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第二章 御奉公
第8話 佐倉様1
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佐倉様は三十になるかならないかといった年齢で、体格の良い筋肉質な男だった。この辺で『大名主の佐倉様』と言えば奈津の祖父のことだが、祖父は少し前に隠居生活になったようだ。佐倉家は代々名主を引き継いでいるので、今は悠介の目の前に座る精悍な男が『大名主の佐倉様』であるらしい。
「お初にお目にかかります。悠介と申します」
悠介は柏華楼で客に対してそうしていたように畳に指をそろえて頭を下げた。
「佐倉だ。顔を見せなさい」
悠介が顔を上げて背中を伸ばすと、正面に座した男が僅かにほほ笑んだ。
奈津によく似ている。顔かたちは似ていないが、その佇まいや瞳の奥に光るものがそっくりだった。
「何か相談があるとか」
悠介はこれまでのことを順に話した。母が柏華楼の女郎だったこと。母と客の間にできたのが自分であり、母は頑なに産むと言い張ったこと。自分は女郎たちの手で育てられたこと。客の相手や店の雑用をして生きて来たこと。今日初めて廓の外に出たこと。町でお芳に会って、佐倉様に相談するように言われたこと。
そしてなぜここに奈津がいるのか問われ、猫に扇子を奪われ、追って来たら裏の竹林からこの庭に入ってしまい、奈津が扇子を取り返してくれたことを話した。
「わたし、この悠介さんと友達になったのです。ですから友達の生活がこの先どうなるのか、心配でこうしてついて参りました。それにわたしは父上のお役目を心から尊敬しています。私も父上のように正義の人でありたい。ですからこの件を父上がどのように捌くのか、勉強しとうございます」
――聡い――悠介は思った。こんなふうに娘に言われれば、悪いようにはできないに決まっている。彼女は大人の操り方をよくわかっている。この娘はただの箱入りのお嬢様なんかじゃない。
江戸のような大きな町はどうか知らないが、柏原のような辺鄙な町では大名主の権力は大きい。もともと住民同士で解決していたさまざまな揉め事を一手に引き受けている。大きな町で言うところのお奉行様のような仕事をしているのだ。その代わり、名主は品行方正であることが求められる。この家はそれを忠実に守ているような雰囲気がこの父娘から漂っている。
「そうか。それでは彼が我が愛娘の友人だからと言って、そうではない者と差をつけることが私には無いというのも承知しているのだな」
なるほど親の方が一枚上手だ。この親にしてこの子ありと言ったところか。だが自分はどうなのだろうか。悠介はふと母を想った。
ほとんど仕事しているか寝ているかだった母。廓で一番人気だった女郎は菊枝といい、それはそれは美しく色気のある人だったが、母は言うほどの美人でもなく、さほど色気があったわけでもなかったように思う。それでも母は二番人気だった。
母は賢かったのだ。元は大店のお嬢さんで一通りの教養と芸事を叩きこまれていた。ある強風の日、ご近所が火事に見舞われ、風下だったお店が貰い火で全焼してしまった。あっという間に食うや食わぬの生活となり、当時十四歳だった母は柏華楼に身を投じたのだ。
だから柏華楼に於いて教養の高さは圧倒的で他を寄せ付けず、学のある御隠居や大旦那様たちに好まれたのだ。
そしてその親を見て育った悠介は、母の馴染み客からいろいろと教えられ、柏華楼の中に居ながらにして高い教養を持つことができたのだ。廓で算術ができたのは楼主の他には悠介だけだっただろう。
「もちろんでございます」
奈津の声で悠介は我に返った。
「わたしは口を出す気はございません。こちらで勉強させていただくだけです」
奈津は強気の視線で父をまっすぐに見ていた。
父か。自分は父を見たことが無い。だがいつも父を手にしているという自覚がある。だからこそここへ来た。
「今、何を思った?」
唐突に佐倉に言われ、悠介は面くらった。
「何を、とは?」
「今考えていたことをそのまま口にすれば良い。難しく考えずに」
奈津も悠介の方へ首を回した。桜色の小紋の襟から細長い首がすっと伸びていて美しいと感じた。
「父親と話ができるのはいいな、と」
佐倉は知らぬ間に組んでいた腕をゆっくりとほどいて、拳を腿の上に置いた。
「不躾な質問を許していただきたい。そなたの父上はどうされている
「はい、父は悠一郎という絵師で母のところへ通っておりましたが、何か大怪我をしたとかでお店に来られなくなりました。その後いらしたようなのですが、母があたしを身籠ってお店に出なくなってしまったので会えずじまいで。あたしは父には会ったことはございませんが、元気でやっているようだということは人伝に聞いております」
「ほう、人伝に。廓から出たことがないのにどうやって?」
厭味や揚げ足取りではなさそうだ。単純に疑問に思ったらしい。
「あたしが御隠居様とお呼びしていたお客様がいらしたんです。その方があたしの生い立ちに興味を持ってくださいまして。悠一郎が絵を入れた扇子を買い求めて、あたしにくだすったんです。それがこの柚子の絵でして」
悠介は扇子を広げて見せた。
「ここに悠一郎の署名と落款が捺してあります。この扇子は父と母とあたしを結ぶものなんです。この先ずっと父には会いに行くことはないと決めておりますが、これがあたしの心の支えになってるんです」
「そんな宝物をさっき猫にとられたのですね」
口を挟んでから、奈津は「あっ、申し訳ありません父上」と両手で口元を押さえた。
「お初にお目にかかります。悠介と申します」
悠介は柏華楼で客に対してそうしていたように畳に指をそろえて頭を下げた。
「佐倉だ。顔を見せなさい」
悠介が顔を上げて背中を伸ばすと、正面に座した男が僅かにほほ笑んだ。
奈津によく似ている。顔かたちは似ていないが、その佇まいや瞳の奥に光るものがそっくりだった。
「何か相談があるとか」
悠介はこれまでのことを順に話した。母が柏華楼の女郎だったこと。母と客の間にできたのが自分であり、母は頑なに産むと言い張ったこと。自分は女郎たちの手で育てられたこと。客の相手や店の雑用をして生きて来たこと。今日初めて廓の外に出たこと。町でお芳に会って、佐倉様に相談するように言われたこと。
そしてなぜここに奈津がいるのか問われ、猫に扇子を奪われ、追って来たら裏の竹林からこの庭に入ってしまい、奈津が扇子を取り返してくれたことを話した。
「わたし、この悠介さんと友達になったのです。ですから友達の生活がこの先どうなるのか、心配でこうしてついて参りました。それにわたしは父上のお役目を心から尊敬しています。私も父上のように正義の人でありたい。ですからこの件を父上がどのように捌くのか、勉強しとうございます」
――聡い――悠介は思った。こんなふうに娘に言われれば、悪いようにはできないに決まっている。彼女は大人の操り方をよくわかっている。この娘はただの箱入りのお嬢様なんかじゃない。
江戸のような大きな町はどうか知らないが、柏原のような辺鄙な町では大名主の権力は大きい。もともと住民同士で解決していたさまざまな揉め事を一手に引き受けている。大きな町で言うところのお奉行様のような仕事をしているのだ。その代わり、名主は品行方正であることが求められる。この家はそれを忠実に守ているような雰囲気がこの父娘から漂っている。
「そうか。それでは彼が我が愛娘の友人だからと言って、そうではない者と差をつけることが私には無いというのも承知しているのだな」
なるほど親の方が一枚上手だ。この親にしてこの子ありと言ったところか。だが自分はどうなのだろうか。悠介はふと母を想った。
ほとんど仕事しているか寝ているかだった母。廓で一番人気だった女郎は菊枝といい、それはそれは美しく色気のある人だったが、母は言うほどの美人でもなく、さほど色気があったわけでもなかったように思う。それでも母は二番人気だった。
母は賢かったのだ。元は大店のお嬢さんで一通りの教養と芸事を叩きこまれていた。ある強風の日、ご近所が火事に見舞われ、風下だったお店が貰い火で全焼してしまった。あっという間に食うや食わぬの生活となり、当時十四歳だった母は柏華楼に身を投じたのだ。
だから柏華楼に於いて教養の高さは圧倒的で他を寄せ付けず、学のある御隠居や大旦那様たちに好まれたのだ。
そしてその親を見て育った悠介は、母の馴染み客からいろいろと教えられ、柏華楼の中に居ながらにして高い教養を持つことができたのだ。廓で算術ができたのは楼主の他には悠介だけだっただろう。
「もちろんでございます」
奈津の声で悠介は我に返った。
「わたしは口を出す気はございません。こちらで勉強させていただくだけです」
奈津は強気の視線で父をまっすぐに見ていた。
父か。自分は父を見たことが無い。だがいつも父を手にしているという自覚がある。だからこそここへ来た。
「今、何を思った?」
唐突に佐倉に言われ、悠介は面くらった。
「何を、とは?」
「今考えていたことをそのまま口にすれば良い。難しく考えずに」
奈津も悠介の方へ首を回した。桜色の小紋の襟から細長い首がすっと伸びていて美しいと感じた。
「父親と話ができるのはいいな、と」
佐倉は知らぬ間に組んでいた腕をゆっくりとほどいて、拳を腿の上に置いた。
「不躾な質問を許していただきたい。そなたの父上はどうされている
「はい、父は悠一郎という絵師で母のところへ通っておりましたが、何か大怪我をしたとかでお店に来られなくなりました。その後いらしたようなのですが、母があたしを身籠ってお店に出なくなってしまったので会えずじまいで。あたしは父には会ったことはございませんが、元気でやっているようだということは人伝に聞いております」
「ほう、人伝に。廓から出たことがないのにどうやって?」
厭味や揚げ足取りではなさそうだ。単純に疑問に思ったらしい。
「あたしが御隠居様とお呼びしていたお客様がいらしたんです。その方があたしの生い立ちに興味を持ってくださいまして。悠一郎が絵を入れた扇子を買い求めて、あたしにくだすったんです。それがこの柚子の絵でして」
悠介は扇子を広げて見せた。
「ここに悠一郎の署名と落款が捺してあります。この扇子は父と母とあたしを結ぶものなんです。この先ずっと父には会いに行くことはないと決めておりますが、これがあたしの心の支えになってるんです」
「そんな宝物をさっき猫にとられたのですね」
口を挟んでから、奈津は「あっ、申し訳ありません父上」と両手で口元を押さえた。
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