肥後の春を待ち望む

尾方佐羽

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和仁一族の凄絶な最期 一揆の憂愁

千人対一万人 激闘!田中城

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 最後の激闘が始まろうとしていた。

 和仁勘解由親実(わにかげゆちかざね)とその娘婿である辺春親行(へばるちかゆき)が田中城に立て籠もったのは十一月初めのことだった。
 両勢集めても千三百人ほどがすべてである。武器は限られていたものの兵糧は十分に備えており、籠城戦をこなす支度は十分にできていた。

 城の大門には和仁弾正親範、松尾日向など百五十人、鉄砲三十挺、弓三十張を手に詰める。
 同様に城の北門には和仁人鬼、松尾市正など百人余り、鉄砲二十挺、弓二十張、槍二十本。
 新城口には中村治部少輔など百五十人、鉄砲三十挺、弓二十張、槍二十本。本丸には辺春能登守親行ほか三百人、鉄砲百挺、弓八十張、槍五十本。
 二の丸には大将である和仁勘解由親実など百人、鉄砲三十挺、弓二十張、槍三十本。
 浮武者頭は草野隼人ほか百余人、鉄砲二十挺、弓三十張、槍三十本。
 敵が城内に突入した場合にも迎え討つことができるような態勢を取っている。

 大将である城主和仁の弟らは屈強なことでよく知られている。親実のすぐ下が弾正親範、身の丈七尺六寸の大男で大きな青銅の函を持ち上げるほどの怪力の持ち主である。その次が北門の守備を担う「人鬼」である。人鬼というのは通称で、正しくは親宗という。顔が赤く眼は爛々と輝き、髭は左右にぱっきりと分かれ、手足は熊のごとく毛深い。その容貌が際立ってはいるが、敏捷であり兄と同様、怪力の持ち主である。また、和仁の家臣には石原刑部実安、春野東弥、草野隼人、松尾日向、中村治部少輔などの猛者がいる。

 この頃には、隈本城に新たな一揆勢が押し寄せることもなくなり、城村城も籠城を構えてはいるが、附城の平山城にいる佐々勢と交戦することもなく、日々にらみ合いが続いていた。
 一気に城村城を攻める機をうかがっていたのである。
 そこに田中城の新たな抵抗がはじまった。呼応するように詫摩、大津山、赤星、五条らの国衆も新たに叛旗を翻した。城村城の決着がまだついていない。しかも田中城は肥前、筑後から肥後に至る街道筋にある。ここで道をふさぐ形となれば、佐々勢の援軍が足止めを喰らうことになる。

 十一月の後半、この事態に及んで南関に詰めていた小早川秀包、肥前の鍋島直茂らの諸将に対し、「田中城の反乱を鎮圧せよ」との命が下った。柳河の立花統虎にも出陣の要請があった。

 千人に対し総勢一万にも上る軍勢である。

 城村城の籠城と比べて規模が小さいにも関わらず、これだけの軍勢を出すことにしたのは秀吉側が本腰を入れて肥後を叩き潰しにかかったからに他ならない。このときの軍監は安国寺恵瓊(あんこくじえけい)であり、時局を見て久留米に詰めている小早川隆景もすぐさま出陣できるように準備を整えている。
 この反乱鎮圧に隈本で守りに専念する佐々勢も兵を出しているが、肥後の反乱と対峙するのはすでに佐々成政ではなかった。

 このとき軍監として参戦した安国寺恵瓊はすでに肥後の混乱を終息させるための計画を肚の内に持っていた。
 十一月二十六日に恵瓊は下記のような文書をしたためている。
「和仁、辺春楯て籠もり候一城、取り巻き候、今五日の内落去たるべく候、隙明き次第、山鹿有働城取り詰むべく候」
 五日ほどでこの城は落とすと明言している。恵瓊にとっては田中城の件は些事に過ぎず、山鹿の城村城もすぐに落とせると言わんばかりである。

 一万にも及ぶ軍勢は田中城を取り囲む馬喰田、栗崎、橘川、金敷原、宮嶽、芝塚、境原辺りに陣を張った。田中城は城村城ほど大きな城ではなく、山間にあるため周辺も狭隘である。一万人が取り囲むのだからぎゅうぎゅう詰めになっている。

「このような城に千人ほどで籠城するとは、早く片付けてしまえ」となめてかかる者も少なくない。しばらくはにらみ合い、それが数日続いた。

 そんな中、取り囲む兵の中から、成政の家臣である松原五郎兵衛直元が大槍を手に前に進んで名乗りを上げた。成政が安国寺恵瓊に軽く見られていると憤慨しての一番鑓である。

 そこに和仁家中から春野東弥が現れ名乗りを上げて槍を握りしめた。
 槍先が鋭い音を立ててぶつかり合い、さらに突こうと槍を引いた。そこでお互いの槍が真っ二つに折れて、痛み分けとなった。この正式な決闘が呼び水となった。油断して近づきすぎた討伐軍の兵たちに、鉄砲、弓矢が雨嵐のごとく降ってきた。
 和仁勢に余分な武器はない。できる限り敵を引き付けて、攻撃する。相手が混乱したのに乗じて追撃する。それしか勝機はなかった。敵が油断して近づいてきたのは幸いだった。すでに敵勢は退きはじめている。

 立花勢はこのとき別の門口を囲んでいた。しかし人の流れに異変を察して新城口に移動することにした。遠目から混乱して退く一勢を見つけたのは、立花家中の由布大炊助(ゆうおおいのすけ)だった。
「よぉしっ、斬り込むけん! 」
 大炊助はまっしぐらに馬で門に進む。次の瞬間、城内で低い位置から弓鉄砲を構える兵らの姿を見つけた仲間が叫んだ。
「危なかっ! 下がれえぇぇっ! 下がれえぇぇっ! 」
 周りの誰もが振り向くほどの大声だったが、大炊助は止まらなかった。
 大炊助は耳がほとんど聞こえなかったのであある。
「下がれえぇぇっ! 」と他の者も声を張り上げた。次の瞬間。
 和仁勢の中村治部の矢が大炊助の胸を貫いた。
「うっ」と小さな呻き声を上げて、大炊助は馬からまっさかさまに落ちた。
「大炊助ぇーっ!」と統虎が叫ぶが、かれはもう動いていなかった。

 和仁勢の目論見は図に乗った。敵を十分に引きつけて、怒涛の攻撃を仕掛ける。その混乱に乗じて城内から討手が飛び出し接近戦で仕留める。この手で敵勢数百が討たれた。籠城勢は無傷、討って出て怪我をした者も皆軽傷である。
 大将の和仁親実は心の中で快哉を叫んだ。
 夜になって寄せ手は一端退却した。手負いの者は多くが弓鉄砲の傷を負い、手当てを受けている。
 それを眺めながら、かすり傷ひとつない安国寺恵瓊はすぐに手を打つことにした。
 この戦いを長期戦に持ち込む気など毛頭なかったのである。和仁とともに戦う辺春親行を懐柔すればよい。そして、すぐに辺春に密書を持たせた。ダメならば他の者を当たればよい。

「こたびの合戦はひとえに和仁の郎党を討伐するためであり、結縁関係で仕方なく参陣している貴殿にはいささかも罪がないと考えている。もし貴殿が親実を討って降伏するならば本領の他に和仁の領地も加増するよう、関白殿下に進言する」
 辺春はこの密書に心が動いた。いくら籠城しても、結局皆討ち死にするだけではないのかという疑念が尽きることはなかった。南関に現れた関白の軍勢。その気が遠くなるほどの多さを目の当たりにしていたからである。それに、密書を出したのは安国寺恵瓊、秀吉に信を置かれている人物である。辺春はすぐに返書をしたためた。

「和仁親実を討つ。その合図に篝火を炊くので、それを合図に城内に入られたし」

 そうは言ったものの、辺春は思い切ることもなかなかできず、義父である親実を討つことができなかった。身内を裏切るのを困難だと考える人間もいるが、この場合は臆病だったというのが正しい。
 城内をうろうろとしているところに、親実の近習が現れた。その男は戦でも前に出ることがなく、ずる賢く立ち回る性質であると辺春は見ていたので、こっそりと主人殺害をほのめかしてみた。家臣として取り立てると言う一言で近習はあっさりと了承してしまう。
 十二月六日の夜、名も残していない近習は、それまで世話になった主人の心臓を脇差で一突きにし、殺害した。首は控えていた辺春が取った。

 直後に篝火が一迅の風に乗って空高く舞い上がった。

 安国寺恵瓊の指示で控えていた大軍が勢いよく城に突入していった。城には火がかけられ、あっという間に燃え広がった。

 突然のことにろくな備えも持たないまま城を飛び出した和仁勢は城裏手の窪地に密かに集まったが、そこに来たのは千人のうちの三十四人だけだった。そのうち十七人もすぐに倒されてしまった。

 残るは十七人、再び飛び出していったかれらにはもう、死しか待っていなかった。

 人鬼は妻と幼い女子を家臣に託して逃がした後、兄弾正とともに敵中に突っ込んでった。
 敵と合わせる槍刀は火花を放ち、激しい突き合い、斬り合いとなった。
 佐々勢の大将、津田与兵衛信重は弾正を目がけて槍を突き出し、弾正も負けじとそれを振り払う。そして返す力で信重を体ごとなぎ払い、とどめを刺した。
 松尾日向は牛島藤七と名乗る者と戦うさなか、崖から落下し両人とも死亡した。
 松尾市正、石原刑部は何人もの敵を討ち取ったが、敵に囲まれてここまでと観念し、敵と刺し違えて絶命した。

 人鬼は敵二十人以上に囲まれたが、八人を斬り倒して、七人に手傷を負わせた。そのまま山中に逃げ込んだが、その行方は知られていない。敵と刺し違えて倒れたと思われる。

 味方が次々と倒れ、弾正がただ一人奮戦していた。
 それでももうこれまでと悟り、自害しようとその場を離れたが敵二人が寄ってきた。おもむろにくわっと振り向いた弾正は敵二人を両脇に挟むと、勢いよく崖から飛び降りた。
 三人とも岩に砕かれた。

 田中城は辺春の裏切りであっけなく落城した。
 そして、和仁氏の嫡流はこの一夜で絶えた。
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