上 下
32 / 45

第32話 柏原の異変8

しおりを挟む
 佐平治が決行を凍夜に通達してきたのは、それから数日後だった。
「準備が整ったからな」
「準備って何をするんだ?」
「家の間取りを確認したり、誰がどの部屋を使っているか把握したり、火をつけるなら油も調達しなきゃならねえし、どこに火をつけて自分はどこから脱出するか考えておかねえとな」
「で、実際どうするんだ」
 凍夜にとっても死活問題である。凍夜だって脱出し損ねたら死が待っているのだ。
「まずお店の方に油を撒いて火をつける。それからすぐにおいらは旦那とお内儀を片付ける。鬼火はお店に火が点いたらすぐに子供たちを避難させろ。裏口から出るんだ。子供たちを無事に逃がしたら、おめえは闇に紛れてここへ戻って来い。絶対に誰かに見られたり後を尾けられることのないようにな。
 それから何度も見取り図を見て頭に叩き込んだ。茂助も孫六も「鬼火にちょうどいい仕事だ」と請け合ってくれた。凍夜は落ち着かない気分のまま夜を待った。
 夜九ツころに佐平治が呼びに来た。佐平治の編む草履は全く足音を立てない。その上、佐平次は気配を消すのだ。背後に立たれても気付けない。
 凍夜は裏口から忍び込み、佐平次は表店の方へと回った。あとは佐平治が火をつけるのを待つだけだ。
 物陰に隠れ、静かに息を殺しているだけなのに、心の臓が高鳴った。
 火が見えた。佐平治が火を放ったのだろう。だがまだだ、まだ早い。
 影が動いて行くのが見えた。あの影は佐平治だ。物音がして再び凍夜の視界に入った佐平治が合図を送って来る。主人とお内儀を仕留めたということだ。まだだ。動くには早い。
 佐平治が女中の部屋と子供たちの部屋の間に火を放つ。これで女中は子供たちを助けることができず、一人で逃げることになる。今だ。
 そう思った瞬間、子供たちの部屋の唐紙がスパーンと開いた。出端を挫かれた凍夜は、子供の前に出損ねてしまった。
「おきよ! 火事だ、起きろ!」
 凍夜と同い年くらいの男の子だ。傍らには寝ぼけ眼の女の子がいて、男の子の寝巻の帯を掴んでいる。
「父上! 母上!」
 兄の切羽詰まった声に驚いた妹が泣き出す。女中の声がそこに重なる。
「旦那様! 旦那様! 坊っちゃん、ご無事ですか、坊っちゃん!」
「うわあああああん、兄上ぇえええ、怖いよぉ」
 表店が激しく燃え、屋根が真っ赤に染まる。それでも主人とお内儀の声は聞こえてこない。やはり佐平治が良い仕事をしたのだ。
 凍夜は兄妹の前に飛び出した。
「こっちだ!」
「父上は?」
「諦めろ、あっちはもう無理だ」
「ダメだ、私は父上を見殺しにはできない」
「時間がない」
「私は父を探しに……」
 そこで凍夜は兄の頬をひっぱたいた。
「妹まで見殺しにする気か。あっちはもう無理だと言っただろう、今はこの子を守ってやれ」
 兄は呆然と凍夜を見たが、それも一瞬だった。すぐに泣き喚く妹を負ぶった。
 屋敷の外に出ると、女中らしき女が「坊っちゃん、ご無事で!」と駆け寄って来た。近所の人達や火消しの連中が集まってくる中、凍夜は人混みに紛れて静かに姿を消した。
 団子屋に戻ると、既に佐平治が井戸の水で足を洗っていた。
「どうだ、うまいこと二人を逃がしたか」
「うん」
「よし、初仕事にしちゃ上等だ。今日はもう寝ろ」
 そう言って佐平次は自分の小屋に戻って行った。凍夜も煤で汚れた手足を洗って自分の布団に潜ったが、あの子供たちが今晩寝る布団が無いのだと思うとなかなか寝付けなかった。

 翌朝の凍夜は、前の晩になかなか寝付けなかったせいか寝過ごしてしのぶに起こされた。
 もう朝餉ができているという。「早く来ないと食いっぱぐれるよ」と急かされた。
 顔を洗って朝餉に顔を出すと、いつもと違う食事が出ていた。いつもは野草や野菜くずの入った薄い味噌汁なのだが、今朝はひえ零余子むかごの粥だ。そこに野菜くずが入っている。鍋にいっぱいに作ってあり、おかわりできるらしい。
「どうしたの、これ」
「仕事が上手く行った時は、こうして稗と零余子のお粥を作るの。今回は佐平治さんと鬼火のお手柄。それなのに鬼火ったら起きて来ないんだもん」
「お手柄か……」
 凍夜が俯くと、佐平次が「あの子たちのことが気になって眠れなかったか」と言った。図星だった。ここの人達は何でもお見通しだ。
「鬼火。よく聞け」
 茂助が口を開いた。
「どんな悪党でも必ず家族がいる。大切な人がいる。おめえに両親がいたように、おめえの仇にも大事な人はいる。おめえが敵討ちをすりゃあ、その大事な人は残されるんだ」
 それだけ言うと茂助はまた粥を食べ始めた。
「あたしたちはそれを呑み込んで、一人前の殺し屋になるの。それができそうにないなら、鬼火は今のうちに足を洗った方がいいよ。あんた優しいからどうしても残された人の気持ちを考えちまうんでしょ。でもそれは殺し屋には命とりさ」
 そのあとは今日これから街に売りに行く草履の話に変わり、凍夜だけが一人取り残されたように松清堂の二人の子供のことを考えていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

陸のくじら侍 -元禄の竜-

陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた…… 

腐れ外道の城

詠野ごりら
歴史・時代
戦国時代初期、険しい山脈に囲まれた国。樋野(ひの)でも狭い土地をめぐって争いがはじまっていた。 黒田三郎兵衛は反乱者、井藤十兵衛の鎮圧に向かっていた。

豊家軽業夜話

黒坂 わかな
歴史・時代
猿楽小屋や市で賑わう京の寺院にて、軽業師の竹早は日の本一の技を見せる。そこに、参詣に訪れていた豊臣秀吉の側室・松の丸殿が通りがかり、竹早は伏見城へ行くことに。やがて竹早は秀頼と出会い…。

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

江戸の夕映え

大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。 「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三) そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。 同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。 しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。

女髪結い唄の恋物語

恵美須 一二三
歴史・時代
今は昔、江戸の時代。唄という女髪結いがおりました。 ある日、唄は自分に知らない間に実は許嫁がいたことを知ります。一体、唄の許嫁はどこの誰なのでしょう? これは、女髪結いの唄にまつわる恋の物語です。 (実際の史実と多少異なる部分があっても、フィクションとしてお許し下さい)

上意討ち人十兵衛

工藤かずや
歴史・時代
本間道場の筆頭師範代有村十兵衛は、 道場四天王の一人に数えられ、 ゆくゆくは道場主本間頼母の跡取りになると見られて居た。 だが、十兵衛には誰にも言えない秘密があった。 白刃が怖くて怖くて、真剣勝負ができないことである。 その恐怖心は病的に近く、想像するだに震えがくる。 城中では御納戸役をつとめ、城代家老の信任も厚つかった。 そんな十兵衛に上意討ちの命が降った。 相手は一刀流の遣い手・田所源太夫。 だが、中間角蔵の力を借りて田所を斬ったが、 上意討ちには見届け人がついていた。 十兵衛は目付に呼び出され、 二度目の上意討ちか切腹か、どちらかを選べと迫られた。

大奥~牡丹の綻び~

翔子
歴史・時代
*この話は、もしも江戸幕府が永久に続き、幕末の流血の争いが起こらず、平和な時代が続いたら……と想定して書かれたフィクションとなっております。 大正時代・昭和時代を省き、元号が「平成」になる前に候補とされてた元号を使用しています。 映像化された数ある大奥関連作品を敬愛し、踏襲して書いております。 リアルな大奥を再現するため、性的描写を用いております。苦手な方はご注意ください。 時は17代将軍の治世。 公家・鷹司家の姫宮、藤子は大奥に入り御台所となった。 京の都から、慣れない江戸での生活は驚き続きだったが、夫となった徳川家正とは仲睦まじく、百鬼繚乱な大奥において幸せな生活を送る。 ところが、時が経つにつれ、藤子に様々な困難が襲い掛かる。 祖母の死 鷹司家の断絶 実父の突然の死 嫁姑争い 姉妹間の軋轢 壮絶で波乱な人生が藤子に待ち構えていたのであった。 2023.01.13 修正加筆のため一括非公開 2023.04.20 修正加筆 完成 2023.04.23 推敲完成 再公開 2023.08.09 「小説家になろう」にも投稿開始。

処理中です...