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新田義貞の甥に会いに行く

一日目 越知大島までのたりゆく

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 至徳・元中(一三八五)の頃、京の法勝寺から西国に旅立つ僧形の青年がいた。
 元号がふたつある、いわゆる南北朝と呼ばれた年代の末期である。後醍醐天皇が国の権力をまるごと欲し、鎌倉幕府が倒され、足利尊氏がそれに変わった時代である。

 彼は一路西に向かう。

 兵庫津までは陸路なので、彼はひたすらに歩いた。山に入ると彼は鳥のさえずりに応えるようにつぶやいている。つぶやきというには声が朗々としている。よく通る声の調子は整っているが、経文ではないようだ。

「山より山の奥までも、山より山の奥までも道あるや時世なるらん」

 濃い緑は太陽の光を吸い込み、ときには跳ね返しつつ生気に満ちて輝いている。

「不思議やなこの山中は、虎狼野干のすみかなるに、これより庵の内よりも、現れいづる姿を見れば、その様怪したる人間なり。いかなる者ぞ名を名乗れ」

 そうつぶやいた彼の先には誰もいない。虎は屏風の中にしかいない。屏風の虎を退治しろと言われた一休禅師が生まれるのはこれより九年あとのことである。狼はどこかにいるかもしれないがいま彼の周りにはいない。
 彼は風景ではなく、他のものをそらんじているようだ。

 木漏れ日がまぶしい、閑かな山道である。

「ああ、おらへんわな」と彼は一人からからと笑う。

 兵庫津に着くと、彼は乗船の交渉を始める。

 ここはもともと高名な僧・行基が開いた港で大輪田泊といわれた。行基は他にも港を四つ築いてそれらは「摂播五泊」と呼ばれていた。大輪田泊はそののち平清盛が福原に都を築いた時に拡張された。清盛は宋との貿易の要にしようと考えたのである。しかし、壮大な夢は長く続かなかった。ほどなく平氏は没落し大輪田も寂しいありさまとなるのである。
 そこから二百年、兵庫津と名が変えられた港は往時の賑やかさを取り戻していた。足利将軍家がここを日明貿易の拠点として再整備したのだ。
 
 ここは自然が作った良港である。穏やかな瀬戸内海の端にあたり、六甲の山々が北西の季節風からも護っている。加えて、飛び出した和田岬が海流をいったん留めてもくれるのだ。
 
 兵庫津で船を探す青年ははたと気がついた。
 目的地まで一気に向かう船はない。
 そこは瀬戸内海の島なのだが、誰もが向かう場所ではないらしい。したがって彼はいくつかの津を経由して行くことになるだろう。ただ、青年は変わらず鷹揚な様子である。旅を急いではいないのだ。

 明石と淡路島の間を抜けたその先、右手は吉備・安芸・周防・長門、左手は讃岐・伊予となる。そして無数の島々が次々と現れる。穏やかな瀬戸内海はそのすべてを満たすように青く輝いている。
 僧形の若者は風待ちの津でまた次の船を待つが、ちょうど春の盛りで天候も安定した晴天である。ひなたは有難い恵みだが、さらされ過ぎるのもつらい。しばらくすると笠を被る頭にびっしょり汗をかくほどになる。彼は辟易した様子でちらりと空を見る。
「ひとり、ひねもす、ひとりやな」
 まだつぶやいている。

 これが彼の初めての長旅というわけではない。
 ほんの少しばかり説明を書き加えておこう。

 彼が出立した法勝寺は京の白河にある。

 この寺は尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺と合わせて「六勝寺」と呼ばれたうちの一つで、広大な寺域には、金堂、講堂、阿弥陀堂、法華堂、五大堂、八角堂、常行堂などが配されていた。しかし名刹には災難が続いた。文治地震(一一八五)では阿弥陀堂が倒壊、九重塔が破損するなどし、承元二年(一二〇八)にはその塔に落雷があり焼失した。このときは栄西が力を尽くして再建を果たしたが、災難はまだまだ続く。暦応五年(一三二六)にまた火事に遭い、寺の半分が焼失した。さらに貞和五年(一三四九)にも火事に見舞われて残りの半分も失ったのである。再建した唐風、八角形の見事な九重塔がまた焼け落ちてしまった。
 ただただ運が悪いというしかないが、この寺は常に再建中でありながら大きな仕事の舞台にもなっていた。この五十年の複雑な顛末を記録する仕事である。

 それが『太平記』という書物にまとめられていた。

 さて、僧形の青年はつい先頃、駿河国から京に戻ってきた。そして腰を落ち着ける間もなくまた旅に出た。

 備後の沿岸を越えた辺りから、多くの島々が目に映るようになる。芸予諸島と呼ばれる一帯で島が大小二百弱ある。島々はまるで海の敷石のようにも見える。
 舟の船頭が櫓を操りながら、僧形の若者にふたたび行き先を確認する。

「お坊さま、越智の大島の方においでなさるのでよろしいですな」
「さようです。ただ、どこがそれか皆目見当がつきませんなあ。ようよう届けてくださいませ」
「大島もようけありますんじゃ。もちろん、お連れしますとも」と船頭は笑った。

 越智大島の居所を簡単にいえば因島、生口島、大三島、伯方島ときてその奥。飛び石の最後のような位置で伊予国は目と鼻の先だ。

 船頭が行き先を改めて尋ねたのにはわけがある。大島はこの海域に勢力を広げる村上師清の本拠地だからである。のちのちまで続く村上水軍の長といえばわかりやすいだろうか。
 船頭からすればそこへ若い僧がひとりで赴くというのが意外に思えたのかもしれない。客は細身でどこか柳のようでもある。船乗りや兵になろうというわけではないらしい。
 なので「珍しい」と思うのだ。

 伯方島と向き合う北東の入江に舟が寄せていく。僧は丁寧に船頭に礼を言って地に足を踏み出す。土地勘はないが、船乗りも丁寧に教えてくれたし、通りがかりの人にも案内されたので難なく目的地に着いた。一度尋ねて半島の突き出た先の方に歩く。
 そして目的地である稲井城にほどなくたどり着いた。

 さて、ここまで筆者が語り起こしたが、この後は当の青年にその役を譲ることにする。筆者はただ、京の法勝寺を出立した青年が越智大島にたどり着いたこと、通りいっぺんのことを述べて後は任せてしまえばよいと考える。

 ひとつだけ補足しておこう。
 青年が問わず語りでつぶやいたうちのいくつかは、『菊慈童』という猿楽の一である。

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  ◼️稲井城のあるじを尋ねる

 旅先で知らない人に会うというのは慣れたものだが、こちらから尋ねていくというのはなかなかない。ましてや私は一人きりなのである。先方が訝しがるのは明らかなのだが、それをおもんばかっても詮ないことだ。
 それより何より、瀬戸内の風景の何と長閑で温かいことか。大和や京のように厳しい冷たさというものがない。季節のゆえだろうか。
 しかし、風景は長閑でも人の営みも同じとは限るまい。

 稲井の城というのは砦のような石積があるものの居館は取り立てて語るほどでもないありふれた屋敷だ。私の訪れた時分には門番も立っていない。もっとも島の外から襲来する者たちがあれば、すぐに察知できるようになっているのだろう。この辺りの島々は村上氏という水軍の長が治めているのだから、抜かりはないはずだ。

 尋ねた先の稲井という人物は突然見知らぬ者の来訪に驚いていた。それは嬉しいというより、困惑に近かった。私は彼を見る。確か還暦を超えるほどだと聞いた。頭髪は白くなっているがそれは苦労のゆえであろう。頭髪を白くすれば年老いて見えるのは道理、私はそれほどでは判断しない。他は実の年齢より若く、しっかりとした体躯である。

 私は開口一番に目的をはっきり述べた。

「初めてお目にかかります。私は大和三郎(やまとのさぶろう)と申します。法勝寺から参りました。稲井さま……いえ、脇屋義治さま。私はあなたさまのお話を伺うためにここに参りました」

 脇屋義治といきなり本名を呼ばれた初老の男はびくっとして目を見開く。それからしばらく目を閉じるとようやく言葉を発した。

 「法勝寺の僧が中心となって、この五十年の日本の記録を書き綴っているというのはわしもかすかに耳にしておる。それはもうとうに完成したのではなかったか。なれば、わしの話などもういらないのではないか」

 彼は私をその記録者の一人だと思ったのだろう。そこは言明を避けなければならなかったので私はあいまいにうなずき、続けて言った。

「いいえ、私は脇屋さまのお話が聞きたく、新田一族の跡を知りたくてここまで来ました。今それを語ることができるのは、脇屋さまのみにございます。事後御身に害を及ぼすようなことは決してありませぬ。ぜひあなたさまの身の上を教えていただけませんでしょうか。どうかお願いいたします」

 脇屋義治は私を見つめてしばらく黙っていた。そして、ふうとひとつため息をつく。
「いずれにしても、遠路はるばるようおいで下さった。ここから帰るにも船を待たねばなるまい。どうぞ上がりなされ」
 私はその言葉を聞いてホッとした。確かに、帰れと言われれば草を枕に夜空を仰がねばならない。まったく先を考えないのは若さの特権というものだ。

 そして私はしばらく稲井城に逗留することになったのである。
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