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新田義貞の甥に会いに行く

四日目 足利尊氏の飽くなき望み

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 ◼️足利尊氏が立ちはだかる

 脇屋義治が京に初めて上ったのは幕府が倒れた翌年、義治元服の年でもあった。元弘4年であり建武元年(1334年)のことである。

 新田が先陣を切って鎌倉を突き崩したのもあって、西に向かう一行は皆気力に満ちていた。京の町の華やかさも彼らの行軍を喜んでいるように見えた。
 とりわけ、統率する伯父の新田義貞は最高の威厳を身につけていたように義治の目に映った。父の義助も同じである。堂々と振る舞う姿を見て、「もののふの鑑だ」と少年の心は高揚した。父は合間を見て息子にいろいろ話したが、他に対しては口数の多い方ではないというのもこのときに知った。

 義治は幼い頃より何事にも新田の家が第一なのだと教わってきたが、父はその言葉を徹頭徹尾実践していたのである。脇屋義助の裡に自身が上に立とうという欲はなかった。兄に付いて、場合によっては盾になって戦っていた。だからこそ、新田勢は一枚岩でいられたのだろう。もともと助け合わなければやっていけなかったのだと思う。吹きすさぶ風は身を寄せ合わないとやり過ごせない。

 いずれにしても恩賞を後醍醐帝より賜らんと集まった兵卒は日本中から押し寄せ夥しい数に上っていた。
 恩賞は厳かに、しかし盛大に与えられた。
 京を制した足利高氏には武蔵・常陸・下総。弟の直義には遠江。鎌倉を滅ぼした新田義貞には上野・播磨。義助には駿河。楠正成には摂津・河内が与えられた。その他、名和長年に因幡・伯耆。赤松円心には佐用庄が与えられている。この恩賞に不満を持つ向きもあった。たとえば赤松などは、まったく納得していなかっただろうと思われる。
 無位無官だった義助にも正五位下・左衛門佐の官位が与えられ、以降駿河守、兵庫助、伊予守、左馬権頭、弾正大弼などを歴任したことも付け足しておこう。
 
 ここから後醍醐天皇による「建武の親政」が始まるのだが、ことはそうそううまくは運ばなかった。権力が朝廷に戻ったのは貴族の専横を招き、帝も内裏の修繕に莫大な費用を費やした。権力を持つ者はそれを誇る何かを欲するものだ。しかし、その派手な振る舞いが反感を買った。武士から実権を取り戻したのはよかったが、国をどう切り回していくかは御簾の外だったのだ。
 結局、落ち着いた時期というのはほんのわずかの間しかなかった。
 幕府方の生き残りである北条時行が反乱を企てたのはそれから二年後のことだった。「中先代(なかせんだい)の乱」と呼ばれた反乱は足利尊氏らに攻められ結局失敗に終わった。

 この頃には同盟を組んでいた足利尊氏と新田義貞の関係も犬と猿より険悪なものになっていったと義治はいう。尊氏は征夷大将軍の位を望んだが帝は関東管領の役までしか与えなかった。

 新田の衆は領地を受領し、帝の警護をする職も得ていた。そのための武者所を新田衆が一手に任され、父の脇屋義助とともに義治も第五番‎組に配されていた。義貞はじめ新田衆は帝が功を認めてくれたことが光栄の極みと感じ入っていた。二心なく真面目に近侍したことは言うまでもない。

 尊氏はそれが気に入らなかった。

 
  ◼️南朝と北朝

 同じ八幡太郎の係累二人が犬猿の仲になるというのは因縁のようだが、そこまで大仰な話ではない。少なくとも当初は人の心の機微、主に足利尊氏の心に影が落ちていたことに依るのだと私は思う。
 高氏は鎌倉幕府を落とす役目を自身が果たしたかった。しかし、彼は京に在ってそれができなかった。鎌倉に大軍を率いて勝利したのは、新田義貞だ。もちろんそれは帝にとって一番の功だったし、変えようのない事実である。
 見下していた者に手柄を取られた悔しさ、それがこの後の尊氏の行動を決めたように私には思える。それは実に粘り強く、ひとつの目的だけをめざしていた。
 実に凄まじい力だ。
 帝の諱を戴いて「尊氏」と名を変えていたこの人は反旗を翻したのだ。

 後醍醐天皇の新体制である建武の新政下では、公卿・西園寺公宗の反乱計画が発覚するなど不穏な空気が漂う。ついには鎌倉方の残党北条時行が中先代の乱を起こす。攻め寄せられ窮地に陥った弟・足利直義救援のために尊氏は東下し乱を鎮圧した。
 その後も鎌倉に留まり、まるでもとの鎌倉幕府のごとく恩賞を独自に配布した。関東管領の任を受けていたが、その権限ですることではない。独自に武家政権を樹立するつもりかと帝は憤った。そして尊氏討伐の命を発した。
 建武の乱である。

 尊氏は後醍醐帝を廃することを考えた。
 天皇をふたつの統(大覚寺統・南朝、持明院統・北朝)から順繰りに立てるのは、かなり前からのしきたりになっていた。後醍醐帝は南朝であるので、北朝から天皇を擁すればいいと尊氏は考えた。そして、光厳上皇に後醍醐天皇の譲位を求めるように訴え院宣を得たのである。
 これ以降、同時に皇統がふたつ立つという事態に陥ったのだ。今もなお続く南朝と北朝の分裂だ。これは同族の足利対新田の戦いでもあった。後醍醐帝は新田義貞を足利討伐の総大将に据え、脇屋の親子もとともに戦いの日々を送ることになったのだ。

 義治はそのとき危機一髪の目に遭ったことを話してくれた。
「わしはやらかしてしまったことがあった。
 箱根で足利勢と交戦したときに、敵の陣中に迷い込んでしまった。まだ戦に慣れていなかったせいだが、敵の中に入ったらどうなるかは明白だ。焦ったのう。
 わしはとっさに、自軍の印が分かる布切れをちぎって捨てた。そして、自分の顔がよく見えなくなるように髪をバサバサに解いて顔に張り付けた。敵になりきるしかない。新田勢は劣勢だったが、父の義助はわしがいないことに気づき、顔面蒼白になった。討たれたか、生け捕られたかと思った。義助は『生死が分からねば退却してこの場を去れぬ。かかれ、かかれーっっ』と敵に向かっていった。その勢いに圧されて敵が怯んで後ずさりしたそうじゃ。
 わしはといえば、さようなことも分からず敵になりきっておった。『敵は少数、一気に片をつけようぞ』などと気勢を上げておった。こそこそする方が気取られやすいと思ったのだ。そして数人を引き連れて敵陣に乗り込むふりをして戻った。父はどのようななりをしていても、わしだと分かったらしい。そして、一緒に来た敵兵を斬り捨てた。
 その時は結局退いたのだが、わしのとっさの行動だけは褒められた。父は、わしが無事で戻ったことがたいそう嬉しかったのだろう。後まで、『せがれの機転があってわしらは善戦したのじゃ』と皆に触れ回っておったよ」

 そうだ。義治の話を聞いていて、何やら温もりのようなものを感じていたのだが、この逸話はそのよい例だったように思う。法勝寺でこの五十年の記録を手繰っているとき、心空しくなるような出来事が多く無常の念を抱いたのだが、こうして話を聞いているとその裡に人らしい営みがあったのだと判る。そして新田の一族郎党が南朝軍の筆頭として、後醍醐帝に忠義を尽くしてきたことも見えてくるのである。

 ただ、それは見方を変えれば不器用だということでもあるのだが。

 健武の乱はこののち、京が主戦場になった。南朝方に加わろうと各地から多くの軍勢が集結した。奥州から北畠顕家、後醍醐帝第三皇子の護良(もりよし)親王軍、名和長年、そして楠正成も合流し足利軍を破った。足利尊氏は生き延びそのまま九州に落ち延びていった。

 京に北畠顕家が到着した後のことだ。
 新田の陣に北畠とともに新田義貞の二男、徳寿丸がやってきた。義治から見れば従兄弟だが、このとき元服も遠いまだほんの七歳の子どもだった。この幼い従兄弟が突然現れたことを義治はよく覚えているという。
「拙者は、新田朝臣義貞の二男、徳寿丸にござる。父が帝の守護に勤めておるのに新田庄でのうのうと過ごしているわけには参りませぬ」

 義治も驚いたが、父の義貞も同じぐらい驚いていたようだ。徳寿丸、のちの義興はみずから「京に上りたい」と通りかかった北畠軍に加わったという。その意気を買われたのか、道中でも丁重に扱われていたようだ。義治も鎌倉攻めに出る義助に「ともに鎌倉攻めに行きたい」と願ったことがあったが実際に赴いたわけではない。桁違いの剛胆だった。これは徳寿丸ののちのちまでの豪気を示す話であろう。

 ただ父親である新田義貞はこの行動を出すぎていると感じたようだ。京でもこの子に重きを置く様子を見せなかった。そもそもこの子は嫡男ではない。その点も含めての勇み足だったとはいえる。童子はそれを承知してはいなかっただろうから、責める所以もないが。
 そして、父が褒めてくれなかったのは子の心をいくらか傷つけたのかもしれない。

 義助が義治を褒めたこと、義貞が徳寿丸を褒めなかったことはそれぞれ事情が異なるが、どこか象徴的なように私には思えた。

 ときは延元になった。
 尊氏が膝を屈することはない。
 逃走した九州から今度は船団を擁して戦を展開する。南朝方は摂津の湊川でこれを迎え撃つが、今度は敗れてしまう。このときに楠正成が戦死してしまった。正成だけではない、この一連の戦いでは名和長年・結城親光・千種忠顕など南朝きっての猛将が次々と倒れた。新田の道にも影が差し始めたのである。
 京はまた足利の手に落ち、後醍醐帝は内裏を去って比叡山に逃れることになる。

 延元元年(1336)、悠々と京に入った尊氏はかねてからの手はず通りに光厳上皇の弟である豊仁親王を光明天皇として即位させた。八月のことである。その際には比叡山から京に移された上、囚われの身となった後醍醐帝から三種の神器を譲られている。正統な天皇であるという証である。
 うがった見方をするならば、それを後醍醐帝が素直に渡しはしなかったかもしれない。
 いずれにしても、その翌月十一月に制定された『建武式目』で尊氏は「鎌倉大納言」とされる。源頼朝の「鎌倉殿」とほぼ同格になったわけだ。

 尊氏は狙う獲物を見事に射止めたかに思える。
 しかし、まだ『征夷大将軍』ではなかった。

  ◼️何かが足りない

 脇屋義治はひとつため息をつく。
 この日ももう暮れようとしており、からすの鳴き声も響いてきた。義治の顔は影で覆われているように見える。家人がすっと入ってきて、「そろそろ夕餉をいかがでしょう。支度は整っておりますが」と声を掛けてきた。

「ああ、今行く」と義治はそれに応じて私の方を見た。
「今日はこのぐらいにしておこう。ただ……」
「ただ?」
「この頃から、足利に完全に勝つというのは難しいと皆が思うようになっとった。後醍醐帝もまだ地位を奪回しようと機を伺っていたし、まだ道はあった。だが尊氏がしぶとい戦い方をしていたのもあったし、光明帝の擁立のごとくほうぼうに下ごしらえをしていたこともある。わしらにはその辺りの、何かが足りなかったのだろうの……」

 彼の目は遠くを見ている。
 それは遠い遠い昔のことだった。
 私は何も言えずに彼を見つめた。
 すると彼はぽつりとひとつつぶやいた。

「それでもな、わしらは戦うしかなかったんじゃ」
 
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