NINE inch stories

尾方佐羽

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カメラカメラカメラ〈1〉

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 浦添ひかりはその日、珍しく午後一番に会社を早退した。社長からパートまで入れても7人しかいない小さい会社なので、休みの調整がなかなかできないのだ。

 もう70に手が届こうかという社長はいつもの通り、年代物の応接ソファに腰かけて、これまた年代物で黒く艶のある応接テーブルを目一杯使って作業をしている。大伸ばしにプリントした写真(四切サイズという)がバサバサと山になっていて、そこから来月の入賞作品を選ぶのだ。

「ひかりさん、もうあがっていいよ」

 社長がひかりに呼びかける。社長に言われなければ帰れないというわけではない。印刷会社からの色校正が遅れていて、出るに出られなかったのだ。
「はい、でも外山印刷さんが……」
「ああ、グラビアの色校だろう、催促しておくよ」と社長が言う。
 確かに社長が催促したほうが、私よりはるかに強制力がある、とひかりも納得する。単に社長だからだという理由ではない。彼はこの業界の第一人者であり、業界の外でも一目置かれる存在なのだ。

 日本橋の奥まった一画にある、築60年ほどのビルの階段を降りて外に出ると、辺りはランチに繰り出す人々でごった返していた。

「ああ、もう少し時間をずらせばよかったぁ」とひかりはつぶやく。仕方ない。

 日本橋の表通りは複合プロジェクトによる巨大なビルができて景色が一変していたが、裏道を進むとまだまだ古い建物が残っている。ひかりは昼時の雑踏を進んで、自分の会社のビルをパッと振り返ってみる。

 やっぱり、古い。
 今どきの大学生はきっと、この先の巨大ビルにオフィスを構えているような会社に勤めたいと思うんだろうな。エレベーターもない5階建てのビルなんて、見ただけで帰ってしまうかもしれない。
 私って本当に物好き。

 自嘲気味な感慨を抱くひかりも、まだ大学を出てから2年しか経っていないのだ。

 ひかりは思い出してみる。

 就職活動のとき、真新しいIT企業や重厚な大企業に興味がないわけではなかった。いくつかエントリーもしていた。しかし、日本橋の裏道にある古色蒼然(こしょくそうぜん)としたビルを見たとき、何か強烈に惹かれてしまったのだ。加えて好好爺(こうこうや)風情の社長にも。

「エントリーシート? いや、とりあえず履歴書と……卒業見込みさえわかれば」

 大丈夫かしら、この会社。

「えー、それってアブナイ会社じゃない?」
「全部で7人しかいない会社なんて、身内だけでやってるんだろ? 人間関係濃くて弾き飛ばされるぞ」
 学友たちはおおむね似たような感想をひかりに伝えたが、彼女は内定をもらった時点でもう心を決めていた。

 規模は小さい。しかし、その会社は創業60年である。そして、その世界では2~3しか残っていない専門誌を発行している。いわば老舗ということだ。ひかりにとっては、規模をいたずらに大きくせず独自の道を歩いているこの会社が、派手な宣伝をしているところよりよほど堅実に思えたのだ。

 もっとも、一番の志望理由は、「母方のおじいちゃんがその雑誌を毎月読んでいたから」という、明快かつ虚構のないものだったのだが。

「うん、私の勘は間違ってなかったみたい」とひかりは自身の選択を褒めてやった。


 今日の早退の話に戻る。

 ひかりは日本橋から地下鉄銀座線に乗って、上野まで出た。あっという間、すぐである。5kmもないだろう。歩いて行っても足にマメができることはない。
 そこからひかりは、目的地まで歩くことにした。銀座線の出口から、公園口のほうに進む。そして公園口に至ると左90度に曲がって、だだ広い上野公園をスタスタと歩いていく。博物館や美術館の一画を抜けると、芸術大学の辺りになる。
 ひかりは上野桜木の狭い交差点でやっと足を止める。

「あぁ、和菓子買っていこう」

 狭い交差点を突っ切って、そのまままっすぐ進むと、左手に老舗の和菓子屋が見える。ひかりはそこで豆大福を2つ買って店を出る。目の前にはでかでかと「愛玉子」(オーギョーチ)と書かれた看板が見える。

「ああ、変わってないなぁ」

 ひかりはそうつぶやいて、さらに道を進む。ほどなく緑の濃い、森が広がる一帯にたどり着いた。勝手がわからない人間ならば、一歩入り込むと迷子になるほどの空間である。ひかりは近隣の区出身なので、この辺りの地理には明るい。それでも、この森に入り込んで迷ったことはあった。夕暮れ時でたいそう怖かったことを覚えている。

 「ギリシア神話のアリアドネのように、長い糸を持ってこなければ」と後で反省した。中学生の頃だったが、奇妙なことを考えたものだと思う。

「ミノタウロスより、人間のほうがずっと恐いけどね」

 そんなことを考えていると、目的地を通りすぎていた。ひかりは慌てて踵を返す。そして、友人にあいさつをする。

「萌世、来たよ」

 そこは墓だった。
 ひかりは買ってきた豆大福を供えて手を合わせた。花は供えられていない。それは、墓参りする人がいないからではなく、故人が花アレルギーだったからである。その代わり線香を供えた跡が残っている。きっと月命日なので、故人の親族が先にお参りをしたのだろう。

 ひかりは一度供えた豆大福を引きあげた。食べ物を供えてそのままにすると、鳥や動物が荒らして散らかってしまうからだ。それから、持参した小さなビニールシートを広げて墓の区画からほんの少し離れたところに敷いた。
「一緒に食べよう」

 ひかりはそこに腰かけて、豆大福を食べはじめた。もぐもぐと食べながら、友人に話しかける。
「おいしいよね、ここの豆大福」

 空は青く、雲が幾筋かうかんでいるばかりだ。ひかりは今度は発声せずに心の中で話しかける。

ーーどうして、もうちょっとだけ、私に分かるように言ってくれなかったのかな。いまだに分からないよ。お花のことだけは気がついたからよかったけどーー

 ふと、人の足音がして、ひかりは心臓が止まるほど驚く。

「あ、すいません。驚かせてしまって」
 ひかりの目に映ったのは、トレンチコート姿の中年の男だった。肩まで伸びたパーマの長髪を真ん中で分けている。サングラスの目は判然としないが、髯面が判然としない加減に拍車をかけている。

 胡散(うさん)臭い、という言葉を画にしたらこういう感じなんだろうな。ひかりは一瞬のうちにそんな感想を抱いてから、立ち上がって敷物をパタパタとはたいた。勘が当たっているかは分からないが、見るからに胡散臭いというのは、さほど怖ろしいものではないように思えたのだ。

「いいえ、お墓参りですか。すみません、行儀が悪くて」とひかりは言った。

 相手も、警戒を解かれたことに安心したようで、会釈してから言う。

「いや、こちらこそお邪魔して申し訳ありません。僕は鈴原萌世さんのお墓参りに伺ったのですが、迷ってしまって……」

「えっ、萌世の知り合いの方なんですか」とひかりはまた驚く。
「うーん、直接の知人ではないんです。僕の弟が親しくしていただいて……」と男は言葉を選びながら答える。
「そうですよね、直接のお知り合いではないでしょうね」とひかりがうなずく。
「えっ、僕みたいな怪しい人間が知り合いなはずはないということでしょうか。確かに否定しませんが……」と男は苦笑する。
 自分のことを怪しいと認識している。
 ひかりは少し可笑しくなって笑う。そしてかぶりを振ると、下手で男の手元を指し示した。

 男の手にはカサブランカの花束が握られていた。



「そうだったんですか。花のアレルギーというのもあるのですね。あなたがいなければ、僕はとんだ失礼をするところでしたよ。ありがとうございます」
「はい、しかも、よりによって萌世がいちばん嫌いだった花で……あ、ごめんなさい」とひかりは口を被う。

 二人は上野に向かって歩いていた。男が話を聞きたいというので、ひかりは行きがかり上付き合うことにしたのだ。駅前に出て中央通りの交差点に差しかかったとき、男はふとひかりの抱えている2つのバッグを見て尋ねた。
「その紺色の、カメラバッグですよね。いつも持っているんですか?」
 ひかりはああ、という感じで肩から下げた紺色のバッグを前に出した。
「ええ、仕事柄」
「カメラマンなんですか?」と男が当然の質問をする。ひかりは笑って否定する。
「いいえ、カメラ雑誌の会社に勤めているんです」

 男はしばらく考えてから言った。
「今も出ているカメラ雑誌と言ったら、うーん、『カメラ・ライフ』とか……」
「そう、それです。よくご存じですね」とひかりが感嘆の声を上げる。この男には出会い頭から驚かされてばかりだ。

 それから喫茶店に入るまで、話はカメラにフォーカスされた。ひかりはカメラに慣れるため、社長の愛機を1台譲り受けて操作や撮影の練習をしていること。男も一時期カメラにはまった時期があって、ライカを買ったことなどを話した。
「ライカは扱いが大変そうなので、私はこれに慣れるほうが先です」とひかりはカメラバッグを撫でる。
「いやあ、ニコンのFE2は王道ですよ。Fシリーズの中でも秀逸ではないですか。それより、今どき銀塩のカメラを使うというのがいいな。デジタル全盛のこのご時世に」
「仕組みを理解するにはこちらだって、社長が」とひかりが肩をすくめる。
「ああ、『カメラ・ライフ』の社長といえば、マグナムの写真家たちとも懇意だったみたいですからね。いい先達だ」

 ひかりはマグナムがどんなものか分からなかったので、微笑みだけを返した。


 喫茶店に入ると男は、「すっかり失礼をして」と前置きして自分の名前を名乗った。

 十河岳人(そごうがくと)、売れない芸術家のかたわら貿易業もしているという。やはり胡散臭い、とひかりはまた可笑しくなる。これで実は探偵だと言われたら、もうはまりすぎだと思う。

「浦添ひかりです。鈴原萌世さんとは小・中学校の同級生です。それ以後も友達でした」

 十河は無言でうなずく。そして、自分の鞄から1枚の写真を取り出して、ひかりの前に置いた。そこには若い男性の姿があった。前髪を上げた、さっぱりした短髪の男性。黒縁の眼鏡をかけている。やせていて、知的な印象だ。写真を見ているひかりに十河は言う。

「似ていないと思われるでしょうが、これが僕の弟、十河寿人(そごうひさと)です。僕が長男で寿人が末っ子。だから、12歳離れています」
 ひかりは十河を見る。その表情はサングラスの向こう側からこわばっているように見えた。十河は咳をひとつしてから言葉を続ける。

「弟はシステム・エンジニアの仕事をしていました。そう、鈴原さんと同じ会社で。そして、鈴原さんが亡くなられた前後から、行方不明なんです」

「えっ……」と言ったきり、ひかりは言葉を失う。

 十河の話は続く。

 寿人が行方不明であると家族が知ったのは、鈴原萌世が亡くなって10日以上後だった。会社から無断欠勤をしていると連絡がきて初めて分かったのである。そのうちの1週間は本人から有給休暇の申請が出されていたので、会社も不審に思わなかったらしい。しかし、その後土日をはさんだ月曜日に無断欠勤があり、会社が緊急連絡先である実家に連絡を入れたのだ。会社もそうしたのだろうが、家族も寿人の携帯電話に連絡した。しかし電源が入っていないというメッセージが延々繰り返されるだけだった。家族が寿人のマンションに行くと、部屋はもぬけの殻でどこに行ったのかを示すものは何もなかった。

「でも、システムエンジニアさんなら、自宅にもパソコンがあったのではないですか? その中に何か……メールとか」

 十河はひかりの言葉にうなずきながら続ける。
「ああ、ノート型パソコンはありましたよ。ただそれには通信環境が付いていなかった。だから、インターネットもメールもない。その形跡もない。その他に目ぼしいファイルなどもない。何かのプログラムを組んでいた様子もない。どうも……まっさらな状態で」

 ひかりは話を聞きながら、システムエンジニアという仕事に就いている人に、そんなことがあり得るのかしら、と思う。まるで狐につままれたような気分だ。十河はひかりの様子を見ながら、静かに尋ねる。

「浦添さん、鈴原さんは自殺とされたそうですが、本当にそうだったのでしょうか」

 その質問はひかりに突き刺さった。萌世がいなくなって、彼女の母親から電話がかかってきた時のことをまざまざと思い出したからだ。十河はうつむいて真っ青になるひかりの様子に気がついた。

「いや、浦添さんに答えを求めてはいません。失礼しました。ただ……鈴原さんのことと、寿人のこと、2つの件に何か関わりがあるような気が僕にはするんです。それを結ぶ糸は今のところまったく見えない。鈴原さんの情報はよく知らない。寿人は痕跡を残さずにいなくなった。でも、見えないから糸がないということではないと思うんです。それがもしあるとすれば、何とか探り当てたいと思っているんです」

 ひかりは唇を噛み締めている。顔色はまだ青いままだ。

 アリアドネの糸……萌世の残した糸……。
 あなたは私に何かを教えてくれるかしら。
 例えば、迷宮の出口。
 例えば、あなたを追い詰めたもの。

 そう……あなたを追い詰めたもの。
 自殺でも、そうでなくても、
 あなたを追い詰めたもの。

 次に顔を上げたとき、ひかりは真っ直ぐに十河を見て、はっきりと言った。

「私も、知りたいです」

(続く)
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