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第二章 御奉公
第24話 転機2
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何日かして悠介はお内儀に呼ばれた。お内儀はいい人なのだが、普段あまり話をしないので呼ばれると未だに緊張してしまう。しかも今日はお内儀の部屋に呼ばれている。一体何を言われるのだろうかとドキドキしながら部屋の中に向けて声をかけた。
「お内儀さん、悠介です。お呼びでしょうか」
「入りなさい」
悠介がそろそろと唐紙を開けると、お内儀は今まで読んでいたのか、書物を文机に置いた。
普通の家にはお内儀にも部屋があるのだろうか。この家だけなのだろうか。奈津に一部屋あるくらいだからお内儀に一部屋あっても不思議ではない。
悠介には知る由もないが、お内儀の部屋は他の部屋と違って良い香りがする。これはお内儀が香を焚いているからだろう。大きな壺には鮮やかな薄紅色の百日紅が活けてあり、衣紋掛けには高麗納戸の小袖が掛けてある。佐倉の屋敷にありながら、ここだけ異空間のように感じられる。
悠介が唐紙を静かに閉め、そこに座して待っていると「こちらに来て座りなさい」と言われてしまった。
この人の前だと緊張してしまう理由の一つに、お内儀が無駄な話を一切しないということが挙げられる。用件だけを端的に述べ、それ以外はほとんど話をしないのだ。
以前、文箱をいただいた時も必要以上には話さなかった。そのお内儀が自分に用事があるという。
「耳の傷はどうです?」
「はい、お内儀さんの迅速な手当のお陰で、すっかり治りました。その節はありがとうございました」
悠介の礼を聞いているのかいないのか、お内儀は文机の抽斗から袱紗を出してきた。何事かと見ている悠介の前でその袱紗を開くと、美しい翡翠玉のついた耳飾りが出て来た。
「これをお前のために作らせたのです。出来上がったと言って持って来たので、さっそく使ってもらおうと思ってね」
袱紗の上には緑色に光る柔らかい石が厳かに鎮座していた。
「これ、翡翠じゃありませんか」
「そうです」
「これをあたしにですか?」
「そうです」
「下男のあたしに?」
あまり何度も聞くので、遂にお内儀はフッと笑った。
「これを使えるのは柏原ではお前だけです。お前が使わなかったら宝が持ち腐れてしまいますよ。つまみ細工の藤などを下げた花簪よりずっと華やかになるかもしれません。もう一つ珊瑚のものを作らせているので、着物に合わせて耳飾りを選べばもっと粋になるでしょう……おそらく、奈津より上手に使うでしょうね」
翡翠の柔らかい緑が目に優しく染み渡った。
「ありがとうございます。勿体ない」
「話は終わりです。さあ、仕事に戻りなさい」
悠介は畳に頭をつけると、耳飾りを大切に両手につつんで部屋を出た。
部屋に戻った悠介は、さっそく翡翠によく似合う着物を選んだ。今度徳兵衛さんのところへ行くときは、この鮮やかな金春色の小袖にしようか。いや、これでは翡翠が目立たない、石竹色だと主張し合うから駄目だ、いっそ濃藍の方が合うかもしれない……などと考えて、ふと、母を思い出した。
母は公私をきっちりと分ける人だった。仕事の時はとても美しく着飾っていたが、仕事のない日は非常に地味な女だった。その母の考え方は、少なからず悠介に影響を与えた。
柏華楼で働き始めた頃の悠介は、掃除や洗濯などの雑用の時は接ぎの当てられた古着を着ていたが、客の話し相手をする時は禿の女の子たちから譲り受けた女の子用の華やかな着物に袖を通していた。客の方も心得たもので、普段の古着の時は声をかけて来ない。そして悠介が華やかな着物を着ている時は声をかけてもいいと判断した。だから悠介が客と将棋や囲碁を指したりお話に付き合っている時はいつだって美しく着飾っていた。唯一簪がどうやってもつけられないのが難点だった。
母の仲間にお華という遊女がいた。華やかに着飾るのが大好きな女だったが、今一つ自分に似合うものがわかっていないようで少し浮いたところのある女だった。少し色黒だったので、黄檗色や裏葉柳などが似合いそうなのに、鮮やかな躑躅色や新橋色を好んだ。
母は色白で(悠介の色白は母の遺伝だろう)若苗色や撫子色を好んで着たが、いつもお華に「そんな安っぽい色」と言われていた。だが悠介は安っぽいかどうかより、その人に合った色かどうかの方が重要だった。この頃から彼の絵師としての感覚は磨かれていたのかもしれない。
そのお華は客の子を孕んでしまい、堕胎の際に何か失敗したらしく子供の産めない体になったようだが、それでも町一番の大店の若旦那に身請けされて柏華楼を出て行った。今頃は幸せに生きているのだろう。
悠介は子供ながらに『悠一郎』という名の自分の父親のことを、そのお華がずっと想い続けていることを知っていた。お華は母のいないところでよく悠介に言っていたものだ。
「あんたみたいなコブがついてたら、柚香も売れ残るだろうね。可哀想に。悠一郎が迎えに来るわけなんか無いのにね。遊ばれて捨てられたのに、ずっと信じて待ってるなんて、本当に可哀想」
お華が母を可哀想だなんて思っていないことくらい、子供の悠介にだってわかった。それと同時に、自分がいることで母が身請けされないのだということもわかってしまった。だから、母に身請けの話があったら、自分は独り立ちして母から離れようと心に決めていた。
それでも母は悠介がお華に嫌味を言われていることくらいお見通しだった。ある時母が言ったのだ。
「いいかい、誰にどんなことを言われても、相手を恨んだり憎んだりしてはいけないよ。それは相手と同じ土俵に立つという事だから。自分の思い通りに人生が進んで行かない人が他人に八つ当たりするんだよ。だから八つ当たりされたら、自分は羨ましがられるほどの幸せ者だと思えばいいんだよ」
それで悠介は悟ったのだ。母は悠介の知らないところでもっと酷いことを言われているんだ、それでも母は笑っているんだ、と。
悠介の人格は柏華楼で形成されたと言っても過言ではない。母はよく言っていた。中と外を区別しなさい、身内――柏華楼のお姉さんたちには思い切り甘え、禿の子たちは大切にし、お客様に対しては職人でありなさい。
佐倉は身内、それ以外は外の人だ。そしていずれここを出たら佐倉は外の人になる。甘えられなくなる日が来るということだ。その日のために、生きる知恵をつける勉強を佐倉はさせてくれている。
特にお内儀は厳しいように見えて一番悠介のことを考えてくれている。旦那様は甘やかしてくれるし、奈津は同志として見てくれる。居心地のいい家だがいずれ独り立ちしなければならない。
そういえば、独り立ちしたら奈津は自分の仕事の相棒にしたいと言ってくれたが、一体何をする気なのだろうか。
「お内儀さん、悠介です。お呼びでしょうか」
「入りなさい」
悠介がそろそろと唐紙を開けると、お内儀は今まで読んでいたのか、書物を文机に置いた。
普通の家にはお内儀にも部屋があるのだろうか。この家だけなのだろうか。奈津に一部屋あるくらいだからお内儀に一部屋あっても不思議ではない。
悠介には知る由もないが、お内儀の部屋は他の部屋と違って良い香りがする。これはお内儀が香を焚いているからだろう。大きな壺には鮮やかな薄紅色の百日紅が活けてあり、衣紋掛けには高麗納戸の小袖が掛けてある。佐倉の屋敷にありながら、ここだけ異空間のように感じられる。
悠介が唐紙を静かに閉め、そこに座して待っていると「こちらに来て座りなさい」と言われてしまった。
この人の前だと緊張してしまう理由の一つに、お内儀が無駄な話を一切しないということが挙げられる。用件だけを端的に述べ、それ以外はほとんど話をしないのだ。
以前、文箱をいただいた時も必要以上には話さなかった。そのお内儀が自分に用事があるという。
「耳の傷はどうです?」
「はい、お内儀さんの迅速な手当のお陰で、すっかり治りました。その節はありがとうございました」
悠介の礼を聞いているのかいないのか、お内儀は文机の抽斗から袱紗を出してきた。何事かと見ている悠介の前でその袱紗を開くと、美しい翡翠玉のついた耳飾りが出て来た。
「これをお前のために作らせたのです。出来上がったと言って持って来たので、さっそく使ってもらおうと思ってね」
袱紗の上には緑色に光る柔らかい石が厳かに鎮座していた。
「これ、翡翠じゃありませんか」
「そうです」
「これをあたしにですか?」
「そうです」
「下男のあたしに?」
あまり何度も聞くので、遂にお内儀はフッと笑った。
「これを使えるのは柏原ではお前だけです。お前が使わなかったら宝が持ち腐れてしまいますよ。つまみ細工の藤などを下げた花簪よりずっと華やかになるかもしれません。もう一つ珊瑚のものを作らせているので、着物に合わせて耳飾りを選べばもっと粋になるでしょう……おそらく、奈津より上手に使うでしょうね」
翡翠の柔らかい緑が目に優しく染み渡った。
「ありがとうございます。勿体ない」
「話は終わりです。さあ、仕事に戻りなさい」
悠介は畳に頭をつけると、耳飾りを大切に両手につつんで部屋を出た。
部屋に戻った悠介は、さっそく翡翠によく似合う着物を選んだ。今度徳兵衛さんのところへ行くときは、この鮮やかな金春色の小袖にしようか。いや、これでは翡翠が目立たない、石竹色だと主張し合うから駄目だ、いっそ濃藍の方が合うかもしれない……などと考えて、ふと、母を思い出した。
母は公私をきっちりと分ける人だった。仕事の時はとても美しく着飾っていたが、仕事のない日は非常に地味な女だった。その母の考え方は、少なからず悠介に影響を与えた。
柏華楼で働き始めた頃の悠介は、掃除や洗濯などの雑用の時は接ぎの当てられた古着を着ていたが、客の話し相手をする時は禿の女の子たちから譲り受けた女の子用の華やかな着物に袖を通していた。客の方も心得たもので、普段の古着の時は声をかけて来ない。そして悠介が華やかな着物を着ている時は声をかけてもいいと判断した。だから悠介が客と将棋や囲碁を指したりお話に付き合っている時はいつだって美しく着飾っていた。唯一簪がどうやってもつけられないのが難点だった。
母の仲間にお華という遊女がいた。華やかに着飾るのが大好きな女だったが、今一つ自分に似合うものがわかっていないようで少し浮いたところのある女だった。少し色黒だったので、黄檗色や裏葉柳などが似合いそうなのに、鮮やかな躑躅色や新橋色を好んだ。
母は色白で(悠介の色白は母の遺伝だろう)若苗色や撫子色を好んで着たが、いつもお華に「そんな安っぽい色」と言われていた。だが悠介は安っぽいかどうかより、その人に合った色かどうかの方が重要だった。この頃から彼の絵師としての感覚は磨かれていたのかもしれない。
そのお華は客の子を孕んでしまい、堕胎の際に何か失敗したらしく子供の産めない体になったようだが、それでも町一番の大店の若旦那に身請けされて柏華楼を出て行った。今頃は幸せに生きているのだろう。
悠介は子供ながらに『悠一郎』という名の自分の父親のことを、そのお華がずっと想い続けていることを知っていた。お華は母のいないところでよく悠介に言っていたものだ。
「あんたみたいなコブがついてたら、柚香も売れ残るだろうね。可哀想に。悠一郎が迎えに来るわけなんか無いのにね。遊ばれて捨てられたのに、ずっと信じて待ってるなんて、本当に可哀想」
お華が母を可哀想だなんて思っていないことくらい、子供の悠介にだってわかった。それと同時に、自分がいることで母が身請けされないのだということもわかってしまった。だから、母に身請けの話があったら、自分は独り立ちして母から離れようと心に決めていた。
それでも母は悠介がお華に嫌味を言われていることくらいお見通しだった。ある時母が言ったのだ。
「いいかい、誰にどんなことを言われても、相手を恨んだり憎んだりしてはいけないよ。それは相手と同じ土俵に立つという事だから。自分の思い通りに人生が進んで行かない人が他人に八つ当たりするんだよ。だから八つ当たりされたら、自分は羨ましがられるほどの幸せ者だと思えばいいんだよ」
それで悠介は悟ったのだ。母は悠介の知らないところでもっと酷いことを言われているんだ、それでも母は笑っているんだ、と。
悠介の人格は柏華楼で形成されたと言っても過言ではない。母はよく言っていた。中と外を区別しなさい、身内――柏華楼のお姉さんたちには思い切り甘え、禿の子たちは大切にし、お客様に対しては職人でありなさい。
佐倉は身内、それ以外は外の人だ。そしていずれここを出たら佐倉は外の人になる。甘えられなくなる日が来るということだ。その日のために、生きる知恵をつける勉強を佐倉はさせてくれている。
特にお内儀は厳しいように見えて一番悠介のことを考えてくれている。旦那様は甘やかしてくれるし、奈津は同志として見てくれる。居心地のいい家だがいずれ独り立ちしなければならない。
そういえば、独り立ちしたら奈津は自分の仕事の相棒にしたいと言ってくれたが、一体何をする気なのだろうか。
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