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第三章 絵師
第35話 辰吉2
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夜になって、奈津の部屋に面した壁がコンコンと鳴った。悠介が壁をコンと叩くと、縁側の方から「悠介さん、今いいですか」と声がする。「どうぞ」と声をかけると静かに障子が開いて奈津が滑り込んでくる。
奈津は悠介が徳屋の絵を描いていることに気づいた。
「ごめんなさい、お仕事中でしたか。出直します」
「いえ、お嬢さんの話の方が優先です」
悠介が筆を置いて奈津の方へ向き直ったのを見て、奈津は申し訳なさそうに正面に座る。
「辰吉のことですね」
「ええ。夕食の時に父に話を聞いたのです。父は辰吉のことを知っていました」
さすがに昔からこの町の揉め事を捌いているだけのことはある。
「でも辰吉については三郎太さんの方が詳しかったかも。定職に就かずフラフラ遊んでるって言ってたわ。昔っから悪さばかりしてこの屋敷に何度も連れて来られたそうよ。最近ではあまり見てなかったらしいけど、それはここに連れてくる人がいなかっただけみたい。あれだけ体が大きいんだもの、ここまで引っ張って来るのは無理よね」
確かに三郎太から聞いた話の方が詳しい。佐倉は昔の辰吉しか知らないのだろう。
「父は熊殺しの梧桐さんのことも知ってたのよ」
「ほんとですか」
思わず悠介は体を乗り出した。
「ええ。いい猟師だと言っていたわ。狙った獲物は絶対に逃がさないんですって。熊を素手で倒したのは本当らしいわよ。猟師仲間がそれを見ていて、それ以来『熊殺し』って呼ばれるようになったらしいの」
もう溜息しか出てこない。そんな人間がいることが信じがたい。
「凄いですねぇ。それじゃ辰吉も敵わないわけだ。それでその人はどこに?」
「山の中の一軒家に住んでいて、誰とも慣れ合わないみたい。たまに町に降りて来て、自分が獲った獲物の毛皮を売ったりして、食料を買って帰るんですって。熊が出ると必ず彼が呼ばれるらしいわ。鉄砲の腕もさることながら、怪力の持ち主でもあるっていう話よ。ねえ、気にならない?」
「何がです?」
「猟師っていうのがどんなものか。獲物の毛皮を売りに来たりするわけでしょう。ということは熊とか鹿とかを倒して、その死体から皮を剝いで乾かして売りに来るっていうことよね。どんな生活をしてるのかしら。わたし、梧桐さんを訪ねてみようと思うの」
この娘は本気で言っているのか、それとも想像力が欠如しているのか、単に剛毅な性格なのか、悠介は少々不安になった。
「お嬢さん、梧桐さんが家で動物を解体したり皮を剥いだりしているかもしれないんですよ、いいんですか?」
「見たこと無いんだもの。その時になってみないとわからないわ」
どうやら剛毅な娘で決定のようだ。
「梧桐さんの協力が得られるといいのだけれど」
「たった一度腕相撲をしただけの相手のことなんか覚えていないでしょう」
「そうかもしれない。でも訪ねてみる価値はあると思うの。ね、一緒に行ってみましょうよ」
本当にこのお嬢さんの行動力には頭が下がる。まあ、一人で山の中を歩かせるのはいろいろ問題がありそうだ。悠介は仕方なく同行を承諾した。
ところが好機は突然に訪れた。翌日悠介が買い物に出かけたときにちょうど辰吉が一人で歩いているのを見かけたのだ。悠介は買い物を後回しにして辰吉を追った。このまま後をつければ彼の住居がわかるかもしれない。
だが、彼は柿ノ木川の方へ向かっているらしい。柿ノ木川へ向かうということは川沿いに走る街道を使って川下の潮崎方面へ向かうか、川上の木槿山方面に向かうということ……すなわち柏原から出るということだ。このまま尾行を続けていいものだろうかとちょっと考えたとき、「あれ? 悠介じゃねえか、また会ったな」という声がした。言わずと知れた三郎太である。
「兄さん、すみません。今、辰吉を追ってるんです。どうやら柏原から出る気らしい。どこへ行くのか後をつけてるんです」
「昨日からなんであんなやつのこと気にしてるんだ?」
悠介はグッと近寄ると声を落とした。
「悠一郎さん殺しの下手人だからです」
「えっ……」
三郎太は目ん玉が転げ落ちるほど驚いていたが、すぐに冷静になった。
「おいらも一緒に行こう。一人よりは二人の方が目立たねえ」
「三郎太の兄さん、仕事は?」
「気にすんな。おいらはヤキモチは焼かねえが、お節介だけは焼くんだ。さ、行こうぜ」
悠介は、この男がどこへ行っても重宝がられるのがわかったような気がした。
「じゃ、お願いします。実は一人ではどうやって連絡したらいいのかわからなかったんですよ」
二人は辰吉からだいぶ離れて尾行を開始した。これだけ離れていれば向こうからこちらを気にする事もないだろうし、二人に尾行されているとも気付かないだろう。
歩きながら悠介は悠一郎殺しの詳細を三郎太に話した。
「つまり、悠介とお嬢さんが悠一郎さんの家に入ろうとしたら辰吉が血まみれで出て来たって事かい」
「そうなんです」
「で、中に入ったら悠一郎さんが死んでたと」
「いや、まだ生きていたんですよ。それで悠一郎さんの画材一式をあたしに譲ると言って亡くなったんです。あの人はあたしの実の父親なんです」
三郎太は言葉をなくした。もう何と言っていいのかわからないようだった。
「でも敵討ちをしようってんじゃないんですよ。あたしが悠一郎さんの代わりに絵を描くことになっちまったんでね。もしも潮崎の唐紙に関係しているなら、次はあたしが狙われることになっちまうんで。それで辰吉の動きを見ておきたかったんです。その辰吉が潮崎の方へ向かっている。こりゃ追うしかないでしょう」
「そうだな。もしあいつが楢岡を過ぎて潮崎の方へ行くようなら要注意だ」
そして予感は当たった。辰吉は楢岡を素通りしたのだ。
「おめえのその着物は目立ちすぎる。そんななりじゃつけられてるってすぐにバレちまう。おいらと着物を交換しよう。おいらは一旦柏原に戻って、佐倉様のところに報告に行く。悠介がいねえとお嬢さんも心配なさるだろうからな。暗くなっちまったら山道は却って危ねえから、潮崎で野宿しろ。その方が安全だ。おいらは佐倉様に報告したらまた悠介を追いかけてくるからな」
「すみません。お願いします」
着ている服を交換すると、耳飾りを預かって三郎太は走って戻って行った。
奈津は悠介が徳屋の絵を描いていることに気づいた。
「ごめんなさい、お仕事中でしたか。出直します」
「いえ、お嬢さんの話の方が優先です」
悠介が筆を置いて奈津の方へ向き直ったのを見て、奈津は申し訳なさそうに正面に座る。
「辰吉のことですね」
「ええ。夕食の時に父に話を聞いたのです。父は辰吉のことを知っていました」
さすがに昔からこの町の揉め事を捌いているだけのことはある。
「でも辰吉については三郎太さんの方が詳しかったかも。定職に就かずフラフラ遊んでるって言ってたわ。昔っから悪さばかりしてこの屋敷に何度も連れて来られたそうよ。最近ではあまり見てなかったらしいけど、それはここに連れてくる人がいなかっただけみたい。あれだけ体が大きいんだもの、ここまで引っ張って来るのは無理よね」
確かに三郎太から聞いた話の方が詳しい。佐倉は昔の辰吉しか知らないのだろう。
「父は熊殺しの梧桐さんのことも知ってたのよ」
「ほんとですか」
思わず悠介は体を乗り出した。
「ええ。いい猟師だと言っていたわ。狙った獲物は絶対に逃がさないんですって。熊を素手で倒したのは本当らしいわよ。猟師仲間がそれを見ていて、それ以来『熊殺し』って呼ばれるようになったらしいの」
もう溜息しか出てこない。そんな人間がいることが信じがたい。
「凄いですねぇ。それじゃ辰吉も敵わないわけだ。それでその人はどこに?」
「山の中の一軒家に住んでいて、誰とも慣れ合わないみたい。たまに町に降りて来て、自分が獲った獲物の毛皮を売ったりして、食料を買って帰るんですって。熊が出ると必ず彼が呼ばれるらしいわ。鉄砲の腕もさることながら、怪力の持ち主でもあるっていう話よ。ねえ、気にならない?」
「何がです?」
「猟師っていうのがどんなものか。獲物の毛皮を売りに来たりするわけでしょう。ということは熊とか鹿とかを倒して、その死体から皮を剝いで乾かして売りに来るっていうことよね。どんな生活をしてるのかしら。わたし、梧桐さんを訪ねてみようと思うの」
この娘は本気で言っているのか、それとも想像力が欠如しているのか、単に剛毅な性格なのか、悠介は少々不安になった。
「お嬢さん、梧桐さんが家で動物を解体したり皮を剥いだりしているかもしれないんですよ、いいんですか?」
「見たこと無いんだもの。その時になってみないとわからないわ」
どうやら剛毅な娘で決定のようだ。
「梧桐さんの協力が得られるといいのだけれど」
「たった一度腕相撲をしただけの相手のことなんか覚えていないでしょう」
「そうかもしれない。でも訪ねてみる価値はあると思うの。ね、一緒に行ってみましょうよ」
本当にこのお嬢さんの行動力には頭が下がる。まあ、一人で山の中を歩かせるのはいろいろ問題がありそうだ。悠介は仕方なく同行を承諾した。
ところが好機は突然に訪れた。翌日悠介が買い物に出かけたときにちょうど辰吉が一人で歩いているのを見かけたのだ。悠介は買い物を後回しにして辰吉を追った。このまま後をつければ彼の住居がわかるかもしれない。
だが、彼は柿ノ木川の方へ向かっているらしい。柿ノ木川へ向かうということは川沿いに走る街道を使って川下の潮崎方面へ向かうか、川上の木槿山方面に向かうということ……すなわち柏原から出るということだ。このまま尾行を続けていいものだろうかとちょっと考えたとき、「あれ? 悠介じゃねえか、また会ったな」という声がした。言わずと知れた三郎太である。
「兄さん、すみません。今、辰吉を追ってるんです。どうやら柏原から出る気らしい。どこへ行くのか後をつけてるんです」
「昨日からなんであんなやつのこと気にしてるんだ?」
悠介はグッと近寄ると声を落とした。
「悠一郎さん殺しの下手人だからです」
「えっ……」
三郎太は目ん玉が転げ落ちるほど驚いていたが、すぐに冷静になった。
「おいらも一緒に行こう。一人よりは二人の方が目立たねえ」
「三郎太の兄さん、仕事は?」
「気にすんな。おいらはヤキモチは焼かねえが、お節介だけは焼くんだ。さ、行こうぜ」
悠介は、この男がどこへ行っても重宝がられるのがわかったような気がした。
「じゃ、お願いします。実は一人ではどうやって連絡したらいいのかわからなかったんですよ」
二人は辰吉からだいぶ離れて尾行を開始した。これだけ離れていれば向こうからこちらを気にする事もないだろうし、二人に尾行されているとも気付かないだろう。
歩きながら悠介は悠一郎殺しの詳細を三郎太に話した。
「つまり、悠介とお嬢さんが悠一郎さんの家に入ろうとしたら辰吉が血まみれで出て来たって事かい」
「そうなんです」
「で、中に入ったら悠一郎さんが死んでたと」
「いや、まだ生きていたんですよ。それで悠一郎さんの画材一式をあたしに譲ると言って亡くなったんです。あの人はあたしの実の父親なんです」
三郎太は言葉をなくした。もう何と言っていいのかわからないようだった。
「でも敵討ちをしようってんじゃないんですよ。あたしが悠一郎さんの代わりに絵を描くことになっちまったんでね。もしも潮崎の唐紙に関係しているなら、次はあたしが狙われることになっちまうんで。それで辰吉の動きを見ておきたかったんです。その辰吉が潮崎の方へ向かっている。こりゃ追うしかないでしょう」
「そうだな。もしあいつが楢岡を過ぎて潮崎の方へ行くようなら要注意だ」
そして予感は当たった。辰吉は楢岡を素通りしたのだ。
「おめえのその着物は目立ちすぎる。そんななりじゃつけられてるってすぐにバレちまう。おいらと着物を交換しよう。おいらは一旦柏原に戻って、佐倉様のところに報告に行く。悠介がいねえとお嬢さんも心配なさるだろうからな。暗くなっちまったら山道は却って危ねえから、潮崎で野宿しろ。その方が安全だ。おいらは佐倉様に報告したらまた悠介を追いかけてくるからな」
「すみません。お願いします」
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