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兵糧合戦
立花左近統虎に兵糧入れの命が下る
しおりを挟む(写真「北野大茶乃湯址」京都市・北野天満宮)
この八月から九月、立花統虎は柳河城にいた。
統虎は六月にこの城を関白秀吉から拝領したばかり、小早川隆景の下に付く形で独立した領主になっている。六月十三日に城の引き取りが正式に終わり、家臣の知行割り当てや役目付けにはじまり、城の修繕や何やらで息つく間もなかったのだが、それどころではない事態に巻き込まれることとなった。
隈部親永が隈府城に立て籠もった一件を聞いたときから、統虎は嫌な予感がした。
隈部親永・親泰といえば、肥後の国人の中でも一、二を争う有力者である。それが佐々に真っ向から立ち向かった。加えて他の国人領主が隈本城を攻めたという報を知り、「これはただごとではない」と家臣の由布雪下、小野和泉、薦野(こもの)三河、十時(ととき)摂津ら主だった者を集めて意見を聞くこととした。皆一様に統虎と同様の意見を口にした。
「肥後ちゅうたら、特に国人の力ば強かところです。昔ながらの地縁・血縁が色濃く残る土地ですけん、こたびの所領高に納得せん者ば多かとでしょう。隈部親子が叛旗を翻したのに力を得て、一揆は燎原の火のごとく広がっております」
筑後の柳河は肥前・肥後とは目と鼻の先ほどの距離である。その争乱に巻き込まれないとも限らない。心情的には肥後の国人領主たちの行動は理解できる。しかし柳河は、統虎は、直接秀吉に臣従している身。その場合、取るべき道は決まっている。
一揆は征伐しなければならない。
「関白様に早打ちで、こん一揆ば肥後全体で広がる怖れがあるとお知らせしたほうがよかでしょう」
小野和泉が静かに言った。
「そげんこつしたら、また関白様の大軍ば押し寄せてくっとね」と十時が言う。
「いや、そのほうがよか。島津は大軍を見てさっと降伏したけんが。それで上手く生き残ったとね。火は小さいうちに消さねば、手のつけようのない大火事になる。早く収めたほうがよか」
小野和泉は断言した。
統虎はうなずいた。
「承知、関白殿下に早打ちでこん件ば知らせるたい。小早川様や安国寺様も分かっとるやろうが、事態は急。佐々殿は隈本に詰めており分からん部分もあるたいね」
確かに統虎の言うとおりだった。秀吉は肥後の反乱についてもちろん知っていたが、あくまでも隈部家が佐々成政に反乱を起こしただけだと解釈していた。しょせんは田舎領主なのだから鎮圧するのはたやすいこと。こちらにとってはまことに好都合、隈部は領地を多く抱えている。それを皆取り上げる好機ではないか。その程度に考えていたのである。
その頃、京都では秀吉の主催による華々しい戦勝祝いが行なわれようとしていた。いわゆる「北野大茶之湯」(北野大茶会)である。北野天満宮の境内・敷地を舞台にしたこの茶会は武家のみならず公家や京都の民、数寄者(茶の湯の愛好家)らに広く参加を呼びかけ、当代一ともいえる絢爛豪華な催しであった。
もちろん、その目的は豊臣秀吉の威勢を天下に知らしめるためであった。
その準備からして念入りなものだった。秀吉と、当代の二大茶人である千利休と津田宗及が神前に参籠し茶会成就の祈願をしたのをはじめ、事前の「沙汰書」まで作られた。七か条からなるその書の内容は、秀吉所持の茶道具を展示すること、茶の湯の愛好家ならば身分の上下、人種を問わず参加できるので手持ちの茶道具を持参すること、北野野天満宮の境内松原にそれぞれ茶屋を囲うので交歓をはかることなどが記載されている。
しかし、まだすべてが平定されたわけではないことを関白秀吉は思い知る。
統虎からの早打ちは九月の初めに秀吉が見るところとなった。
「あんどたわけぎゃ! あんな田舎侍どもさえまとめられんのきゃ! わしの顔に泥を塗りくさって」
秀吉は肥後の統治の失敗だと憤り、佐々成政に対して怒りの言葉をぶつけていたが、すぐにこの反乱を沈静化するために援軍を出すことを決めた。
九月八日付で小早川秀包を総大将、安国寺恵瓊を軍監とし、筑後・肥前の諸将で構成する一揆討伐軍を肥後に派遣するよう朱印状を発した。
「その方に預け置き候両国の者供、自然不届きの族、これ有るに於いては、覚悟に任せ首を刎ねられるべく候」と小早川隆景にも命じているが、筑後・肥前で肥後衆にならう者があれば首を刎ねろ、と厳しい調子で命じている。「討伐」ではない、「首を刎ねろ」である。この直截な物言いは怒りに任せてのものでもあっただろうが、九州の国人たちに対する秀吉の考えかたを示しているともいえる。
また、統虎にはその前日の九月七日付けで、
「肥後面の儀、一揆少々蜂起せしめ、隈本へ通路さしさわりをなし、候よしに候、その方堺(境)目の儀に候間、人数相催し、さっそく罷り立ち、隈本に入り相て、陸奥守(成政)相談せしめ、一揆そのほか国侍、相届かざる者これ在るにおいては、成敗を加うべく候」
との命令が下った。
当初、十日間の予定だった北野大茶会はその影響もあり一日のみ実施、あとは中止となった。
しかし、一日だけとはいえ、それは実に絢爛豪華なものであった。
茶会当日には度肝を抜くような趣向が披露された。
拝殿の中央には黄金の茶室が設けられ、その左右に秀吉所蔵の「名物」と呼ばれる高名な茶道具が展示された。そしてその前には秀吉、利休、宗及、今井宗久が茶頭をつとめる四つの席が囲われ、その飾りもすべて秀吉の名物だった。近衛前久親子らの公家や選ばれた武家、数寄者がその席で茶を一服する栄誉に浴した。秀吉は境内松原の茶室を回り、その席を賞し茶を楽しむ。松原の囲いは八〇〇以上と言われ、人であふれかえっていた。
誰も口にはしなかっただろうが、侘び寂びの境地からは程遠いものだった。
肥後と京都の間にははかりしれない乖離がある。
朱印状の日付より早い九月五日、内示を受けていた筑後と肥後の国境である南関に、小早川秀包の率いる先鋒隊が入った。小早川秀包は隆景の実父、毛利元就の九男である。隆景に子ができなかったため、養子に入った実弟である。ときを同じくして、隆景も筑後・久留米城に後詰めとして入城した。筑後の筑紫広門も参陣する。
数ヶ月前には、隈部親永がにこやかに秀吉を出迎えたその場所に、である。
筑後・柳河の統虎は兵糧を入れる輜重隊(しちょうたい)として平山城に向かうこととなった。
柳河にも人は残しておかねばならない。それを考えると出陣できるのは八百人だった。同じく筑後に領地を得ている実弟の高橋直次が三百人で加勢した。柳河勢は総勢千百人である。由布雪下、十時摂津、安東、薦野、米多比ら、歴戦を戦い勝利を多く収めてきた精鋭たちである。皆、南関に移動することとなった。
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