲賀忍者の末裔たちが面白く思わず、事あるごとに文蔵に喧嘩を仕掛けて来る事に。
それに、江戸を騒がす数々の事件が起き、どうやら文蔵の過去と関りが……
夢の終わり ~蜀漢の滅亡~
久保カズヤ
歴史・時代
「───────あの空の極みは、何処であろうや」
三国志と呼ばれる、戦国時代を彩った最後の英雄、諸葛亮は五丈原に沈んだ。
蜀漢の皇帝にして、英雄「劉備」の血を継ぐ「劉禅」
最後の英雄「諸葛亮」の志を継いだ「姜維」
── 天下統一
それを志すには、蜀漢はあまりに小さく、弱き国である。
国を、民を背負い、後の世で暗君と呼ばれることになる劉禅。
そして、若き天才として国の期待を一身に受ける事になった姜維。
二人は、沈みゆく祖国の中で、何を思い、何を目指し、何に生きたのか。
志は同じであっても、やがてすれ違い、二人は、離れていく。
これは、そんな、覚めゆく夢を描いた、寂しい、物語。
【 毎日更新 】
【 表紙は hidepp(@JohnnyHidepp) 様に描いていただきました 】
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる