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新田義貞の甥に会いに行く
二日目 八幡太郎と鬼切安綱
しおりを挟む私の来訪を少々訝しがっていた脇屋義治だが、逗留した夜に盃を交わしていくらか心を開いてくれたようだ。
もちろん、私は水である。
興が乗ったようで翌日から時間を取って話を聞かせてくれることとなった。「きっとこの人ならば一端口を開けば、奔流のごとく言葉が溢れてくるだろう」と私は踏んでいたが、それは間違いではなかった。
義治の言葉を私は反復しながら記憶し、夜には書写し書き起こした。翌朝には前日の話を書写を元に改め当日の話に移る。それが連日繰り返された。
以降の話については私が書き起こした話となる。当然、その中に私は極力登場しない。ただ、話を聞いて私が思ったことは折々混ざっていくだろう。
◼️八幡太郎と鬼切安綱
脇屋義治の父である脇屋義助(わきやよしすけ)は新田義貞の実弟になる。武士の家では跡継ぎの長子以外は別の家を興すというのが通例だったので、脇屋という苗字は義助の代からになる。その兄新田義貞については、一族の頭領であり語らずとも済むほど高名な人物である。それだけで物語が作れるほどなのだが、私は脇屋義治に話を聞いている。誰のことに重きを置いて語るのかは義治しだいだ。伯父・義貞との関わりを推して量るものでもないし、かの高名の人の話ばかりする必要もないし、じきに出す要も出てくるだろう。
脇屋、そして新田一族の祖は源義家である。
石清水八幡宮で産湯に浸かったことから「八幡太郎」と呼ばれた義家は、平安期に白河帝の警固役としてめざましい活躍を見せた。特に比叡山の強訴の鎮圧、奥州攻めでひときわ名を上げた。兵(つわもの)が権力の表舞台に出るきっかけを作り、のちにそれが北面の武士に発展していった。義家自身は高い位を得ることがなかったが、武士の先鞭をつけたのである。
八幡太郎が源氏の中でも際立った人物であるのには他にも理由がある。
ひとつは彼が譲り受けた刀である。この刀については私がたいへん興味を持っていたのでここに詳しく書いておく。
私が初めてのひとり旅を越智大島に選んだのも、その刀の行方を知りたかったというのが大きい。
私を惹きつけて止まない刀は鬼切安綱、通称「髭切」といわれる。この刀は源氏ゆかりのもので、多くの逸話に彩られている。
そもそも、これともう一振りの刀を作らせたのは多田(源)満仲である。彼は最上の刀を望み、遠く筑前国三笠の刀鍛治を呼び寄せ鍛造を依頼した。何でも唐土から渡来した者でたいそう評判が高かったという。幾振りか作らせたものの満仲の満足のいくものは得られなかった。
話はそこで終わらない。
刀鍛治は自身を不甲斐なく感じさらに挑戦することを約束した。それから心を整えようと連日八幡宮に参詣し、理想の刀を打つことができるようにとひたすら祈願した。ついに七日目の夜、刀鍛治は夢を見た。夢に八幡大菩薩が現れ刀鍛治にこう告げたのである。
「六十日間かけて鉄を鍛え、二振りの太刀を打ちなさい」
刀鍛治は喜び勇んでお告げの通りに刀を二振り鍛造した。長さ二尺七寸の素晴らしい刀で、古来劉邦(りゅうほう)が所持していた三尺の名刀に匹敵するが、刀鍛治の理想そのものだったということだ。
満仲はこの二振りで罪人の首を斬らせた。一振りは髭まで斬り払ったので「髭切」、もう一振りは膝まで斬り下げたので「膝丸」と名付けられた。殺生放埒、僧形の若者がするような話ではないが、もののふとしてならば最高の邂逅であろう。
満仲は栄華を誇る生涯を送ったが、子である頼光の代になると刀は持ち主とともにいっそう豪勇を重ねていく。京の都に物狂いの姫がのべつまくなしに人を殺める鬼として現れると、「髭切」は頼光の臣下である渡辺綱(わたなべのつな)に託された。鬼に出くわした綱は危険にさらされながらも敵の腕を落として窮地を脱する。
その後、「髭切」は「鬼丸」と名が変わる。
もう一振りも「膝丸」から「蜘蛛切」となった。蜘蛛を切ったからなのか、私は聞き及んでいない。頼光の子孫に二振りの刀が代々譲られていったということだけは確かだ。
さきに述べた八幡太郎義家もそれを受け継いだ一人である。彼よりさらにときを進めてみよう。
源頼朝の祖父である為義のときには伝説めいた逸話も登場する。「鬼丸」と「蜘蛛切」がお互いに呼び合うという話である。
ものの書にはこう記されている。
「二振の刀が終夜吠えている。鬼丸は獅子の声、蜘蛛切は蛇の声で啼く。お互いを呼ぶがごとく啼くその姿を見て、鬼丸は『獅子の子』、蜘蛛切は『吼丸(ほえまる)』と名を改めた」
ものの魂についてここで論じるものではないが、刀にさらなる箔がついたことは確かだろう。それほど仲睦まじい二振りであったが、「吼丸」は熊野権現に奉納される。源為義は新たに「獅子の子」と同様の体裁かつ二分ほど長い太刀を作らせる。これは「小烏(こがらす)」と名付けられた。
その「小烏」も名前が変わる。
あるとき立て掛けていた小烏が自然と倒れた。急いで改めると刀の束に収まる部分が二分ほど短くなり、元の刀と同じ長さになっていたということだった。これをもって、小烏は「友切(ともきり)」と名を変えられた。まったく、目まぐるしいことで、当の刀も戸惑ったことだろうと思う。
この辺りから元「髭切」と「友切」の区別が怪しくなってきたようにも思うが私には何とも追いかけようがないのでそのままにしておこう。
源頼朝の父である義朝は自身の武運が芳しくないと感じて、源氏の守護神である八幡大菩薩に不満を述べたという。あれほどの伝説を持つ刀のご威光を自分は与えられないのかということである。すると夢の中に大菩薩のお告げがあったという。
「刀の名をころころと変えるのはよくない。名を元に戻しなさい」
それは私でも思うところだ。そのお告げによって「髭切」はその名を取り戻したという。
その後、平氏との決戦に際して「髭切」は熱田神宮に奉納された。そして流人となっていた源頼朝が平氏追討を旗印に挙兵するに及び、再び名刀「髭切」は源氏の手に握られたのである。
刀の話で道草をしていたが、これはたいへん肝要な話なのである。源氏の歴々とともに逸話を重ねてきた名刀はその頭領が持つものである。そのように末裔の意識に刷り込まれていったのだ。
あたかも天皇家における三種の神器のように。
◼️刀を手にする新田の子
さて、八幡太郎の系譜は多く源氏の頭領となっている。八幡太郎の子・義親の曾孫が源頼朝であり、子・義国ののちの子孫が新田義貞なのだ。
そして、義国の高名な子孫がもうひとりいることはよく知られている。
足利尊氏だ。
ときが下って八幡太郎の末裔、源氏の頭領である源頼朝は平清盛の命で伊豆に幽閉されていた。それがいよいよ決意を固め挙兵の呼び掛けを発した。それに呼応して「いざ鎌倉」と声を掛け合って続々関東武士が集結する。
新田一族は足利の一として挙兵に加わった。そして上野国(こうずけのくに)新田荘を任されたのである。「新田」と名乗るのはそれからである。
その地は山の狭間の一面の荒れ野、開墾に苦労してようやく作物が得られるようになった。
「厳しい土地だぞ、吹き抜ける風の凄さといったら。ここの海風の方がよほどよい」と義治はいう。
彼は年老いるまで各地を転戦して回ってきた。雪が背丈ほど降り積もる地でも長く過ごしてきた。その経験をおいても新田荘は特に風の厳しい土地だと記憶しているようだ。
高い山々が背中に連なる。風は山から吹き下ろして、冷たく乾いたまま山間の道から平野の端に吹きすさぶ。空っ風といわれる。
ただ、風の吹きすさぶ野は武士の鍛練にはもってこいだった。平野を馬で駆けることも、矢を動く的に射る「笠懸(かさがけ)」の鍛練も好きなだけできた。強風が吹く中なのだから、臨機応変に的を狙うことも上手になる。皆幼いうちから実に上手に馬を乗りこなしていた。いわば「風使い」ということになるだろう。
彼らはそのように新田荘で代々風とともに過ごしてきた。
脇屋義治は故事もひもときながら、先祖の話を幼少より聞いて育った。私がさきに書いた源氏の宝刀の話も繰り返し聞かされたという。それは父の義助も、義助の兄の義貞も同様だった。新田の家は源氏でも生粋の系統、豪勇の誉れ高いもののふの血筋を継いでいるのだと幼な児より叩き込まれる。それが義治の代まで連綿と続いてきたのである。
それが新田氏の土台であり矜持だった。
一方、幕府が置かれた鎌倉では頼朝公の直系が三代で途絶え、承久の乱を機に北条が執権・得宗家となり代を継ぐ。以降、将軍という立場は紙風船のように萎んでいった。張り子の虎のようなものである。実質的な頂点は執権にあった。そして北条家と密接な関係を保ってきた足利家はこの治世を通じて枢要な地位を保っていたのだ。
新田一族にその恩恵はなかった。
源氏の由緒正しい出でありながら、戦働きをしても新たな恩賞はなく新田荘の領地も分家に細かく配るばかりになった。先細りとはこのことである。逆に分家の領地の方が多くなって、本家がほぼ無足(領地がなくなる)になることさえあった。
同族が受けている恩恵や栄誉をまったく享受できず土地も人も痩せ細っていくことは、この上ない屈辱だと感じていたかもしれない。
もっともそれは新田だけに限ったことではなく、多くの武士が同様の憂き目にあっていた。御恩と奉公、すなわち兵として働けば恩賞として領地を得られるという仕組みがまったく成り立たなくなっていたのだ。
鎌倉の府にも同情するところはある。難儀なことが多い時期だったのだ。元寇が二度あって防衛のために重い負担を課さなければならなかったのをはじめ、地震・大雨・日照り・疫病が次々と襲いかかった。鎌倉では大火事もあった。その切り回しに必死だったのもあろう。
さらには恩賞として分け与える土地もなくなり武士だけではなく多くの民が困窮するにいたる。巷には悪党(武士が盗賊に転じる)が跋扈し、世は荒みきっていた。
執権幕府に対する不満はどんどん膨らんでいった。
それを機に幕府を倒そうと考えたのが後醍醐天皇だった。帝は武家が朝廷をないがしろにし続けることに我慢ならなかった。この頃には我慢のならない事象がたいへん多かったようだ。
将軍として帝の皇子が立てられてはいたが、形だけで真の権力を持つことはない。帝はそれを覆し、自身の四人の皇子に相応しい権力を与えたいと強く願っていた。
帝は密かに幕府討伐に向けて各地に人を遣わせ、情報を集めつつ着々と挙兵の準備を進めた。一朝一夕に成ったわけではない。その思惑は幕府の知るところとなり、首謀者として側近の日野資朝(ひのすけとも)らが捕えられた。総じてのちに「正中」と「元弘」の変といわれる。帝もじきに幕府方の手に落ちるかと思われたが、突破口を開く者が現れた。
河内の楠正成(くすのきまさしげ)という武士が京の笠置山に身を寄せた後醍醐帝を守るために立ち上がった。帝は一端捕えられてしまうのだが、正成の進撃は止まらなかった。赤坂城と千早城で幕府軍と交戦、少数ながら奮闘する。特に千早城の劇的な奇襲で幕府軍に大打撃を与えたのだ。
隠岐に流された帝も正成の活躍に快哉を叫び、来る解放のときを待っていた。
楠正成の善戦を契機にして各地で諸将が立ち上がった。常陸(ひたち)の佐竹氏、下野(しもつけ)の小山氏、伯耆(ほうき)の名和氏、九州の大友氏らだ。そこに下野から幕府の命で出立した足利高氏(のちの尊氏)が翻心して加わった。そして京における幕府の拠点である六波羅探題を襲撃し攻め落とした。
元弘二年(一三三三)の五月のことだ。
上野の地でくすぶっていた新田義貞初め一族郎党にも光の当たるときがやってこようとしていた。義貞は当初幕府方として千早城にも馳せ参じていたが、楠の軍勢の戦いぶりを目の当たりにして、新たな決意を持って急遽上野に戻った。そこで幕府方の徴税吏といさかいが起こる。それが挙兵への引き金となったのだ。
その手には名刀『鬼切安綱』(別名髭切)が握られていた。
※写真は源義家ゆかりの穴八幡宮(東京都新宿区)の流鏑馬騎手像
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