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ブレーズ・パスカルの死
ひとのなきあとばかり……
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アルテュス・ロアネーズ公爵は親友の家庭事情をよく承知していた上に、この三月から親友とともに国王認可の事業を営んでいる。そこで自身がすべきだと思うことをなすことにした。
具体的にいえば、遺族の手間を軽減するために手伝いをするということだ。そのようなことを公爵家の当主がする例は稀だろう。人に命じさせて片付ければよい話である。この場合に限って言えば、公爵は他人にーー少なくともパスカル家の遺族以外にーーそれをさせたくなかった。親友の手がけた数々の仕事や論文などの膨大な書き物が散逸するのを恐れたのだ。
親友がペリエ宅に移されたのは六月で、二ヶ月ほどひどく患ったのちに亡くなった。その死が遠くないことは、本人も家族も承知していただろう。
ペリエ夫人、すなわちブレーズの姉はてんてこまいだった。遺品の片付け云々以前に、次々と届く手紙や弔問客に応対するだけで精一杯だった。いや、弔問客についてはそれほど問題にはならない。ペリエ宅に長居をして滔々と故人の思い出を語り倒すような人間はほとんどいなかったからである。
しかし弔意の手紙については仕分けるのに手間ひまがかかった。そこから公爵が手を貸すことになった。
手紙は大まかに三つに分けられた。
故人は平民よりは少し上の、準騎士(エキュイエ)の爵位を持っている。そして亡くなる時点で、アルテュス・ロアネーズ公爵らとともに国が認可した事業に参加していた。それに関連しての手紙は多かった。ときのフランス国王ルイ十四世、パリ支庁の役職者たち、高等法院の審理官はじめ法曹関係者、その他貴族の称号を持つ人々――いわゆる公的な立場の人間――からの手紙が多く届けられていた。公的なものについては、公爵も事業運営の筆頭を担っている。したがって自然と彼が整理を引き受けることになる。ただ、数が多いので故人の甥エティエンヌも手伝いに加わった。
次に、パリの南西にあるポール・ロワイヤル修道院の院長や修道女の面々からのものが多かった。ここで故人の妹が副修道院長をしていたこともある。実のきょうだいに関わることなのでこちらはペリエ夫人に一任することにした。
続いて、どちらが引き受けるべきか迷うものが現れた。それは、パリの数学アカデミーのメンバーをはじめとして故人と交流のあった学識者からのものだった。この第三区分とでも言うべき手紙の仕分けはアルテュスが引き受け、それをペリエ夫人が確認することとなった。
ペリエ夫人はほっとしたように公爵に言う。
「私はブレーズのことを、ある程度わかっているつもりでいましたけれど、とんでもない思い上がりでしたわ。弔意のお手紙だけでこんなに苦労するとは思いませんでした。公爵さま、乗合馬車のことも負担になっていらっしゃるでしょうに、弟のことでさらにご面倒をかけてしまいます。どうかお許しくださいませ」
アルテュスは深い共感を込めてペリエ夫人を見る。
「ペリエ夫人、僕も同じです。僕は彼と誰よりも話をしていて、信仰のことも、数学のことも、乗合馬車のことも……いや、彼のことを何でも知っていると思っていました。でも夫人と一緒です。そうではないということがよく分かりました。それを知るいい機会なのかもしれません。僕はお手伝いすべきだ、と決意を新たにしました」
ペリエ夫人とともに仕分けた手紙の、学識者という分類の山にアルテュスは手を伸ばす。
クリスティアーン・ホイヘンス、ピエール・ド・フェルマ、カルカヴィと言った名前がアルテュスの目にパッと飛び込んできた。故人にとっても、同様に数学や物理に興味を持つアルテュスにとってもたいへん馴染みの深い人々だ。
ホイヘンスはオランダの数学者・物理学者で、フェルマはトゥールーズ(フランス)在住の数学者、カルカヴィもフランスの数学者だ。皆その世界における第一人者で、ヨーロッパ中に名前を知られている存在だと言ってよい。
数年前、ホイヘンスが旅行中にパリを訪れ長期滞在したとき、アルテュスは彼に何度も会っていた。実はホイヘンスの目的はブレーズだったのだがその対面は一度きりだった。
アルテュスはホイヘンスからの手紙を読んで、苦笑している。
「クリスティアーンはブレーズに会いたかったのに、僕にばかり会っていたな。僕はブレーズの執事みたいなものだった」
ホイヘンスの研究内容は説明する価値が大いにある。
彼はオランダのライデン大学で数学と法学を学び、在学中から曲線の性質やその計算方法について並々ならぬ熱意を持って取り組んでいた。余談になるが、曲線から円の運動、天体にまでその研究分野を広げて、一六五五年、土星の衛星タイタンを自作の望遠鏡で発見する。それだけではなく、土星の周囲に見えるあやふやなものが環であることも発見した。さらに、翌年にはオリオン大星雲も確認してスケッチを残している。
ここで終われば天体の研究家として名を残すことになっただろう。しかし天体に関する新しい発見と並行して、彼は曲線の運動についても研究と計算を重ねた。
具体的にそれは振り子の等時性の研究として続けられ、オリオン大星雲と同じ年、実際に振り子時計も製作した。さらに振り子の原理を応用して、時間を正確に刻むためのヒゲゼンマイを使用した時計も実作している。
デジタル式になるまではごく一般的な、広く使われていた形式だった。もちろん今も使われている。
彼の素晴らしいところは、計算から導き出された結果にもとづいて応用する点にあった。応用とは機械なり機構としてあまねく使用できるものを実作するということである。
彼の研究は光の波動にまでいたって終わる。
曲線というものをいろいろな角度で応用するとどうなるのか、という解を示しているような一生であった。
具体的にいえば、遺族の手間を軽減するために手伝いをするということだ。そのようなことを公爵家の当主がする例は稀だろう。人に命じさせて片付ければよい話である。この場合に限って言えば、公爵は他人にーー少なくともパスカル家の遺族以外にーーそれをさせたくなかった。親友の手がけた数々の仕事や論文などの膨大な書き物が散逸するのを恐れたのだ。
親友がペリエ宅に移されたのは六月で、二ヶ月ほどひどく患ったのちに亡くなった。その死が遠くないことは、本人も家族も承知していただろう。
ペリエ夫人、すなわちブレーズの姉はてんてこまいだった。遺品の片付け云々以前に、次々と届く手紙や弔問客に応対するだけで精一杯だった。いや、弔問客についてはそれほど問題にはならない。ペリエ宅に長居をして滔々と故人の思い出を語り倒すような人間はほとんどいなかったからである。
しかし弔意の手紙については仕分けるのに手間ひまがかかった。そこから公爵が手を貸すことになった。
手紙は大まかに三つに分けられた。
故人は平民よりは少し上の、準騎士(エキュイエ)の爵位を持っている。そして亡くなる時点で、アルテュス・ロアネーズ公爵らとともに国が認可した事業に参加していた。それに関連しての手紙は多かった。ときのフランス国王ルイ十四世、パリ支庁の役職者たち、高等法院の審理官はじめ法曹関係者、その他貴族の称号を持つ人々――いわゆる公的な立場の人間――からの手紙が多く届けられていた。公的なものについては、公爵も事業運営の筆頭を担っている。したがって自然と彼が整理を引き受けることになる。ただ、数が多いので故人の甥エティエンヌも手伝いに加わった。
次に、パリの南西にあるポール・ロワイヤル修道院の院長や修道女の面々からのものが多かった。ここで故人の妹が副修道院長をしていたこともある。実のきょうだいに関わることなのでこちらはペリエ夫人に一任することにした。
続いて、どちらが引き受けるべきか迷うものが現れた。それは、パリの数学アカデミーのメンバーをはじめとして故人と交流のあった学識者からのものだった。この第三区分とでも言うべき手紙の仕分けはアルテュスが引き受け、それをペリエ夫人が確認することとなった。
ペリエ夫人はほっとしたように公爵に言う。
「私はブレーズのことを、ある程度わかっているつもりでいましたけれど、とんでもない思い上がりでしたわ。弔意のお手紙だけでこんなに苦労するとは思いませんでした。公爵さま、乗合馬車のことも負担になっていらっしゃるでしょうに、弟のことでさらにご面倒をかけてしまいます。どうかお許しくださいませ」
アルテュスは深い共感を込めてペリエ夫人を見る。
「ペリエ夫人、僕も同じです。僕は彼と誰よりも話をしていて、信仰のことも、数学のことも、乗合馬車のことも……いや、彼のことを何でも知っていると思っていました。でも夫人と一緒です。そうではないということがよく分かりました。それを知るいい機会なのかもしれません。僕はお手伝いすべきだ、と決意を新たにしました」
ペリエ夫人とともに仕分けた手紙の、学識者という分類の山にアルテュスは手を伸ばす。
クリスティアーン・ホイヘンス、ピエール・ド・フェルマ、カルカヴィと言った名前がアルテュスの目にパッと飛び込んできた。故人にとっても、同様に数学や物理に興味を持つアルテュスにとってもたいへん馴染みの深い人々だ。
ホイヘンスはオランダの数学者・物理学者で、フェルマはトゥールーズ(フランス)在住の数学者、カルカヴィもフランスの数学者だ。皆その世界における第一人者で、ヨーロッパ中に名前を知られている存在だと言ってよい。
数年前、ホイヘンスが旅行中にパリを訪れ長期滞在したとき、アルテュスは彼に何度も会っていた。実はホイヘンスの目的はブレーズだったのだがその対面は一度きりだった。
アルテュスはホイヘンスからの手紙を読んで、苦笑している。
「クリスティアーンはブレーズに会いたかったのに、僕にばかり会っていたな。僕はブレーズの執事みたいなものだった」
ホイヘンスの研究内容は説明する価値が大いにある。
彼はオランダのライデン大学で数学と法学を学び、在学中から曲線の性質やその計算方法について並々ならぬ熱意を持って取り組んでいた。余談になるが、曲線から円の運動、天体にまでその研究分野を広げて、一六五五年、土星の衛星タイタンを自作の望遠鏡で発見する。それだけではなく、土星の周囲に見えるあやふやなものが環であることも発見した。さらに、翌年にはオリオン大星雲も確認してスケッチを残している。
ここで終われば天体の研究家として名を残すことになっただろう。しかし天体に関する新しい発見と並行して、彼は曲線の運動についても研究と計算を重ねた。
具体的にそれは振り子の等時性の研究として続けられ、オリオン大星雲と同じ年、実際に振り子時計も製作した。さらに振り子の原理を応用して、時間を正確に刻むためのヒゲゼンマイを使用した時計も実作している。
デジタル式になるまではごく一般的な、広く使われていた形式だった。もちろん今も使われている。
彼の素晴らしいところは、計算から導き出された結果にもとづいて応用する点にあった。応用とは機械なり機構としてあまねく使用できるものを実作するということである。
彼の研究は光の波動にまでいたって終わる。
曲線というものをいろいろな角度で応用するとどうなるのか、という解を示しているような一生であった。
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