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第三章 絵師
第29話 悠一郎2
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さっそく翌日には悠介は奈津と連れ立って悠一郎の家を訪問していた。悠一郎の言う通り、松清堂の裏手にあった扇商の末広屋に聞いてみるとすぐ近くだと言って丁稚が案内してくれた。
悠一郎の家は佐倉の屋敷ほど広くはなかったが、生活しているであろう六畳間の他に作業場があった。作業場の方は、絵を描く場所が二畳分くらいと、描いた絵を乾燥させる場所が十二畳くらいある。そこには乾燥棚があり、中には扇の形をした紙が何枚も干されていた。
しかも驚いたことに、四十過ぎの恰幅の良い女性がお茶を出してくれたのである。悠一郎は独り者だと言っていなかっただろうか。
二人が驚いていると悠一郎が察したように「この人は末広屋さんのお内儀のお仙さん、こちらの二人は佐倉様のお嬢さんと絵師の悠介」と紹介してくれた。
お仙は「佐倉様ってあの大名主のかい?」と驚いた顔をしていたが、悠一郎が頷くのを見て「へ~え、さすが絵師さんは顔が広いね」と感心したように言った。
奈津は落ち着いて畳に指を揃えた。
「わたしは佐倉家現当主の娘で奈津と申します。こちらはうちの奉公人ですが、先ごろ徳屋さんの御隠居様から仕事を頂戴しまして絵師をやっております悠介でございます。どうぞお見知りおきを」
「おやまあ、そんなご丁寧に挨拶されちゃ敵わないねぇ。あたしゃ末広屋のお仙。うちの亭主が、せっかく『おせん』なんだから扇子の扇の字を当てろなんて言うんですよ。あたしゃ難しい字は書けませんから断ったんですけどね」
「お仙さんはいつもこうして俺のところに世話を焼きに来てくれるんだ。食事や洗濯までしてくれるんで助かってるんだが、お給金を受け取ってくれなくてね」
嬉しそうにちょっと困った顔をする悠一郎に、お仙は軽く肘鉄砲を入れる。
「嫌だよ、全く。推しから金取るだなんてさ。あんたはあたしにとって歌舞伎役者と同じようなもんなんだから」
なるほど、役者の追っかけと同じ感覚らしい。しかも歌舞伎役者並みの男前だ。
「それに悠一郎さんが気持ちよく描いてくれないと、うちの商売上がったりだからねえ」
そう言ってお仙はワハハと笑った。見た目も太っ腹なら中身も太っ腹な、おおらかを絵に描いたような女性だ。
「悪いね、お茶を出しに来ただけなのに居座っちゃったよ。また来るね」
「お仙さんも一緒にどうだい。お嬢さんが万寿屋さんのお饅頭を買って来てくれたんだ。一緒に食べよう」
「いいのかい、なんだか悪いね」
ということで、結局お仙もその場に落ち着いた。
末広屋は先々代から続く扇屋で、お仙の亭主で三代目になるらしい。お仙の話によると、亭主は働き者なのはいいのだが、三度の飯より扇子が好きという変わり者らしい。夏扇や舞扇、茶席扇、蝙蝠扇などは普通に置いているが、誰も使わないような軍扇や鉄扇まで扱っている。この辺りはもう完全に主人の趣味の範囲らしい。実際誰も買って行かないので、飾り物になっている。
「悠介の持っている扇はこの末広屋さんで作って貰ったものなんだ。柚子の絵は個人的に思い入れがあったもんでね、茶席扇に仕立てて貰った。ちょっと小さめだろう? それは茶席で使う扇なんだ」
「茶席ですか。あたしはそんな洒落たものには縁がなくて」
「これからやるといい。おまえさんならすぐに覚えるよ」
「そうよ、悠介さん。大人の嗜みとしてやっておいた方がいいわ。子供のうちなら覚えるのも早いって、わたしも母上に教えられたもの」
確かに情報屋として佐倉の手足になって働くのなら、茶くらいは嗜んでおいた方がいいだろう。そういう席で情報を仕入れることもあるのだから。
それ以前に、扇にそんなにたくさんの種類があるのを知らなかったことを悠介は恥じた。今までそんなに扇のことなど真剣に話したことなどないし、他人の扇をわざわざ見せて貰うことも無かった。こういったことも教養の一つとして知っておくべきだろう。
「わたしもちょうど舞扇が欲しかったんです。末広屋さんに作っていただこうかしら」
「そういうことなら、悠一郎さんに絵を頼んでおきなよ。お嬢さんの好きな絵を描いてくれるよ」
悠一郎が笑顔で頷くのを見て、奈津は悠介に助けを求めた。
「ねえ、わたしの舞扇、どんなものがいいかしら」
「佐倉様ですから、桜の絵なんかどうです?」
奈津はその案がいたく気に入ったらしく、そのまま桜柄で悠一郎に注文を入れた。お仙は「毎度!」と言いつつ、「佐倉様のお嬢さんの扇なんて言ったらうちの宿六が腰抜かすわ」といって豪快に笑っていた。
その後、二人は悠一郎の描きかけの絵や、乾燥途中の絵などを見せて貰い、有意義な時間を過ごした。四人はすっかり打ち解け、また遊びに来ると約束して帰途に就いた。
そのときはあんな恐ろしい事件が起こるなどとは夢にも思っていなかった。
悠一郎の家は佐倉の屋敷ほど広くはなかったが、生活しているであろう六畳間の他に作業場があった。作業場の方は、絵を描く場所が二畳分くらいと、描いた絵を乾燥させる場所が十二畳くらいある。そこには乾燥棚があり、中には扇の形をした紙が何枚も干されていた。
しかも驚いたことに、四十過ぎの恰幅の良い女性がお茶を出してくれたのである。悠一郎は独り者だと言っていなかっただろうか。
二人が驚いていると悠一郎が察したように「この人は末広屋さんのお内儀のお仙さん、こちらの二人は佐倉様のお嬢さんと絵師の悠介」と紹介してくれた。
お仙は「佐倉様ってあの大名主のかい?」と驚いた顔をしていたが、悠一郎が頷くのを見て「へ~え、さすが絵師さんは顔が広いね」と感心したように言った。
奈津は落ち着いて畳に指を揃えた。
「わたしは佐倉家現当主の娘で奈津と申します。こちらはうちの奉公人ですが、先ごろ徳屋さんの御隠居様から仕事を頂戴しまして絵師をやっております悠介でございます。どうぞお見知りおきを」
「おやまあ、そんなご丁寧に挨拶されちゃ敵わないねぇ。あたしゃ末広屋のお仙。うちの亭主が、せっかく『おせん』なんだから扇子の扇の字を当てろなんて言うんですよ。あたしゃ難しい字は書けませんから断ったんですけどね」
「お仙さんはいつもこうして俺のところに世話を焼きに来てくれるんだ。食事や洗濯までしてくれるんで助かってるんだが、お給金を受け取ってくれなくてね」
嬉しそうにちょっと困った顔をする悠一郎に、お仙は軽く肘鉄砲を入れる。
「嫌だよ、全く。推しから金取るだなんてさ。あんたはあたしにとって歌舞伎役者と同じようなもんなんだから」
なるほど、役者の追っかけと同じ感覚らしい。しかも歌舞伎役者並みの男前だ。
「それに悠一郎さんが気持ちよく描いてくれないと、うちの商売上がったりだからねえ」
そう言ってお仙はワハハと笑った。見た目も太っ腹なら中身も太っ腹な、おおらかを絵に描いたような女性だ。
「悪いね、お茶を出しに来ただけなのに居座っちゃったよ。また来るね」
「お仙さんも一緒にどうだい。お嬢さんが万寿屋さんのお饅頭を買って来てくれたんだ。一緒に食べよう」
「いいのかい、なんだか悪いね」
ということで、結局お仙もその場に落ち着いた。
末広屋は先々代から続く扇屋で、お仙の亭主で三代目になるらしい。お仙の話によると、亭主は働き者なのはいいのだが、三度の飯より扇子が好きという変わり者らしい。夏扇や舞扇、茶席扇、蝙蝠扇などは普通に置いているが、誰も使わないような軍扇や鉄扇まで扱っている。この辺りはもう完全に主人の趣味の範囲らしい。実際誰も買って行かないので、飾り物になっている。
「悠介の持っている扇はこの末広屋さんで作って貰ったものなんだ。柚子の絵は個人的に思い入れがあったもんでね、茶席扇に仕立てて貰った。ちょっと小さめだろう? それは茶席で使う扇なんだ」
「茶席ですか。あたしはそんな洒落たものには縁がなくて」
「これからやるといい。おまえさんならすぐに覚えるよ」
「そうよ、悠介さん。大人の嗜みとしてやっておいた方がいいわ。子供のうちなら覚えるのも早いって、わたしも母上に教えられたもの」
確かに情報屋として佐倉の手足になって働くのなら、茶くらいは嗜んでおいた方がいいだろう。そういう席で情報を仕入れることもあるのだから。
それ以前に、扇にそんなにたくさんの種類があるのを知らなかったことを悠介は恥じた。今までそんなに扇のことなど真剣に話したことなどないし、他人の扇をわざわざ見せて貰うことも無かった。こういったことも教養の一つとして知っておくべきだろう。
「わたしもちょうど舞扇が欲しかったんです。末広屋さんに作っていただこうかしら」
「そういうことなら、悠一郎さんに絵を頼んでおきなよ。お嬢さんの好きな絵を描いてくれるよ」
悠一郎が笑顔で頷くのを見て、奈津は悠介に助けを求めた。
「ねえ、わたしの舞扇、どんなものがいいかしら」
「佐倉様ですから、桜の絵なんかどうです?」
奈津はその案がいたく気に入ったらしく、そのまま桜柄で悠一郎に注文を入れた。お仙は「毎度!」と言いつつ、「佐倉様のお嬢さんの扇なんて言ったらうちの宿六が腰抜かすわ」といって豪快に笑っていた。
その後、二人は悠一郎の描きかけの絵や、乾燥途中の絵などを見せて貰い、有意義な時間を過ごした。四人はすっかり打ち解け、また遊びに来ると約束して帰途に就いた。
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