パスカルからの最後の宿題

尾方佐羽

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5ソルの乗合馬車

晴れの開業を迎える

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 一六六二年三月、パリの街角ではこんな新聞が大量に配布された。

<乗合馬車の開業だ
曳いている馬は駄馬ではないぞ
(はたらきつかれて行く末は
そうもなろうが)
まさに今日から開通だ
便利至極はうたがいなし
パリ町方のお旦那衆よ
支払う乗車料金も
ほんの僅かなことなれば
せいぜいご利用なされませ
これなる事業設立の
王令その他の
お達しをさらに詳しく
知りたくば
辻に毎日張りだしのお触書きにてご覧あれ>
(ロレの新聞(ガゼット)から 一六六二年三月十八日)

 いよいよパリの乗合馬車が開業を迎えたのである。長文になるが、パリ市民に布告された内容を紹介する。

<布告の掲示

パリ市内および周辺街区における乗合馬車の開設(一六六二年三月十八日)

 パルルマンにおいて審査され、パリ上座(シャトレ)裁判所およびパリ市庁において登録された国王公開状による
布告 パリ市内および周辺街区において、その町民住民の安楽のために、駅馬車にならい、乗合馬車事業を開設するための本一六六二年一月付国王陛下の公開状は翌月二月七日高等法院において審査され翌月三月十三日パリ上座裁判所およびパリ市庁に登録された。その結果として、三月十八日土曜日午前六時に、前記乗合馬車を発車開始せしめる。その路線は、サン・タントワヌ街プラス・ロワヤル前に始まり、リュクサンブール宮にいたるであろう。途中経路は前記サン・タントワヌ街に沿い、サン・ジャン墓地、ヴェルリ街、ロンバール街、サン・ドニ街、パリ門、両替橋、マジスリ河岸の対岸、アルレイ街、ドーフィーヌ広場、ポン・ヌフ橋、ドーフィーヌ街とドーフィーヌ門、新フォッセ街、プチ・リオン街、トゥルノン街そして前記リュクサンブール宮までである。また同所より、同時刻午前六時に別の馬車が出発し、同じ路線を経て前記サン・タントワヌ街プラス・ロワヤル前へ行くであろう。前記路線のいかなる地点であろうと、馬車に乗り降りしたい者を迎え入れまたは下車させる以外には停車せず、また戻ることもない。各人は自分の席に五パリ=ソルの料金を支払うだけでよい。したがって、前述の街路にいる者はすべて、前記路線の自分に最も都合のよい場所において前記場所において前記馬車に乗ることができるであろう。前記路線の自分の好む場所で馬車を止めて乗り込み、あるいは降ろしてもらうことができる。たとえば、大シャトレに用のある者は、パリ門で降ろしてもらい、裁判所に用のある者は大時計のところで降ろしてもらうであろうし、またサン・ジェルマン市場に用のある者はトゥルノン街の下手で降ろしてもらうがよい。昼食時でも八分の一時間ごとに前記路線の各所を通過し、同じく八分の一時間ごとに戻り便が通過するよう、必要なだけの台数の馬車がこの路線に配備されるであろう。したがって、通常は、路線のどの場所であろうと、何人も、自分の馬車に馬をつけさせるに、いかに迅速にしたにせよ、それに要する時間以上待つことはないであろう。かく本路線は開設され、他の路線についてもパリじゅうに同様開通することを期するものである。
 前記乗合馬車は、自家用馬車と区別するために、後尾にパリ市の紋章と小盾のマークを施されており、御者は、前部に国王の紋章をその下方にその権能に応じてパリの紋章をつけた騎乗マント(カザック)を着用しているであろう。
 地方に既設の駅馬車(コーシュ)においては、ひとりであるいは自分の連れとだけで行きたい者は全席料を支払うことによって、馬車全体を確保することができるが、それと同様に、ここでも右記乗合馬車全体を占用したいものは、人を遣わし予約することができ、料金は六席分払えばよい。こうすることにより、ひとりだけあるいは自分の連れとだけで行けるであろう。右記馬車の前座席あるいは後座席を独り占めして楽をしたいものは、その座席の分を支払うことにより確保することができるであろう。
 沿線に住んでいない者たちで、通過する馬車を停めて乗りたい者の便宜をはかり、安楽に馬車の通過を待っていられる場所をいずれそのうちに指定するであろう。それはあまり必要なことではないかもしれない。なんとなれば、待つ必要はほとんどなかろうし、また知人や用向き先の家や商店を持たない者はほとんどないであろうし、近くに教会その他の安全な場所のみつけられない者はいないであろうから。
 また右記高等法院審査の裁決により、ブルジョワたちの最大の安楽自由のために、兵士・小姓・従僕および制服の輩、かつまた人夫人足に対し、立ち入りが禁止されていることを告知する。
 パリ、サン・ジャック街サン・プロスペル、G・デプレ>


 この晴れの開業の日、ブレーズは体調を崩してその現場に赴くことができなかった。

 替わりにブレーズの姉、ペリエ夫人が代理としてその様子を見ることになった。もちろん筆頭の出資者であり経営者であるアルテュス・グフィエ・ロアネーズ公爵はその場に立会い、1号路線がリュクサンブールを発車するのを万感の思いで見ていた。

 心残りなことはいくつかあった。ブレーズが当初提唱したように、誰でも利用できるものにはできなかったことがまず挙げられる。布告を見れば分かるように兵士・小姓・従僕および制服の輩、かつまた人夫人足――は利用を禁じられた。
 また、ブレーズはかねてから距離によって運賃を決定する方式を考えて、区間ごとの距離と運賃を対照できるようにしていたが、始点・終点以外はルート上で乗・降車場(停留所)を定めることなく自由に乗り降りできる形となった。一つの路線で距離によって運賃が細かく変わるのは、現在の公共交通機関と同じ理屈である。それが大まかな目安に留まったことは残念だが、運賃支払い時の煩雑さを避けるためには仕方ないことだった。

 しかし、それ以外はブレーズが当初計画した通りの内容で現実となったのである。

 アルテュスは華やかな式典の中にあって、ブレーズの不在をただただ残念に感じていた。
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