4 / 20
ブレーズ・パスカルの死
ひとのなきあとばかり……
しおりを挟む
アルテュス・ロアネーズ公爵は親友の家庭事情をよく承知していた上に、この三月から親友とともに国王認可の事業を営んでいる。そこで自身がすべきだと思うことをなすことにした。
具体的にいえば、遺族の手間を軽減するために手伝いをするということだ。そのようなことを公爵家の当主がする例は稀だろう。人に命じさせて片付ければよい話である。この場合に限って言えば、公爵は他人にーー少なくともパスカル家の遺族以外にーーそれをさせたくなかった。親友の手がけた数々の仕事や論文などの膨大な書き物が散逸するのを恐れたのだ。
親友がペリエ宅に移されたのは六月で、二ヶ月ほどひどく患ったのちに亡くなった。その死が遠くないことは、本人も家族も承知していただろう。
ペリエ夫人、すなわちブレーズの姉はてんてこまいだった。遺品の片付け云々以前に、次々と届く手紙や弔問客に応対するだけで精一杯だった。いや、弔問客についてはそれほど問題にはならない。ペリエ宅に長居をして滔々と故人の思い出を語り倒すような人間はほとんどいなかったからである。
しかし弔意の手紙については仕分けるのに手間ひまがかかった。そこから公爵が手を貸すことになった。
手紙は大まかに三つに分けられた。
故人は平民よりは少し上の、準騎士(エキュイエ)の爵位を持っている。そして亡くなる時点で、アルテュス・ロアネーズ公爵らとともに国が認可した事業に参加していた。それに関連しての手紙は多かった。ときのフランス国王ルイ十四世、パリ支庁の役職者たち、高等法院の審理官はじめ法曹関係者、その他貴族の称号を持つ人々――いわゆる公的な立場の人間――からの手紙が多く届けられていた。公的なものについては、公爵も事業運営の筆頭を担っている。したがって自然と彼が整理を引き受けることになる。ただ、数が多いので故人の甥エティエンヌも手伝いに加わった。
次に、パリの南西にあるポール・ロワイヤル修道院の院長や修道女の面々からのものが多かった。ここで故人の妹が副修道院長をしていたこともある。実のきょうだいに関わることなのでこちらはペリエ夫人に一任することにした。
続いて、どちらが引き受けるべきか迷うものが現れた。それは、パリの数学アカデミーのメンバーをはじめとして故人と交流のあった学識者からのものだった。この第三区分とでも言うべき手紙の仕分けはアルテュスが引き受け、それをペリエ夫人が確認することとなった。
ペリエ夫人はほっとしたように公爵に言う。
「私はブレーズのことを、ある程度わかっているつもりでいましたけれど、とんでもない思い上がりでしたわ。弔意のお手紙だけでこんなに苦労するとは思いませんでした。公爵さま、乗合馬車のことも負担になっていらっしゃるでしょうに、弟のことでさらにご面倒をかけてしまいます。どうかお許しくださいませ」
アルテュスは深い共感を込めてペリエ夫人を見る。
「ペリエ夫人、僕も同じです。僕は彼と誰よりも話をしていて、信仰のことも、数学のことも、乗合馬車のことも……いや、彼のことを何でも知っていると思っていました。でも夫人と一緒です。そうではないということがよく分かりました。それを知るいい機会なのかもしれません。僕はお手伝いすべきだ、と決意を新たにしました」
ペリエ夫人とともに仕分けた手紙の、学識者という分類の山にアルテュスは手を伸ばす。
クリスティアーン・ホイヘンス、ピエール・ド・フェルマ、カルカヴィと言った名前がアルテュスの目にパッと飛び込んできた。故人にとっても、同様に数学や物理に興味を持つアルテュスにとってもたいへん馴染みの深い人々だ。
ホイヘンスはオランダの数学者・物理学者で、フェルマはトゥールーズ(フランス)在住の数学者、カルカヴィもフランスの数学者だ。皆その世界における第一人者で、ヨーロッパ中に名前を知られている存在だと言ってよい。
数年前、ホイヘンスが旅行中にパリを訪れ長期滞在したとき、アルテュスは彼に何度も会っていた。実はホイヘンスの目的はブレーズだったのだがその対面は一度きりだった。
アルテュスはホイヘンスからの手紙を読んで、苦笑している。
「クリスティアーンはブレーズに会いたかったのに、僕にばかり会っていたな。僕はブレーズの執事みたいなものだった」
ホイヘンスの研究内容は説明する価値が大いにある。
彼はオランダのライデン大学で数学と法学を学び、在学中から曲線の性質やその計算方法について並々ならぬ熱意を持って取り組んでいた。余談になるが、曲線から円の運動、天体にまでその研究分野を広げて、一六五五年、土星の衛星タイタンを自作の望遠鏡で発見する。それだけではなく、土星の周囲に見えるあやふやなものが環であることも発見した。さらに、翌年にはオリオン大星雲も確認してスケッチを残している。
ここで終われば天体の研究家として名を残すことになっただろう。しかし天体に関する新しい発見と並行して、彼は曲線の運動についても研究と計算を重ねた。
具体的にそれは振り子の等時性の研究として続けられ、オリオン大星雲と同じ年、実際に振り子時計も製作した。さらに振り子の原理を応用して、時間を正確に刻むためのヒゲゼンマイを使用した時計も実作している。
デジタル式になるまではごく一般的な、広く使われていた形式だった。もちろん今も使われている。
彼の素晴らしいところは、計算から導き出された結果にもとづいて応用する点にあった。応用とは機械なり機構としてあまねく使用できるものを実作するということである。
彼の研究は光の波動にまでいたって終わる。
曲線というものをいろいろな角度で応用するとどうなるのか、という解を示しているような一生であった。
具体的にいえば、遺族の手間を軽減するために手伝いをするということだ。そのようなことを公爵家の当主がする例は稀だろう。人に命じさせて片付ければよい話である。この場合に限って言えば、公爵は他人にーー少なくともパスカル家の遺族以外にーーそれをさせたくなかった。親友の手がけた数々の仕事や論文などの膨大な書き物が散逸するのを恐れたのだ。
親友がペリエ宅に移されたのは六月で、二ヶ月ほどひどく患ったのちに亡くなった。その死が遠くないことは、本人も家族も承知していただろう。
ペリエ夫人、すなわちブレーズの姉はてんてこまいだった。遺品の片付け云々以前に、次々と届く手紙や弔問客に応対するだけで精一杯だった。いや、弔問客についてはそれほど問題にはならない。ペリエ宅に長居をして滔々と故人の思い出を語り倒すような人間はほとんどいなかったからである。
しかし弔意の手紙については仕分けるのに手間ひまがかかった。そこから公爵が手を貸すことになった。
手紙は大まかに三つに分けられた。
故人は平民よりは少し上の、準騎士(エキュイエ)の爵位を持っている。そして亡くなる時点で、アルテュス・ロアネーズ公爵らとともに国が認可した事業に参加していた。それに関連しての手紙は多かった。ときのフランス国王ルイ十四世、パリ支庁の役職者たち、高等法院の審理官はじめ法曹関係者、その他貴族の称号を持つ人々――いわゆる公的な立場の人間――からの手紙が多く届けられていた。公的なものについては、公爵も事業運営の筆頭を担っている。したがって自然と彼が整理を引き受けることになる。ただ、数が多いので故人の甥エティエンヌも手伝いに加わった。
次に、パリの南西にあるポール・ロワイヤル修道院の院長や修道女の面々からのものが多かった。ここで故人の妹が副修道院長をしていたこともある。実のきょうだいに関わることなのでこちらはペリエ夫人に一任することにした。
続いて、どちらが引き受けるべきか迷うものが現れた。それは、パリの数学アカデミーのメンバーをはじめとして故人と交流のあった学識者からのものだった。この第三区分とでも言うべき手紙の仕分けはアルテュスが引き受け、それをペリエ夫人が確認することとなった。
ペリエ夫人はほっとしたように公爵に言う。
「私はブレーズのことを、ある程度わかっているつもりでいましたけれど、とんでもない思い上がりでしたわ。弔意のお手紙だけでこんなに苦労するとは思いませんでした。公爵さま、乗合馬車のことも負担になっていらっしゃるでしょうに、弟のことでさらにご面倒をかけてしまいます。どうかお許しくださいませ」
アルテュスは深い共感を込めてペリエ夫人を見る。
「ペリエ夫人、僕も同じです。僕は彼と誰よりも話をしていて、信仰のことも、数学のことも、乗合馬車のことも……いや、彼のことを何でも知っていると思っていました。でも夫人と一緒です。そうではないということがよく分かりました。それを知るいい機会なのかもしれません。僕はお手伝いすべきだ、と決意を新たにしました」
ペリエ夫人とともに仕分けた手紙の、学識者という分類の山にアルテュスは手を伸ばす。
クリスティアーン・ホイヘンス、ピエール・ド・フェルマ、カルカヴィと言った名前がアルテュスの目にパッと飛び込んできた。故人にとっても、同様に数学や物理に興味を持つアルテュスにとってもたいへん馴染みの深い人々だ。
ホイヘンスはオランダの数学者・物理学者で、フェルマはトゥールーズ(フランス)在住の数学者、カルカヴィもフランスの数学者だ。皆その世界における第一人者で、ヨーロッパ中に名前を知られている存在だと言ってよい。
数年前、ホイヘンスが旅行中にパリを訪れ長期滞在したとき、アルテュスは彼に何度も会っていた。実はホイヘンスの目的はブレーズだったのだがその対面は一度きりだった。
アルテュスはホイヘンスからの手紙を読んで、苦笑している。
「クリスティアーンはブレーズに会いたかったのに、僕にばかり会っていたな。僕はブレーズの執事みたいなものだった」
ホイヘンスの研究内容は説明する価値が大いにある。
彼はオランダのライデン大学で数学と法学を学び、在学中から曲線の性質やその計算方法について並々ならぬ熱意を持って取り組んでいた。余談になるが、曲線から円の運動、天体にまでその研究分野を広げて、一六五五年、土星の衛星タイタンを自作の望遠鏡で発見する。それだけではなく、土星の周囲に見えるあやふやなものが環であることも発見した。さらに、翌年にはオリオン大星雲も確認してスケッチを残している。
ここで終われば天体の研究家として名を残すことになっただろう。しかし天体に関する新しい発見と並行して、彼は曲線の運動についても研究と計算を重ねた。
具体的にそれは振り子の等時性の研究として続けられ、オリオン大星雲と同じ年、実際に振り子時計も製作した。さらに振り子の原理を応用して、時間を正確に刻むためのヒゲゼンマイを使用した時計も実作している。
デジタル式になるまではごく一般的な、広く使われていた形式だった。もちろん今も使われている。
彼の素晴らしいところは、計算から導き出された結果にもとづいて応用する点にあった。応用とは機械なり機構としてあまねく使用できるものを実作するということである。
彼の研究は光の波動にまでいたって終わる。
曲線というものをいろいろな角度で応用するとどうなるのか、という解を示しているような一生であった。
0
あなたにおすすめの小説
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
現代文学
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる