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第二章 御奉公
第18話 絵師1
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翌日、全員の朝食を下げて一人台所で味噌汁の残りとたくわんの尻尾で遅い朝食をとっていると、珍しくお内儀がやって来て悠介に声をかけた。悠介が佐倉の屋敷に仕えるようになってから奥様と話したことはほんの数回しかない。それだけに悠介は少し緊張した。
「これから奈津と二人で出かけてくるのでお留守番をお願いします。旦那様もお出かけですし、御隠居様を一人残して行くわけにもいきませんから。夕方に帰りますからわたくしと奈津の昼餉は準備しなくて結構です」
「かしこまりました。行ってらっしゃいませ」
近寄りがたい雰囲気はあるが、話してみるとそんなに悠介を敬遠しているわけでもなさそうだ。
それよりも留守番ということは今日は買い物に出かけられないということだ。少々予定が狂ったが、掃除や洗濯をする日にしてしまおう。せっかくなので、普段使わない納戸の中の掃除や庭の草むしりなども今日中にやってしまえばいい。
そう思っているところへ徳兵衛がやって来た。徳兵衛が御隠居様と将棋を差してくれれば自分が相手をしなくてもいいので、仕事が捗るというものだ。
徳兵衛が来た日は最高級のお茶を出す。相手はお茶の専門家である、お茶を出す時も少し緊張してしまう。だが、徳兵衛はいつも手放しで褒めてくれる。御隠居様も「徳兵衛のところで修業した甲斐があったな」と言ってくれる。どこまでそのまま受け取っていいのか少々悩むところだが、ここは素直にお礼を言っておくに限る。子供のうちは褒められたら素直に「ありがとう」と言いなさいと柚香からいつも言われていたのだ。
御隠居様を徳兵衛に任せ、悠介はここぞとばかりに家の仕事を精力的にやっつけた。二人の将棋が随分と盛り上がっていたようなので、悠介は徳兵衛の分も昼餉を作った。茄子と菜っ葉の煮びたしと、豆腐の味噌汁、瓜の漬け物しかないが、徳兵衛は「これを悠介が一人で作ったのか」と褒めてくれた。柏華楼で作ったものばかりだった。
夕方近くになり、洗濯物を取り込んでいるときに徳兵衛が出て行き、入れ替わりで奈津とお内儀さんが帰って来た。
「お帰りなさいまし」
「はい、今日買い物に行けなかったでしょう? お菜屋さんで少し煮物を買ってきたの。あと油揚げと菜っ葉」
奈津が解いた風呂敷の中から色々出してくる。
「ありがとうございます。実は買い物に行けなくて困っていたんですよ」
「そうだと思ったわ。聞いて聞いて、あのね、今日母上とお芝居を見に行ってきたの。お昼は幕の内を食べたのよ。悠介さんにも食べさせてあげたかったわ」
「あたしはそんな贅沢なものは食べつけませんから、お腹がびっくりしちまいますよ」
「それより母上、早くあれを」
奈津に急かされ、お内儀さんが自分の持っている風呂敷包みを開いた。首を傾げる悠介の目の前に現れたのは、美しい蒔絵を施した文箱と硯箱だった。二つはお揃いで、硯箱の方には三本ほど太さを変えて筆が揃っていた。
悠介はその美しさにぼんやりと見とれてしまったが、ふと文箱の隅に描かれた柚子の絵に目が行った。
実際には同時に木に付くことはないのだが、その柚子の枝には実と花が両方描かれていた。
――そうか、絵は必ずしも見たままでなくてもいいんだ――。
「どうです、気に入りましたか」
お内儀さんの声にハッと我に返った悠介は、彼女を見て大きく頷いた。
「この蒔絵、柚子の花と実が一度についています。花の時期と実の時期は違うのに、こうして一つの絵の中で同じ枝についている。今のあたしと大人になったあたしを見ているようです。この枝はきっとこの家だ。この木にやって来る蝶や鳥は徳兵衛さんのような人や野良猫のにゃべでしょう。そういう、いろいろなものや人に囲まれて、この柚子の花は大きな実になる……あ、すみません。あまりにも良い品だったので、つい自分に重ねてしまいました」
お内儀さんが微笑んだ。滅多に悠介に見せない笑顔だった。
「気に入ったのですね」
「ええ、とても。ところでこの文箱どうしたんです?」
奈津が割り込んだ。
「これはね、悠介さんにお土産なの。二人で選んだのよ」
「えっ? とんでもない! こんな高価なものいただけません」
「徳兵衛さんの為だと言ったらどうします?」
悠介は一瞬意味が分からず黙り込んだ。
「お前は徳兵衛さんから仕事を受けたのでしょう? 描いた絵をどうやって保管するつもりだったのです? 絵を描いた紙はもう商品なのですよ。それを汚さないように入れておくものが必要です」
「それで文箱」
「そうです。仕事なのですからお前もちゃんとした仕事道具が必要でしょう。佐倉に来て最初の仕事なのですから、わたくしからお祝いとして仕事道具を贈っても罪にはならないでしょう。筆は次回からはお前の好みのものを買い求めなさい。お前はこんなところで終わるような人間ではありません。きっと絵師として大成するでしょう」
お内儀の言葉に悠介は鼻の奥がツンとするのを感じた。
「お内儀さん……ありがとうございます。今のお内儀さんの言葉が何よりの励みです。ありがたく頂戴いたします」
この時はっきりと、悠介の中で将来の目標ができた。立派な絵師になって佐倉家に恩返しをするのだ、と。
夜、行燈の灯りで絵を描いていると、庭で猫の鳴き声がする。にゃべだ。悠介は縁側に出てにゃべを抱いた。
「にゃべ、あたしはどうしたらいいんだろうねぇ。昼間は感激しちまってさ。立派な絵師になって佐倉様に恩返しをするんだって思ったけど、絵師なんかで恩返しなんかできやしないよ。何をしたら恩返しができるんだろうねぇ」
「これから奈津と二人で出かけてくるのでお留守番をお願いします。旦那様もお出かけですし、御隠居様を一人残して行くわけにもいきませんから。夕方に帰りますからわたくしと奈津の昼餉は準備しなくて結構です」
「かしこまりました。行ってらっしゃいませ」
近寄りがたい雰囲気はあるが、話してみるとそんなに悠介を敬遠しているわけでもなさそうだ。
それよりも留守番ということは今日は買い物に出かけられないということだ。少々予定が狂ったが、掃除や洗濯をする日にしてしまおう。せっかくなので、普段使わない納戸の中の掃除や庭の草むしりなども今日中にやってしまえばいい。
そう思っているところへ徳兵衛がやって来た。徳兵衛が御隠居様と将棋を差してくれれば自分が相手をしなくてもいいので、仕事が捗るというものだ。
徳兵衛が来た日は最高級のお茶を出す。相手はお茶の専門家である、お茶を出す時も少し緊張してしまう。だが、徳兵衛はいつも手放しで褒めてくれる。御隠居様も「徳兵衛のところで修業した甲斐があったな」と言ってくれる。どこまでそのまま受け取っていいのか少々悩むところだが、ここは素直にお礼を言っておくに限る。子供のうちは褒められたら素直に「ありがとう」と言いなさいと柚香からいつも言われていたのだ。
御隠居様を徳兵衛に任せ、悠介はここぞとばかりに家の仕事を精力的にやっつけた。二人の将棋が随分と盛り上がっていたようなので、悠介は徳兵衛の分も昼餉を作った。茄子と菜っ葉の煮びたしと、豆腐の味噌汁、瓜の漬け物しかないが、徳兵衛は「これを悠介が一人で作ったのか」と褒めてくれた。柏華楼で作ったものばかりだった。
夕方近くになり、洗濯物を取り込んでいるときに徳兵衛が出て行き、入れ替わりで奈津とお内儀さんが帰って来た。
「お帰りなさいまし」
「はい、今日買い物に行けなかったでしょう? お菜屋さんで少し煮物を買ってきたの。あと油揚げと菜っ葉」
奈津が解いた風呂敷の中から色々出してくる。
「ありがとうございます。実は買い物に行けなくて困っていたんですよ」
「そうだと思ったわ。聞いて聞いて、あのね、今日母上とお芝居を見に行ってきたの。お昼は幕の内を食べたのよ。悠介さんにも食べさせてあげたかったわ」
「あたしはそんな贅沢なものは食べつけませんから、お腹がびっくりしちまいますよ」
「それより母上、早くあれを」
奈津に急かされ、お内儀さんが自分の持っている風呂敷包みを開いた。首を傾げる悠介の目の前に現れたのは、美しい蒔絵を施した文箱と硯箱だった。二つはお揃いで、硯箱の方には三本ほど太さを変えて筆が揃っていた。
悠介はその美しさにぼんやりと見とれてしまったが、ふと文箱の隅に描かれた柚子の絵に目が行った。
実際には同時に木に付くことはないのだが、その柚子の枝には実と花が両方描かれていた。
――そうか、絵は必ずしも見たままでなくてもいいんだ――。
「どうです、気に入りましたか」
お内儀さんの声にハッと我に返った悠介は、彼女を見て大きく頷いた。
「この蒔絵、柚子の花と実が一度についています。花の時期と実の時期は違うのに、こうして一つの絵の中で同じ枝についている。今のあたしと大人になったあたしを見ているようです。この枝はきっとこの家だ。この木にやって来る蝶や鳥は徳兵衛さんのような人や野良猫のにゃべでしょう。そういう、いろいろなものや人に囲まれて、この柚子の花は大きな実になる……あ、すみません。あまりにも良い品だったので、つい自分に重ねてしまいました」
お内儀さんが微笑んだ。滅多に悠介に見せない笑顔だった。
「気に入ったのですね」
「ええ、とても。ところでこの文箱どうしたんです?」
奈津が割り込んだ。
「これはね、悠介さんにお土産なの。二人で選んだのよ」
「えっ? とんでもない! こんな高価なものいただけません」
「徳兵衛さんの為だと言ったらどうします?」
悠介は一瞬意味が分からず黙り込んだ。
「お前は徳兵衛さんから仕事を受けたのでしょう? 描いた絵をどうやって保管するつもりだったのです? 絵を描いた紙はもう商品なのですよ。それを汚さないように入れておくものが必要です」
「それで文箱」
「そうです。仕事なのですからお前もちゃんとした仕事道具が必要でしょう。佐倉に来て最初の仕事なのですから、わたくしからお祝いとして仕事道具を贈っても罪にはならないでしょう。筆は次回からはお前の好みのものを買い求めなさい。お前はこんなところで終わるような人間ではありません。きっと絵師として大成するでしょう」
お内儀の言葉に悠介は鼻の奥がツンとするのを感じた。
「お内儀さん……ありがとうございます。今のお内儀さんの言葉が何よりの励みです。ありがたく頂戴いたします」
この時はっきりと、悠介の中で将来の目標ができた。立派な絵師になって佐倉家に恩返しをするのだ、と。
夜、行燈の灯りで絵を描いていると、庭で猫の鳴き声がする。にゃべだ。悠介は縁側に出てにゃべを抱いた。
「にゃべ、あたしはどうしたらいいんだろうねぇ。昼間は感激しちまってさ。立派な絵師になって佐倉様に恩返しをするんだって思ったけど、絵師なんかで恩返しなんかできやしないよ。何をしたら恩返しができるんだろうねぇ」
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