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第二章 御奉公
第17話 徳兵衛4
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奈津の稽古は十日にいっぺんなのであっという間にその日が来てしまう。奈津が白里師匠のところへ行っている間、悠介は徳屋へ顔を出した。徳兵衛はまだかまだかと待っていたらしく、奥の座敷へ上がるように言った。
悠介が恐縮しながら座敷へ上がると、丁稚がお茶を持って来た。
「さっそくだが、このお茶を飲んでみては貰えんかね。どの銘柄か当ててくれ」
徳屋のお茶は全部飲んだことがある。飲んだ時の感覚でそのお茶に花の名前を付けて来たのだ。だからと言って当てられるかと言えばそれは別問題である。
「いただきます」
湯飲みを口元に持って来た時にふわりと漂う茶の香り。苦みが甘みにつつまれたような味。後を引く残り香。
「これは金木犀にしましょう。今まで飲んでいない新しいお茶ですね」
徳兵衛はてのひらでおでこをパチンと叩いた。
「いやあ、悠介は本当に凄いね。そう、これはまだ悠介が飲んだことのない新しいお茶だよ。もう佐倉の旦那のとこ辞めてウチに来ないか?」
「いえいえ、佐倉様には大変お世話になっていますし、家の中の仕事が好きなんです。絵を描くのはその合間にもできますし」
「すまんすまん、冗談だよ。悠介を引き抜いたなんてことになったら佐倉にどやしつけられるからな」
笑いながらも、悠介は描いて来た絵を出して徳兵衛の前に並べた。
「桜、水仙、撫子、吾亦紅、雪柳、椿、百日紅、菊、石竹、沈丁花。いままであたしがお茶につけた名前の花を描いて来ました。どうでしょうか」
徳兵衛は「素晴らしい」と連呼し、これを仕事として引き受けて欲しいと言い出した。
「とんでもありません。描くのはあたしの修行です。描かせていただけるだけでもありがたいのに、お世話になっている徳兵衛さんからお金をいただくわけには参りません」
「悠介、それは違うぞ。お前は柏華楼にいたとき、仕事としてお金を貰うようになってから何か変わったか?」
「それはもちろん、お給金をいただくわけですから、その分しっかり働かなければならないし、責任も生まれます……あ、そういうことですか」
「そうだ。責任を持って徳屋の絵を描いて貰いたい。どうだ、できるか?」
「それはもちろん。ですが旦那様の許可をいただかなくては」
徳兵衛はのけぞって笑った。
「そんなものは大丈夫だ。佐倉の隠居からとっくに許可は貰ってある。では決まりだな。次に師匠のところへ来るときに、なるべくたくさん描いて来てくれるかい? 一月でどれくらい描けそうかね?」
「一日十枚で三百枚くらいでしょうか。もうちょっと頑張って月に四百枚くらいならいけると思います」
「そうだな、棟割長屋の家賃が九尺二間で四百文だから二カ月頑張って長屋に一カ月住めるくらいでどうだろう。二枚で一文だ」
「そ、そんなにいただけません!」
「じゃ、決まりだな」
「せめて、そのお金はあたしを養ってくだすってる旦那様にお支払いくださいまし。あたしは旦那様のお陰で毎日お風呂に入ることができます。その辺の下男とは扱いが違うのです」
「わかった、給金は佐倉の若旦那に支払おう」
徳兵衛は紙を千枚と、売り上げ記録の写しを持って来た。
「これを見るとわかるんだが、売れ筋のものはたくさん描いて貰うようにしたい。悠介の方でこの売り上げ記録を見て、どの絵を何枚描くか決めてくれ。毎月〆日を過ぎたら売り上げ記録を渡すから、後は頼んだ」
悠介は徳兵衛に丁重に礼を言って徳屋を出た。白里師匠のところへ行くと「待ちくたびれたわ」とお奈津に言われてしまった。
佐倉の屋敷に戻った悠介は、まず最初に御隠居様に報告すべきだと思った。この仕事は彼のお陰で得たようなものだから。
悠介の報告に御隠居様は飛び上がらんばかりに喜んだ。病が治ってしまったのではないかと思うくらいだった。実際、悠介が来てからの御隠居様は日に日に顔に血色が戻って来ていた。恐らく徳兵衛の訪問効果も手伝っているのだろう。散歩に誘えば案外椎ノ木川くらいまでなら歩けるんじゃないかと思うほどだった。
旦那様にも報告しなくては、と悠介が佐倉のもとへ赴いた時には、既に奈津が父に報告を済ませた後だった。佐倉は悠介の顔を見るなり「絵師の仕事を貰ったそうじゃないか、頑張るのだぞ」と激励してくれた。
「もちろん下男の仕事は手を抜いたり致しませんから」と言う悠介に「手抜きができるほど器用な人間ではないことくらい私が一番よく知っておる」と返されてしまった。悠介は境遇には恵まれなかったが、良い人達に恵まれたようである。
悠介が恐縮しながら座敷へ上がると、丁稚がお茶を持って来た。
「さっそくだが、このお茶を飲んでみては貰えんかね。どの銘柄か当ててくれ」
徳屋のお茶は全部飲んだことがある。飲んだ時の感覚でそのお茶に花の名前を付けて来たのだ。だからと言って当てられるかと言えばそれは別問題である。
「いただきます」
湯飲みを口元に持って来た時にふわりと漂う茶の香り。苦みが甘みにつつまれたような味。後を引く残り香。
「これは金木犀にしましょう。今まで飲んでいない新しいお茶ですね」
徳兵衛はてのひらでおでこをパチンと叩いた。
「いやあ、悠介は本当に凄いね。そう、これはまだ悠介が飲んだことのない新しいお茶だよ。もう佐倉の旦那のとこ辞めてウチに来ないか?」
「いえいえ、佐倉様には大変お世話になっていますし、家の中の仕事が好きなんです。絵を描くのはその合間にもできますし」
「すまんすまん、冗談だよ。悠介を引き抜いたなんてことになったら佐倉にどやしつけられるからな」
笑いながらも、悠介は描いて来た絵を出して徳兵衛の前に並べた。
「桜、水仙、撫子、吾亦紅、雪柳、椿、百日紅、菊、石竹、沈丁花。いままであたしがお茶につけた名前の花を描いて来ました。どうでしょうか」
徳兵衛は「素晴らしい」と連呼し、これを仕事として引き受けて欲しいと言い出した。
「とんでもありません。描くのはあたしの修行です。描かせていただけるだけでもありがたいのに、お世話になっている徳兵衛さんからお金をいただくわけには参りません」
「悠介、それは違うぞ。お前は柏華楼にいたとき、仕事としてお金を貰うようになってから何か変わったか?」
「それはもちろん、お給金をいただくわけですから、その分しっかり働かなければならないし、責任も生まれます……あ、そういうことですか」
「そうだ。責任を持って徳屋の絵を描いて貰いたい。どうだ、できるか?」
「それはもちろん。ですが旦那様の許可をいただかなくては」
徳兵衛はのけぞって笑った。
「そんなものは大丈夫だ。佐倉の隠居からとっくに許可は貰ってある。では決まりだな。次に師匠のところへ来るときに、なるべくたくさん描いて来てくれるかい? 一月でどれくらい描けそうかね?」
「一日十枚で三百枚くらいでしょうか。もうちょっと頑張って月に四百枚くらいならいけると思います」
「そうだな、棟割長屋の家賃が九尺二間で四百文だから二カ月頑張って長屋に一カ月住めるくらいでどうだろう。二枚で一文だ」
「そ、そんなにいただけません!」
「じゃ、決まりだな」
「せめて、そのお金はあたしを養ってくだすってる旦那様にお支払いくださいまし。あたしは旦那様のお陰で毎日お風呂に入ることができます。その辺の下男とは扱いが違うのです」
「わかった、給金は佐倉の若旦那に支払おう」
徳兵衛は紙を千枚と、売り上げ記録の写しを持って来た。
「これを見るとわかるんだが、売れ筋のものはたくさん描いて貰うようにしたい。悠介の方でこの売り上げ記録を見て、どの絵を何枚描くか決めてくれ。毎月〆日を過ぎたら売り上げ記録を渡すから、後は頼んだ」
悠介は徳兵衛に丁重に礼を言って徳屋を出た。白里師匠のところへ行くと「待ちくたびれたわ」とお奈津に言われてしまった。
佐倉の屋敷に戻った悠介は、まず最初に御隠居様に報告すべきだと思った。この仕事は彼のお陰で得たようなものだから。
悠介の報告に御隠居様は飛び上がらんばかりに喜んだ。病が治ってしまったのではないかと思うくらいだった。実際、悠介が来てからの御隠居様は日に日に顔に血色が戻って来ていた。恐らく徳兵衛の訪問効果も手伝っているのだろう。散歩に誘えば案外椎ノ木川くらいまでなら歩けるんじゃないかと思うほどだった。
旦那様にも報告しなくては、と悠介が佐倉のもとへ赴いた時には、既に奈津が父に報告を済ませた後だった。佐倉は悠介の顔を見るなり「絵師の仕事を貰ったそうじゃないか、頑張るのだぞ」と激励してくれた。
「もちろん下男の仕事は手を抜いたり致しませんから」と言う悠介に「手抜きができるほど器用な人間ではないことくらい私が一番よく知っておる」と返されてしまった。悠介は境遇には恵まれなかったが、良い人達に恵まれたようである。
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