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第四章 猟師

第40話 熊殺しの梧桐4

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「おめえのやったことは殺しだ。殺すつもりがなくても死んじまったんだからな。殺す気は無かったのなら、どうして首に切りつけたんだ?」
 辰吉は不貞腐れたように口を尖らせた。
「違う。俺は右手に切りつけたんだよ。手首の腱を切れば一生使い物にならなくなるって聞いたことがあったから。だがよ、アイツは右手を庇ったんだよ。手をさっと引いちまった」
「絵師が大事な聞き手を守ったんだろうな」
「そんなこと俺が知るかよ」
 辰吉がそっぽを――入り口の方を向いたそのとき、いい具合に梧桐が入って来た。手には土瓶をぶら下げている。どうやら外でお茶を沸かしてきたようだ。竦み上がる辰吉をよそに、勝手に番屋の中を物色して湯飲みを出してくる。
「わたしがやります」
 慌てて立ち上がった奈津に「座っていろ」と一言告げて、梧桐は大きな体を丸めて小さな湯飲みにお茶を注いで行った。
 四人が呆気にとられていると、彼は茶の入った湯飲みをみんなに配り、最後に辰吉に一言声をかけた。
「これで喋りやすくなるだろう」
 辰吉は「ひぃぃぃぃい!」と変な声を出し、「喋ります、喋ります!」と慌てて茶を飲んで舌を火傷していた。いったい梧桐との腕相撲で何があったのやら。
「そ、そう、右手の方から切りつけようとしたら、右手を守って、その代わりに体の正面がこっちを向いて、それで、その、俺は勢い余ってそのまま首に切りつけちまったんだ。アイツの動きにたまげて、それでつんのめって転びそうになってたからよ、だから避けようがなかったんだ」
 奈津が両手で顔を覆う。「何てこと」と呟くのが辛うじて悠介の耳に届いた。
「首から血が噴き出して俺の顔にかかって、もうどうしたらいいかわかんなくなっちまって、そんで俺、ビビッて逃げようとしたら、子供が二人入って来ようとしてて、それで、やべえ見られたって思って、子供を突き飛ばして逃げたんだ」
 それまで静かに茶をすすっていた勝五郎がゆっくりと顔を上げた。笑顔を作っていたが、目は笑っていなかった。
「おめえは間違いなく死罪だな。人一人殺したんだからな」
「ま、待ってくれよ、俺は右手を狙っただけだ。殺そうと思ったわけじゃねえ!」
「そりゃあ、わかんねえなぁ」
 勝五郎が脅すと、辰吉は目に見えて焦り始めた。額に脂汗が浮かび、顔は青ざめ、唇は震えている。
「ほんとだよ! 絵師なんか殺したって何の得にもなりゃしねえ。俺は金になる仕事しかしねえ。俺は金にならねえことはやらねえ主義だ」
「ほう。ずいぶんと御立派な主義だな。じゃあ、どうして悠一郎の右手を狙った」
「もちろん、金になるからだ」
 落としどころだな、と悠介が思った瞬間、勝五郎が辰吉に顔を寄せた。
「誰からの依頼だ」
 それまで威勢の良かった辰吉は急に小さくなって口ごもった。梧桐が静かに辰吉に視線を固定する。
「い、言ったって、信じねえよ」
「それは俺が決めるこった」
 辰吉は目に見えて追い詰められていた。こういう時の馬鹿は何を言い出すかわからない。そしてこの辰吉も例外ではなかった。
「じゃあ、こうしねえか。俺と政五郎親分とで腕相撲をして、俺が負けたら話すって事でどうだ」
「だから政五郎って誰だよ」という勝五郎親分の小さな抗議を無視して奈津が割り込んだ。
「そんなのずるいです。体格が全然違うじゃありませんか。それなら親分さんにわたしと悠介さんが加勢します」
 辰吉はしめたとばかりにニヤリと笑うと「よ、よし、いいだろう。それでいいっすね、親分?」と言った。
 だが、そうは問屋が卸さない。悠介が冷静に切り返した。
「なんでおまえさんが条件出してるんだい。おまえさんは交換条件なんか持ち掛けられる立場じゃあ無いはずですよ。四の五の言わずに勝五郎親分の質問に答える立場でしょう。そうじゃないのかい?」
 ハッとしたように奈津が両手を口元に持って行く。危うく辰吉の口車に乗せられそうになっていたことに気づいて慌てて下を向く。
「あたしは何か間違ってますか。ねえ、梧桐さん、こいつは聞かれたことに答えりゃいいってだけですよねぇ」
 梧桐は丸太のような太い腕を組んで、黙って頷いた。何も言わないのが却って大きな威圧感となって辰吉に襲い掛かる。
「さあ、誰からの依頼か言って貰おうか」
 辰吉が独り言のように「言ったら殺される」と口の中でモゾモゾ言っている。
「あたしが代わりに言いましょうかねぇ」
 悠介の言葉に、辰吉は慌てたように顔を上げた。
「おめえ、知ってるのか」
「誰に頼まれたのかは知らないけど、おまえさんが潮崎で誰を訪ねたかは知ってるよ」
 辰吉は目に見えて動揺した。ソワソワと落ち着かず、手を握ったり開いたりしながら視線を彷徨わせた。
「なぜ知ってる」
「なぜだと思う?」
 悠介が笑うと、突然辰吉が爆発した。
「俺が聞いてんだ!」
 相当追い詰められているらしい。本気で『言ったら殺される』と思っているようだ。
「あたしは昨日、潮崎にいたんですよ。それでね、見ちまったんですよ、おまえさんが番屋を訪ねるところを」
「番屋?」
 腕を組んだ勝五郎が眉根を寄せる。辰吉の目が見開かれた。
「見てたのか……」
「おまえさんはあすこで一晩過ごし、朝になってから潮崎を出た。あたしはその辺の人に聞いたんですよ、あの番屋にはいつもどなたがいなさるのか」
 辰吉は観念したように項垂れた。落ちた――と、悠介は思った。
「ああ、岡っ引きの猪助いすけに頼まれた。詳しいこたぁ知らねえ。とにかく柏原の悠一郎ってやつの右手を一生使えなくすればそれでいいって言われたからよ。料理人か錺職人かそんなもんだと思ってたんだ。行ってみたら絵師だったってだけでよ。本当に殺すつもりなんか無かったんだ」
 たくさん話せば罪が軽くなるかのように一気にしゃべった辰吉に、勝五郎がグッと顔を寄せた。
「なんで岡っ引きがそんなことを頼む? そりゃあその岡っ引きは自分の意志で言ったわけじゃねえからだ。そいつが誰に頼まれたのかは知らねえんだな?」
「知らねえ! ほんとだよ!」
 勝五郎は辰吉を睨み据えたまま、小さく何度か頷いた。
「わかった、いいだろう。おめえの仕事は終わりだ。帰っていい」
 辰吉は一瞬信じられないような顔をしたが、今を逃したら帰れなくなるとでも思ったのか、慌てて戸口を振り返った。辰吉と眼が合った梧桐は、静かに引き戸を開けてやった。こんなに紳士的な男のどこがそんなに怖いのか悠介と奈津には理解できなかったが、辰吉は腕相撲の時によほどの思いをしたのだろう。
 辰吉が出て行くのと入れ替わるように、三郎太が悠介の着物を持ってやって来た。
「これ。昨日交換した着物と耳飾り。ここで着替えるなら、おいらの着物は自分で持って帰るぜ」
 ところがそこに勝五郎が割り込んだ。
「おう、三郎太。ちょうどいいところへ来た。たった今辰吉を絞ったんだ。潮崎の岡っ引きのところに行ってたことを吐かせた。悠介がはっきりと『見た』と言ったから、恐らくこれからその番屋へ見られていたことを報告に行くだろう。おめえはまだ辰吉に顔を知られていねえ」
「わかりやした。ヤツのあとをつけて来ます」
 言うが早いか、三郎太は来たばかりなのにもう踵を返して出て行き、その後を猫のにゃべが追った。
「あっ、にゃべ!」
「大丈夫ですよ、お嬢さん。にゃべなら夜になればお屋敷に戻って来ますから。それより、三郎太の兄さんは凄いですね。あたしは三郎太の兄さんみたいになりたいですねぇ」
 悠介が感嘆の溜息を洩らすと、勝五郎がゆっくりと頷いた。
「あいつは全部説明しなくてもちょっと話せば全部理解しやがる。その上自分の仕事もすぐに察する。機動力が図抜けてやがる。三郎太を俺の手下てかに欲しいねえ」
 密かに悠介も奈津も同じことを考えていた。
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