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肥後国の変遷
守護菊池氏の没落
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「何から話したらよかか? あぁ、阿蘇の山が煙を吐き出し始めたばかりの頃がよかね」
「肥後の隈部の話を」という統虎の求めに応じて、隈部親永は長い長い一人語りをすることとなったのである。
◆◆◆
ときは三十年ほどさかのぼる。
永禄元年(一五五八)、阿蘇の山は不機嫌極まりなかった。
絶えず白煙をもくもくと吐き、見る者を不安にさせる。しかしこのようなことはこれまでに幾度もあった。たまに地響きもあったが、さほど揺れることもなく、麓の民もそれほど心配はしていない。
現在は、である。先の不安はあった。
これがいっときの気まぐれで済むのか、大噴火の前触れなのか。だとすれば、それはどこまで大きいもので、自身がどれほどの被害をこうむるか。人々の関心はそれに尽きた。ひとたび爆発が起これば、石やヨナ(火山灰)が降り注ぎ、辺り一面を白く覆いつくしてしまう。ヨナは風向きによって大きく流れを変えるので、阿蘇の麓だけでなく隣接する肥前・日向・豊後・豊前国の民にとっても恐ろしいものだった。草も人家も人馬も何も真っ白になってしまう。硫黄を含んでいるから匂いがきつい。作物も壊滅的打撃を受ける。人が外に出るのも難儀である。さらに、雨が降ったら目も当てられない。どろどろの粘土がへばりついたような状態になり、乾いて固まれば取り除くのにたいへんな手間がかかる。後世ならば便利な道具が発明されていようが、この時代では全てが人力である。
それでも、人々はこの山に深い愛着を持っていた。火や煙を噴くときばかりではない、悠々とした姿、鮮やかな緑、そこから生み出される豊かな恵みも受け取ってきたのである。
ただ、このところの山の不機嫌さには別の意味で懸念を持つ者もいた。
「あれは何かの前触れたい。災いはお山だけが起こすもんじゃなか。人が起こすこともある。それを山の神が感じとるんかもしれんばい」
迷信深いといえばそれまでで、「何ば言うちょる。ヨナが降ってくほうが難儀に決まっとるばい」と周りに笑われるのがオチであった。
この、永禄元年(一五五八)から慶長三年(一五九八)の四十年間、阿蘇の噴火は他の時期より多かった。
日本全国で戦乱が続いていた。
また、ポルトガルの港からアフリカをぐるりと回りこんで、商人やキリスト教の宣教師が九州に上陸したのはこの少し前だった。イエズズ会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島の坊津にたどり着いたのは天文十八年(一五四九)である。それ以来、九州は交易とキリスト教の玄関口となり、天文期の後半には拠点が各所に置かれるようになった。
異文化の流入、それもまた人々に何か異質な、これまでの常識では測れない何かが来たという印象を与えていた。それでも人々は天変地異に対するときと同じように、異国人を静かに受け入れていった。
阿蘇が断続的に噴火し続ける四十年、それは九州全体が止めようのない大渦に飲み込まれていく四十年間でもあったのである。
肥後国の北方に位置する菊池、山鹿の辺りからも阿蘇の山はよく見えた。
「何やら、ここのところ、阿蘇はよう煙を吐いちょるが、じきに火を噴くんか」
隈部親永は菊池から自身の館のある山鹿に至る道中で、側の者に尋ねた。
「このまま収まることもあろうかと思いますが、何とも言えんですたい」
親永ははっはっはっと笑った。
「答えを出せとは言うちょらんばい。ただ、稲やら何やらうっかんがすんは怖かとね」
永禄のこのとき、親永は三十三歳。背はさほど高くはないが、腰つきのしっかりした堂々たる体躯で、切れ長の目に、肥後もっこすらしい太くて立派な眉毛をしていた。笑えば目がなくなり愛嬌を感じるが、そんな顔は滅多に見せない。
このころ、肥後北部一帯は守護である菊池氏が治めていたが、それも名ばかりとなって久しい。重臣の足並みも乱れ、風前の灯火となっていた。
隈部氏は代々、肥後国主である菊池家に仕えてきた重臣だった。
「菊池の歴史は古かよ。隈部は最初、宇野ちゅう姓やった。源平んときから忠義を尽くしたちゅうて隈部ちゅう姓を菊池のお屋形から賜ったとたい」
菊池氏は平安の昔から肥後の国主であり、「平家物語」や「保元物語」、「源平盛衰記」にもその姓が記されている。以降鎌倉・室町時代を通して長く守護の座にあった。
延久二(一〇七〇)年から応安六(一三七三)年まで約三百年間、菊池氏は深川村菊城に在城し、十六代武政から隈府守山城(わいふもりやまじょう)を本拠として、その周辺に防衛のため十八ケ所の城砦を築いた。これが菊池十八城と呼ばれる。十八城を守る家臣らの中に、その後三大家老となる赤星氏、城氏、隈部氏もいた。深川城を赤星氏、上林城を木庭氏と城氏、五社尾城を隈部氏が守っていた。
菊池氏の屋台骨が揺らぎ始めたのは、二十二代の能運(よしゆき)が当主となってからである。かれは文明十四(一四八二)年、父重朝の跡を十二歳で継いだ。
しかし、明応九(一五〇〇)年に能運は叔父である宇土為光に謀られて、隈府城を奪われてしまう。為光は菊池の血縁で強大な勢力を持っていた。能運は側近たちに護られ肥前国高木に落ち延びた。
「そのころ隈部はわしから数えて三代前の運治が当主やったけんが、追われたお屋形を隈府に戻そうちゅうて為光と真っ向から宇土と戦うことにしたとよ」
ここで隈部運治は弟の武治とともに、城氏、赤星氏、山鹿氏ら菊池の重臣とともに挙兵した。宇土為光、重光の親子の大軍と数度に渡り戦った。その結果、宇土親子は敗北して自城に逃げ帰った。ここで能運は再び菊池当主に返り咲いた。これでまた菊池家は盤石だと家中一同が安堵していた。
しかし、物事はうまく運ばない。菊池家の係累がまたも謀反を起こしたのである。
謀反を起こしたのは菊池武邦十九歳、兵を率いて八代豊福城に籠城した。能運は征伐のため出陣し、四十日後に落城させることができた。万事無事とはいかなかった。菊池能運はこの戦いで重傷を負い、二十三歳の若さでこの世を去った。
「次代の隈部武治のとき、隈部勢はその力ばどんどん増したとたい。武治は……城村城に本拠を置いておったけんが……次は永野猿返城に移った。他にも、五社尾城、葛原城、猿返城、鵠の巣城、米山城、日渡城などみな隈部の係累が守っておったとよ。城村城は、左近殿もよう知っとっちゃろう」
これは菊池氏が落日を迎えていたことを意味した。重傷を負い亡くなった能運、次代の政隆は幼少のため、家臣らで協議した結果、阿蘇氏から当主を迎えることとし八十四人の連判を持って武経が入った。
「もうこの辺りになると、家臣らも誰につくかでもめるようになったとたい。やれ、菊池の正嫡だ、やれ力のある阿蘇氏だと皆一つにまとまらん。そこでわざわざ家臣らの誓詞をとらんといかんようになったばい」
すったもんだで迎えた武経も、数年後には横暴な振る舞いが目立つようになり、また家臣内に不協和音が流れるようになる。
そこに目をつけたのが豊後の大友氏である。
自身の息のかかった者を菊池家中に増やし、当主を選ぶにあたって大きな力を持つようになったのである。これはもちろん、肥後をわがものにしようという目論見があったからに他ならない。そのうち、人望を失った武経は謀殺される恐れがあるとして、出身の阿蘇に逃げてしまった。
危機感を抱いた隈部氏ら家老らが協議し、菊池能運の弟の子、武包を迎えることに決めたのである。しかし、武包もすぐに武経と同じ末路をたどり逃げ出してしまう。そこで時機を見ていた大友氏が、菊池重臣の赤星氏を懐柔して大友氏の出の重治(のちの義武)を立てさせた。それから次代の宗吟(むねまさ)まで大友氏から当主を出し、しばらく肥後国は落ち着きを取り戻した。宗吟は大友宗麟の叔父にあたる。
菊池家の屋台骨が揺らげば、近隣の他国がしめたとばかり食い込んで襲い掛かってくる。それを防ぐために菊池家の家老たちも頭を悩ませなければならなかった。
「それで落ち着いとったら、肥後は大友の配下になっとったやろうが、あるいは、そのほうがよかったかもしれんばい。そのころから次々と不思議なもんが見られるようになったとたい。親父が当主やったが、わしもともに見ようたとね」
天文十五(一五四六)年、西の方角に黄色の雲が現れ、人の顔も草木も皆黄色に照らされるほどだったというのである。天変地異は世の変事の前触れであると考える人は多かった。この雲は菊池氏の怨霊であるという話がまことしやかに広まった。かつて崇徳上皇の怨霊が平家に災難をもたらしたように。
実際に怨霊のためかは定かでないが、宗吟もこの後、当主ではいられなくなる。酒色に耽り国政を顧みないのを、家臣の木野親則という者が諌めたのに腹を立て手討ちにしてしまったのである。木野の室は隈部家の出だったため、当時の隈部家当主、親家は宗吟を追うために働くこととなる。大友義鎮に通じる者が宗吟の窮状を知らせたことから、宗麟は宗吟に対し豊後に「遊びに」来るようにと誘う。宗吟を豊後に隠れさせ、その間に肥後に攻め入ろうと考えたのである。
それはすぐに菊池家臣の知るところとなった。
「まぁ、そげんこつ、すぐさま分かるっちゃろう。やけん、宗吟を出させんかった。しかし、宗吟は赤星らを連れ豊後に向かったとたい。それが運の尽きやったとね。大友のほうが一枚上手やった」
大友義鎮は肥後での宗吟の不行跡の誹りを逆手に取り、豊後に入った宗吟を自刃させてしまった。そして、赤星らに菊池の跡目のことは任せるので宗吟の子、犬房丸も殺すようにと言ったのである。宗吟が自刃し、嫡子犬房丸が殺害されようとしていることはすぐに肥後に伝わった。残った重臣は菊池当主の嫡子を失うわけにはいかなかった。跡目はいないことに付け込まれ、赤星が大友を導いてくるに違いないと分かっていたからである。
犬房丸は家臣の田島宗以らに伴われ、肥前の有馬家に逃れていった。
「そげんして、菊池主家は完全に追われたとよ。これから大友と赤星が堂々と出張ってくるけん、みな何とかせんといかんち思うとったい。おそらく、わしの親父ば肥後の国主になろうとしたんはそれが機なのかもしれん」
菊池の姓を名乗る当主が不在になった。五百年も脈々と続いた名家が、あっけない終焉を迎えた。
すでに安芸の一国人領主に過ぎなかった毛利元就は中国地方の覇者となり、斉藤道三のように武家の出でない者が国守になる例もあった。いわゆる下剋上というものである。隈部親家はそれを当主不在になった肥後で成してみようと思ったのである。
「肥後の隈部の話を」という統虎の求めに応じて、隈部親永は長い長い一人語りをすることとなったのである。
◆◆◆
ときは三十年ほどさかのぼる。
永禄元年(一五五八)、阿蘇の山は不機嫌極まりなかった。
絶えず白煙をもくもくと吐き、見る者を不安にさせる。しかしこのようなことはこれまでに幾度もあった。たまに地響きもあったが、さほど揺れることもなく、麓の民もそれほど心配はしていない。
現在は、である。先の不安はあった。
これがいっときの気まぐれで済むのか、大噴火の前触れなのか。だとすれば、それはどこまで大きいもので、自身がどれほどの被害をこうむるか。人々の関心はそれに尽きた。ひとたび爆発が起これば、石やヨナ(火山灰)が降り注ぎ、辺り一面を白く覆いつくしてしまう。ヨナは風向きによって大きく流れを変えるので、阿蘇の麓だけでなく隣接する肥前・日向・豊後・豊前国の民にとっても恐ろしいものだった。草も人家も人馬も何も真っ白になってしまう。硫黄を含んでいるから匂いがきつい。作物も壊滅的打撃を受ける。人が外に出るのも難儀である。さらに、雨が降ったら目も当てられない。どろどろの粘土がへばりついたような状態になり、乾いて固まれば取り除くのにたいへんな手間がかかる。後世ならば便利な道具が発明されていようが、この時代では全てが人力である。
それでも、人々はこの山に深い愛着を持っていた。火や煙を噴くときばかりではない、悠々とした姿、鮮やかな緑、そこから生み出される豊かな恵みも受け取ってきたのである。
ただ、このところの山の不機嫌さには別の意味で懸念を持つ者もいた。
「あれは何かの前触れたい。災いはお山だけが起こすもんじゃなか。人が起こすこともある。それを山の神が感じとるんかもしれんばい」
迷信深いといえばそれまでで、「何ば言うちょる。ヨナが降ってくほうが難儀に決まっとるばい」と周りに笑われるのがオチであった。
この、永禄元年(一五五八)から慶長三年(一五九八)の四十年間、阿蘇の噴火は他の時期より多かった。
日本全国で戦乱が続いていた。
また、ポルトガルの港からアフリカをぐるりと回りこんで、商人やキリスト教の宣教師が九州に上陸したのはこの少し前だった。イエズズ会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島の坊津にたどり着いたのは天文十八年(一五四九)である。それ以来、九州は交易とキリスト教の玄関口となり、天文期の後半には拠点が各所に置かれるようになった。
異文化の流入、それもまた人々に何か異質な、これまでの常識では測れない何かが来たという印象を与えていた。それでも人々は天変地異に対するときと同じように、異国人を静かに受け入れていった。
阿蘇が断続的に噴火し続ける四十年、それは九州全体が止めようのない大渦に飲み込まれていく四十年間でもあったのである。
肥後国の北方に位置する菊池、山鹿の辺りからも阿蘇の山はよく見えた。
「何やら、ここのところ、阿蘇はよう煙を吐いちょるが、じきに火を噴くんか」
隈部親永は菊池から自身の館のある山鹿に至る道中で、側の者に尋ねた。
「このまま収まることもあろうかと思いますが、何とも言えんですたい」
親永ははっはっはっと笑った。
「答えを出せとは言うちょらんばい。ただ、稲やら何やらうっかんがすんは怖かとね」
永禄のこのとき、親永は三十三歳。背はさほど高くはないが、腰つきのしっかりした堂々たる体躯で、切れ長の目に、肥後もっこすらしい太くて立派な眉毛をしていた。笑えば目がなくなり愛嬌を感じるが、そんな顔は滅多に見せない。
このころ、肥後北部一帯は守護である菊池氏が治めていたが、それも名ばかりとなって久しい。重臣の足並みも乱れ、風前の灯火となっていた。
隈部氏は代々、肥後国主である菊池家に仕えてきた重臣だった。
「菊池の歴史は古かよ。隈部は最初、宇野ちゅう姓やった。源平んときから忠義を尽くしたちゅうて隈部ちゅう姓を菊池のお屋形から賜ったとたい」
菊池氏は平安の昔から肥後の国主であり、「平家物語」や「保元物語」、「源平盛衰記」にもその姓が記されている。以降鎌倉・室町時代を通して長く守護の座にあった。
延久二(一〇七〇)年から応安六(一三七三)年まで約三百年間、菊池氏は深川村菊城に在城し、十六代武政から隈府守山城(わいふもりやまじょう)を本拠として、その周辺に防衛のため十八ケ所の城砦を築いた。これが菊池十八城と呼ばれる。十八城を守る家臣らの中に、その後三大家老となる赤星氏、城氏、隈部氏もいた。深川城を赤星氏、上林城を木庭氏と城氏、五社尾城を隈部氏が守っていた。
菊池氏の屋台骨が揺らぎ始めたのは、二十二代の能運(よしゆき)が当主となってからである。かれは文明十四(一四八二)年、父重朝の跡を十二歳で継いだ。
しかし、明応九(一五〇〇)年に能運は叔父である宇土為光に謀られて、隈府城を奪われてしまう。為光は菊池の血縁で強大な勢力を持っていた。能運は側近たちに護られ肥前国高木に落ち延びた。
「そのころ隈部はわしから数えて三代前の運治が当主やったけんが、追われたお屋形を隈府に戻そうちゅうて為光と真っ向から宇土と戦うことにしたとよ」
ここで隈部運治は弟の武治とともに、城氏、赤星氏、山鹿氏ら菊池の重臣とともに挙兵した。宇土為光、重光の親子の大軍と数度に渡り戦った。その結果、宇土親子は敗北して自城に逃げ帰った。ここで能運は再び菊池当主に返り咲いた。これでまた菊池家は盤石だと家中一同が安堵していた。
しかし、物事はうまく運ばない。菊池家の係累がまたも謀反を起こしたのである。
謀反を起こしたのは菊池武邦十九歳、兵を率いて八代豊福城に籠城した。能運は征伐のため出陣し、四十日後に落城させることができた。万事無事とはいかなかった。菊池能運はこの戦いで重傷を負い、二十三歳の若さでこの世を去った。
「次代の隈部武治のとき、隈部勢はその力ばどんどん増したとたい。武治は……城村城に本拠を置いておったけんが……次は永野猿返城に移った。他にも、五社尾城、葛原城、猿返城、鵠の巣城、米山城、日渡城などみな隈部の係累が守っておったとよ。城村城は、左近殿もよう知っとっちゃろう」
これは菊池氏が落日を迎えていたことを意味した。重傷を負い亡くなった能運、次代の政隆は幼少のため、家臣らで協議した結果、阿蘇氏から当主を迎えることとし八十四人の連判を持って武経が入った。
「もうこの辺りになると、家臣らも誰につくかでもめるようになったとたい。やれ、菊池の正嫡だ、やれ力のある阿蘇氏だと皆一つにまとまらん。そこでわざわざ家臣らの誓詞をとらんといかんようになったばい」
すったもんだで迎えた武経も、数年後には横暴な振る舞いが目立つようになり、また家臣内に不協和音が流れるようになる。
そこに目をつけたのが豊後の大友氏である。
自身の息のかかった者を菊池家中に増やし、当主を選ぶにあたって大きな力を持つようになったのである。これはもちろん、肥後をわがものにしようという目論見があったからに他ならない。そのうち、人望を失った武経は謀殺される恐れがあるとして、出身の阿蘇に逃げてしまった。
危機感を抱いた隈部氏ら家老らが協議し、菊池能運の弟の子、武包を迎えることに決めたのである。しかし、武包もすぐに武経と同じ末路をたどり逃げ出してしまう。そこで時機を見ていた大友氏が、菊池重臣の赤星氏を懐柔して大友氏の出の重治(のちの義武)を立てさせた。それから次代の宗吟(むねまさ)まで大友氏から当主を出し、しばらく肥後国は落ち着きを取り戻した。宗吟は大友宗麟の叔父にあたる。
菊池家の屋台骨が揺らげば、近隣の他国がしめたとばかり食い込んで襲い掛かってくる。それを防ぐために菊池家の家老たちも頭を悩ませなければならなかった。
「それで落ち着いとったら、肥後は大友の配下になっとったやろうが、あるいは、そのほうがよかったかもしれんばい。そのころから次々と不思議なもんが見られるようになったとたい。親父が当主やったが、わしもともに見ようたとね」
天文十五(一五四六)年、西の方角に黄色の雲が現れ、人の顔も草木も皆黄色に照らされるほどだったというのである。天変地異は世の変事の前触れであると考える人は多かった。この雲は菊池氏の怨霊であるという話がまことしやかに広まった。かつて崇徳上皇の怨霊が平家に災難をもたらしたように。
実際に怨霊のためかは定かでないが、宗吟もこの後、当主ではいられなくなる。酒色に耽り国政を顧みないのを、家臣の木野親則という者が諌めたのに腹を立て手討ちにしてしまったのである。木野の室は隈部家の出だったため、当時の隈部家当主、親家は宗吟を追うために働くこととなる。大友義鎮に通じる者が宗吟の窮状を知らせたことから、宗麟は宗吟に対し豊後に「遊びに」来るようにと誘う。宗吟を豊後に隠れさせ、その間に肥後に攻め入ろうと考えたのである。
それはすぐに菊池家臣の知るところとなった。
「まぁ、そげんこつ、すぐさま分かるっちゃろう。やけん、宗吟を出させんかった。しかし、宗吟は赤星らを連れ豊後に向かったとたい。それが運の尽きやったとね。大友のほうが一枚上手やった」
大友義鎮は肥後での宗吟の不行跡の誹りを逆手に取り、豊後に入った宗吟を自刃させてしまった。そして、赤星らに菊池の跡目のことは任せるので宗吟の子、犬房丸も殺すようにと言ったのである。宗吟が自刃し、嫡子犬房丸が殺害されようとしていることはすぐに肥後に伝わった。残った重臣は菊池当主の嫡子を失うわけにはいかなかった。跡目はいないことに付け込まれ、赤星が大友を導いてくるに違いないと分かっていたからである。
犬房丸は家臣の田島宗以らに伴われ、肥前の有馬家に逃れていった。
「そげんして、菊池主家は完全に追われたとよ。これから大友と赤星が堂々と出張ってくるけん、みな何とかせんといかんち思うとったい。おそらく、わしの親父ば肥後の国主になろうとしたんはそれが機なのかもしれん」
菊池の姓を名乗る当主が不在になった。五百年も脈々と続いた名家が、あっけない終焉を迎えた。
すでに安芸の一国人領主に過ぎなかった毛利元就は中国地方の覇者となり、斉藤道三のように武家の出でない者が国守になる例もあった。いわゆる下剋上というものである。隈部親家はそれを当主不在になった肥後で成してみようと思ったのである。
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